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夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

見られていると感じる気味悪さ

2015年10月19日 18時50分39秒 | 日記
学生時代、戸隠高原から妙高笹ヶ峰まで黒姫山のヨッホを超えて歩いたことがあった。山道が途絶えて笹ヶ峰が向かいの山の斜面に見え始めた平地に出た時、道の前方に場所に似つかわしくない大きな屋敷が見えた。こんなところにまるで旅館みたいだな、と言いながら同行の友人とそこへ行って見た。廃墟であったが元は立派な屋敷と見えた。庭を横切り、大きな玄関ポーチの中に入って荒れ放題の屋敷をしばし望見した。

しかし何となく落ち着かない、何かに見られているような感じがする。じっと見ている視線を感じるのだ。思わず隣の友人を見た、同時に向うもこっちを見た。少し青ざめている。総毛立つ、とはこのこてあろう、まさに身震いする気分で大急ぎで屋敷を出た。暑中見舞いの度に、今でもその薄気味悪かったことを話す。

俳優の草刈正雄の先祖は佐世保の人と聞く。以前、その先祖の屋敷跡近くの会社に勤めていたことがあった。昼休みにそこここ散歩する内にその荒れ屋敷の門と思しきところから道が一本真っ直ぐに伸びて前方の小高い丘に通じていることに気がついた。その道を歩くとやがて石段を登り、木立の中を潜って広い墓地があった。そこに巨大な墓が三基、比較的小さいのがいくつかあって鳥居めいた石造りの何かがあった。これは珍しいものがある・・と昼休みにはよく散歩がてらそこに行った。

しかしある日、その墓石が自分を見ているような感じがし出した。昔のあの山歩きの時の経験と同じだ、同じ感覚に襲われた。ジーッと見つめられていると言う気味の悪さ、そそくさとそこを後にして二度と行かなくなった。

ゾンビ

2015年10月19日 18時30分09秒 | 日記
ネットのニュースを見ていたらアメリカで何かのイベントだろうか、ドクロを持ったり、顔を恐ろし気に塗りたくった仮装行列めいたものの写真があった。飽きもせずにアメリカ人はこんなのやったりこんな映画を作るね。ちーっとも怖くない。ホントの怖さってものを知らないんだね。流石バーボンウイスキーの国だ、酔っぱらうだけの酒。

そこへいくと日本酒は、甘い、辛い、渋い、酸っぱい、苦い、の五味がある。日本人が如何に複雑な感性の民族か判ろう。だから日本の怪談は怖い、のではない、気味が悪い、気色が悪い、身の毛がよだつ。しかしこの気持ち悪いのが身近に居るぜ、・・・エホバの証人とか言う集団の若いオトコを見るといい。握手して見給え、ユーレイみたいにふにゃっとした冷たい手をヌーッと出す、目ン玉はガラス玉みたいだぜ。

キリスト教ってのは何もかも言葉にしなければ済まないと言う強迫観念がある。バッカじゃなかろか。神さんのことなんか説明できゃせんよ、顕在意識だけの世界で悟りも八チの頭もあるものか!アホじゃなかろか。その解説の洪水で頭もココロもボロボロの廃人になった若者が或る日気が着くとヒトリモンのハゲオヤジになって使い古されてポイ、される。それがエホバの証人ものみの塔。正義だ愛だ、と舐め合えばいいさ。

奇妙な経験

2015年10月19日 06時36分12秒 | 日記
かれこれ20年近く以前のことになる、ふと思い出したので書きとどめる。

その頃福岡に住んで居た。会社を退けていつも行くスーパーに出かけた時、人混みの中に「特別懇意にしていたわけではないが非常に近い距離に居た人・・・中年の女性」を見かけた。思わず声を掛けようとしたが然程までには親しい人でもなかったので「何故こんなところに居るのかな?」と不思議に思いつつやり過ごした。振り向いた時にはもう姿が見えなかった。
部屋に戻ってからあらためてその人と何処で近い距離にあったかを想い出そうとして心当たりがない事に気が着いた。驚いた。「よく知っている」と思っていたのが全然無縁の人であった。

同類の事が別の人についてもあった。それは造船所の作業員の人だったが「昔あそこにいましたね、こちらに来たのは何時頃ですか?」と話しかけるとキョトンとした表情で元々ここだった、みたいな答え方をして今度は自分が困惑した。
学生時代によく行っていた大学近くの小さな郵便局の女性局員の人を福岡の人混みの中で見かけて「アレッ、どうしてここに居るのかな?」と思ったことがあった。後から考えると何十年も経っているのに当時と同じ姿であるはずがない。他人の空似だろうで済ませていた。しかし過去の何処を探しても見出せない人を「非常に近くに居たよく知っている人」と感じるのは何だろうか。

もしかして併行世界が現実にあっているのではなかろうか。そう考えれば、夢を見ている間は夢の世界が現実であるような感覚である。そのことに就いて『であるからこの今住んで色々な事を体験している生活も実は人類全体の夢であって間もなく醒める』と言う人も居る。その人の論に拠れば『人類全体が悪い夢にうなされている』のだそうだ。従って、とその人は言わないが理屈で考えれば人類がこのおぞましい不幸な世界を何とかしようとするのは無意味、夢がはじけるまで放置した方がいいのだ、と言う事になるのではあるまいか。
私はそのような考えには賛同し難い。

一方、聊斎志異にあるように人生は『高粱の飯が炊きあがるほどの僅かな間の夢に過ぎない』のだろうか。でも夢も現実も同じ重さとは思えない。やはりこの日常体験する世界が人にとっての現実とは思う。思うものの、五感、六感で世界を体験している自分が或はアンドロイドであるかもしれないとの奇妙な感覚はある。『若い頃は会社の女性たちが何とか掴まえようとした美男子、秀才で仕事は辣腕の青年、今はボロボロのハゲ親父、に使い古したアンドロイド』をどこからか操作している何かが在るのではないだろうか?

この機微を幽体と言う書物もある。即ち簡単に言えば操作する見えない存在がアンドロイドと合体している、寸分違わぬ容で重なっていると言うわけである。眉間に見えない形である第三の眼で人を見る時は人物の本体である幽体もっと判り易く言えばその見えるロボットを動かしている存在を見ているわけである。菩薩像に光背があるのはその幽体の存在を示していることになろう。旧約聖書はこの光背を持つ像を拝んではならないと禁じている。つまりそれは何かに操られている土塊であって『聖書で人類を諭している神』ではないから。

アンドロイドを動かしているものは例えて言えば握り飯の一粒。一粒が握り飯の全体を悟り得ない。同様に我々は聖書の神を『理解』できない。理解出来ないから存在を信用しないとか、何とか理解しようと屁理屈を論うのは愚かである。何故ならそこから何も生まれない。そこが日本神道のカシコク奥深いところである。・・神道は『論じない』が、『神居ます』を前提にして生きる、感じる、考える、行動する。日本民族が極めて危うい事態を何度も乗り越えて今在るのはそこに秘密がある。外国人はそれが解らない。

話がとんでもない方向にそれてしまった。