Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

落穂拾い

2008-10-01 12:26:55 | つぶやき


 「落穂拾い」といえば1857年にフランスの画家ジャン=フランソワ・ミレーによって描かれた油彩作品が知られる。現在はパリにあるオルセー美術館に所蔵されているというが、この「落穂拾い」というものが奥深いものであるというのはあまり認識していなかった。この場合の落穂とは日本でいう稲の穂ではない。麦の穂である。日本で言うなら初夏に麦を刈ることから夏の風景となるのだろうが、果たしてフランスではも夏だったのだろうか。我が家でもかつて二毛作として大麦を作っていたが、麦の落穂拾いというものは経験がない。

 ミレーの描いた舞台では、畑に種をばら撒いて育った株を柄の長い鎌で立ったまま薙ぐように刈り倒したという。これをフォークで集めて脱穀するというのだが、集めきれなかった落穂が地面に残される。ウィキペデイァにも書かれているが「当時、旧約聖書の『レビ記』に定められた律法に従い、麦の落穂拾いは、農村社会において自らの労働で十分な収穫を得ることのできない寡婦や貧農などが命をつなぐための権利として認められた慣行で、畑の持ち主が落穂を残さず回収することは戒められていた」という。ようは落穂は耕作者の所有物ではなく公開されたものということになる。だからそうした落穂をこぞって拾う光景があったのだろう。そしてその落穂によって食いつなぐということもあったのだろう。すると落穂を拾うという行為は許された行為ながらも「貧しさ」を表す象徴的な光景だったのかもしれない。作業上で出た欠片みたいなものでパンで言うなら「耳」、食べられるもののそれを期待している光景は「貧しい」というイメージが漂う。ゴミ箱をあさる乞食、あるいは人間の余り物でも十分すぎるくらいご馳走なる動物の餌ということにもなる。

 落穂を拾うことがそれほど貧しさを漂わせているから拾わないわけではないだろうが、日本の水田を歩いてみると、落穂がそのまま地面に落ちている姿はごく当たり前のことである。もう20年以上前のことであるが下伊那郡のある村で、村の職員と刈り取られたばかりの田んぼを歩いていて、あまりに落穂が目だったために「このあたりでは落穂を拾わないのですか」と聞いたことがあった。「このあたりじゃそんなことしませんよ」と言われ、唖然としたものだが、わたしの頭の中では稲刈り後に稲穂を拾うのは当たり前のことであった。稲刈りとは落穂を拾ってすべでが終わるのである。だから落穂が落ちていては稲刈りは終わっていないという捉え方をしていた。収穫物は大切にしなくてはならない、という教えが根本にあるのは当然であるが、少しでも収穫を多くするためにできるかぎりのことをした昔の篤農の精神である。そう考えるとミレーの見た世界には篤農家精神というものがなかったのかもしれない。むしろそれを戒める教えがあったというのだから。

 コンバインで刈り取られた田んぼはあまり好きではないため歩かないが、はざ干ししている田んぼにくらべると稲穂が落ちているのは目立たない。脱穀を同時にしてしまうため、地面一面に綿くずのように稲わらの細かいものが落ちているために目立たないということもあるのかもしれない。そこへいくと整然とした地面が現れているはざ干しされた田んぼには落穂が目立って多い。南箕輪村でもちらほらとはざ干しされた田んぼが点在するが、そうした田んぼを歩くとことごとく落穂がある。手刈りをしていた時代ならそんな落穂は少なかったのか、あるいは拾ったのかもしれないが、バインダーで刈るようになると落穂は多くなる。その理由はバインダーで束ねられた束は、固く絞められていないから抜け落ちやすいのである。写真もその南箕輪村の田んぼのものであるが、ちらほらというよりは1㎡あたりに1本くらいは落ちているみごとな田んぼである。

 先日の稲刈りにおいて、余裕があったので落穂を拾った。妻の実家でも「落穂を拾うように」という戒めはそれほどない。実は拾ってみてもそれほどの量にはならない。もちろんわたしは稲刈りの際に落穂が落ちないように配慮しているのも事実ではあるが。そんな光景をもしかしたら「貧しい」と見られるのも嫌であるが、日本ではミレーの見た世界のような考え方はなかったはずだ。

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