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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

橋供養塔・前編

2012-09-07 20:05:13 | 民俗学

 『あしなか』(山村民俗の会)の最新号である296号は「石仏と民俗伝承」を特集している。短編によって全国の地域性に富んだ石仏が紹介されているが、その中に平出一治氏の紹介する橋供養塔の記事がある。「八ヶ岳山麓の橋供養塔」と題し、甲信国境とくに山梨県小淵沢町(現北杜市)の橋供養塔を中心に紹介している。小淵沢町に4基、隣の長野県富士見町に1基の橋供養塔があるという。あまり聞きなれない「橋供養」という単語、わたしの身の回りにそのような供養塔が存在しないが故のことだ。聞きなれないだけに珍しいものかというと、案外そうでもなく、「橋供養」の検索にはたくさんの事例が浮上する。そもそも「橋供養」という単語は辞書にも見える。それによると大辞林では「橋の完成後、渡り初めに先立って行う供養。」と解説している。よく橋が完成すると、何代渡り初めなどといって数世代の家族が橋を渡る姿がニュースに登場するが、こうした渡り初めの前段に当然のことながら神事のようなものが行われるのだろうが、それが「供養」なるものなのかどうかについては今まで気にも留めてこなかった。近在では下伊那郡阿智村備中原の春日神社の北方、阿知川の河岸傾斜地の中段に1基あるという。

 平出氏の報告から察すると、橋の近くにこの供養塔があるわけでもないようで、その建立の経緯がどのようなものだったかは判断しかねるわけであるが、阿智村備中原の例も中関へ通ずる古道の脇にあって、供養塔から阿知川に架けられた元橋までの距離はかなり離れているという。平出氏の報告している橋供養塔の銘文にも明確な○○橋などという名称が付けられているわけではなく、どちらかというと「村中」とか「組中」といった具合に固有の橋を指しているというよりは空間(地域)を指している様子がうかがえる。ますますその意図が何だったのか、という疑問が湧く。平出氏は『小淵沢町の石造文化財』にある「川は村々の境をなし、川に橋をかせると村々を結ぶことになると同時に悪霊の侵入口ともなる。このため橋は悪霊を防ぎ村をまもるところとなり、端には境界を守護する神がいると信仰されるようになった。こうした橋にたいする信仰とともに橋供養が造られた」という記述を引用して造塔の背景を探っている。すると造塔する場所がますます重要視されると思うのだが、たくさん浮上する橋供養の検索先にはそうした詳細を知らせるものは少ない。富士見町乙事にある供養塔は「石橋七ケ所供養」と刻まれている。いくつかの石橋をいっぺんにまとめて供養しているもので、これもまたその造塔位置に興味を抱かせるわけであるが、実はこうした「石橋○ヶ所供養」という碑は全国にいくつもあるようだ。そもそもが橋供養は「石橋の供養」を目的にしていたという記述がいくつもある。また何と言っても源頼朝が死んだ際のいきさつにこの「橋供養」が登場する。ようは橋供養というものは中世以前にまでさかのぼるわけである。

 続く


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