旧刊時空漂泊

さまざまな本・出版物がランダムに現れます。

本の運命

2015-11-11 11:56:50 | 日記
2000年7月10日 第1刷
著者 井上ひさし
発行所 株式会社文藝春秋

    

1934年から1996年にわたる井上ひさし氏と本と日本の運命。
第3章「井上流本の読み方十箇条」の巻の「その一、オッと思ったら赤鉛筆」にならって、
この本の中でオッと思った箇所を並べてみます。赤鉛筆ではなく付箋を貼ります。

      もちろん大学には図書館がありました。釜石で感激してますから、ここも通いつめた。
     ところが、この上智大学図書館がひどかった。
      夜八時まで開いているんですけど、借りた本はそれまでに必ず返さなければいけない。
     返さないとバツ印がついて、次から借りられなくなる。ところが、こっちもアルバイトの都合
     やなんかで、そう時間通りにはいかない。遅れまいと必死で走っていくんですが、館員に
     厳格な人がいて、一秒でも過ぎると返却を受け付けてくれないんです。
     「これ受け取ってくれないと次の本借りられないんだ」って言うと、「いや、だめだ、規則だ
     から」の一点張りで、融通が利かないんですね。八時ちょうどに鎧戸を下ろしはじめるので、
     下に足を突っ込んでなんとか隙間から本を返そうとするんですが、逆に足を蹴飛ばされたり
     ―― (笑い)。
     この館員に怒ってる学生がたくさんいた
     んです。そこで、みんなで「よし、あいつに一度、泡を吹かしてやろう」と相談一決、大学
     図書館が一番大事にしてる本を盗んでしまおうということになった。
      図書館を入ったところにガラスケースがあって、そのなかに大事な本が飾ってある。
     「あいつが番してるあいだにこの中から盗んじゃおう」(笑)・・・・・。
      その館員は五時から来るんですね、というのは彼もアルバイトなんですよ。図書館で
     働いて生計を立てながら、上智の大学院で勉強している。今、考えればじつに見上げ
     た苦学青年ですが、ぼくらを怒らせたのが運の尽きだった(笑)。
      まず、五時ごろ彼が来たときに、一人が「あのガラス張りの中の本を見せてくれませ
     んか」というふうに訊くわけです。すると、彼は「だめだ、あれは教授とか、特別の許可証
     がないと見せられない」とけんもほろろに断わる。これで、その本が五時にたしかにあっ
     たことを、まず向こうに飲み込ませるわけです(笑)。その後で、仲間がつぎつぎに彼の
     いるカウンターに殺到して、本を借り出す、苦情を並べる、日頃のお世話のお礼にとア
     ンパンをさしだす(笑)。そのすきに、本を持ち出して、神田へ売りにいって、そのころ流
     行の「なんでも十円寿司」で腹いっぱい食べました(笑)。後で彼はすごく叱られたという
     噂を聞いて、溜飲を下げましたが、後日談を言いますと、彼はのちに有名な評論家にな
     られました(笑)。                           (113~115頁)


面白い話ですが、どうもおかしいですね。
  ・ガラスケースに鍵がかかっていなかったのか。
  ・それほどの貴重な本が盗まれたとしたら、大学から神田の古書街に連絡がいったのではないでしょうか。
  ・学生が貴重本を売りに来た場合、古書店に疑われ、警察や大学(学生証から)に通報されないでしょうか。
  ・数人で十円寿司を腹いっぱい食べても、大した金額にはならないでしょう。あまり貴重な本ではなかったのでしょうか。

ところで、このひどい目にあった図書館員は誰でしょうか。あの有名な英文学研究者をおもいうかべましたが、評論家になった
と書かれているので、人違いでしょう。


     丸谷才一さんの名言のひとつに、「日本の国語教育は、子供をみんな小説家にしようと
    している」という言葉があります。
     日本では、小学生にむやみに「感想」を書かせようとする。「あなたはこれを読んでどう思
    いましたか」、「どんな気持ちでしたか」と。ところが、自分が何を感じたか、思ったか、つま
    り頭の中の感情や情緒を文章で表現するのはむずかしい。ましてや、「本を読んで、どう
    思ったか」というのは書評を書くのと同じでしょう。これはぼくらにとってもむずかしい仕事で
    す(笑)。                              (135頁)

小説家になれなかった人たちが国語教育をいじっているのではないでしょうか。



この本の最後に恐ろしいことが書いてあります。

     断言してもいいんですけど、本は絶対になくならない。本がなくなる時は、書記言語のなく
    なる時です。その時、人間は別の生き物になっているでしょうね。 (178頁)  
      

日本史を読む

2015-09-22 13:22:47 | 日記
1998年5月25日初版発行
著者 丸谷才一 山崎正和
発行所 中央公論社

       
        装幀   和田誠

日本史について八つの対談が収められています。
 恋と密教の古代
 院政期の乱倫とサロン文化
 異形の王とトリックスター
 足利時代は日本のルネッサンス
 演劇的時代としての戦国・安土桃山
 時計と幽霊にみる江戸の日本人
 遊女と留学女性が支えた開国ニッポン
 近代日本 技術と美に憑かれた人びと

面白い指摘が次々と出て来ます。
 「恋と密教の古代」では、万葉集の額田王と大海人皇子の恋歌のやりとりを夜の宴席で、二人がふざけて、即興で
披露したざれ歌であるという大岡信の『私の万葉集』のなかの解釈が紹介されています。斎藤茂吉が『万葉秀歌』で
おこなったリアリズム解釈とは真っ向から対立するものです。

    山崎 ・・・・ むしろ私は、大正から昭和十年代までの間に、日本の文学が共有した私小説的世界
            というか、短歌を歌っても志を述べつつ生活の苦しみも訴えるという、流行の空気のな
            かで斎藤茂吉は語っていると思うんですね。
             じつをいうと、古代というのはそんなにくそリアリズムの世界ではなく、むしろきわめて
            演劇的・祭式的世界だと語っている人は、洋の東西にいるんです。最も有名なのは
            ジェイン・ハリソンで、ギリシア藝術は現実の再現ではなく演劇的な祭祀の再現として
            生まれたと言っている。つまり詩を考えたとき、一人の人間が実感をもって歌いあげる
            のが原型ではなくて、むしろ集団の遊びの中から生まれてくるという考え方ですね。
            じつは日本でも土居光知という東北大学の英文学の先生が、『文学序説』のなかで
            「『古事記』は直接の歴史記述ではない。歴史についてのお芝居を記述したものであ
            る」と言っています。論理はハリソンと同じなんですよ。古代というものを解く鍵として
            そういう考え方は、かなり古くからあったと思います。

    丸谷      土居光知の『文学序説』は、ギルバート・マリ、ハリソン女史なんかのケンブリッジ・
            リチュアリストの影響が濃厚なんじゃないでしょうか。 
                                               (18~19頁)


「院政紀の乱倫とサロン文化」

    山崎     ・・・・・しかし、院政というものは歴史を複雑なことにしてしまいましたよね。

    丸谷      そうなんですよ。院政は、戦争が終わるまでとても手をつけることができなかった主
            題ですね。戦後も、なんとなく億劫でやれなかった。というのは一つには、日本独自の
            現象だと学者は熱心にならないんです。これは不思議なことで、ぼくは反対だと思う。
            むしろ日本独自であれば意欲が湧くはずなのに、日本の歴史学者たちは西洋の歴史
            とのアナロジーが成立するときに熱心なんだ。まあ、一種の見立てでいくわけですね。
            日本独自のものの典型が院政なんですが、それに対しては飛びついていく身構えが
            できないという変な習性がある。          (72~73頁)

なるほど、日本史学界で荘園研究が膨大なのはヨーロッパにも似たものがあると考えたせいなのですね。


「演劇的時代としての戦国・安土桃山」

歌舞伎とイエズス会劇

    丸谷     ・・・・・・・・・
             いったいに歌舞伎は、能や狂言とは非常に感じが違うんです。能や狂言がスタティック
            なのに対して、すこぶる動的である。能や狂言が古典主義なのに対してこちらはバロック。
            能や狂言が渋好みで禁欲的で、地味に地味に――例外はありますけど――ゆくのに対し
            て、歌舞伎はにぎやかで派手で、華美で、エロチックで、まるでレビューみたいである。
            能の筋書きがわりに綾が少ないのに対して、歌舞伎は綾に富んでいて趣向が多い、つま
            り変転に富む感じですね。
             これだけの違いが、女猿楽とか、風流踊りとか、女曲舞とか、念仏踊りとか、そういうも
            のからだけで出てくるものだろうか。どうも、何かほかにありそうだと、ぼくは思っていました。
             ところが、、『新カトリック大事典』なるものを見ていましたら、イエズス会劇という一項目が
            あって、イエズス会は音楽と演劇を非常に重視して、十六世紀、十七世紀ヨーロッパにおい
            て教育上の方便としておおいに用いた。しかも日本でも、イエズス会劇はかなり上演された
            ことを知ったんです。

     山崎     それは丸谷さんの発見ですね。事典に書いてあるにしても、それを歌舞伎と結びつける
            のは創見ですよ。                           (192~193頁)

歌舞伎とイエズス会劇を組み合わせるなんて、すごい離れ技です。今の細分化された大学の人文科学からは
出てこない発想でしょうね。
 
        
         阿国歌舞伎草紙            装幀 和田誠

  
       

日本三大洋食考

2015-07-20 11:34:04 | 日記
著者 山本嘉次郎
昭和48年6月15日 第1刷発行
装釘者 伊丹十三
発行所 株式会社昭文社出版部

    

日本三大洋食とはライスカレー、コロッケ、トンカツのことです。
「コロッケの巻」に次の一節があります。

      ワイフもらって
      嬉しかったが
      いつも出てくる
      おかずはコロッケ
      きょうもコロッケ
      あすもコロッケ
      これじゃ年ごら年中 (年がらの誤植?)
      コロッケ
      アッハッハ、アッハッハ
      こりゃおかしい

   大正初期に流行した「コロッケの唄」である。
   これは、帝劇で上演されたオペレッタ「カフェーの夜」のなかで歌われた一節であるが、
   この歌だけが独立して、世間の流行歌になってしまった。
           (中略)
    作者は、益田太郎冠者である。太郎冠者は三井の大番頭益田孝男爵の御曹子である。益田孝
    は明治大正きっての茶人であった。鈍翁と号し、織部、遠州と並らぶ日本の三大茶人といわれた。
    その御曹子がコロッケの唄を書いた、これがそもそもの間違いであった。
     太郎冠者は帝劇の大株主であったので(一時期は社長でもあった)、その顔を利かして道楽半
    分にいろいろ脚本を書いて上演したが、受けたのは、この「カフェーの夜」一本くらいであった。
           (中略)
     ところが大流行のコロッケの唄を聞いて、首をひねるひとが多かった。
    ――さすがは大金持のセガレだけあらァ、毎日毎日のおかずがコロッケなんて、豪儀なもんじゃ
   ねえか。
    ――こちとら、コロッケなんて話にゃ聞いたことがあるけど、まだお姿さえ拝んだこたァねえぜ。
   というのである。
   そんな時代だった。一般庶民にとって、洋食を食うなんて、容易ならざることであった。
           (中略)
    よしんば、有福な家にしても、家庭でコロッケを作るのは、面倒な技術を要して、素人の手に負える
   ものではない。
    当時は、そのような、本格的なコロッケしか存在しなかった。
    ところが、太郎冠者はコロッケは洋食のなかでは一番カンタンなものであり、一番安物であると思い
   込んでいたのである。益田邸では、コックの二人や三人は雇っていた。だからコロッケが、いかに手の
   かかるものであるかを知らなかった。チェッ! またコロッケか、バカにするな、と太郎冠者は嘆いたに
   ちがいない。
    太郎冠者は庶民とは次元の異る立場で、コロッケの唄を書いた。コロッケを笑いの対象としてブチョク
   したのである。そこに世人が首をひねる要因があった。ソンケイすべきコロッケをブチョクするとは・・・・。
    私は太郎冠者の長男とは小学校以来の級友だったので、高輪の御殿山の大きな森に囲まれた益田
   邸に、ときどき遊びに行った。
    その台所は、レストランやホテルも及ばぬような豪壮なものであった。白い服を着たコックが、いつも
   忙しそうに働いていた。
    こんな生活をしているから、コロッケの有難さなんか分ろう筈はなかった。   (61~64頁)

山本嘉次郎が益田家に行ったことがあるとは意外でした。

       

本書の裏表紙です。
ヤマモト カタロウ
父嘉太郎、親子どんぶりの発明者とか、稀代の食いしん坊なり。
嘉次郎、その薫陶を受ける。 

 ところで、三大洋食ではありませんが、親子どんぶりについて、こんな文章があります。

      さて東京のテレビ局では私の指示によって俳優の伊丹十三氏が九州に素ッ飛び、熊本県の
     菊池米、有明海のノリを求め、引返して和歌山県御坊市の堀河屋の醤油を買い、名古屋の郊
     外で農家の飼育する名古屋コーチンと卵とをわけてもらい、裏丹沢の青野原でミツバを得て、
     わが家にもち込むという筋書になった。その筋書どおりに材料を選んで、私が関東風の濃い味
     で作って見せると、昼飯を食ったばかりのスタッフがうまいうまいとみな食ってしまった。
                                            (132頁)

これは「遠くへ行きたい」のことですね。伊丹十三氏が出演した「親子丼珍道中」です。
現在、これと同じように材料を揃えたとして、山本嘉次郎さんが納得する親子どんぶりができるでしょうか。

    




太陽 10月号 No.64 特集 中尊寺と奥の細道

2015-06-07 08:43:12 | 日記
1968年9月12日発行
発行所 株式会社平凡社


        


 目次より

酒田の餘波(なごり) ・・・・加藤楸邨
日暮いそぎぬ羽前路 ・・・・加藤楸邨

      出羽三山を下って鶴が岡(今の鶴岡)に入った時、長山重行に迎えられて
     歌仙を巻いている。
      めづらしや山をいで羽の初茄子
     この近くから民田茄子と呼ばれる小粒ですこぶるうまい茄子が出るが、私も
     三山を下る度に「山を出で羽(端)の初茄子」と口の中で呟いては味わうのが
     常である。
      酒田へは鶴岡から赤川の川船で下っている。
                                 〔45頁 酒田の餘波(なごり)〕



     酒田の鎧(あぶみ)屋で俳句の会が催された。本町の静かな通り、「奥の細道」
    に「川船に乗りて酒田の湊に下る。(中略)
     初真桑四(よつ)にゃ断(わら)ん輪に切(きら)ン
    と真蹟にある「あぶみや」が在来鎧屋とされていたのだが、そうであるかどうかに
    ついては近年疑問が投げられている。しかし、今夜はそうした問題を離れて、最も
    酒田らしい雰囲気を生かした作句の時間を味わってみたいというので、この地方の
    特産である五百目の大絵蝋燭を古風な燭台に立てつらねて、その光の中で沈思し
    たわけである。                  (56頁 日暮いそぎぬ羽前路)

              
              芭蕉のむかしをしのび、ゆかりの鎧屋邸で、句会をひらいた。座の中央には、まくわうり


 ところでこの雑誌の後ろの方に「5分間インタビュー」というページ半分くらいの欄があります。
そこでインタビューされているのが小説家の丸谷才一さんです。
丸谷さんは山形県鶴岡の出身。特集のテーマに合わせたとしたら、編集部のみごとな技ですね。
偶然だとしても、すごいです。 丸谷さんは大正14年(1925)8月27日生まれですから、このとき42か43歳です。

                            
                             5分間インタビュー    文学論はオフ・レコだよ    丸谷才一

                         それと、ビフテキだけはうちの女房の作るのがうまい。外で食べると、どんなに生焼きでといっても少し焼き過ぎるんだ。
                         こうしてみると、ぼくも結構うるさ方みたいだな。酒は料理に合わせて飲みます。西洋料理の時はブド―酒、日本料理
                         は日本酒、中華料理には老酒なんかいいですね。食事が終って本格的にという時にはウイスキー。なに、水割一〇杯
                         くらいですよ。                                     (146頁)    

私生活を語ることのなかった丸谷さんにしては珍しいインタビューではないでしょうか。

レター・フロム・ニューヨーク  Letter from NewYork

2015-05-07 09:58:59 | 日記
1995年12月7日 初版発行
著者 ヘレーン・ハンフ
訳者 キャシー・圭子・デクート
発行所 中央公論社

          

 『チャリング・クロス街84番地』の著者が、BBCラジオの人気番組『ウーマンズ・アワー』で語ったNYの日常生活。
1978年10月から1984年4月まで放送されました。

1980年6月
   六十四、五丁目あたりのブロックには、大金持ちのタウンハウスが並んでいます。(中略)二軒目は
  デヴィッド・ロックフェラーの所有物で、昨年の十一月にイランの国王をニューヨークに連れて来た責任
  は主に彼にあると多くのニューヨーカーは考えています。
  三軒目の家は最近買われたもので、現在はリチャード・ニクソンの持ち物になっています。私自身はこ
  のブロックは歩かないことにしています。                         (73頁)

ヘレーン・ハンフは熱烈な民主党員ですから、当然かもしれません。


1981年2月
   これまで八十年か九十年の間、ニューヨーク市はアメリカの英雄をユニークなパレードで讃えてきま
  した。そのユニークな特徴から名前をとって、このパレードはティッカーテープ(紙テープ)のパレードと呼
  ばれています。
   このパレードはいつも、ニューヨーク発祥の地でありもっとも古い地区であるロウアー・マンハッタンか
  らスタートします。というのは、そこに株式市場があるからです。このパレードの名前は、株式市場のテ
  ィッカーテープ、つまり一日中機械から打ち出される株の値を記録する細い紙テープからきています。
  パレードの前日仲買人たちは、その日にたまったティッカーテープを丸めて保存します。そして、英雄
  たちが立ったり座ったりしながらゆっくりオープンカーで通るのを高層ビルの窓から見て、彼らの頭上め
  がけてティッカーテープを紙吹雪のように投げるのです。  (中略)
  高層ビルで働いている人達も負けずに、伝統の紙吹雪を作るためにコンピューターのプリントアウトを
  集め、IBMのカードを破き、電話帳をシュレッダーにかけました。   (101~102頁)

ティッカーテープを紙吹雪に見えるように細かく切るのは大変だったでしょうね。 


1981年11月
   まだお会いしていないジェームズ・エバンスという男性が『チャリング・クロス街84番地』を劇用に改
  作しました。そしてまだお会いしていないマイケル・レディントンという男性が、その劇をロンドンのウェスト・
  エンドの劇場で演出することになったのです。そして、来たる十一月二十六日の木曜日にアンバサダー・
  シアターで、自分の書いた劇のオープニング・ガラに出席するというほとんど生涯の始まりの頃からの夢
  が実現するのです。                                 (129頁)


実に「劇的」な展開です。ヘレーン・ハンフの生涯を劇にすれば、魅力的なアメリカ現代史になるのではないでしょうか。