Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

偏重の時代

2018-05-15 23:15:57 | ひとから学ぶ

 以前にもウェブ上の記事への論調の極端な流れがあることについて触れた。どこに書いていたか、探してみたがわからなかった。記憶では、ある事象に対して、例えとして当初は左よりだったものが、ある時点から右寄りになって行ったことについて触れたもの。ウェブ上の論調は、ちょっとしたことで流れが変わることを実感した。そういう意味では、ヤフー上にある記事に投稿される「コメント」は、ウェブ上の論調を見るひとつの場面である。多くの記事のコメントに、左右されることもなければ、ただの投げ捨てられたゴミに過ぎないかもしれないが、とはいえわずかながらも時間をかけて投稿する人々の、こころの中は少しばかり垣間見れるというわけだ。

 岸井成格さんが亡くなられた。ヤフー上の訃報を伝える記事にも、当然のことながら多くのコメントが寄せられている。岸井さんは確かに極左的意見と、右の人たちには見えただろう。この死を伝える記事に書き込まれたコメントの偏重度は、並み居る著名人の中でも格別かもしれない。「ご冥福をお祈りします」という言葉が例え添えられていたとしても、コメントは極度な批判的なものばかり。それこそが偏重ではないのか、と問いたくなるほど岸井さんが嫌われていたことがこのコメント上では顕わになっている。批判的などというものではなく、ここでは書き表せないような投げ捨て文字が踊る。それを批判する、あるいは反するコメントなどほとんど無いといってよいほど。かろうじてそうした意見に反論するかのように、「そう思わない」へチェックするする人がいる程度だ。これが現代の流れなのだと思う。ようは偏重の言葉にみなが群がる。岸井さんのことはともかくとして、地方に住んでいる者にとって、この流れが怖い。おそらくこの国の将来は、少数環境に居る人々にはこのうえなく不安な環境だということ。少数意見は通らない、あるいは徹底的に叩かれる時代だということ。そして流れが起きると、世の中は止めることもできないほどその流れに乗っていってしまう。

 この流れは、政治の中にもよく現れている。とりわけ少数環境になってしまった農業分野は典型的かもしれない。もはや農業を実感できる政治の流れは消えてしまっている。少数意見など通りはしない。その背景に人口減少時代における将来の現実を踏まえた政治だと気づかされるが、そのいっぽうでそれでも継続されてきた農業農村の現実的な葛藤の上でのバランスがあった。もちろんそれは緩やかに変化を遂げてきていたが、もはや「間に合わない」とばかり、特化された政策に集中している。まるで限界集落に暮らす人々には、ただただ死を待つだけ、というばかりの。それでもわたしたちも含め国にNOとは言えず、まさに忖度をしながら国に寄り添っていかざる現実がある。何でも言えるウェブ上のコメントに、これほどその流れに順応したものが多いと、現実世界で葛藤しているわたしたちなど情けないものだと思わざるを得ない、というわけだ。だからこそ、少数環境にいる地方人は、今後ますます都会人の顔色をうかがいながら、忖度せざるを得ないことになっていく。それが嫌なら、それこそ山の中に逃避したような生活をおくるしかないのかもしれない。これまでにも書いてきたが、かつては都会に暮らす人々は地方に田舎があって、けしてその地方を忘れない思いがあったが、これからはそうではない。地方のことなど全く知らない都会人に、翻弄されていくのである。長野県内でも昨年「地方」を「地域」と名称を置きかえる事象がお役所にあった。せめて自ら「地方」という差別単語を使うのは辞めようとも思ったのかどうか知らないが、そんな単語の置きかえだけで問題の所在をクリアーしようなどという浅はかなことはして欲しくないのだが、現実の葛藤とはこの程度のところに現れるというわけだ。

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