土の上にも三年

農への道

心象風景

2014-02-10 21:31:02 | どうでも日記(雑記系)
「しんしょうふうけい」で一発変換される。なんか自然と中原中也が思い浮かんだ。なんで思い浮かんだのか良くわからない(笑)


自分の見える風景は、その時の体調や精神状態で取捨されるようで、見たいものしか見えないとも言えそうだ。自分でさえそうなのに、むしろ自分でさえそうなのだから、目の前で起きた事象が真実とどれだけ乖離しているのか問うことに何の意味があるだろう。

しかしながら、目の前で起きている事象はまさしく起きているわけで、ただそれを見る者の心象風景が交錯した、事象を介在して情報伝達のために起きている、言わば生きていることそのものなのだろう。

真実が普遍であるとする。目の前で起きている事象を見ている自身の心象風景もまた普遍だろう。

真実は、もしかしたら同じものが違うように見えるという、忘れがちなごく日常の中にあるのかもしれないね。


なぜそう見えるのか?に明確な言い分は成立するように思える。でも本当にその言い分の通りの理由でそう見えたのだろうか。そうは見えない時が本当に無かったのだろうか。また将来にわたって無いだろうか。そこまで自分という存在は普遍だろうか。

好きな人を嫌いになれるのと同じくらいの可能性で、嫌いな人を好きになれる可能性はないだろうか。たまたま今生の中だけで心象風景が重なったり重ならなかったりしている可能性はないだろうか。たまたま昨日感じたことを、今日捨て去ることができずに、安堵したり嘆いたりしてやいないだろうか。

それはどれだけ普遍的なのだろうか。

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