夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

貨幣のない世界

2016年08月18日 17時19分51秒 | 日記
 主婦の家政一般に給料を払おうとすると、ほとんどの家庭で不可能である。と言う事は主婦は【奉仕】をしているわけでありその動機は【愛】である。そんな美しい動機ではないと言う向きもあろうが大体においてはそうである。無論最初の幻想が醒めて後悔の臍を噛む場合だってありはするがでも概ね夫から離れた愛も子供達に対しては残る(だろう)

 ではそれが主婦の一方的な自己犠牲かと言うとそうでもない。夫は外に出て家族の入り用を稼ぐ。でも彼は給料明細を見るにしても働きの成果は家庭に入り、その管理は概ね妻が行う。つまり家庭経済の主導権、管理権は妻にある。夫は自分の必要を小遣いとして妻に貰う。
 つまり日本に於いては夫も妻も経済に関しては家庭の全権掌握者ではない。有体に言えば家庭には【・・家なる神】が暗黙の裡に存在し、夫は働きをそこに奉納し、妻はそれを管理する。而してどちらも自分の役割について【家庭の神】に対して責任を持つ。かくして日本の普通の家庭では夫は妻に給料を払わない。が、妻は自分の必要を家庭に納められている財の中から自由に使える。それを成り立たせているのは夫、また妻の家庭に対する責任感である。(日本人の先祖崇拝と見られる性向は多分この【家の神】が隠れていると思う)

 家庭を国家に拡大すると、外貨を稼いでくる企業や組織、仕事がある一方、それを管理運営し、必要を賄う組織、仕事がある。農業や漁業は概ね後者であるが野菜や魚の値段を見ると暗然たる思いに駆られる。ネギ一束に費やされた労力はとてもこの値段では労えない、農業が衰退するのもむべなるかな!

 単刀直入に言おう、国民の生きる必要に仕える仕事を貨幣で評価をするのは間違いである。【愛や人情】に値段をつけられないのと同様、米や野菜を作る労に値段は付けられない。学者なる学問をしたバカモノはそこのところが見えない。

 国家の諸組織、企業体を【国庫に財を納める】グループとその長たる管理組織、並びに【財を管理し国家を維持する】グループとその長たる管理組織に分けて考えてはどうか?而して外貨獲得組織は獲得したものを自分の物としない、真っ直ぐ国庫に納める。一方妻に相当する組織はその財の適性管理使用を行う。するとここに貨幣のない社会の可能性が見えて来る。

 無論、例えば自動車を作る企業体では研究開発費が要る、家庭で言えば夫が自己啓発の為にパソコンが欲しい、と言うに似ている。この場合、夫に対応する管理組織と妻に相当する管理組織とで協議を行わなければならない。

 現在我々は何かの労働をして対価を得、それで以て生きて居る、つまり生命を売って生きて居る。貨幣の無い世界ではそれが無くなる。人が行う何がしかの行為は総て国庫に納められる。獲得した外貨も公共の場の清掃も収穫した米も、近所の子供達に算盤を教えた事も、総て国庫に納められる。

 而してその国庫の管理者は国の神である。但し人の五感に感知されない存在なので代執行者が必要ではある。(神社と神職の関係に似ている)人々は貨幣で対価を受け取らないが日本神社の氏子としての承認を受ける。その承認、卑近な言葉で言えば【顔パス】によって必要を満たす事が出来る。所有の概念が無くなって専有になる。これが絵空事であると言われるなら伊勢神宮を思いめぐらして見られよ、薄々見えるから。

 昔イエス・キリストが言った【天に財を積みなさい】とはこのことである。好きな絵を描こうが音楽をして歩こうが畑で花を栽培しようが道路の掃除をしようが猫をかわいがろうが、神が最初に意図した【地を従わせよ】の範疇に入る活動は神にとって財と見做される。

 その見返りは【時は金なり】なるおぞましい事態からの解放であり人々は永い一日を享受するようになる・・・黙示録にはハルマゲドン後の世界、つまり人智による地上世界自治の失敗を神が収拾した後の地上ではそれが起こると書いてある。永い一日とは比喩的な言い方で、朝があって夜が来ることは変わりないが人は10年経っても100年経っても同じ人、ずっと同じ人と言う意味で永い一日がある。

 怠け者はどう処置するのか?と言う疑問があろうが多分これも黙示録の記述にある神の治世の初めに行われる【人を羊と山羊に分類する】過程で排除されるのだろう。且つ新世界ではおそらく何もしないでいる事は苦痛になるだろう、人の性として・・・今でもそうだ、近所の主婦などこの暑い夕暮れ時に大汗かきながら別段生活に必要でもないのに畑仕事をしている。【対価】と言うレッテルを着けられると如何なる行動も【苦痛】になるのだ。主婦の過酷な家事労働も動機が愛や奉仕、事によっては指向、性向趣味であるから延々と行えるのだ。

 効率や利便の観念が失われるだろう。代わって【生きる事を如何に楽しむか】の観念が立ち現われる。どこそこへ何日の何時に着かなければならないと言う条件は失せる。随って多分高速交通手段は無くなり旅を楽しむ手段に置き換えられるだろう。コンビニやスーパーは無くなり道の駅や近隣の農家が野菜を出荷している、或は無人販売所のような物が主役となって人はそこで必要な物を必要なだけ取る事が出来るようになるだろう。

 必要でないものを欲張って取ることは固く戒められるであろうことは出エジプト記から推察される。何もない砂漠地帯に40年留め置かれた古代のイスラエル人は神が定期的に空から落としたマナなる食品によって命を存えた(今日言う【まな板】の語源とも言われる)それを余分に取っておいても腐って食べられなかったと言う。

 このような社会が成り立つには一つ条件がある。人々が見えない、感知されない【神】を実在と認識しその認識によって【公共】の概念を持っていることである。黙示録はちゃんと言っている・・【神、人と共に住み・・】

 驚く勿れ日本人は世界で最もこのような世界に近い生き方をしている・・実質して来た。神道そのものが【神に関して無意味で無駄な論議】をしない、定義などと言う愚かな事をしない、しないで【神ここに居ます】を前提に生きる【生き方、在り方】だからである。
伊勢神宮の式年遷宮の有様を垣間見れば洞察出来る。

 今世界から日本を訪れる外国人の多くが神宮、神社に詣でて嬉々として手水を遣い柏手を打って礼拝しおみくじを引くのを見ると【神が善男善女を招いておられる】と思う。


 人が神に仕えて生き、人生の成果を捧げる時、その天に積んだ財の見返りは幾千万の貨幣ではなく尽きる事の無い人生、永い一日である。

https://www.youtube.com/watch?v=LJ9Ry2LN8oM
https://www.youtube.com/watch?v=BNqi3Iua9oU

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キッチン水周りについて

2016年08月18日 08時12分10秒 | 日記
 外国は知らない、日本の主婦が概ね家事万端を受け持(たされている)のは何も創造の神から授かった特技でもなければ義務でもない、有体に言えば【男社会から押し付けられた】ものではあるまいか。中にはそれに生きがいやりがいを見出している【美しい】女性が居るのかもしれないが、少なくとも我が母を見て居て一人の人としてやりたい事は色々あっただろうに一生辛抱し身を粉にしてピーターパンの夫に仕え我々子供の為に自我を押し殺して生き早々に鬼籍に入ったことを気の毒に思う。【それを当然のごとくに我儘一杯に過ごし、補って余るような何の代償も齎さなかった】ピーターパン親父に私は嫌悪を感じている(母をもっぱら消費するだけに生きたつまらないオトコ!)。妻が言う・・・『お父さんに対して薄情ね!』と。そうなんだろう、だが同じ男として妻の犠牲や奉仕を当然のごとくに考えて居た男を尊敬できないのだ。こういう事を考えると小池都知事の言う【少子化は女性の反乱】と言うのがよく解る。

 外に出て稼いでいる間は流石に私も出勤は早く残業が常、単身赴任も長かったので何の加勢も出来なかった。退職して大抵家に居るようになって少しずつ手を出し始めた。掃除はどちらかと言うと趣味で整理整頓片付けは妻より口うるさいのでやっていたが食事の後片付けと風呂の清掃は殆どやる。その過程で気が着くことを覚えの為に書いて置こう。

 スーパーのキッチン用品売り場に行くとスポンジやスポンジに網をかけた食器洗いがある。たまたまそれを猫の皿洗いに使うのを横目で見たので気持ち悪くなって代わりに亀の子たわしを使った。当たり!使用後にヌルヌルが残らない、おろし金をそのままごしごし洗える、タッパーの蓋の溝を洗える、早速宗旨替えした。

 洗い桶は普通はプラスチックだ。それが使う内に汚れて来る、中々落ちない、汚くなる。気に成って仕方がなかったのでホームセンターに行ってステンレスの小さな盥を買った。甚だ調子がよろしい、汚れない、油ものを洗ったらぬめりが残るのでどうしても洗剤で洗うようになる、内も外もピカピカになって非常に見心地が宜しい。難点は少々値が張る、重い。

 子供たちが学校に行く間は時間もないので洗った食器は電気式乾燥器に入れていたがこれはゴキブリにとっては格好の住み心地で不衛生極まりない。そこでこれを排してプラスチックの籠にして毎回食器を洗浄した後拭いて茶箪笥にしまうことにした。ところがこのプラスチックの籠が汚れる、汚れを洗いにくい構造になっている、面白くない、と言うわけで次回はこれもステンレスの網籠に替えようと思う。三角コーナーと言うものがあるがこれは真っ先にステンレス製に替えた。が、邪魔臭い、その内シンクから追い出そうと考えている。

 大体週一回くらいでシンクの排水口を掃除するが水封の蓋がなかなか外しにくい。指を掛けるところがないのだ、おまけにここは非常に汚くぬめる!メーカーはもう少し工夫せよ。

 風呂に入っていて排水が遅いと感じる事がある。排水口を外して見ると多量の髪の毛がある。私は禿げなので犯人は妻であるが彼女はこういう事には無頓着と言う大変【目の粗い感性】の持ち主なので私が洗う。ナアーニ汚れで死ぬことはないさ、で大量の髪の毛やその他の??を掴んで窓の外に放り投げ、後をたわしでごしごし洗う。すっきりピカピカで非常に気持ちがいいが翌朝『また窓外に投げ捨てた』と文句を言われる。複雑な心境だ。

 手洗いはマツモトキヨシに行けば専用のペーパータオルが売っているのでそれを常備しておいて気が着いた度に掃除する。その方が気が重くもなくいつも清潔感がある。長男が私に輪をかけた清潔好きで何とか言う強烈な漂白剤を何本も買っていたのでそれを希釈して仕上げに使う。世の旦那方に言いたい、威張りたいなら妻の重荷を減らしてから威張れ。手洗いはそこの家の神が訪れる場所だ、謹んで旦那が清掃せよ。然らばその家庭は平和で発展するだろう。
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まだ拘っている大いなるバビロン

2016年08月16日 11時36分16秒 | 日記
 最初はタックスヘイブンの事かと考えたがどうも黙示録の説明と合致しない部分もあると思うようになってこの解釈を放棄した。次に利権を考えたが今また黙示録と何となくニューアンスが違うような気がし始めた。

 何故敢えて大いなる【バビロン】と言っているか、バビロンとは何かをまた Wiki で読んでみた。そこでふと閃くのだが、今までそれを我々の住むこの世界に混じりあって存在する非常に見えにくい別の世界であって且つ実質人類の生き血を吸って居る集団だろうと考えていたがどうやらそうではないかもしれない。

 単刀直入に言えば我々の住んで居る、生きて構成しているこの世界そのものではないか?と閃いた。『王たちはそれを憎み荒れ廃れさせ喰らい尽くす』との黙示録の表現は実質の行動としては『このどうにも行き詰まった世界を何とかしなければならないと政治家達、有識者たちがそれこそ【人類の英知を結集して】弄くり回し捻り回して結局はダメにしてしまう』ことを言っているのではなかろうか?

 大いなるバビロンの倒壊が突如起こる、と黙示録が言うのは【辛うじて安定を保っているかに見える世界】が何か些細なきっかけでドミノ式に駄目になって混乱のルツボ化すると言うことではなかろうか。
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家族とメンバー

2016年08月13日 21時07分41秒 | 日記
 飼い猫の事を書いた。これは不思議な事に息子の伴侶を連れて来たり職を持って来たりした感じがする猫だった。或はその報せを持って来たとも言える。そしてその用事を終えたら死んだとも言える。

 その猫が病気の時、一時外に出さなかった。そうしたら部屋のあちこちに小便をしてまわった。本来外でやっていたものを監禁されたので困り果てたわけだ。丁度その当時私自身がどういうわけか部屋の中の柱の蔭だの、カーテンの隅だのに小便して、乾くのにどれくらいかかるだろうか、とか床が腐るのではないか?などと気にする夢を頻繁に見た。ただしその当時はそれが猫の行動と関係があるとは思わなかった。

 もっと前の話になるが2人の息子の結婚についても予知夢を見て居た。父親としての立ち位置からではなく当人の立ち位置で見て居た。

 これらのことを思いめぐらしていてふと考えるのだが、もしかしたら【私】なる意識は独立した存在が意識する意識ではなく例えば家族なる綜合体が意識している意識の【部分】に過ぎないのではないか? そしてその綜合意識から必要に応じてネコの意識も生え出て来る。

 あのクロちゃんと言う猫はもしかしたら我家の総体的な家族の元である何らかの意識体の一部が現世に黒猫として現象化し、要件が済んだら元の意識体の中に戻って行ったのではないか?? それであったからこそ、その葬儀場での別れの際妻が『ごめんね、ごめんね』と言って泣いたのを見て自分自身の中で凍っていた何かが壊れた気持ちになったのではあるまいか?

 あの猫と共に私もまたある部分が死んだ、親たちから聞きたくて止まなかった言葉『ごめんね、ごめんね』、それを聴いて自分の中で燃え上がって居た火が消えた。
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群れたくない、とリュート或はギター

2016年08月13日 20時44分49秒 | 日記
 肥後モッコスというしょうもない性分がある。その性分がどういうふうに出て来るかをここに書いてみよう。

 ネットを見ると自分の趣味自慢めいた記事を偶に見る。飼い猫や飼い犬の写真、食べたモノ、行った所など、総動員してウェブページを構成してある。特にギターやリュートは何か自分が人と違った特別高尚な事をやっているかの如き雰囲気で微に入り細に亘って書いてある。或はレッスンの報告などを綿々と書いてあるがいすれもマスターベーションに思える。

 そういう感じ方から自然、レッスンなどを避ける、『あのような人々の群れの一員ではありたくない』と思う。これを【ヘンクツ者】と言う人の方が多かろうことを知って居る。だが、言わせてもらおう、【何か新しいモノ】は大体に於いてヘンクツ者が作り出している。八方美人や群れの一員ではない。

 というわけで私はごく内々の【通じる相手】をいつも探している。どういうふうにするかと言えば・・・返答に困るようなメール、難解なメール、相手が興ざめるようなメール、を出してみる、コメントする、そして反応を見る。同じ穴のムジナは大体ワカルのだ、不思議な事に。
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