土の上にも三年

農への道

これ気になってたんだ

2012-05-24 21:30:23 | どうでも日記(雑記系)




ってRIEが言った。面白いね、一昔前は「えー、なんでもかんでも“そういうの”は無理!」だったのに。

辛抱強く問い掛け続けるのは不得手だけど、おそらく周りから見たら我慢強い方でもある。自分にとっての“正しさ”は時として歪む。諦めながら諦めない、っていうような矛盾に対する感覚は結構昔からあった。

その感覚は自分に内在した矛盾でもある。しかし自分にとっては自己内省の努力だ。しかし他人から見れば負の感覚を覚える。


前に向かう力の強い人は、前に向かうために社会を押し上げる業を持つ。ていうか、全員、本来的には「社会を押し上げる業」を持つ。もしかしたらそれは「種の存続」に対する原始的なプログラムなのかもしれない。


で、Tさんがジンジャーエールを買ってくれた。ナイスチョイス!

美味いねー。口の中にベタベタ感が残らない。生姜のくさみは柑橘類で抑えている。どちらもTさんの言葉から引用(笑)

俺が自作したジンジャーエールも我ながら美味いと思ったけど、柑橘類を入れる発想は無かった。

ジンジャーエール=生姜一種で出来た飲み物、ってイメージが音を立てて崩れ去った(大げさ)

今度、柑橘類を入れてジンジャーエールを作ってみよう。


生活の中に循環したシステムは、相乗効果によって一挙一動のコストは低減する。その循環に今までと違うシステムを導入すると、相乗効果のチェーンが断ち切られ、単純なコスト増加よりも相乗“悪化”はマイナスに働く。

チェーンを効率化するために産業は伸びてきた。チェーンに組み込まれにくいものは切り捨てられた。

街中で生姜を育てるコストは、環境が変われば相乗作用で効率化されるが、“街中”という環境で生姜を作ろうと思ったらコストパフォーマンスは大きく低下する。

キャベツは(大都市から見れば)広大な畑で作る方が効率は良いし、大都市ならではの生活を田舎で実施すればコストがかかる。環境ごとに適した効率化が存在するわけだ。


自分なりの“正しさ”を社会に組み込むには、莫大なコストが発生すると考えるのが妥当だろう。そのコストを急進的に払うかゆっくり払うかどちらにせよ、支払う総コストは同じはずだ。

都会に畑を作るには、爆弾仕掛けて人も建物も焼け野原にして、汚れた土を全て入れ換えるか、人も建物も世代を重ね、徐々に徐々に畑を増やすか、証明のしようもないが“瞬間的に支払うコスト”と“投資する時間×小さなコスト”は同じエネルギーであるはず。

時間を買うための効率化は、それによって失うものの裏側にある。原発事故はそれを教えてくれている。


自分の代や子や孫の代あたりの、目に見える結果を求めるのは仕方のないことだ。しかし大きな視点で言えば、たかだか数十年の大きな繁栄の先、数百年の大きな崩壊があるなら、本末転倒とも言えないか。

俺たちの祖先は、俺たちがこれから数百年以上、原発問題で崩壊すると思っていただろうか。少なくとも、未来よりは目先の繁栄を選択した、しわ寄せではないだろうか。

俺たちは本当の意味で未来の繁栄を願っているのか。それとも目先の繁栄を願っているのか。寿命から見たら長期的なプランだが、人類史からすれば短期的な目先のプランなのではないのか。

で、いま何をするか、だ。


疑問や矛盾を抱えながら行動する。それしかないんじゃないかと。

決め打ち、自己を疑わない正義・悪、ひいては急進的な思考。それらが求める代償は、その時代に生きるものに対して大きすぎる。

急ハンドルを切らなければ事故るなら、急ハンドルを切っても事故ると思って間違いない。

せめて、急ハンドルを切れば安全だと思ってはならないんだと思う。焦るのと急ぐのは違うに似たり。


もちろん急ハンドルを切ってはならないわけじゃない。急ハンドルを切った先には別の事故があり、それは往々にして急ハンドルを切らずに事故ったよりも想定外に酷い事故に繋がる。

急ハンドルで助かれば、次も急ハンドルで助かるという誤謬を生み出す。震災前に原発がメルトダウンでもしていれば、もしかしたら震災で原発事故は無かったかもしれない。

「急ハンドルを切れば助かる!」「ほら助かった!」という繰り返しが、数十年の蓄積で原発事故を引き起こすのだ。

思い込みを制御することは不可能だから、せめて自己に対して疑問を投げ掛け続けるしかないと思う。

結果として、他人に対しても問い掛け続けるしか出来なくなる。問い掛けが問い掛けを生み、絶え間ない疑問の連続、その中に在り続けることが、もしかしたら「人間」の業なのかもしれない。


うーん、毎度いまいち(笑)

ま、思い込みから逃れられないなら、良い方向の思い込みを続けると楽しいかもね、って。どうせ人間の一生で何かしようなんて無理だから。それなら自己という概念の存続のために、実在である他人を生み出すべきでしょう。

自己は存続する権利を有するが、その権利は同時に他人という存在に許されなければならないという義務でもある。

よし、この辺で尻尾切り!ぷちっ♪

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