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旧暦1月10日のお日待・後編

2019-02-17 21:43:09 | 民俗学

旧暦1月10日のお日待・中編より

日曽利

 

お日待

 

 お日待は、旧暦1月10日の午後7時に始まった。本寺である常泉寺の和尚さんが経を唱え、魔除けを混じえた経も唱えられ、また般若心経も唱えられた。これらは祭壇、いわゆる松福寺の本尊に向かって行われるもので、参加者は和尚さんの指示に従って拝礼をして始まり、焼香をした後、再び拝礼があって終わった。もともとのお日待がどう行われていたか、今は知る由もないが、現状は常泉寺主体のお日待となっている。

 会場にはお日待用と言われる掛け軸が3幅掛けられるが、お日待と直接的に関係しているのかははっきりしない。ひとつは涅槃図、いわゆる釈迦の涅槃すなわち入滅 (死) の情景を表わした図だ。二つ目は「尽人事待天命」、ようは「人事を尽くして天命を待つ」、三つ目は鍾馗さんの図である。お日待に無関係ではないかもしれないが、こういった掛け軸が掛けられる例を近在では見ない。

 この日準備をされた役員は8名おられた。そしてお日待に集まったのは総勢15人。ようは役員が8名おられたから、役員外は7名である。20名くらいは集まるのかと思っていたが、やはり平日ということもあって参加者は少なかった。これでは「煮和え」を作る側も大量には作れない。

 お日待に札を立てるという例は、近在はもちろんだが、県内でも例はほとんどないのではないだろうか。とはいえ、ウェブ上で検索していると、お日待に「四方札を立てる」という事例を紹介しているものも見られる(岡山県の日蓮宗のもの)。この札に惹かれたのは、わたしの住む近くの集落で行われる藁草履を掛ける「厄神除け」行事において、昔はムラの四方のうち2箇所に藁草履を、もう2箇所には御札を立てたという話を聞いていたからだ。お日待が祈祷を意図していることから、こうした行事は名前を変えて様々な時期に多様に行われていたことがうかがえるが、現在行われている例はとても少ない。日曽利では各戸に配られる御札は「例会」までに配布、と役員のメモ書きにある。「例会」とは毎月行われる集金のための集まりのことを言う。そして集落境5箇所に立てられる御札は、立札のされる場所に近い役員が後日立てるという。

 

日曽利橋東(道の向こうは駒ヶ根市吉瀬へ)

 

芦ヶ沢(道の向こうは中川村南向)

 

丸山(道の向こうは駒ヶ根市吉瀬へ)

 

山の田 奈良部(道の向こうは駒ヶ根市中沢へ)

 

山の田 大上の上(道の向こうは陣馬形山へ)

 

 本日5箇所の立札を確認してみると、すべて新しい御札が立てられていた。おそらくお日待の翌日あたりに立てられたと思われる。

 日曽利は飯島町でも天竜川東岸にある唯一の地区。もともと現在の旧南向村(現中川村)だったのだが、橋を渡れば飯島に近いこともあって、昭和24年に飯島町に編入された。西岸地域とは環境がだいぶ異なるが、戸数そのものはそれほど変わっていないという。

 

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