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中島ブラザーズ ”弟”の「外で遊ぼう!」

近頃は日本海で、ヒラマサを追ってばかり。よって磯釣りや渓流釣りは休止状態ですが…。

三尾(さんび)訪問

2013-11-30 12:30:00 | 旅行
■高雄方面へ■

 秋の紅葉シーズンを迎え、観光客でごった返す京都。普段なら敬遠するのだが、どうしても歩きたいコースがあって向かうことになった。
 選んだコースのスタート地点は市内北西部にある高雄地区だったが、出発する前に、ここにある三つの寺院を訪問した。
 高雄にある三つの寺院、神護寺(じんごじ)、西明寺(さいみょうじ)、高山寺(こうざんじ)の総称を”三尾(さんび)”と呼び、それぞれの山号は順に高雄山(たかおさん)、槙尾山(まきおさん)栂尾山(とがのおさん)である。それぞれに由緒があるお寺であり、平安遷都前後からの歴史が刻まれている。
 いずれも紅葉期には絶景が展開するという評判だったので、期待を込めて阪急嵐山駅からバスに乗り、嵐山・高雄パークウェイに経由して現地へと向かった。

●高雄へは大勢の人が向かうようだった●

 バスの車窓からは、紅葉に染まる愛宕(あたご)山を始めとする景色が見え、40分という行程ながら飽きずに向かうことができた。

●終点バス亭では紅葉がお出迎え●

 終点のバス亭で降り、そのまま清滝川に降りる近道を通る。そこには7~8分まで色づいた紅葉風景が広がっていた。 

●全面紅葉ではなかったが…●


●赤~緑~黄色のグラデーションが美しい●


 河原へと降りる途中に、団子屋を発見。ここがなかなか旨く、下の一等地?にある店群よりも割安なことが有り難い。

●よもぎ団子を注文●


●高山寺手前、橋の上からの風景●


■高山寺へ■

 まずは一番奥にある、高山寺へと向かう。

●栂尾山の山号が刻まれた、参道入り口の石碑●

 高山寺は三尾の中では開創が一番古く、宝亀5年(774年)というから、「鳴くよ(794)ウグイス平安京」で覚えた平安遷都の年である794年よりも古い。
 開創時から幾度か荒廃した時期があって、建築物の建て替えは何度かあったようだ。そのため、古さを一番感じるのは、すり減って角が丸くなっている石段部分だった。

●金堂(本堂)へと向かう、石段●

 世界遺産にも登録されている割には、枯れ具合が進み過ぎているようにも感じるが、普通にここを訪れる一般人にとって一番興味があるのが、今の日本にも受け継がれている漫画の原点であるところの「鳥獣人物戯画(ちょうじゅうじんぶつぎが)」だろう。
 しかし、別に入館料がかかるうえ、展示されているのはレプリカということだったので、見ることを諦めた。

 
●全般に枯れた雰囲気が…●

 その他、日本最古の茶園もあって惹き付ける物があるが、後に他の二寺を見てしまった後からでは、印象が一番薄くなってしまうのは仕方がないことだろう。

■西明寺■

 高山寺を後にして西明寺へと向かう。

●西明寺参道入り口の指月(しげつ)橋と紅葉●

 西明寺は隣にある神護寺の別院として天長年間(824~834年)に創建されたのが始まりだと言われている。しかし、本堂は江戸期に建て替えられたということである。
 表現が正しいのかどうかは判らないが、“サラッ”と、質素な雰囲気の寺院であり、境内から本堂を眺めるよりも本堂から周囲を眺めた方が、どことなく風情が楽しめるような感じがあった。

●本堂脇の庭園●


●本堂から境内を眺める●


■神護寺■

 西明寺を後にして、三尾最後の寺院である神護寺へと向かった。実のところ、ここが今回のメインだった。

●神護寺に向かう途中での紅葉風景●

 参道に入ると、いきなりの石段続き。

●参道入り口●


 神護寺は和気氏が延暦年間(782~806年)に開いた高雄山寺を前進とする。以後、弘法大師空海が入山し、真言密教寺院となって以降に大きく発展したそうだ。

●境内の案内図●

 境内に入ると、他の二寺とは違って伽藍の大きさを感じる。そしてこのあたりでは紅葉の名所としても知られているだけに、色づいた、あるいは色づき始めた木々に目が行く。

●楼門をくぐったあたり●

 そして先に進むと右手に、京都の観光案内写真で見慣れた金堂に続く石段が見えてくる。

●京都では定番の紅葉スポット●

●振り返れば…●

 そして行き当たる金堂には、国宝の仏像である、薬師如来立像が納められている。この薬師如来様を事前にガイドブックで確認した際には、「元々白木であったのが、火災に見舞われたこと、一時は風雨にさらされるまで寺が荒廃したことと、そして経年によって、黒くすすけたような色合い」になっていたハズなのだが、実物を見ると明かりのとり方の影響か、何故か白木そのものの色合いに見えた。同行した妻も同意見で、そのことを寺院の関係者に尋ねたのだが、「手を加えていない。」と教えていただいた。
 何だか不思議な思いに駆られたが、「これこそが国宝たる所以」と勝手に解釈した次第だ。

●金堂脇●


 金堂を出て右側に回ると、「かわらけ投げ」という看板が目に入った。

●かわらけ投げ場横の紅葉●

 かわらけ投げは、落語「愛宕山」にも出てくるが、ここ神護寺でも行われていることを知らなかった。
 かわらけ投げとは、「素焼きの、杯のような直径7~8cmほどの器を断崖から投げて、厄をはらう」ことを指す。二枚セット百円だったので、妻と共々投げ入れておいた。

●一直線の杉●

 無事に厄災をはらい、神護寺を後にする。そして麓を流れる清滝川に降りると、そこから先がハイキングコースになる。次回はそこからの話だ。
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福井を巡る ~その2

2013-06-15 12:30:00 | 旅行
■一乗谷朝倉氏遺跡■

 永平寺を後にして向かったのは「一乗谷朝倉氏遺跡(いちじょうだにあさくらしいせき)」。ここはソフトバンク社のCMロケ地で使われたところなのだが、放映されていた当時は「何で一乗谷?」「こんなところ戦国&歴史マニアぐらいしか知らんやろ?」と思っていたのだが、とにかくそのおかげで以前から取り組まれていた遺構の発掘の進み具合がかなり進んでいることを知ったのが今回の訪問に至った理由である。

●往時の一乗谷全景図●

 遺構(遺跡?)自体は「果たしてどれくらいの人達が感動するのだろうか?」とも思う状態であったが、とにもかくにもここを訪れて思いに耽るためには、やはりここを支配していた朝倉氏の歴史を知っておく必要があるように思う。
 朝倉氏というのは戦国期に越前(福井県)一帯を支配した戦国大名家であり、ここ一乗谷はその本拠地であった。この街?の風情は、今で言うところの”小京都”のようだったと言えばイメージしてもらい易いかと思う。
 しかし、以前にも書いたが、歴史マニアの末席にかろうじて引っ掛かる位置に居るボクとしては、ここに来て思いを巡らせるのは朝倉氏自体よりも、ここを滅ぼし、焼き払った織田信長の大戦略の方になってしまう。その大戦略とは…。

●住民居住区のメインストリート●


■一乗谷の顛末■

 一乗谷の町並みが消え、遺跡となってしまった戦いにおける、そもそもの前哨戦は、滋賀県琵琶湖北東部の戦国大名、浅井長政の本拠である小谷城を3万人の織田信長(以後信長と略す)軍が取り囲んだところから始まる。
 これに対して浅井長政と同盟を組む越前の戦国大名、朝倉義景が、自ら2万の大軍を率いて救援に駆けつけるのだが、この時点で織田方の内部工作などによって重臣が寝返るなど、将兵の足並みは既に乱れていた。
 恐らく初めから信長は「出てきた朝倉を先に叩く」と考えていたらしく、小谷城への力攻めはせずに、進軍してきた朝倉方に挑発牽制を繰り返し、その出方をうかがっている。
 着陣後、朝倉方は砦を各所に築いているが、織田方も浅井方の小谷城と朝倉方の間にくさびを打ち込むように砦を築き、陣を敷いて浅井・朝倉の連携を絶つと同時に各個を包囲する体勢をとる。

●居住区の家々●

 そこに近江一帯を暴風雨が襲うという転機が訪れた。信長は暴風雨で朝倉方が油断していると判断して、自ら1000人程度の兵を率いて朝倉方の大嶽砦を急襲した。
 そして予想通り砦を守る朝倉方は虚を突かれて降伏する。普段の信長であれば、事後処理に際して苛烈な報復をすることもあるのだが、この場ではワザと兵を解放するという行動をとる。これは、本隊に逃げ込む敗残兵の影響で朝倉方が動揺し、恐れをなして撤退すると見込んだ信長の作戦だったのだ。そして念を入れるために信長は同様の手段で丁野城を襲い、ここでも守兵を解放している。
 撤退する側にとっての撤退戦はかなり難しい作戦とされ、逆に追撃する側の威力は絶大になるが、信長は自軍の優位性が最高潮になる、そのタイミングで一挙に朝倉方を襲おうというのである。
 軍議の席で信長は朝倉方の撤退を予言し、佐久間信盛、柴田勝家、滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀ら重臣が率いる精兵に準備を整えさせ、好機を待った。

●秀吉が寄進した物が移築されたという、唐門●

 そして予言通り朝倉方の撤退が始まった。
 その報を受けて信長は自ら陣頭指揮を行って朝倉方の追撃を開始した。そしてたちまち、朝倉方は大混乱に陥り、織田方の猛追の前に、皆殺しに近い状態となった。
 最初の砦が落ちてから二日間、織田方が徹底的に追撃した結果、朝倉方は総崩れになり、主立った武将と兵はほぼ全滅状態になる。そして朝倉義景は僅かな残兵と共に一乗谷へ帰還することとなった。

●居住区を俯瞰する●

 追撃戦の終了から二日間の休息を経て織田方は越前を侵攻し、一乗谷へと迫る。
 そして織田方は一乗谷の市街地を制圧し、ここを焼き払った。そして、京や大内氏(山口県)の文化を積極導入した姿は朝倉文化とも呼ばれ、最盛期は1万人もの人々で賑わう栄華を誇った街は灰となった。織田方の、朝倉方に対する最初の攻撃から僅か七日間の出来事だった。
 そして、それから更に二日後、落ち延びていた朝倉義景は結局自刃に至り、子や縁者は織田方によって処刑され、朝倉家は滅亡した。

●諏訪館跡庭園●

 このような一乗谷と朝倉家のあっけない結末は、常ならない世のはかなさを感じるが、それにしても織田信長という不世出の天才の、戦略眼の鋭さには恐れ入るばかりである。


■ソースカツ丼■

 さてさて、おまけのお話。福井名物についてである。
 福井名物と言えばソースカツ丼。かつ丼と言えばヨーロッパ軒ということになる。

●ヨーロッパ軒本店●

 ソースカツ丼は、ドイツでの料理留学を終えたヨーロッパ軒の創始者が大正2年の料理発表会で披露したのが始まりで、当初は現在の東京都新宿区で客に提供していた。しかし、関東大震災のために故郷の福井に戻っての再出発となって現在に至るのだそうだ。
 その味はウスターソースがベースの、秘伝のタレをくぐらせた薄めのカツが絶品で、他のどこかで味わうことの多い味とは全く別物であった。

●オリジナルのソースカツ丼(セット)●

 カツはサクサクで脂っこくなく仕上がっているから、結構「サラッ」と食べられてしまうので、量的に多く見えてもあっという間に胃袋に納まってしまった。
 「福井に来たらソースカツ丼を!」ボク的にこれは自信を持って言えることだ。
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福井を巡る ~その1

2013-06-08 12:30:00 | 旅行
■福井へ■

 ボクにとっては、鷹巣~玄達で沖釣りをする際に素通りすることがほとんどの福井市周辺。観光で訪れたのは東尋坊と越前海岸くらいのモノで、関西の隣県でありながら、あまり知らない。
 ある日、家族三人でぶらっと訪問できる観光地はないのか?と考えていた時にふと思いつき、訪問することに相成った。

■永平寺■

 妻の実家が曹洞宗(と言っても、熱心な信者ではないようだが)なので、その総本山の一つである永平寺をまずは目指した。
 永平寺は福井北インターから約15分で到着するほどの距離にあり、アプローチは近い。

●永平寺前にあった案内板●

 周囲には駐車場が多数あるのだが、当然ながら門前にあるものが一番近い。そこに到達するまでの各駐車場前では呼び込みが熱心なので、つい入ってしまいそうになるが、誘惑?に負けずに登り切ったことが正解だったようで、運良く門前の駐車場に残り後1台のところでギリギリ車を滑り込ませることができた。

●永平寺門前の様子●

 永平寺の伽藍は山の斜面に沿って展開されており、法堂やその他の施設が渡り廊下階段で連結されているから、靴を脱いだ状態で内部を巡ることになる。

●伽藍の全体図●


 一般の訪問者は、まず通用口の自販機で入場券を購入し、吉祥閣(きちじょうかく)という建物の中で、修行僧から寺の概要についての説明を受ける。そこから先はフリーで行動できるのだが、他の寺院に比べると写真撮影の自由度が高く、禁止されているのは場所によってはストロボ撮影と、全般には僧侶を直接撮ることのみということだ。
 曹洞宗の坐禅は「只管打坐(しかんたざ)」と言い、ただひたすらに坐るということ、それも九年間坐り続けた達磨大師のように、壁に向かって黙々と坐り続ける面壁座禅なので、伽藍内の構築物よりも、一人一人の個人の修行が重視されていることが、上記した「写真撮影に関する考え」に至った経緯なのか?と勘ぐってみた。

■傘松閣■

 自由行動に入ってすぐに到着するのが、傘松閣(さんしょうかく)という建物だ。ここには156畳敷の大広間があって、その天井には230枚の天上絵が描かれている。絵の題材?は花鳥が基本にになっているのだが、「鯉(こい)」「唐獅子(からじし)」が2枚ずつと「栗鼠(りす)」が1枚の計5枚が隠れていて、それを探し出して祈願すると、願いが叶うと言われているのだそうだ。
 禅宗であるこの寺とかけ離れたこの発想を不思議に思っていたが、この絵は平成14年の元禅師の750回大遠忌の記念事業の一環として平成5年から2年の歳月をかけて完成させたモノなのだそうだ。そういえば建物は鉄筋コンクリートであったことから、この願掛けも「さもありなん」の話だった。

●傘松閣の天井絵●



■七堂伽藍■

 傘松閣を出て更に進むと本来の回廊部に入る。この回廊で連結されている部分が、鎌倉時代中期からの構築物であるところの七つの堂宇「七堂伽藍」になる。

●回廊の階段部●

 回廊の中心部にあたる仏殿には釈迦牟尼仏とその左右に弥勒仏(みろくぶつ)阿弥陀仏(あみだぶつ)を祀っている。未来を現すのが弥勒仏で、過去が阿弥陀仏、そして現在を現すのが釈迦牟尼仏でその三尊を合わせて三世如来と呼ぶのだそうだ。(仏殿の写真は写し忘れていた…。)

 仏殿を過ぎて更に登り、最上部に到達したところにあるのが法堂(はっとう)になる。ここは修行僧に説法をする場所であり、法要儀式も行われているところでもあるそうだ。
 禅宗らしく質素な伽藍内では一番きらびやかとも言える装飾された内部の中央には藤原時代作の聖観世音菩薩が祀られている。

●法堂内部●

 法堂を過ぎ、七堂を巡り終えつつある頃、見下ろせば一番下にある山門が開いていた。
 吉祥閣の中で、修行僧からうけた最初の説明では、三門が開くのは法主であるところの禅師が出入りする際と、修行僧が入山する際の受け入れと、彼らが修行を終えた後に出てゆく際にのみだと聞いていただけに、珍しい光景なのかも知れない。

●開かれた三門●


 その三門の両側には魔物の進入を防ぐために四天王が祀られている。山門西側に置かれている「増長天(ぞうちょうてん)」は南方を、その横の「広目天(こうもくてん」は西方をそれぞれ守護し、山門東側に置かれている「多聞天(たもんてん)」は北方を「持国天(じこくてん)」は東方をそれぞれ守護しているという、意味合いがあるそうだ。
 塗りが鮮やかだけに三門との調和が取れておらず、違和感があったので調べてみると平成に入ってから修復されたのだそうだ。

●増長天(左)と広目天(右)●


●多聞天(左)と持国天(右)●


■寂光苑■

 伽藍を出て寂光苑(じゃっこうえん)という庭園へと足を伸ばす。このあたりは昭和~平成にかけて開発?された区域であるだけに、それぞれが新しく、風格と言った空気感は感じない。
 この中で一番目を引くのが、玲瓏の滝(れいろうのたき)なのだが、これも人工物であるそうで、そういった意味では寂光苑全体が伽藍との時代差がありすぎて別物のような雰囲気があった。

●玲瓏の滝●

 しかし、考えてみれば、これら新規の構築物等々が徐々に整備されているのは、檀家や地元民に支えられている証である。京都、奈良以外では予算が足りないのか、傷んでいるのを放置しているかのような寺があるだけに、人々から愛され?恵まれているのがよく判る寺であった。

 
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広隆寺へ

2013-03-16 12:30:00 | 旅行
■広隆寺■

 今回は広隆寺を訪問した。この寺は太秦という地区にある。太秦と言えば「映画村」とイメージする人が多いとは思うが、この広隆寺はその映画村の隣にある。
 広隆寺は京都市内に数ある寺院の中でも平安京遷都以前から存在する最古の寺院であり、それが言わば、俗なモノと隣り合わせるコントラストの差が現代京都の面白さ?だ。

●太秦廣隆寺とある●

 三門をくぐり、境内へと入る。すると、これまでに訪問したどの寺よりも歴史の古さを嫌が上でも感じることになる。 

●三門●

 そう感じるのは正面に見える、重要文化財の講堂のためだ。この講堂は洛内に於いて平安時代から残る唯一の存在だそうだ。正確には痛みが激しく、永禄年間(織田信長が将軍足利義昭を奉じて上洛した頃)に大改造を受けているが、それでも様式等は踏襲されているそうだ。平安京であるにも関わらず、平安時代の建築がほとんど残っていないことについては、ここを訪問するまでは全く知ら無かったのだが、それが意外であった。

●国宝の阿弥陀如来坐像が納まる講堂●


 講堂を越えると、通常の寺院では本堂に相当する上宮王院があってそこに本尊の聖徳太子像が納められている。ただし、この広隆寺は中国から渡来し、帰化した秦氏の氏寺であったのを始めに、蜂岡寺→広隆寺と名称が変わったように、本尊も弥勒菩薩→薬師如来と変わり、最終的に聖徳太子と変遷してきたそうだ。

●本尊の聖徳太子立像が納まる上宮王院●

 本堂を越えた先にあるのが、霊宝殿だが、訪問の最大のお目当てとなる、弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしゆいぞう)がここに納められている。この像は国宝第一号に指定され、世界的にも有名だ。
 弥勒菩薩とは、お釈迦様の入滅後、56億7千万年後の未来に姿を現れて、多くの人々を救済するとされる菩薩様のことだ。その菩薩様が半跏思惟の姿勢をとることは、一説によると、救済について深い思索をめぐらしているということになるのだそうだが、その柔和で優しく、微笑みかけているかのような表情を眺めていると、「我々人間の将来も捨てたモノではないのかな?。」と、つい嬉しく思ってしまうし、優しさと言うべきか、慈悲と言うべきか、そんなモノに包まれた気分になるから不思議だ。

●弥勒菩薩半跏思惟像(パンフレットより) ●


 霊宝殿を出ると、その横にあるショウケースには「十善戒」という、戒めが掲示されている。そこには
 不殺生(ふせっしょう) 故意に生き物を殺しません。
 不偸盗(ふちゅうとう) ものを盗みません。
 不邪淫(ふじゃいん) みだらな男女の関係をしません。
 不妄語(ふもうご) うそいつわりを言いません。
 不綺語(ふきご) たわごとを言いません。
 不悪口(ふあっく) 人の悪口を言いません。
 不両舌(ふりょうぜつ) 二枚舌をつかいません。
 不慳貪(ふけんどん) ものを慳み(おしみ)貪りません。
 不瞋恚(ふしんに) いかり憎むことをしません。
 不邪見(ふじゃけん) 間違った考え方をしません。
と、書かれている。

●十善戒●

 戒めを前に、己の「生臭さ」を反省しつつ、広隆寺を後にした。
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妙心寺

2013-02-23 12:30:00 | 旅行
■妙心寺へ■

 今回は京都市右京区にある妙心寺を訪問した。
 ここは臨済宗の中でも最大の宗派だそうで、その実、寺域はかなり広く、塔頭の数もかなり多い。創立者は花園天皇で、創建は1342年だそうだ。

●広大な境内の案内図●

 境内の中心部はフラットだが、三門をくぐって真っ直ぐに歩くことは叶わず、左手に三門、仏殿、法堂、大方丈と横に見ながら奥へと進んでいくことになる。

●三門●

●仏殿と法堂●

 ここを訪問したかった一番の理由は法堂の天井に描かれた狩野探幽筆の雲龍図が見たかったからだが、これを拝観するには案内係の先導がある。一定の時間単位での案内になるので、それまでの間、大方丈を覗いてみる。ここの前庭には勅使門があって、白い盛砂が二つある。これについては以前に勉強したが、これもまた清めの意図だろう。

●大方丈の勅使門と盛砂●

 時間が来て、ついに法堂内部に入る。入ってすぐに解説が始まる。見上げるとそこにはお目当ての龍図があった。この龍図の直径は12mで、8年の歳月を要して描きあげたとされるが、一度立てかけて描いた物を天井に張ったそうだ。龍の目は中心付近に描かれるが、見る角度によって、その表情が変化することから「八方にらみの龍」と呼ばれているそうだ。また、立ち位置によっては下から昇ってくるように見えたり、上から降りてくるようにも見える。

●内部は撮影禁止につき、パンフレットからの撮影●

 雲龍図は重要文化財だが、法堂内にはそれよりもランクが上の国宝が納められている。これについては全く予備知識がなかったので、驚いたが、年号が刻まれた中では現存最古(698年)の梵鐘が納められているのだ。この梵鐘、実は昭和48年までは実際につかれていたそうで、NHKの、行く年来る年での”梵鐘リレー”では最初の一つき目がこの梵鐘だったそうだ。しかし、これ以上つくと割れが出る可能性があることから、この法堂内に納められているということだった。そしてここではその梵鐘を眺めながら、録音された音を確認するだけにとどまるのだが、それでも、深みのあるその音は悠久を偲ぶに足るものであった。


■経蔵■

 常時公開部とは別に、800もの引き出しに6524巻の経典を納めた八角形の回転式の経庫が設置されている、経蔵が特別公開されていた。(3月18日まで)回転式になっているのはチベット仏教などでお馴染みのマニ車(摩尼車)と同じ意味合いだそうで、一回転させると全巻を読んだことと同義になり、回転させた数だけ功徳があるとされているそうだ。

●ここも内部は撮影不可●


■退蔵院■

 妙心寺の数多くある塔頭の中でも、常時公開されて見所とされているのが退蔵院(たいぞういん)で、境内入り口の案内所でも”お薦め”と教えていただいていた。
 内部には水墨としては初期(室町時代)に画かれた国宝の瓢鮎図(ひょうねんず)があったそうだが、本物は京都国立博物館に所蔵されていて、実際に見られるのは模写、それも無造作に置かれていることから、ここでの見所は庭園になる。
 中でも室町時代の画家である狩野元信の作と伝わる枯山水庭園は元信の庭と呼ばれているが、一般に絵師による造園は珍しいようで、そのせいか、通常の枯山水庭園よりもカラフルな印象がある。

●元信の庭●


 元信の庭を過ぎて奥へ進むと、そこには余香苑(よこうえん)という庭に出る。

●余香苑●


 ここは昭和の小堀遠州と称された造園家、中根金作氏が設計し、1963年から3年をかけて完成した庭だ。その入り口には小道を挟んで枯山水様式の陽の庭と陰の庭とが対となって配置されている。

●白砂の陽の庭●


●黒砂の陰の庭●


 余香苑はその意図するところと配置が巧みで、冬枯れの時期なのに色があって楽しめる素晴らしい庭だった。しかし、上述したように、これは昭和の作でボクとほとんど同い年になる。ということはそれ以前は違っていたハズで、それはどんな庭だったのだろうか?。そのことが気になって仕方がない。チョッと調べてみたくなった。



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龍安寺界隈

2013-02-16 12:30:00 | 旅行
■衣笠方面へ■

 釣りに行けない日の京都巡りは続いているが、今回は京都市街の北西部にある衣笠方面へと向かった。
 この一帯では修学旅行等でお馴染みの金閣寺(鹿苑寺)が超有名どころだけれど、そこに行ってはあまりにベタなので、そこから南西方向へと僅かに下ったところにある、龍安寺(りょうあんじ)を訪問することになった。

●衣笠に来ると、正面に見える大文字山●


■権太呂■

 この日も到着がお昼になったので、とりあえずは腹ごしらえとばかり、京都ではよく知られている麺処の一つである、権太呂(ごんたろう)金閣寺店に入った。前回の「銀閣寺前で”おめん”」に引き続き「金閣寺で”権太呂”」と相成ったワケだ。

●権太呂金閣寺店●

 店内の席について、メニューの中の覗いている内に、つい目に入ったのが「たいたん」と言う表現だった。「たいたん」を標準語的に記せば「煮物」ということになる。関西で煮ることをご飯と同じように「炊く」と言う。落語家の大喜利ネタのように「たいたもの」→「たいたん」と変化して現在に至るのだが、この言葉は同じ関西人でも昭和生まれ世代しか理解できないと思うし、たとえその世代であっても今や使うことはほとんどない言葉=死語に近い状態だ。

●「たいたん」が並ぶメニュー●

 それがこの京都ではごく当たり前のように、メニューに書かれていることに変に感心していたのだが、結局はボクが鶏なんばそばを、妻が湯葉あんかけそばを注文する。

●鶏なんばそば(セットメニュー)●

 権太呂のそばは、そば粉100%ではなく、山芋がブレンドされ、恐らく小麦粉も多く入っているのであろう。この食感は昔から小麦文化のある関西で受け継がれてきたタイプであって、そばの香りがプ~ンと漂い、それを硬めの喉越し感で味わう感じではないが、それが関西人にとってはどこか懐かしく、「あ~、これこれ」と思わせるモノであった。また、ダシは秀逸であり、それだけを飲んでも幸せになるような味わいだった。

 そして、権太呂を後にすると、龍安寺へと向かう。

■龍安寺■

 龍安寺は山号を大雲山と称する臨済宗の禅宗寺院で釈迦如来を本尊としている。創建者は細川勝元だから、開山は応仁の乱に近い時代になる。そしてその応仁の乱によって創建僅か十数年後に焼失したが、その子細川政元が再興した後は、豊臣秀吉と江戸幕府の庇護を受けて現在に至るそうだ。

●境内図●

 寺の南側に境内面積の三分の一以上を占める鏡容池(きょうようち)があって、それを取り囲むような回遊式庭園が展開されているのだが、訪問時は冬枯れの真っ最中だったため、彩りの数が少なく、殺風景の一歩手前の状態だった。しかし、桜や新緑の春、紅葉の秋、はたまた降雪時には絶景になることは間違いはなく、そのタイミングに訪れたくなる大きな庭園だった。

●盛期には「さぞや」の庭園●


■石庭■

 龍安寺を世に知らしめるものとして、上述の回遊式庭園の他に「龍安寺の石庭」と称される方丈庭園がある。この石庭は世界的に有名であるそうだが、これはイギリスのエリザベス女王が日本を公式訪問した際に、ここを自ら希望して見学し、絶賛したことに由来するそうだ。

●石庭のミニチュア●

 禅宗寺院の方丈庭園なので「枯山水」であることは当然として、大海を表現する白砂の上に浮かぶ石は山や島を現す基本ルールもその様式に沿ったモノだが、その石がこの庭では15個配置されている。そして、石は庭のどの位置から見ても一つが隠れてしまい、全てが見通せないとされているのだが、一説では「部屋の中からであれば、全てが見える位置が一箇所だけある」というのもあって、それぞれでこの庭に対する解釈が違って論議を呼んでいるそうだ。

●この角度でも全てを見通せない●


■知足のつくばい■

 方丈内、石庭の反対には有名な「知足のつくばい(蹲踞)」が置いてある。つくばいとは茶席で身を清めるための水を溜める石製の鉢(=手水鉢=ちょうずばち)を指すが、このつくばいは、かの水戸光圀(水戸黄門!)が寄進したと言われている。

●この”つくばい”はレプリカ●

 つくばいに刻まれた文字は真ん中をへんやつくり等の”口”として、上から時計回りに読むと「吾(われ)」「唯(ただ)」「足(たる)」「知(しる)」=「吾れ唯だ足るを知る」となる。つまりは「欲を張らず、現状に感謝しろ」ということなのだろう。これは石庭の「どこから見ても石の全て(15)は見えない」というところから来たという説もあるそうだが、定かではない。
 しかし、このつくばいを眺めつつも、凡人であるボクなんかがその意図する境地には至ることは残念ながら不可能のような気がしていた。よくよく考えてみれば、これは光圀公のような一度は100%近くに上り詰めたことのある人にとっての「下り」の80~90%あたりであるような気がする。ボクのように「上り」の80%に届くのかどうかすら判らない人間にとっては、届くことはなくても、遙かな頂の100%を目指して邁進することが日々の努めであり、それがあるからこその自身の向上であるように思えた。

●拡大すると…●


 作家の司馬遼太郎氏は講演の中で「禅の道は厳しく、達人でなければ境地に至らない」との言葉を遺している。まさしくその通りだと思うのだが、たとえ煩悩にまみれたボクであっても、庭や絵画、その他を通じてその精神に触れることによって頭の中でグルグルと思いが駆け巡るところが心地良い。だが、そんなことをつい考えさせられてしまうのが禅の一つの意味であるのかも知れず、こうして稚拙な禅問答は始まり、続くのである。
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哲学の道をぶらぶらと

2013-02-02 12:30:00 | 旅行
■哲学の道■

 哲学の道とは琵琶湖疏水沿いに続く小道の若王子神社付近から銀閣寺(慈照寺)までの間を指し、春の桜の開花期と秋の紅葉期にはたくさんの観光客がこの道沿いを散策するそうだ。


●スタート地点は銀閣寺界隈●

 全長は1.8kmなので、往復+寄り道をすれば4km以上になるので、半日掛けるのが丁度良い時間配分になる。
 冬型の季節風が強まって、この日も釣行が中止になったことを受けて、妻と二人でこの界隈をぶらり散策に出かけることになった。

●石畳の小道が1.8km続く●


■麵処■

 上述したように昼からの半日コースだったので、まずは北側からのスタート地点である、銀閣寺近くの「名代 おめん」で昼食をとることにした。
 京都市内とニューヨークにある「おめん」の本店がここで、ファンも多いと聞く。

●おめん 銀閣寺本店●

 メニューはうどん、それもつけ麺タイプがメインになっている。

●冬のメニュー●

 京都名物も多々あるが、その一つに鯖寿司がある。その昔、現在の福井県小浜市から塩で締めたサバを背負った行商人達がこの京都にやってきて商いを行っていた。その彼らが通った道が鯖街道と呼ばれ、その道沿いにも鯖寿司を売る店が点在しているが、超有名店の”いづう”も東山区(祇園)にあることから、どちらかと言えば街道の延長である京都の東側に広がっているように思える。ここ、おめんも京都の同様の立地にあるせいか、鯖寿司がメニューにあって、それとのセットを夫婦共々注文する。
 
●おめんと鯖寿司とのセット●

 近頃ブームの讃岐うどんばかりを食べていたせいか、正反対の柔らかで優しい食感とツルッとスムースな喉越しの麺を上品な味わいのダシに浸けて食べるスタイルは、「これぞ京うどん」と思わせる物であった。
 また、ここ独自の、きんぴらごぼうを始めとする野菜系の薬味と、オリジナル・スパイスの”七味+1”の八味を始めとする和風スパイスを組み合わせて味に変化をつけるスタイルは、初めての経験であり、新鮮であった。

●ジャパニーズ・スパイスの数々●



■法然院■

 ”おめん”を満喫した後は、哲学の道を南下する。そして途中の法然院(ほうねんいん)に立ち寄るため、標識に従い、左折して境内を目指す。

●法然院の三門(山門)●

 法然院と言うだけに、浄土宗系の寺院だが、その見所は三門下にある盛砂=白砂壇(びゃくさだん)だろう。白砂壇は水を表すということだ。従ってここを訪れる者は、空門・無相門・無願門の三境地を経て仏国土に至るという三門をくぐり、白砂壇の間を通ることで心身共に清めた後に浄域に入ることになる。

●白砂壇(びゃくさだん)●

 質素かつこぢんまりとしていながら、品のある境内は好感の持てるモノで、ここに谷崎潤一郎を始めとする著名な学者や文人の墓があるのも頷けるような気がする。


■熊野若王子神社■

 法然院を後にして再び哲学の道を南下する。途中、小洒落た店や京都らしい茶店タイプの喫茶店が点在するが、思ったほどには店数は多くはなく、自作の絵画や絵はがきを売る人が居たりで、そのことが「哲学の道」の雰囲気を逆に醸し出しているようにも思える。
 そして、最終地点にあるのが熊野若王子(くまのにゃっこうじ)神社だ。
 ここは京都発の熊野詣の際に起点となるところで、古人はここで身を清めてから、はるばる紀伊の熊野までの参詣に出立していたそうだ。

●熊野若王子神社(くまのにゃっこうじじんじゃ)●


■永観堂へ■

 熊野若王子神社の前で哲学の道が終わり、南西方向へ少し降りてゆくと、永観堂がある。

●永観堂●

 この寺は禅林寺永観堂というのが正式名称だが、”禅”の文字が入るので、予備知識を持たずに訪問したため、禅寺か?とも一瞬思ったが、浄土宗の寺院だった。したがって、ご本尊は阿弥陀様ということなる。そしてここの境内は秋の紅葉の美しさで全国に知られている。

●秋の紅葉時の写真が載るパンフレット●

 御堂の数も多く、内部には長谷川等伯の襖絵などもあって見る者を飽きさせない。
 面白かったのは天皇の使いが出入りするときに使われた勅使門だった。法然院と同じように白砂が釈迦堂との間に盛られているのだが、こちらは一山しか無いのだ。解説を読むと、勅使はこれを踏んで身を清めてから、中に進んんだそうだから、”清める”という意味は同じでも使い方は違うのだ。

●勅使門と盛砂●


 回廊状になった内部を進み、やがて本堂へと到達する。ここには珍しい「みかえり阿弥陀さま」と呼ばれる阿弥陀様が納められている。勿論、像を含めた内部は撮影不可になっているので写真はないが、その周囲を気遣うかのようなお姿はやさしく、見る者に安らぎを与えてくれる。

●本堂前の柱部の装飾●

 本堂から、元来た通路を一旦下り、開山堂へと向かう。その間をつなぐ階段状の廊下は臥龍廊(がりゅうろう)と呼ばれるが、その姿はまさしく”龍が如く”であった。

●臥龍廊●

 各御堂を巡った後は、一旦外へ出て多宝塔を目指す。 

●多宝塔●

 多宝塔からは真正極楽寺あたりから東山方面を見渡すことができる。

●多宝塔からの風景●

 これで境内を一通り巡り終えたが、人の少ない今はゆっくりと境内の襖絵や仏像を見ることができる反面、景観は紅葉期のようには行かず、庭の木々は冬枯れの“わびさび”の永観堂だった。

 境内を出ると少し時間があったので、南禅寺の境内を歩いた後に、来た道を引き返すことにした。

■よーじやカフェ■

 哲学の道を北上し、往路でチェックしておいた「よーじやカフェ」で休憩することにした。

●お馴染みのよーじやのロゴが描かれた看板●


 よーじやと言えば舞妓はん御用達の”あぶらとり紙”が超有名だが、最近ではカフェ事業に力を入れているようだ。京都市内の「ここぞ」といった観光名所の他、羽田空港にまで進出しているが、ホームページで確認する限りこの銀閣寺店が一番和情緒にあふれ、最も京都らしく思える。恐らくこの店は民家を改築しているらしく、当然と言えば当然だ。
 ドリンク類やケーキは結構なお値段だったのだが、その味わいはそれだけの価値があるものだった。

●2階の様子と抹茶カプチーノ●


●2階からの眺め(奥によーじやの店がある)●


 紅葉期には「さぞや」と想像できるこの界隈。人混みになるのは間違いないだろうが、それが解っていても、いつしかその時期に訪問したくなる「感じのイイ」ロケーションだった。
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丹波紅葉三山+1

2012-11-24 12:30:00 | 旅行
■丹波紅葉三山へ■

 秋に入って以降、釣果が好調な日本海側の釣り船に何度も予約を入れていたのだが、初秋は週末を狙ったかのように台風が近付き、中秋以降、それが収まったかと思えば今度は冬型気圧配置となって、シケが続いて出船中止が相次いでいた。だから、ここ3ヶ月で2回しか竿を出していない。
 しかし、冬型であれば近畿中部以南では大概晴れになることが多いので、ただ家でジッとしているのももったいなく、週末ごとに日帰り小旅行を繰り返しているが、今回は前回の丹波地方への小旅行記事で触れていた、丹波三山へ向かった。この三山は別名「丹波紅葉三山」とも呼ばれるだけあって、紅葉の名所であるらしい。まさに晩秋の、「紅葉真っ盛り」を期待しての訪問になった。

■高源寺■

 今回訪問した三山の中で最北に位置する高源寺へと、まずは車を走らせた。しかし、いくら冬型とはいえ、北に行けば行くほどこの時期は天気が悪くなるわけで、舞鶴若狭道を走っていると、その様子は刻一刻と手に取るように判る。そして、春日インターチェンジから春日和田山道に入った頃からは明確に雨模様となった。
 そして、高源寺に到着するが、文字通り「足下の悪い中」での参拝になった。

 京都、滋賀その他にある、大寺院以外へ行くことは、これまでほとんど無かったのだが、この高源寺は規模が大きく、伽藍として一通りの施設が整っていることは意外だった。

●境内の略図●

 まずは惣門をくぐって奥へと向かう。

●惣門●

 前日来の雨に打たれ、散っているモミジの量が多くて心配されたが、奥へ向かうごとに色彩が増えてゆく。そして、多宝塔を見上げる位置まで来ると、素晴らしい景観が広がっていた。

●高源寺、多宝塔前に広がる紅葉風景●

 ガスがかかり気味、「散り初めし」という状態とが重なって、極彩色と言うほどではなかったのが残念だったが、それでも満足できる状態だった。


■園通寺■

 次なるは園通寺。高源寺からだと10分ほど車を走らせた位置にあるのだが、いかんせん駐車場が狭いため、近くに到達してから駐車場に入るまで、約30分の待ち時間があった。
 しかし、待った甲斐はあった。北向きに開ける高源寺に対してこちらは南向きのせいか、幾分遅く紅葉が始まっているようで、状態はこちらの方が良かったのだ。

●パンフレット●

 参道から色づいた木々が左右から迫り、高源寺で見た物よりも間近で見られるせいか、迫力すら感じる。中でも池の畔の景観は素晴らしかった。

●池の畔●

 規模は小さく、こぢんまりとした寺院だが、それが何となくキュートな雰囲気を醸し出していてなかなか好印象だった。

●落ち葉もまた美しい●


●境内の紅葉●


■石龕寺■

 園通寺を後にして向かったのは、石龕寺(せきがんじ)だった。ここへは、駐車場待ちによる渋滞防止のため、下部にあるJA関連の駐車場その他から出る、シャトルバスによるアプローチに限られている。
 他の二山とは少し離れた一番南に位置するだけに、ここも参道から紅葉はベストに近い状態であった。

●参道の様子●

●見上げても真っ赤●


 中でも、惣門をくぐったあたりの紅葉は見事だった。

●仁王門を抜けてすぐの紅葉●

 奥へ進むと更に密度が高まって紅葉感(?)はピークへと向かうのだが、少しばかり問題があった。
 実はこの石龕寺、室町将軍足利家、それも二代将軍義詮(よしあきら)に縁があるということなので、その解説が仁王門横にある大スピーカーから発せられるのだが、それのみならまだしも、そのBGMが”ド演歌調”のテーマソングであり、これが解説の終了と共に音量が増すのだ。その耳について離れないような曲調に乗って流れる珍妙な歌詞「よ~し~あ~き~ら~」は、大音響となって谷にこだまし、紅葉見物の雰囲気には全くそぐわない。

●本殿界隈の一角●

 残念な雰囲気の中、境内を巡り、その後山を下ったが、少し時間が余ったので、篠山方面にある、気になっていたもう一寺を訪ねることにした。


■+1の、洞光寺■

 篠山市内を抜け、しばらく東へ走ったところにあるのが、洞光寺(とうこうじ)という寺だ。
 時間は夕暮れに近くなっていたが、なんとか滑り込みで境内に入ることができた。

●中華風の惣門●

 惣門をくぐった後、目に飛び込んできたのが、これまでの人生で見た中では一番の紅葉風景だった。

●池畔の見事な紅葉●

 その、あまりの美しさに立ち尽くし、驚きと共に、ただただ見入るばかりであった。
 しばし呆然とした後、境内奥へと進む。この寺では訪ねたタイミングが良かったのか、落ち葉までもが美しい。

●切り株に落ち葉●

 残り福とはよく言った物で、時間が余ったついでに立ち寄った寺が、こんなに美しいとは思ってもみなかった。こぢんまりとした境内を隈無く散策し、あれこれ迷った挙げ句、最適の構図を探し出して、そこで納得の写真を撮影する。

●当日のベストショット●

 そして、その後は、見飽きるまで眺めを堪能して、この寺を後にした。


■三山+1を巡って■

 今まで、紅葉見物と言えば、誰もが知る「京都・滋賀・奈良」に向かうことが多かった。当然、そういったメジャー処は紅葉がピークになると、全国から押し寄せる観光客で大混雑は避けられない。そのため、「まだ早い」とは判っていても、ボクら夫婦は、言わば先取りして見ていたのだが、丹波路の古刹はそういった混雑感もなく、快適に鑑賞することができた。勿論、訪問当日は朝から時折パラつく雨模様の天気の影響があったかも知れないが、それでも京都市内などの有名どころと比較すれば雲泥の差だと思う。いずれにせよ「穴場か?」と人に聞かれれば、「その部類に入ると思う。」と応えるほどの人出でしかなかった。 
 大伽藍ではない分、一寺あたりで見る箇所は少ないが、参拝時間が掛からないことを逆利用して数を稼げば、それぞれの作りに違いを感じて楽しめる、そんな丹波路の寺院群であった。
 尚、今回訪問した四寺では、まだ青い葉が一部に残っていたから、12月初旬までなら鑑賞可能のように思えた。勿論これは素人判断なので、出発前の確認が必要になるが、もし散っていないとすれば、どなたにもお薦めしたい紅葉スポットだ。
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丹波路へ

2012-11-17 12:30:00 | 旅行
■丹波路へ■

 関西周辺では近年、秋になると枝ごと切り取られて花束のような状態で袋に入れられた、丹波産の黒豆をチョっとしたギフトなんかでもらう機会が増えている。もらった方は、これをサヤごとゆでてビールのつまみとしては定番の「枝豆」にしていただくのが最高なのだが、まだそんなにメジャーではなかった頃は、黒豆故に外から見るとサヤが黒ずんでいるから、「せっかくもらったんだけど、傷んでた」と、知らずに捨てた人が居たという、笑い話があったことが今では懐かしい。
 そんな黒豆が届き始めると、秋が深まりつつあることを感じるのだが、今年もそんな日があって、ふとしたイメージの連鎖から妻と二人で「丹波へ行こう」と思いついた次第である。

■篠山城趾■

 ボクを含めた兵庫県民の多くにとって、「丹波」と言って、まず始めに思い浮かべるのは、丹波篠山という町になると思う。まず最初は丹波旅行では定番の、この町を訪問した。
 篠山は篠山城の城下町として発展してきたそうだが、まずはその中心の篠山城趾から散策を開始した。

●篠山城趾の正面●


 この城の築城に竣工したのは1609年。その頃は徳川氏が政権を握ってはいたものの、まだ豊臣氏は秀頼の代ではあるが、健在だ。したがって、まだ情勢に不安要素があったためにその備えとして、徳川家の血筋である松平康重をこの地に移し、その命によって築城が開始されたという。
 縄張は藤堂高虎という、言わば当時の「城郭設計のトップ中のトップ」が担当し、普請総奉行を池田輝政っという、言わば「土木建築の大手」が務めたというから、構え自体は本格的なものだが、実際には乗せるための台は予め作られていたものの、天守閣は築かれなかったそうだ。
 以後明治維新後に大半が取り壊されるまで戦闘ではなく、治世のための城として使用されていたそうだ。
 昭和に入っても、大書院だけは残っていたのだが、これも失火により焼失している。だから、城郭内に現存するのは、再建された大書院ということになる。

●再建された大書院●

 訪問時は、まだ紅葉が始まったばかりの頃であり、もみじのみが色づき始めていた状態であったが、それでもグラデーションがついていて、これはこれで見事だった。

●書院裏のもみじ●


●落葉も、また綺麗●

 城郭内を散策し終えたあとは、城下の町をぶらぶらと歩いた。ここでは、旬の栗を使った菓子類、黒豆入りのソフトクリームなど、色々とあったが、秀逸は「栗おはぎ」であった。


■丹波ワイン■

 ”丹波地方”は、兵庫県だけではなく京都府にもまたがっていて、次に向かった”丹波ワイン”は京都府下にある。ワイナリーは、いわゆる山陰道の、国道9号線からほんの少し入ったところにあり、これで2回目の訪問になる。

●国道9号線に掲げられている、看板●

●店舗入り口●


 訪問時は丁度”ヌーボー”の発売時期に重なっていて、それを大々的に勧めていた。

●ヌーボーがズラリと並ぶ●

 店内に入ると、とりあえず取扱種類、在庫状況などを確認してまわる。
●ノンアルコール・ワインもある●

 一通り確認を終えると、テイスティング係の妻に託しての試飲が始まった。
 定番のシャルドネは残念ながら、高級タイプしか在庫がなく、チョイかじりワイン愛好家のウチでは予算外だったが、ちゃっかり試飲だけは済ませ、次に移行。数点を試飲し、あれこれ迷ったあげく、結局”丹波ワイン・ヌーボー2012”の白を購入する。

●丹波ワイン・ヌーボー2012”の白●

 自宅に帰って、ようやくボクもテイスティングに参加。やや甘めながらスッキリした味わいに、ほんのり樽の香りが漂う味を堪能した。ヌーボーだから安いのだが、税込¥1000でこの味なら高得点だと思う。


■奥深い丹波路■

 今まで丹波と言えば、日本海に抜ける際の、「立ち寄り地点」としての認識しかボクにはなく、ここだけを巡ったという経験はなかった。しかし、今回の日帰り小旅行をきっかけに、この地を調べてゆくと、丹波三山と呼ばれる高源寺・円通寺・石龕寺の三寺は伽藍も大きく紅葉で有名らしいし、その他にも訪ね歩きたい場所が結構ピックアップできた。今後の訪問が楽しみな丹波路だった。
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塩尻ワイナリー巡り

2012-09-29 12:30:00 | 旅行
■ワイナリー巡り■

 特にワイン通というわけではないが、旅行先の各地にあるワイナリーを巡ることは我が家の旅行では定番になりつつある。もっとも旅行中の試飲はテイスティング担当の妻に任せ、ボクは彼女の説明を聞きながら、想像を膨らませているだけだが…。
 とにかく、帰宅後に味わうワインは、今では旅行の締めくくりのようになっているのだが、今回、秋の連休利用で長野県安曇野を旅行した際には、塩尻市周辺にあるワイナリー群を訪問した。


■塩尻周辺■

 塩尻市街を抜けると、ブドウ畑が国道19号線沿いに広がっている。

●国道19号線沿いのブドウ園●


 この一帯を「桔梗ヶ原(ききょうがはら)」と呼び、ワイン用ブドウの一大産地ということらしいが、交通量の多い国道や幹線道路沿いにブドウの実がなる畑が光景はミスマッチというか、意外な光景だった。

●信号待ちで左を見れば、ブドウの実が…●


■三大ワイナリー■

 桔梗ヶ原周辺には、調べた限りでは七箇所のワイナリーがあるそうだが、この地のみの生産で、有名どころとなると、「井筒」「五一」「信濃」の、「三大ワイナリー」と呼ばれる三社が一般的に知られているようだ。
 あれこれ行っても、試飲担当が酔いつぶれてしまってはテイスティングどころではない。そこで、今回はその三大ワイナリーのみに絞って、国道から近い順に訪問してゆくことになった。


■井筒ワイン■

 まず最初は「井筒ワイン」から。

●井筒ワイン●

●地下の貯蔵施設●

 工場見学はせず、地下の貯蔵庫をのぞき見ただけで試飲場へと移動する。ここの試飲は、店員さんがそばに付かず、各自が冷蔵ケース内のワインを取り出してカップに注いで飲んでゆく方式だ。その為「飲み過ぎ注意」だが、皆さんあれこれ結構飲んでいられるようで、運転担当のボクとしては羨ましい限りだった。しかし、ここに”大阪のオバハン連中”が来た際には大混乱が予想されるので、彼女?らに知れ渡らないことを祈っておこう。

●試飲場(セルフ)●


 結局ここで妻は2011年モノのコンコード(赤)を選択した。

●購入した「コンコード(赤)2011年」●


■五一ワイン■

 続いて「五一ワイン」へと向かう。と言っても、井筒ワインとは道路を挟んで斜め向かいの位置にあるので、徒歩で1分ほどだ。

●五一ワイン●

 ここの試飲場は、店員さんに依頼して注いでもらうスタイルになっている。従って、あらかじめ「お勧め品を」であるとか、「甘めを」であるとかの希望と予算を伝えておくのがよいと思う。

●試飲は、店員さんに依頼する●


 ここでのセレクトは「塩尻セイベル9110」という白ワインだった。

●購入した「塩尻セイベル9110」●


■信濃ワイン■

 井筒ワインと五一ワインがある丘状の一帯から、谷へ降りた位置にあるのが「信濃ワイン」だ。

●信濃ワイン●

 ここは、家で何度か見たことがある、BSフジのTV番組「辰巳琢郎のワイン番組」http://www.bsfuji.tv/tatsumi/の来訪があったワイナリーで、その際のパネルが飾られていた。

●取材時の写真パネル●

 ここでも試飲は、店員さんに依頼して注いでもらうスタイルになっている。

●店内の様子●

 結局、ここでセレクトしたのは「秋薫るナイアガラ」という、白ワインだった。

●購入した「秋薫るナイアガラ(中央)」●


 これで、塩尻の三大ワイナリーを巡り終えたワケだが、この一帯の、ワインの共通した印象は、スッキリ系が多いということだった。もっともこれは、我が家の選ぶワインが、白の代表種である「シャルドネ」や「ナイアガラ」の低価格帯がメインであることが影響しているのかも知れない。

●三大ワイナリーのパンフレット●



■実のところ…■

 実は今回、本来であれば翌日に八方尾根スキー場の、そのまた上にある、白馬大池周辺にトレッキングに向かうはずだったのだが、天気予報が大きく外れ、朝から雨模様になって中止となった。
 結局、安曇野周辺をウロウロと巡ったのみで、早々に帰宅することに相成ったワケである。残念!残念!。
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