Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

なぜ流行った本棟造り

2009-06-16 12:36:08 | 民俗学
 「霧深き土地」で触れた『伊那』973における伊那谷研究団体協議会2008年シンポジウム報告。民俗分野では松上清志氏が「飯田下伊那地方の住まい」と題して報告をしている。その中で少し気になったのは中南信地方といわれる長野県中南部に多い本棟造りについてのことである。松上氏は「本棟造りがいまもって飯田下伊那にあるわけですが、新しい家でも、こういう型の家を建てるお家があります」という部分である。新しい家というのをどの程度までを新しいと言うか明確にはされていない。ごく最近建てられた家で本棟造り形式のものをわたしは見ていない。松上氏は「本棟造りへの憧れ」と述べているが、果たして今の時代にあって憧れがあるのかと聞かれるとノーとしか言えないような気がするのだ。ちなみにウィキペディアでも述べているように本棟造りに厳密な定義はないと言える。あくまでも切り妻造り妻入りであって、緩い勾配の屋根というのが特徴である。おそらく大きめな部屋が取れるというあたりが農家に取り入れられた理由で、さらに屋根裏が大きく保てるあたりが養蚕と関わったのだろう。

 実は新しいという表現には今から数十年という時間的なものがあるようにわたしは思う。わたしの生家の周辺でもこの本棟造りの家で新築した家が、昭和50年代ころまで見えた。母の実家は今住んでいる地域にあるが、確かに本棟造りであって、昭和の終わりころ建てられたもので、本棟造りとしては比較的新しい事例といえる。しかしそれ以降その形式は消えていく。ようは農家が農家でなくなったころからこの形式が消えていったのだ。誰が建築主だったかによるのである。そのころまでは兼業化しつつもまだまだ農業が主体だった人たちが家を建てる際にこの形式が取り入れられた。しかし、その後建築主が完全なサラリーマンとなると、本棟は嫌われ始めたのだ。ではなぜかつての農家が本棟の家を建てたのか。そのあたりは流行りというものもあったのだろう。誰かが造ると倣うという農村特有の芋ずる方式である。またそれほど住居に対して今のような強い合理性を求めたのかどうかというところに疑問符の出るところだ。果たしてかつて本棟造りを憧れたという時代の農家の主たちは何を見ていたのか、むしろそのあたりに興味が湧く。かつて本棟造りの家はその地域で象徴的な豪農という印象が無くもない。だからこそ憧れということになるのだろうが、それだけのこととは思えないものが戦後の家造りにあるのではないだろうか。松上氏は「平屋造りで申請して建坪は少なくて、実際は二階がある」ということを利点と言っているがこれは違法申請にあたる。この表現はいかがなものだろう。まだ建築士というものが地域に少なかった時代、その地域の特徴ある形式が、聞き伝えられて流行ったと言った方がよいだろう。むしろこの造りを戦後の事例としてあげていくと、数としては限られ年代に特徴的に現れるはずだ。事実本棟造りはは中信と言われる松本周辺に比べると南信ではかなり少なかった形式とも言える。にもかかわらず戦後になってこの形が一時的にずいぶんと建てられた。おそらく戦後本棟造りを採用した人たちが、あるいは次世代が、次に家を建てる際、本棟造りの家を建てることはないだろう。

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