旧刊時空漂泊

さまざまな本・出版物がランダムに現れます。

思考のレッスン

2013-08-29 11:33:40 | 日記
著者 丸谷才一
1999年9月30日 第1刷発行
発行所 株式会社文藝春秋

       
                        装丁  和田 誠
 

 僕は一体にね、日本の昭和時代の思想というものは、マルクシズムに振り回されすぎてきたという気
がするんです。昭和思想史といった種類の本がいくつもあるけれども、どれもマルクシズムに対して不
当に力点を置いている。
 昭和という時代がそうであったんだと言われればそれまでですけれども、イデオロギー重視に対する
批判的な視点がない。ですから、昭和批評史のようなものを考える場合でも、吉田健一さんのいる場
所がなくなってしまうんです。中村真一郎さんもいる所がなくなる。            (P46)


 たとえば、フランスの作家たちは、ジイドからサルトルにいたるまで、政治的関心をずいぶん持ってい
ました。  (中略)  ところが日本の文藝評論家および翻訳者たちは、彼らの政治思想を論じること
だけに夢中になって、肝心の小説の地肌の良さとか、書き方の面白さといったことは何も言わなかった。
これは実に幼稚で野蛮な態度ですね。
 日本の評論家には、そんな政治中心的な考え方が染みついていて、同じ態度で日本の小説につい
ても論じようとするから、肝心のところがまったく見えなくなっちゃう。それじゃあ、文藝評論は文藝評論
でなくなってしまうという気が僕はするんですよ。                       (P48)

これと関連して思い出されるのは、小林秀雄さんが「批評は他人をダシにし使って自己を語るんだ」と
いったことがあった。有名なセリフですね。
 けれども、僕は、「対象である作品と自己との関係について語る」というふうに言い直すほうが、読者
を惑わすことが少ないような気がします。もしそういうふうに小林さんが言ってくれたら、日本の批評は
こんな混乱した状況にならなくて、もっとまともな道を進んだんじゃないか。      (P89)


 それまでの日本の文藝評論というのは、人生論とか、哲学論とか、政治論とか、そんなことばかり
やっていた。文学論と言われるものが何をしていたかと言えば、作家を流派別、交友関係別に論じる
ものばかりだった。白樺派とか、鎌倉の文学とか、中央線文士とかね。これじゃあまるで、相撲部屋
の世界だよ。事実、「丹羽部屋」なんていう言葉もあったしね(笑)。文学の話は、交友関係で全部決
るようで、文学論でもなんでもない。                            (P66)


 大体ね、文藝評論で凄むのはおかしいよ。たとえば小林秀雄さんの『徒然草』論、あれはひどく孤独
な兼好法師が出てきますね。最後は、栗しか食べない美しい娘がいて、親が結婚を許さないという
『徒然草』の一つのエピソードで終る。一人合点な終り方で、なんだか訳のわからない兼好法師論
なんだけども、みんなが感動するわけだ。孤独ということを言われると、みんなが参っちゃうんですよ。
でも、ご託宣めいたモノローグ的な評論ですね。                    (P99)


 一体に日本の評論は――文藝評論でもそれ以外の評論でも――文体を論じるということがほとん
どない。日本の近代文化は文体を軽視する性格のものでした。たまに文学者が文体のことにこだわると、
それは単なる個性の表現としての文体の話、文明と関連のない根性論的文体論でした。
「丸山真男の文体について」なんて書いた人いる? まだいないでしょう。あれだけ丸山真男論はいっぱ
いあっても、彼の文体には関心を払わない。しかし、文体に気を配って読まなければ、ほんとうに文章を
理解することはできないんじゃないか、ぼくはそう思ってるんですね。          (P131)


 これを延長して言えば、型の生れたゆえん、自分と型との関係、そういったことを考えないで、ただ型を
なぞるのでは意味がない。つまり通説、定説に無批判に盲従していても意味はないということです。
それは官僚主義というものですね。ところが日本の学者には官僚が実に多い。国文学者、あるいは
近代日本文学研究者が、国文学の定説、近代日本文学の定説を管理する官僚になっている。そこ
から新しいものは何も生まれません。                           (P197)



この本は丸谷さんの思考の形成史という構成になっています。そして、同時に日本の、昭和の批評に対する異議申し立てになっています。
丸谷さんを特集とした雑誌、単行本が見当たらない――小学館「群像日本の作家 丸谷才一」一冊ぐらいか――のは不思議だなあと思って
いたのです。そういえば、丸谷才一論というのもあまり見たことがないですね。批評家から敬遠されているのということです。これだけ批評業界
に「批判的」なためでしょう。

鉄道ピクトリアル No.475 〈小集〉鉄道郵便

2013-08-19 10:43:31 | 日記
昭和62年2月1日発行 第37巻 第2号
発行所 株式会社 電気車研究会 
      鉄道図書刊行会

   
 
 鉄道郵便というのは何かなつかしい感覚を呼び起こします。
 年表では1986(昭和61)年10月1日に鉄道郵便局、鉄道郵便線路全廃となっています。
                                             
    鉄道郵便最後の日迎えた61年9月30日には鉄道郵便線路は札幌ー函館、函館ー青森、
   青森ー東京および東京ー門司ー鹿児島間の4郵便線路2631kmに過ぎず、郵便車も66両、
   1日走行キロも8152キロを算するだけに縮小されていた。
                             (鉄道郵便略史 土井英明) 13頁

  
  郵便車への積込風景 仙台駅(仙台鉄道郵便局)における
  最終日               86.9.27  二星 拓
                               (13頁)
鉄道郵便を知る人、関心のある人は今や、鉄道ファンもしくは、鉄道郵便局の通信日付印「鉄郵印」
マニアだけになっているのでしょうか。
 
   

ニューヨーク紳士録  講談社文庫

2013-08-08 12:16:36 | 日記
著者 常盤新平
1991年9月15日 第1刷発行
発行所 株式会社 講談社

       

アーウィン・ショー、ポール・ギャリコ、ヘレン・ローレンスン、ジョン・レナード、ボブ・ウッドワード/カール・バーンスタイン

トム・ウィッカー、アニタ・ルース、ゲイ・タリーズ、ジャネット・フラナー、フレデリック・ルイス・アレン、オルデン・ホイットマン

マーサ・フォリー、ノラ・エフロン、ジョン・チーヴァー、オズボーン・エリオット、M・F・K・フィッシャー、リング・ラードナー

レッド・スミス、ジョセフ・ミッチェル、ロジャー・エンジェル、ウィリアム・マックスウェル、W・P・キンセラ、ブレンダン・ギル

ウォルター・リップマン、ジェームズ・スティヴンスン、ベネット・サーフ、ローリー・コルウィン、ロバート・シャプレン

ヘレン・ガーリー・ブラウン、バートン・バーンスタイン、ロバート・ベンチリー、ミミ・シラトン、リチャード・リンジマン

カルヴィン・トリリン、ジェームズ・サーバー、アレン・チャーチル、トーマス・ホワイトサイド、A・J・リーブリング

マイクル・アーレン、ヘレーン・ハンフ、ホレス・マッコイ、ハロルド・ロス、アルフレッド・ケージン、ハリー・クルーズ

ブルース・ブリヴン・ジュニア、E・B・ホワイト、トム・ウルフ、ウィリー・モリス、ウィリアム・サローヤン、カルヴィン・トムキンズ

以上、ニューヨークの50人の著作家、編集者のプロフィール。

 なかでも、ジョゼフ・ミッチェル・・・(「マクソーリーの素敵な酒場」への御招待)、(ヘレーン・ハンフ・・・『チャリング・クロス街84番地』
の懐しさ)、この二つは以前にブログに登場しました、懐かしいですね。酒場と古書というのは意外と相性がいいようです。
(オズボーン・エリオット・・・「ニューズウィーク」実質上の立役者)のなかで、「ワシントンポスト紙の社主キャサリン・グレアム」
と書かれています。かなりのやりてだったようです。
 2013年8月8日の朝日新聞にアメリカのワシントンポスト紙の売却の記事がありました。
そのなかで、キャサリン・グラハムという名が出ていました。現在の社主の祖母ということですから、上記のキャサリン・グレアム
のことでしょう。ワシントンポスト紙を買収したのは、アマゾン創業者のジェフ・ベソスです。
ニューヨーク紳士録は「昨日の世界」の人々のドキュメントです。