鑑三翁に学ぶ[死への準備教育]

内村鑑三翁の妻や娘の喪失体験に基づく「生と死の思想」の深化を「死への準備教育」の一環として探究してみたい。

[Ⅳ214] 女が男を保護する事(14) / ヨブの妻がいた!

2023-01-29 13:21:29 | 生涯教育

聖書には「ヨブ記」がある。ヨブという人は実在の人物とされている。『新聖書辞典』によれば、彼の生地はウズという地でアラビア半島北部の地。この記録を遺した記者はおそらくイスラエル人で広く外国を旅行し見聞を広めた国際人であるとされている。成立は前5~3世紀とされているが、いずれも諸説ある。

鑑三翁には『ヨブ記講演』(岩波文庫、2014初版)がある。鑑三翁にとっての「ヨブ記」は自身の身近な経験に照らして強い共感を抱いていた。「ヨブ記」に関しては合計3回の講演を行っている。1920年には東京で行われた「内村聖書研究会」の「ヨブ記講演」がスタートした。これは鑑三翁の第三回目の講演である。東京の会場には毎回数百人の聴衆が集まり立ち見の人が出るほどであったと鑑三翁が記している。この連続講演会は畔上賢造氏によって筆記されて毎回『聖書の研究』に掲載された。その集大成が1922年に『約百記講演』として十字架書房から出版されたが、翌年の関東大震災で紙型が消失、1925年に『ヨブ記講演』として向山堂書房から出版された。岩波文庫版はこの向山書房版が底本になっている(鈴木範久氏解説による)。

「ヨブ記」の梗概は省略するがその真髄は鑑三翁が適確に記している。その部分を現代語訳した(p.11 - )。

【人間は何ゆえ艱難に遭遇するのだろうか。特に行いの正しい者(注:原文「義者」)が何ゆえ艱難にあうのだろうか。これが「ヨブ記」の提出する問題である。これは人生最大の問題の一つである。そしてこの問題の提出方法が普通のそれと全く異なっているのがこの書の特徴である。まず第一章全部と二章前半を見なさい。ヨブに大きな災禍が襲い多くの家畜は全て奪われ、子どもたちはことごとく殺され、ヨブの身体は悪疾に襲われ、最愛の理解者だった妻も「神をのろって死になさい」とまで言うのだった。このようにして彼はただ独り苦難の曠野に坐して、この問題の解決を強いられたのである。実に彼は生涯の実体験(注:原文は「実験」)‥特に悲痛なる実体験‥によって問題を提出させられたのである。教室における口や筆による問題の提出及び解答ではない。哲学上の問題や文学上の問題のように、思想をもって提出され思想をもって回答するようなものとは全く性質を異にしている。ヨブは艱難の連続をもって艱難の意味という問題を提出され、そして現実の心身の痛苦/煩悶/苦闘をもって、これに答えざるを得なかったのだ。彼の如き神を信ずる敬虔な信者が、このような大きな苦難に出会ったのである。

これは果たして「愛なる神」の所業として理にかなうものであるのか、神に対するわが信仰は誤りではなかったのか、むしろ世の中には神など存在しないのではないか、もし神が存在するとなれば行いの正しい者に艱難を下されるのは何ゆえなのか‥これらの疑問が彼の心霊を圧倒するかのように臨んだのである。実に彼は実体験をもって大問題を提出され、実体験をもってこれに回答せしめられたのである。ゆえに「ヨブ記」全体には活きた血が通っているのだ。火のように燃える人生の溶鉱炉の中に鉄は入れられて、鍛えられようとするのである。文学上の遊戯ではない。生きた人間生活の血と火である。これが「ヨブ記」の特徴である。この事を心に留め置かずしてこの書を理解することはできない。「ヨブ記」は美文ではない。霊魂の実体験の記録である。】

ヨブの妻は悪疾にのたうち回るヨブに深い同情を寄せた。そして最愛の理解者だった妻は「神をのろって死になさい」と言う。そして彼女も信仰を捨てた。鑑三翁はこのヨブの妻については、ヨブに我々は同情も寄せなければならないが、我々はこの妻を悪しき女であると言うことはできないと言う。それは彼女とて育て上げた子どもたちを全て喪い、財産も全て失った。目の前の夫のヨブも悪疾にのたうち回っている。ヨブと同様深い神への信仰を抱いていた彼女も耐えることは出来なかったのだろう。彼女に対してもまた深い同情を表すべきだと鑑三翁は説く。私は聖書「ヨブ記」にもこのような読解のしかたがあることを鑑三翁から教えられた。表層的に読み進めていては決して目の届かない深遠の「ヨブ記」解釈である。

聖書の中では救世の「聖女」のように表立って扱われてはいないが、「ヨブ記」の妻の存在に光を当てた研究者もいる。パリ在住の比較文化史家竹下節子氏だ。『女のキリスト教史;「もう一つのフェミニズム」の系譜』(ちくま新書、2019)の中で、フランスの一人の女性神学者の見方を紹介している。ヨブの妻は、信仰篤い敬虔な者が不幸になることに本当は納得できないヨブの怒りを代弁して「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って死ぬ方がましでしょう」とヨブに言ったが、それは実はヨブ自身の内面の言葉であったこと、ヨブが神の前ではまさに「男と女」を併せ持つ「人間」であったのだ‥と竹下氏はヨブの妻を解釈している。竹下氏の解釈は鑑三翁の解釈と軌を一にしていると私は思う。


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