goo blog サービス終了のお知らせ 

夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

汚染

2016年12月18日 11時36分42秒 | 日記
 1967年に社会に出た。猛烈に忙しく頭は明日解決しなければならない事やトラブルの処理で満杯になっていた。そして1978年、突然チキンレースをしくじったように会社倒産がけ下転落人生となった。

 それから生きる事に精一杯で世間を見る余裕もなく生きた。綱渡り人生を終わって日本再生関連サイトを見る。そこにはかつて憧れを持って遠望した大学に、自分などはとてもそこには値しないと思ったような組織に、汚らしい朝鮮人の名をおびただしく見る。

 生きることに精一杯で走り続けている間にこんなことになってしまっていたのか?!知らなかった、何も知らなかった、知らなかったのはオマエの無責任だ、おまえがボケナスだったのだ、と言われれば弁解の余地はなかろう。しかし報道では全く見えなかった。

 でも感じていはいた・・・何かがオカシクなりつつあるのではないか?日本のあらゆる面で品位が下がり、屁理屈がまかりとおる、何より【物事の道理】を弁えぬ者共が増えた!と感じていた。

 これらの寄生虫が食い込むに任せたのは誰だ!その毒に冒された者共がまた毒をまき散らした、その感染者は誰だ。叔父達が、大伯父達が命に懸けて護ろうとした国を汚らしい穢らわしい者共や思想に汚染されるがままに放置或は画策した者共を我らが神見逃さないで戴きたい。


願わくは我が頼りとする聖書の神、日本神界の神々、【穢れ】を除き、我が民族我が国を【浄く高貴に】戻したまえ。


注:聖書の神と日本神界の神々との同一性について私見・・・
 日本で神社に祀られている神々は(表現が適切でないが)何かの個体ではない。日本人は【働き、乃至は顕現】に名前をつけて神としている。田舎の道端の祠は知らないが由緒格式正しい神宮神社の幕の内側に祀られているのは【鏡】であるはずだ。

 モーセを通じて十戒が与えられた時、シナイ山は密雲に覆われ、稲光、雷鳴で人々は怖じ戦いた。・・・【神を見てなお生きているものは居ない】と言われていたからだ。その恐懼の記憶が【鏡】であり、密雲雷鳴が【注連縄】、(この解釈はどこかのサイトの受け売り)そして察するに神社に備えてある大きな太鼓は雷鳴の記憶であろう。

最新の画像もっと見る

1 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

コメント日が  古い順  |   新しい順
お邪魔します^^ (あられ)
2016-12-18 13:18:25
よく「聖書の唯一神」と「日本の八百万の神々」は違うものととらえられますが、私にはどちらも矛盾しない同じものにみえるのです。この世界にあるすべてのものは、神様のご意思によって造られ 存在している。だから、自然界のすべての物には神様のご意思が宿っている。感謝の念を殊更に重んじる日本人は たとえ米粒ひとつにも「神様」を感じてきたのではないでしょうか。

比較的、神様との距離が近かった古代イスラエルの民と日本人には何かしら通じるものがあるなぁと、常日頃から感じているのですが・・・たいした根拠もない感覚です。
返信する

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。