土の上にも三年

農への道

許せないものなど

2011-08-18 22:43:03 | おとおさん日記(私生活系)
都内某所にあるパン屋さん。

以前他所で書いたこともあるパン屋さんですが、非常に品数が少ないんです。

日々売り切ることが前提で、陳列棚は常に閑散。

ご主人はもう70を半ばまできて、ボクの初見では「売上改善も店舗改装も、あらゆる商売への熱情を失った沈み行く店」でした。

そんなパン屋を見て、ボクは何かの足しになるならと行く度にパンを買おうとします。

ところがご主人は「これ子供に持ってき」と、買った分よりも多くを渡してくれるんです。

お世辞にも超美味しい!とは言えないパンですが、その気持ちが嬉しく、また、大手のパンが消費者受けしている中にあって、これからの余生を傾きかけた店舗と共に歩むことへの浅はかな同情心・出来心とも言えそうな気持ちで応援してきました。


先日、いつものように訪問しました。

ご主人は相変わらず、毎日変わらない仕事を淡々とこなしながら、とりわけ仕事に情熱を持つようにも見えない素振りで仕事をしていました。

その日はひょんなことから添加物の話しになったのです。

ご主人は「うちのパンは孫に食わせられるパンなんだよ。他所の食べ物見ると、なんや分からない添加物が10も入っていて怖いでしょ。今もさ、毎年、第何百号の添加物が使用禁止なったぁとかたまに連絡くるけどね、10ものワケわからん添加物が胃に入って混ざって、おっかなくて仕方ない。うちでも添加物奨められたりするけど、そんなもん入れたら孫に食わせられないや。何百もあるんだよ、そんなのがさ。」

ボクは目が点。

店のどこにも「無添加のパン」などの宣伝もない。

ましてやテレビ取材が来ても断るんだとかで、無添加であることを知っているのは一部の常連さんだけのようでした。

昨今のブームに乗れば無添加のパン屋と言うだけで市民権を獲られそうなものを、どうやら70過ぎの肉体的な限界を感じてか、仕事のペースを狂わされるのが億劫のようでした。

「うちのパンはね、ふっくらとかもしてないし、癖になるような味付けもしてないから、そんなに人気は出ないかもしれない。でも不思議と買いに来る人は来るんだよね。ご飯も白いご飯が美味しいでしょ。味付けご飯はたまに食べると美味しいけど、2日も食べたら飽きちゃう。」

そう言いながら、無添加パンなのに普通のパン屋より安いコロッケパンをくれました。

「暑いから気を付けてね。」

ボクは車でコロッケパンを頬張る。

とりわけ美味しいわけじゃない(笑)


こんなお店もあるんですね。

多分、普通にしてたら見過ごす店。

だって宣伝一切なし、食べても特別なわけじゃない、やる気があるようにも見えないし、聞いても「何の取り柄もないパン屋だよ」しか答えない。(最初の頃、何か拘りあるのか聞いたことがありました。)

でも何故か行く度に買っていたボクは、足繁く通ったからこそ教えてくれたわけでして。

まぁ仕事で行ってるついでなんだけど。

何て言うか、仲良くならないと良さをアピールしない奥ゆかしいご主人、とも取れるし、利益出そうと思えば出せる状況で敢えて利益を蹴る愚かな店主、とも言えます。

実際、子供たちからはテレビ取材断ったと言うと「親父、商売と職人芸は別だよ」と怒られるそうです。

そしてそんな店をはた目に、近くにあるショッピングモールの良く売れてる「売るためのパン」を売るパン屋。

消費者の選択とは言うものの、選択させるだけの材料を前面に用意している店ばかりじゃないんだなぁ。

もしかしたら、シャッター街の商店にもそんな店があるかもしれない。

レアケースか(笑)

ちょっと考えさせられました。

やはり宣伝効果やイメージ戦略は強いね。

自分が信じてやまない選択は本当に自分が選択しているのか、何もかも疑いながらも自分の選択に疑問を持たないような。

表現するのは難しいけど、妥当なのは「自分を捨てた先に転がっている一見ダメな世界が実は世界の真理であり、それを拒んだ理想社会は実は世界の側面にすぎない」かな。

「無添加です」という宣伝に、「本当に無添加ですか」と突っ込める人は非常に少なく、それは安全神話を作り出す。

でも今回のパン屋の例で言えば、事実上「うちは何か特別な拘りをしていない普通のパン屋」と自称していて、食べても聞いても分からない以上、判断のしようがないわけです。

基本的には自ら「安全です」と言ってるような私企業は「安全ではない」からわざわざ「安全です」と言うわけで、しかしながら全てを懐疑的に見てしまえば「自分で作るしかない」のであります。

そこに貨幣経済でも物々交換でも良いけど経済が絡んできて、つまりは社会を形成する以上、妥協や信頼と享受するサービスには、一定以上のブラックボックスが出てきてしまうのです。

ブラックボックスを指差して「利権」と呼んだり、消費者と提供者が対等であると考えるのはちょっと純粋過ぎるかな、と考えます。

利権が無ければ人類は発展しなかっただろうし、消費者と提供者が対等である瞬間なんて文字通り「瞬間」でしかないわけです。

絶えず利権がすりかわり、消費者と提供者の力関係が入れ替わるからこそ、人の欲望は人類の発展を押し上げました。

利権を全て無くし、消費者と提供者が対等であるようにするには、第三者のジャッジが不可避であります。

そして、第三者のジャッジは必ずパワーバランスの軋轢を生むのです。

つまり利権や「消費者と提供者の支配関係」は、絶対に無くならないのだと思います。

今は叩かれる東電ですが、東電に代わって台頭する予定の再生可能エネルギー企業も、遅かれ早かれ叩かれる企業になる気がします。

あとは上手くやれるかどうかにすぎない。

東電は下手くそだった。それだけの話です。

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