鷺森神社
御祭神 素盞鳴尊
貞観年間(859~877年)に、比叡山麓、赤山明神の付近に祀られるものの、
応仁の乱で社殿焼失し、現在の修学院離宮のある山中に移されます。
元禄2年(1689年)、後水尾上皇が修学院離宮を造営される際に
霊元帝より現在の鷺の杜に社地を賜り、今の地に遷座しました。
鷺が神使である神社は
鷺森神社のほかに諏訪大社、気比神社、三島神社、熱田神宮があります。
. . . 本文を読む
幡枝八幡宮
御祭神 誉田別命(応神天皇)
息長帯比売命(神功皇后)
旧幡枝村の産土神で、
社名は石清水八幡宮から枝分かれした分社、の意とされます。
第59代宇多天皇の寛平6年(894)に新羅国が攻め寄せるという風聞があったとき、
「われ人民守護のため幡枝の地に鎮座せん」という八幡神のお告げがあり、
里人がこのことを朝廷に奏上して創建したのが始まりです。
代々の天皇からも . . . 本文を読む
圓通寺
もともとは後水尾天皇の山荘であった幡枝御殿であり、
その頃に造営された比叡山を借景とした枯山水庭園は借景庭園の代表といわれ、
その美しさで名高い。
借景庭園
比叡山を借景とした枯山水式。
紀州から取り寄せた大小40余りの庭石は
上皇となった後水尾天皇が自ら配したといわれます。
もとは白砂敷でしたが、現在は苔庭となっています。
ホットカーペットの上でのんびり眺めていると
説明が . . . 本文を読む
八瀬 瑠璃光院(HP)
その昔、壬申の乱で背中に矢傷を負われた大海人皇子(天武天皇)が湯治に訪れたことに始まり(八瀬のかま風呂)、
以来、平安貴族や武士によって、やすらぎと癒しの里として愛されます。
本願寺歴代門跡もしばしば訪れたとされます。
大正末から昭和の初め、
京都電灯創業者が12000坪の敷地に延べ240坪の数寄屋造りと中庭付きの別荘をつくり、
戦後は「京の奥座敷」 として、 . . . 本文を読む
圓光寺(HP)
臨済宗南禅寺派の寺。
創建は慶長6年(1601)、
徳川家康が文治政策として
足利学校の僧である閑室元佶(かんしつげんきつ)を招いて
伏見に学問所を建てたのが始まりです。
多くの僧が入学し、書籍の刊行もおこないました。
そして相国寺山内に移ったのち、
寛文7年(1667)、現在地に移転します。
庭園は洛北ではもっとも古いとされる栖龍池(せいりゅうち)がある、
池泉 . . . 本文を読む
金福寺(こんぷくじ)
臨済宗南禅寺派の寺であり、山号は佛日山。
洛北の金福寺は俳句の聖地といわれ、松尾芭蕉とも縁が深い。
貞観6年(864)、安恵(あんね)僧都が慈覚大師円仁の遺志により天台宗の寺として創建し、
元禄年間(1688年~1704年)に鉄舟和尚が再興し、臨済宗南禅寺派の寺となりました。
当時、和尚は芭蕉と親交があり、芭蕉をもてなした庵は芭蕉庵と名づけられました。
うき . . . 本文を読む
毘沙門堂
京都七福神の一つで、毘沙門天を本尊とする天台宗の門跡寺院。
奈良時代の大宝3年(703)、文武天皇の勅願で行基によって出雲路のあたりに
護法山出雲寺として創建されます。
度重なる戦乱により荒廃し、江戸初期に天海僧正により現在地に再興されたときに
門跡寺院となりました。
宸殿は
御所にあった後西天皇の旧殿を、その第6皇子一品公弁親王が拝領し、
元禄6年(1693)に移築しました。 . . . 本文を読む
諸羽神社
御祭神: 天児屋根命(あめのこやねのみこと)
天太玉命(あめのふとだまのみこと)
天孫降臨時の瓊瓊杵尊の左右補翼の神である天児屋根命と天太玉命を祀るところから、
両羽(もろは)大明神と称したといわれます。
貞観四年(862)、清和天皇の勅命でこの地に社殿を建てたのが始まりとされます。
境内には、
仁明天皇(在位:833~850年)の第4皇子であり、出家して山科で暮 . . . 本文を読む
南禅寺(HP)
臨済宗南禅寺派の大本山で、正式名称は瑞龍山大平興国南禅禅寺。
正応4年(1291)、宋から帰国した無関普門(むかんふもん、大明国師)を開山とし、
亀山天皇の離宮を禅林禅寺と改めたことに始まります。
2世南院国師の時に南禅寺と改めました。
室町時代は五山の上位に列せられる大寺院で、
当時最も傑出した禅僧が歴代住持として住山し
五山文学の中心地として栄えました。
歌舞 . . . 本文を読む
永観堂(HP)
正式名称は禅林寺。
平安時代に、空海(弘法大師)の弟子の真紹僧都によって真言密教の道場として創建され、
承暦時代頃(1077頃)に住職となった永観律師が
浄土念仏を唱えて専修念仏道場となります。
永観は貧しい病人に徳を施し、
そんな永観を慕い、いつしか永観堂と称されるようになりました。
紅葉にはまだ少々早かったようです
本尊は首を左に振り返る阿弥陀如来仏で「見返 . . . 本文を読む