鑑三翁に学ぶ[死への準備教育]

内村鑑三翁の妻や娘の喪失体験に基づく「生と死の思想」の深化を「死への準備教育」の一環として探究してみたい。

[Ⅳ229] 日本人とか日本社会とか(9) / 精神滅びて亡国の民なり

2023-04-02 22:03:51 | 生涯教育

【 国が滅びるということは、山が崩れるとか、川が乾上るとか、土地が落込むといったことではない。例え日本という国が滅びたところで、富士山は変わらず青空にそぴえ、利根川も木曽川も今の通りに流れ、田畑には変わらず米や麦が育つであろう。‥‥国というものは土地でもなければ官職でもない。国はその国民の精神である。この精神さえあれば、その土地が他人の手に渡ることがあっても、その国が滅びることはない。あたかも今日のユダヤ人が、土地はトルコ人の手にあるにもかかわらず、有力な国民であるように、又アメリカ人がその州知事又は市長として外国のドイツ人やアイルランド人が就任しているにもかかわらず、立派な独立した国民であるがごときである。

国民の精神が失せた時にその国は既に滅びたのである。 国民に相愛の心がなく、人々が互いに猜疑心を持ち、同胞の成功を見ると(妬みの故に)怒り、その失敗と堕落とを聞いて喜び、自分一人だけの幸福を考えて他人の安否を慮ることなく、金持ちは貧しい者たちを救おうとはせず、官僚と企業は相結託して富を寡占して無辜の民、農業や職人等から税(注:原文は「膏(あぶら)」)を搾り取るようになった。その国の憲法がいかに立派でも、その軍備がいかに完全であり、大臣職の者がいかに賢い人たちであっても、その教育はいかに高尚でも、このような国の民は既に亡国の民であり、辛うじて国家の形骸を残しているだけである。故にもし国家の興亡を見たいと思ったら、その海軍は何十万人であるのか、その海軍は何十万トンであるのかを知る必要はない。その国民は浅はかで愚か(注:原文は「浮薄」)であって、その商行為の多くは詐欺の類いであり、その教育は知識を売買するだけで、その倫理と称するものは政治上の策略や駆け引きから画策された政令のようなものである。このような国は既に精神的に滅びたのである。このようにして既に精神的に滅びた国が、終わりにはその国の形態までも失うに至るのは自然の勢いである。実に嘆かわしいこと(注:原文「痛嘆」)ではないか。】(全集9、p.165)

これは鑑三翁が1901(明治34)年5月に『万朝報』に客員として署名入りで執筆した記事だが、何のことはない今日日令和の日本国の有り様と何から何まで一致するではないかと思いながら現代語訳したところである。

「国民の精神が失せた時にその国は既に滅びたのである」とは具体的にはどのようなことを鑑三翁は言っていたのか、これはとても興味深いことだ。鑑三翁は薩長政府の内部及び関係者の頽廃を先述のように鋭く指弾している。それを見聞している市民国民もこれが当然のことであるかのように慣れ・受け入れてしまい、日本の市民国民も薩長政府やこれと関係する者たち及び新聞等の言論に唯々諾々と従い、同列の日常生活を送って安穏としていることを憂えているのである。それがこの一文だ。

鑑三翁は「社会改良」に関する論稿を随所に寄稿している。鑑三翁の「改良」とは、国家の立法議会や司法機関や経済社会や教会組織によってもたらされるものではなく、一人ひとりの個人からもたらされるものであると言う。個人の「改良」があって初めて社会や国家の改良が果たせるのだ。社会というものは腐敗する。腐敗しているのは日本だけではない、世界全体が腐敗しているのであって、腐敗は人類共通のものだ。しかしながらこの自分は腐敗した社会の構成員である。その自分は社会を改善する責任を有し、社会の腐敗を嘆き指弾する者は、まず自分自身を自省し、自分は社会のために何ができるのかを熟考する必要がある。その個人の改良は個人の「良心」を監視する神によってもたらされるものだと鑑三翁は断言する。

鑑三翁は「自身をさえ改めることもできない者が、いくら全人類総がかりとなっても世界を改造することはできない‥世界は帝国主義によっては救われないように平民主義(デモクラシー)によっても救われない‥キリスト教は民主主義ではない。」(全集25、p.244)とも記している。これが鑑三翁の基本思想である。


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