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Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

残されたフイルムカメラ①

2024-05-20 22:19:27 | つぶやき

「MINOLTA CLE」カタログより

 

このモノクロのパンフの4人、全員鬼籍に入られた

 

モノクロの背面に印刷された「男の拘泥り」

 

 

 最近新たにカメラを買った。いわゆるミラーレスのカメラだ。これまで利用していた一眼レフが気に入らないわけではない。ミラーレスが欲しかった。なぜかといえば、ミラーレスはシャッター音が小さい、あるいは消すことができる。一眼レフはどうしてもシャッター音が大きくて、周囲にいると「今シャッターを切った」とばれてしまう。そういう意味で無音のカメラを使いたい時がよくある。

 かつて若いころに京都に知人がいて、よく一緒に写真を撮りに出かけた。その方はいつもライカを持っていて、それも何台も所有していた。わたしにはとても手の届かないカメラだった。そしてその知人の撮影したモノクロ写真は、ちょっと違った。そもそも知人自ら現像して焼き付けていたから、単純にカメラの違いだけではないと思うが、知人の写真を見せていただく度に、「やっぱりライカは違う」と思ったものだ。以来長くカメラを愛用してきたが、やはりライカはもとより、メーカーの最高機種は手が届かなかったので、いつも二の次のカメラを買ったもの。わたしの長いカメラ人生は、こうして中途半端なカメラで締め括られそうだ。

 さて、子どもの頃、我が家にはカメラというモノはなかった。世間ではかなり普及していたようだが、貧乏だった我が家にはカメラはなく、それはわたしが成人になるまで続いた。わたしが最初にカメラを買ったのは、飯山の小さなカメラ屋さんでだった。その第1号機がここに掲載したパンフレットのカメラ、MINOLTA CLEである。一眼レフが時流の中で、あえてレンジファインダーのカメラを購入した。このことは過去の日記にも記しているはずだか、人とはちょっと違ったカメラを持ちたかった、というわたしなりの主張だったとも言える。このカメラが発売開始したのが1981年というから、発売して間もなく購入したことになる。以降、わたしにとっては愛用機であり、自分の給料で最初に買ったカメラということで思い入れも強い。もちろん今も所有しているが、けっこう傷だらけである。一時は購入時の定価より中古販売価格が高い時期があったが、さすがにフイルムカメラは今は安い。それでも10万円くらいの中古品が出回っている。もちろん使うために購入したカメラだから傷が多く、そんな値段では売れないことは言うまでもないが、その後何台もカメラは購入した。そしてそれらフイルムカメラは、現在も何台か所有しているが、もちろん利用することはない。いずれ手放すこともあるのかもしれないが、このMINOLTA CLEだけは、最後まで手放すことはないだろう。

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何年たっても、草刈三昧

2024-05-19 23:33:34 | つぶやき

 

 写真は、これまでにも何度かここに掲載してきた我が家の土手のもの。先週の土曜日と今日、2日がかりの成果だから、ここに取り上げてみた。3枚目の写真が我が家の田んぼである。かつてはこれで3枚あったが、上2枚は、畔を抜いたから、現在は1枚になっているが、形状はL型といって良いのか…。我が家の田んぼも含めて、上に建物があるまでの間には何枚もの田んぼがあるが、現状は我が家のひょうたん型の田んぼが1枚耕作されているたけで、あとは全て耕作されていない。一応草刈管理はされているので「放棄」されているわけではないが、ほぼそれに近い。我が家ではこの2枚、どちらかというとまだ形が整っている方。実際に稲を植えている田んぼは前述のひょうたん型の田んぼと、1反近くある家浦の田んぼのみ。この写真の空間では、最も小さく、形状の悪い田んぼを耕作している。人から見れば「なんでこんな田んぼを」と思われても仕方ない。形状が良いのに耕作しない理由はいろいろある。以前にも触れた通り、2枚目の写真のように、ここは災害復旧で直してもらった。見事な土手であるが、復旧のレベルは見ての通り、ていうか写真では分からないかもしれないが、いわゆるフトン籠の色が違う。黒っぽいところと、白っぽいところは、施工時期が3年ほど異なる。黒っぽいところを直したら、すぐに崩れた。後に大雨があってその崩れが拡大して、また災害復旧をしたというわけだ。黒っぽいところは本物のフトン籠。白っぽいところはパネル式の施工しやすい簡易のフトン籠。近後はフトン籠を施工できる人がいなくなって、こうしたパネル式や、かご枠のようなものでないと施工できないとまで言われる。その証かもしれないが、黒っぽいところは籠がすでに孕んでいて、まともに施工されたとは思えないようなありさま。下の土地も元は田んぼであったが、その田んぼと我が家との田んぼの高低差は、大きいところで5メートルある。復旧してもらって法勾配が緩くなったから、意外に草刈はやりやすくなった。1枚目の写真の土手は45゜より急なので、草刈が厄介で仕方ないが、復旧した法面は、法面に容易に立つことができる、とはいえ、もうちょっと年を重ねると大変になることは確か。

 さて、この大きな土手と、上の田んぼ土手、さらにはよそ様の田んぼの土手の法尻まで刈るから、この空間の草刈は1日では済ませられない。さらに刈った草をそのままにしておくと土手が衰えてしまうため、草を寄せる。現在は田んぼを耕作していないので、田んぼの中に草を寄せることができるが、かつて耕作していた際には田んぼの中に寄せるわけにはいかないので、寄せておいてさらに運び出した。このように法面が大きな我が家の田んぼの管理は、ここだけではない。ところで、草を寄せるだけではない。1枚目の写真の道路。以前から記している通り、我が家では田んぼの下に水路と道路があるところが多い。この土手の草を刈れば、草は下にかき寄せる。加えて刈る前の写真を掲載していないからわからないだろうが、道路わきに草が大量に生える。したがってその草も刈るから、ようは我が家の土地だけの草刈ではない。加えて刈った後に草を片付けなくてはならないから、水路内の草を掻き揚げるととともに水路内にたまった土砂もあげる。さらに道路に草が散らばって残っていると何を言われるかわからないため、箒で掃く。ちょっと信じられないくらいこの空間は手が掛かるのである。もちろん、写真は箒で掃いたあとのもの。

 なお、草刈の範囲を示したものは「草刈の範囲」参照

 かつての災害復旧前のものは「農繁期」参照

 また、我が家ではこんな空間も草を刈る。「続 本日の成果」参照

 

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年老いて思うもの

2024-05-16 23:00:00 | つぶやき

 それぞれの人たちにそれぞれの権利があるのは百も承知だ。例えば近ごろさかんに話題に上る同性婚も否定するものではない。しかし、生産性という面で必ずしも現在の日本の状況の課題をクリアーするものではないことは言うまでもない。ようは人口減少という視点である。すでに人手不足は始まっており、とりわけこの後、金にならない世界は真っ先に切り捨てられるだろう。その最前線が地方であり、農業である。その最前線にある地方の姿は、みんな口には出さないが惨憺たる状況が待ち受けていることを知らない人はいない。

 今日はお世話になった方たちと、年度末に飲んで以来の懇親会を行った。世知辛い世の中でも年老いた人間にとってみれば義理堅い付き合いを忘れはしない。だからこその義理を返そうとした懇親会だった。しかし、こうした義理も、現在はかなり省略されて、たとえお客さんに義理を果たしたとして、返されることは稀になった時代である。そういう意味では返していただけることへの感謝は表しようもないが、その恩は忘れない。それが人間としての義理であり、常識だとも思っている。が、しかし、冷淡な時代であることは先日自ら出版した本への対応の現実で触れたとおりだ。この世に「義理」なるものは消滅しているし、それが当たり前だと認識している。とはいえ、何か「ほしい」よね、そう思うことは多々ある。その「ほしい」とは代償ではない、一言でもいいから、何か反応してほしい、その程度のことなのだ。それさえできなくなっているのが現代人なのである。

 お客さんと飲んだあと、最終までの時間がそれほどなかっので、二次会は遠慮した。とはいえ電車までの時間は少しあったため、近くのラーメン屋へ入った。それほど時間に余裕があったわけではなく、「ぎりぎりかな」と思いながらも久しぶりであったから、「食べたい」そう思った単純な行動である。もう30年以上前から時おり足を運んでいたラーメン屋である。数十年レベルで同じような店に時おり出入りするが、おそらく、それらすべての店で、現当主が営業できなくなれば、廃業になるのだろう。今だからこそ足を運べる世界で、数年後そこに同じものを求めることはもうできないだろう。店を出る際に「おいくつになったのですか」と聞くと、75歳という。なるほどそう長くは続けられないだろう。とはいえ頻繁に訪れることはできないし、いつまで「行ってみよう」と思った際に立ち寄ることができるか、もはや時間の問題なのかもしれない。そしてそういう店は街並みの中にいくつもある。どれほど地域のリーダーたちの中にこうした事実を考えている人がいるか知らないが、もちろん若い、新しい人が出てきてくれる可能性もあって、全てが消えてなくなるわけではないだろうが、先の姿は容易に想像できそうなほど、街並みは老年化している。

 一世紀以上も前なら「私財を投げうって」人のために働く人がいたが、この世には金があってもそんなことをする人はいない。なにもかもが個人の権利にゆだねられ、裏を返せば暮らしやすいと言えるのかもしれないが、人のせいにする言葉ばかりが聞こえる時代である。もちろん年寄りのボヤキに過ぎないが、若いころ、このような風が漂うような国になろうとは、思ってもみなかった。あえて言うなら、外の風景は何も変わらず、眺めていれば、かろうしで癒してくれることが助けだろうか。

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意外と文字化されていない事実

2024-05-14 23:36:41 | つぶやき

 先ごろ「志久見川沿いの集落景観」を記した。栄村では2022年に『栄村誌』を刊行している。長野県内でも北の端の村なので、南信の図書館でその本を置く図書館などない。長野県内図書館横断検索サービス「信州ブックサーチ」で検索してみても12件しか表示されず、北信域以外では小海町図書館位である、蔵書としているのは。そんなことは調べなくとも解っていたから、栄村を訪れた当日に、長市立図書館で閲覧した。2022年と県内の市町村では、ごく新しい自治体史誌。カラーページが多く、一般向けを意識された本なのだろう。そこで志久見川沿いの集落景観に見た関連の記述はないかと、ざっと見てみたのだが、それらしいものはまったくなかった。集落内にあるお堂のことはもちろん、十王についても触れられていない。長野県市町村史誌目次データベースで「栄村」を検索すると「栄村史 堺編」が1964年に刊行されている。目次が見られるため、それらしい箇所を探すが、せいぜい「寺院」に関する箇所ぐらいだろうか。とはいえ、寺院の中にある堂ならともかく、集落内にある小堂について扱われている可能性は低い。実際閲覧してないので何とも言えないが、もちろんこうした書も近在では閲覧できそうもない。「禁帯出」になっているものがほとんどだから、依頼して閲覧できるかどうかも怪しい。別のルートで閲覧する方法もあるのだろうが、求めている記事がある可能性は低い。

 そうした中、前述の長野県内図書館横断検索サービス「信州ブックサーチ」において「栄村」で検索して文献を探してみた。実は『栄村史 堺編』の目次を見てもわかるとともに、2022年に刊行された『栄村誌』もそうだが、「栄村」といえば秋山郷が知られていて、秋山郷に関する記述が多い。それは文献を検索してみてもわかる。志久見川沿いの思慮が無いかと検索して見つけたのは、埼玉大学文化人類学研究会が1992年に発行した『栄村東部谷の民俗』である。ところがこれを所蔵している図書館は県立長野図書館のみ。とはいえ、志久見川沿いの民俗調査報告書なので、確認してみたい。これについては、また後日確認後にここで報告することとして、ほかに検索していると『栄村の石造文化財』というものがあった。古書を扱うページ(東京都古書籍商業協同組合)で検索してみると、表紙の写真に見覚えがある。ここでようやく気がついたのである、「この本、持っているはず」と。平成2年に発行されているもので、同6年に購入していた。探してみると確かに書棚に埋もれていたわけで、さっそく開いてみたというわけである。本のことを覚えていたなら、栄村に足を運ぶ前に確認したであろう資料なのに、すっかり忘れていたというわけである。石造物の報告書だが、集落ごとに掲載されている代表的な石造物の写真の中に、お堂の写真が掲載されている。「志久見川沿いの集落景観」でも触れた通り、この地域には集落ごと必ずと言ってお堂が存在する。それが志久見川沿いだけなのかどうか、と疑問を呈したが、その答えがこの報告書から読み取れる。お堂の写真を確認しながら図化してみたものが「栄村における集落のお堂」である。実は十王堂とほかのお堂が併存している地区もあるが、そうした地区は十王堂を優先させてもらった。図でもわかるように、やはり栄村全体で地区ごとにお堂があることがわかる。ただし、庚申堂は祠レベルであって、ほかのお堂とはちょっと異なる。したがって庚申堂が多い千曲川沿いの集落には、志久見川沿いほど、お堂のある景観が顕著ではないということが言える。いずれにしても、最も多いのが観音堂で、やはり志久見川沿いには十王堂が多い。同書には信仰的な背景は記述されていないが、わたしの求める主旨とすれば大変参考となった。

 前述したように、『栄村東部谷の民俗』に期待したいところだが、意外に文字化されていないことが多い、そうあらためて解ったところである。

 

 

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霧灯

2024-05-13 23:20:05 | つぶやき

 長く車に乗っているが、フォグランプなるものを点灯して走る経験は、勘定してもおそらく数時間レベルだと記憶する。現在利用している車はもともと付いている車種だったし、以前の車にも購入時から付いていた。ただ、それこそ初心者マークで乗っていた時代の車など、30年以上前の車にはオプションがなかったり、あるいはオプションで追加するという選択だったため、フォグランプは付けなかった。とはいえ、フォグランプの付いた車に、もう20年以上乗っているのに、実際点灯して走った時間は長くない。視界が悪い、ようは濃霧の際に一時的に点灯することがたまにあるくらいで、ふだん点灯させて走ることはない。現在はフォグランプが購入時から付いている車が多いが、ユーザーがどのように利用しているか、はそれぞれであってその利用に対してどこかで教えられているのかどうか…。

 “フォグ”は英語で霧を意味しており、日本語では霧灯(むとう)と呼ばれるという。その名の通り、濃い霧が発生した際にフォグランプを点灯させることで、視界を確保する重要な役割を持つランプということになる。したがって「普通」は常に点灯させるものではない、という考え方が適正なのだろうが、ヘッドライト同様に常に点灯している人も多くはないが少なくもない。フォグランプは、ヘッドライトと照らす位置が異なり、濃い霧の中であっても乱反射が起きにくく視界を確保することができると言うものの、実際濃霧の中でフォグランプを点灯したからと言って、視界が良好になるわけではない。ヘッドライトに比較すると少し「違う」程度というのが、素人が利用した際の印象だ。フォグランプは下方向を広く照らすことが役割と言われ、ようは前方に向けていては乱反射して余計に見えないから、下を照らして少しでも地面が確認できるようにしている、とでも言って良いだろうか。いずれにしてね、点灯したとしてもドライバーから見て視界が極端に変化するわけでもない。とすると「フォグランプは必要なのか」ということになるが、相手側から認識してもらう、ようは存在をアピールするには効果があるということになるのだろう。その意味でも霧の中でその存在を知ってもらうためのランプ、と認識していた方が良いレベルだと、わたしは思う。したがって濃霧の際、あるいは豪雨で視界不良となった際には必要だが、ふだん点灯していても無意味、とわたしは考えるが常時点灯しても、差し支えないランプであることも事実である。

 さて、長い日記生活の中で、大型車が後ろ向きにフォグランプのようなものを点灯していて、後ろについた車がまぶしくして仕方がない、ということを記したことがあるような記憶があるが、いつだったか定かではない。繰り返すがフォグランプは常に点灯していても「悪い」わけではない。ふつうはフォグランプの目的があるから点灯していても点灯していなくとも、ドライバーから見るとそれほど「変わりがない」と思うのだが、そうではないランプを付けている人がいる。おそらく純正品ではないのだろうが、先日も後ろに接近してきた車が、ずいぶん遠くにいるうちから「眩しい」。最初はヘッドライトと思っていたが、ヘッドライトとは別のもの。ヘッドライトよりも明るく、そして眩しいということは、光軸も上を向けている。後付けに違いないのだが、いわゆるかつてのオプションのように、車から飛び出しているタイプではなさそう。したがって車体内に組み込まれているタイプだから、自分で光軸をいじったのか、あるいは車屋さんにいじらせたのか定かではないが、なにしろ「眩しい」。常時点灯している意図もそこらにあるのかもしれない。よくぞこんな眩しい状態で常に走っていて、周囲からちょっかいが入らないものと感心する。危ない人が前で走っていたら、絶対止められて何かされそう、と思うのだが、今のこの世界の事情はいかほどなのか。よくも平気で運転しているものだ、と案じてしまう。ヘッドライトの「眩しい」例もあるが、フォグランプが「眩しい」という例は、そう多くない。そもそも「点灯するな」と思うし、このフォグランプ、濃霧の中では光軸が上を向きすぎていて効果を発しないだろう。

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シロの一生 後編

2024-04-30 23:35:17 | つぶやき

シロの一生 前編より

2013/4/14 シロが2匹?

 以前触れたことがあると記憶するが、実はシロは我が家へやってきた犬ではなかった。妻の実家で飼っていた犬が亡くなって、獣除けの番犬代わりでもあったことから、次の犬を、ということで妻の実家で飼うためにやってきた(我が家にはラブがいたから)。ところが、時を経てもシロが大きくならない。あまりに小さいから、とても獣除けにはなりそうもない。ということで我が家で飼うことに・・・。その後シロの代わりにやってきたのが、ハナなのである。ハナのことは本日記では記していないが、別の日記で記していた。例えば「ハナがやってきた」「シロとハナ」。また、「スピッツ前夜」「このごろのハナ」。いちおうスピッツなのだが、スピッツらしくならず、いまもっていわゆるスピッツのふさふさ感はない。シロはラブにはなついていたが、ハナとは遠慮がちというか、前編で紹介したような仲の良さはなかった。

 さて、以下の写真を見ての通り、肺水腫を患う前と後では、ずいぶんシロの様子が違ってきた。患った後は穏やかで、いかにもお年寄り風になってきていた。そして何と言っても、寝ていることが多くなって、最近は人が近くを歩いても気がつかないこともあったし、吠えないこともあった。たまに吠えても、以前のような「吠えまくる」はなくなっていた。でもクールなシロであることに違いはなく、大好きな母さんにもベタベタするということはなく、嫌いなものを口元に持ってくと「プイッ」とよそを向くのは、死ぬ直前まで変わらなかった。

 「4月26日午前6時50分の別れ」でなぜ「わたしの退職に合わせたようにあの世に旅立ちました」と記したかといえば、肺水腫を患って以降、シロの医療費はもちろん、食事代にもずいぶん費用を要した。ラブは身体が大きかったから、餌代にかかったかもしれないが、医療費はだんぜんシロに軍配があがる。退職して、今までほど収入がなくなった我が家にとっては、親孝行な旅立ちだったかもしれないから、そう記した。でも、まだもう少し長生きできそう、そう話していたのに、突然の旅立ちはとても寂しく、残念。退職したからこそ、もっと面倒を見てあげられるかも、そう思っていたのに・・・。

 大好きだったラブと、天国で待っていてください。

 合掌

 

2015/5/3

2016/1/1

2017/3/18

2020/5/3

2020/10/11 肺水腫を患う前のシロ

2020/12/29 肺水腫を患って1か月

2021/2/14 こんな具合にわたしのお腹の上で寝ることも多くなった

2021/4/18 わたしの転寝している横で

2021/6/22

2021/12/4 見つめる目も弱弱しくなった

2022/1/29

2024/3/26 もっと写真を撮ってあげておけば良かった・・・

2024/4/28 さようならシロ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

いつ頃撮ったものか、お兄ちゃんが撮ってくれたベストショット

 

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シロの一生 前編

2024-04-28 23:00:46 | つぶやき

 2012年7月30日に「火葬場から」を記した。読み返すと、ずいぶんいい日記を記している。ペットの火葬について記したものだ。妻がこんなことを今日口にした。妻の実家の近くにいる親戚の家で飼い犬が死んだ際に、火葬場に持ち込んで「火葬にして、あとは処分してくれといってすぐに帰った」と言う。妻にしてみれば「ひどい話」と憤慨したわけであるが、実は「火葬場から」に「火葬場によれば火葬に持ち込んだ後、そのまま骨の処分も依頼してすぐ帰るケースもある」と当時記している。ようは当時のペットの火葬場は、「処分場」のような存在であったとも捉えられるもの。そのことが日記には綴られている。なるほど「処分場」か、と納得してしまうわけであるが、当時はペットの火葬が当たり前ではなかったのかもしれない。この記事はラブが亡くなった際に、火葬場で火葬にした日に記したもの。妻にとっては実家でずっと犬を飼い続けてきたという経験の中で、初めて火葬にした例であった。

 そして今日、シロの火葬をしてもらった。ラブのときと同じ火葬場。実はラブの後にも妻の実家で飼っていた犬は亡くなっているが、火葬にはしていなかった。ラブ以来の火葬、当時とは少し様子が違った。ラブの遺骨は、小さな骨壺に入れられて、今も居間のピアノの上に置かれている。小さな骨壺だから目立たないということもあって、ずっと身近に置いてきた。大型犬であるラブだったから、火葬にした後に骨はたくさんあっただろうが、一部だけが骨壺に入れられて持ち帰られた。記憶は定かではないが、火葬場からそう勧められた結果だと思う。ラブもまた妻にとっては子どものようなものだったから、「全部持ち帰ってあげたかった」とは、シロを火葬している間に口にした言葉だった。

 ラブに比べたら小さなシロは、骨はもちろんわずかだった。火葬場から骨壺の大きさを問われ、3寸のものにしたが、一応全ての骨が納まった。しかし家に帰り、ラブの遺骨の横に並べると、それより一まわり大きい。ラブの遺骨は、本当に一部分だけだったのだと、あらためてわかったしだい。

 さて、ラブは人懐こかったが、シロはクールだった。でもお母さんとは、常に一緒に実家と家を行き来した。3年半もの間、ずっと食事を食べさせてもらって過ごした。ここではシロの一生を振り返ってみることにする。

 

2009/4/5 我が家にやってきた日

2009/4/8 毎日のように写真を撮った

2009/4/11 いつも段ボールの中

2009/4/19 こんな具合に寝ていることが多かった

2009/4/25

2009/5/31 1か月もしたら顔つきが変わってきた

2009/8/29 ラブとはいつもじゃれ合っていた

2009/11/23

2010/4/25 ため池の土手へラブと散歩に行くことがよくあった

2010/9/5 いよいよ家の中で自由に…

2010/10/16

2010/12/31 2010年大晦日

2011/4/3 ラブも年をとった

2011/10/29 やはり、ため池で

2013/12/8 もうラブはいない

2014/11/25 サンルームから家の中をのぞくことが、休日のよくある光景

2015/3/17 吠えまくり続けていたころ

 

後編へ

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4月26日午前6時50分の別れ

2024-04-26 23:24:17 | つぶやき

令和6年3月6日撮影

 

ぼくが肺水腫を患ったのは、3年半ほど前のこと。
一時的に心臓が止まって、お母さんは「もうだめかも…」と思ったようだけど、
ぼくは持ちこたえた。
あれから3年半、獣医さんからは
「ここに来ている患者さんの中で、最も心臓が悪い」
て言われ続けていた。
前なら、転寝しているお父さんのお腹に
ぴょんと飛び乗れたけど、
それ以降はそんな芸当はできなくなった。
ときおりお父さんに乗せてもらって、
お父さんのお腹の上で寝ることもあったけど、
心臓への負担もあって、長くは留まれなかった。

近ごろは、寝そべると心臓の負担が大きくて、
立膝して「コックリ、コックリ」していた。
だから、「スッテン」と転んで、また起き上がって、を繰り返していた。
心配そうに見守ってくれるお母さんや、お父さん、
立膝した態勢で寝られるように、
前足の間にタオルを入れてもらったりしたけど、
やっぱりつらかった。
そんな調子だから、
散歩に行くのもつらいところがあって、
それでも足腰が弱ってはいけないと、
お母さんも、お父さんも
散歩に連れ出してくれたけど、
やっぱり家へすぐに足が向いてしまった。

そんなぼく、
耐えるのも大変になって、
夕べから息絶え絶えになった。
お母さんは心配して添い寝してくれたけど、
今朝がた身体がおかしくなってふらふらになった。
するとお母さんが抱っこしてくれて、
少し痛みは和らいだけど、
限界でした。
お母さんに抱っこされて、
お父さんに見守れながら、
天国に行くことになりました。

最近は、
鯛の刺身や
千代幻豚なんかも食べさせてもらいました。
今まで、
ありがとうございました。

 

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まるでわたしの退職に合わせたようにあの世に旅立ちました。

いつも一緒だった母さんに抱かれながら逝かせてあげられたのが

せめてもの救いでした。

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空白に見る「その時」

2024-04-23 23:42:10 | つぶやき

 この1年間の日記を見れば、惨憺たる状態であることは一目瞭然である。長く毎日記していた日記が途絶えるようになって、そして、この1年はほぼ空白だらけ。実はこれってけっこうわたし的には問題を孕む。「日記とはこういうもの」と、あらためて認識させられることに…。

 令和5年度を「この1年」とすれば、このような空白は前年の令和4年にも見られ、「いつからこうなんだろう」と遡ると、令和2年(2020年)の3月末からのことである。当時盛んに訪れていたのは富士見町。その際連載していた「富士見町の道祖神」が、空白の日が現れるころに中途で止まっている。継続して書き残す予定で、書けなかった「道祖神」を空白の日に充てていた。ようは後日書こうとしてあえて空白にしておいて、そのままになって今に至る。長い日記の記録の中で、ここから始まった空白の連続なのである。ようは「後で書こう」と思って空白を作ったら、惰性で空白だらけになって、それが令和5年の1年に繋がった。確かに令和2年は、4月は全ての日が埋まっている。しかし、5月に入ると再び空白が…。全て生業と絡んでいる。結局自宅に帰っても仕事のことが頭から離れず、その上で実際のところ業務が滞って空白が見られる時期は「きつかった」ということが察せられる。ところが令和5年のように空白だらけになると、そうした状況すら察することができない。「いったいこのころは何をしていたのか」と。

 令和2年6月からはしばらく空白はない。再び空白が現れるのは10月。これも何故かわかる。やはり仕事が絡んでいる。11月まで何日か空白が見られ、12月はなんとか空白を出すことはなかった。次に空白が現れるのは令和3年の2月。まだ空白は「点々」と存在するに留まるが、いよいよ空白だらけになるのは3月だ。初めて日記を記した日が半月を下回った。それから8月までは持ち直して空白は「点々」状態だが、秋になると空白が多くなる。その後復活して12月から令和4年の10月までは空白は全くない。ところが例によって仕事が滞るころに空白日が始まる。令和4年の11月である。そしてもはや「死んだのでは」と思うほど空白が続くようになるのが、令和5年7月から。もはや日記を開くこともなくなっている。

 ということで、この1年間、生きていたから残すべく記録はある。ところが検索しても引っかからない。ようは日記とはいえ、日々の記録というより、大きな出来事について何回かに分けて記しているこの日記は、例えば原稿にしようとする時に参照している。ほかにも、本日記を書く際にも過去に訪れた場所のデータを紐解くことも多い。「検索」すればキーワードで紐解けるから、手書きの日記とは違う。「去年あそこに行った」という記憶で検索すれば紐解けたのに、この1年は全くデータがない。これが大きいのである。できれば自分にとって大きな話題は残しておきたい。今からでもなんとかしたいという気持ちはあるが、とりあえず、現在を書き残すのが精いっぱいである。「来年からは」と人には口にしていたが、そうたやすくないことも4月に入ってから実感していて、既に1か月を過ぎようとしている。決めていたことだから4月はここまで空白はないが、せめて令和4年以前のように、空白からもその時のこころもちが察せられるような日記には留めたいものである。

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あのころの景色⑧

2024-04-17 23:41:05 | つぶやき

あのころの景色⑦より

 前回述べたように、栄村には仕事でよく訪れた。とりわけ頻度の高かったのは極野(にての)から秋山へ向かう道。現在村道長瀬秋山線と呼ばれている道路である。わたしがかかわったのは、中部電力志久見川第一発電所への送水管上部から五宝木までの間である。したがって極野は頻繁に通っていた集落。もう半世紀近く前のことであるから、当然のことであるが、当時は人の気配は高かった。そこにいくと集落内を通っても、無住の家が目立つし、まだ積雪があったせいか、冬期間は里に下りている、というような雰囲気の家も見られた。

 

坪野にて(令和6年3月28日撮影)

 

 志久見川の支流である天代川へ遡ると坪野の集落がある。極野以上に生活感のない家々が点在していた。除雪してない家があるということは、冬期間はここに暮らしていないということ。ここに限ったことではないが、栄村にはそうした家があちこちに見られる。東北の震災翌日に発生した長野県北部地震の影響が大きいのかもしれない。当時のことは「栄村へ・後編」などに記している。もう13年前のこと。

 飯山を離れて以降も、この地域への思い入れはしばらくあった。したがって秋山へは、その後もこの道を利用して何回か入っている。この季節だから、もちろん通れないことはわかっていたが、入り口ですでに雪に阻まれてそれより進めないことを知った。夏期に、今一度訪れてみたい、そう思った。

 ところで4枚目の写真の背景、小高いところに小さな赤い屋根の建物が見える。その後志久見川沿いを下りながらわかったことであるが、どこの集落にもこうした高い位置に小さな建物がある。それらの多くは墓地の周囲にあったりするが、これは「お堂」である。志久見川沿いの集落の典型的構図なのである。このことは別項で触れたいが、それは川を下りながら気づいたことで、坪野を訪れた際にそのことに気づいていたら、この「お堂」まで上がって行ったのだが、後で気づいたため、実はこの「お堂」は覗いていない。これも後の宿題である。

 

参照「栄村へ・続編」

  「豪雪地飯山の記憶」

  「ドウソジン祭りの準備」

 

終わり

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2024年「桜」後編

2024-04-11 23:23:00 | つぶやき

2024年「桜」前編より

 昨日に引き続き、今日は会社の人たちと高遠の桜の様子を見に行った。いわゆる世間でいう「お花見」にあたる。平日ということもあって、それほど混雑することなく城内の駐車場まで上がったが、桜はピークである。本音のところ「昨日の方が良かった」とは、今日は「花曇り」。背景の中央アルプスの山々は、靄がかかっていたし、空も「青」ではなかった。桜の見ごろに高遠城内へ足を踏み入れるのは、何十年ぶり、というほど昔のこと。コロナ禍のせいだったかどうか記憶は定かではないが、場内での酒の飲酒が止められていたはずだか、今年は露店で酒も販売されていて、昔のような光景が見えた。いっそう平和になったかは定かではないが、暇と金のある人々にとって、今の時代は楽しくて仕方がないのでは、と思わせるほど、働いていない人たちが今は多い。

 

城址公園内

 

高遠閣前で

 

勝間の枝垂れ桜

 

 久しぶりだったためなのか、それとも違う理由があるのかはっきりしないが、城址公園内の桜に、あまり「感動」がなかった。「もっとピンクではなかったか?」という印象を受けた。夜見る桜と、昼間見る桜の違いだけかもしれないが、かつてもあまり経験していなかった午前中の城址公園内の桜は、よその桜並み、という印象を受けた。よその桜を見てから城址公園内へ訪れれば違う印象を持ったのかどうか、果たして…。

 城址公園を訪れた帰路、南側に下ると正面に勝間の桜の木が見えた。ということで勝間の枝垂れ桜にも足を運んでみたが、枝垂れ桜はまだ満開には時を要す感じだった。ここの桜も昔から認識していたが、近年は知られるようになって、ここを訪れる人は多い。勝間の集落は、集落より低い位置に水田。それより高い位置に住宅地。背後に畑があって、その上に墓地が展開する特有な光景。その上は山になる。それほど大きくない集落であるが、コンパクトに機能分けがされていて、集落景観が人々の暮らしと大きくかかわっているようにも見える。ようは調べがいがある地域なのかもしれない。

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2024年「桜」前編

2024-04-10 23:22:19 | つぶやき

藤巻川沿いの桜

 

吉瀬の桜

 

吉瀬の桜の近くでの光景

 

 今年も、現場へ行った際に駒ヶ根市吉瀬の桜を訪れた。そのついでに飯島町田切の道の駅西側の藤巻川周囲に植えられた桜にも立ち寄った。藤巻川周囲の桜は、近ごろ桜の季節に訪れる人が多くなった。比較的新しい木が多かったのだが、ようやく見栄えのする桜になってきた感じで、ネット上にもたくさんの写真が公開されている。国道153号線の道の駅「田切の里」を挟んで東西に約1キロメートル、藤巻川に沿って植えられている。下流域はまだ木が若いが、とりわけ南割集会所の周辺の桜は大きい。中央アルプスの宝剣岳や、南駒ケ岳といった山々が背景に写り込むため、そうした背景の良さもあって人々を誘っている。

 古木の桜は上伊那には少ない。したがって下伊那ほど桜で誘う場所はないが、ひときわ眼を奪わなくとも、桜の咲く光景は里山の中にも点々としていて、今は「賑わいでいる」のは確か。そうした注目にはまったくはまらないが、最近近くを走っていて思うのは、飯島町の高遠原あたりの西山裾である。中央自動車道の背後の山々に、点々というより、緑の中に緑を打ち消すように桜の花が目立っている。伊那谷では里山や段丘の斜面にも点々と桜が目立っていて、桜の木が「多い」という印象を与える。日本中そうなのかもしれないが、何十年も前にこれほど桜が目に入った覚えがない。

続く

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あのころの景色⑦

2024-04-08 23:21:28 | つぶやき

あのころの景色⑥より

 

 

 栄村は、飯山に暮らしたころよく行った村である。もちろん仕事で訪れたわけだが、飯山5年の間、ずっと担当していた地区があったからだ。とくに野ノ海の池や、北野から鳥甲山へ連絡する道とずっとかかわっていた。いずれも生活道路ではなかったので、除雪がされておらず、今回足を踏み入れることはできなかった。5年といえば、そこそこの年月であることから、担った現場も数多い。記憶ある地名でも、現場がどこにあったのか、蘇らないところがいくつもある。まだ初任地であっものの、ずいぶんいくつも現場を担っていたものだと、あらためて感慨深くなる。

 写真は、もちろん森宮野原駅である。ここに立つ「日本最高積雪地点」という標柱は、当時のものではないが、当時も同じような標柱が立っていた。豪雪地帯であるこの地であるが、駅での最高積雪という標。しかし、あのころも、今もそうだが、実際の積雪では、やはり新潟とか山形にもっと積雪深のある地域を耳にする。温暖化で小雪の今から推察すると、この最高積雪は昭和22年と古い記録だが、数世紀単位で超えられることはないのではないだろうか。駅舎も当時のものとは異なるだろう。この駅前に、現在も「吉楽」という旅館がある。実はこの旅館には数えきれないほど泊まった記憶がある。当時は栄村の前述したような現場を訪れると、それほど距離はなかったもののよく泊った。ときおり秋山に泊まることもあったが、ほぼ「吉楽」だった。泊まらなくとも、昼食をとる際にもよく利用したように記憶する。長い生業の中でも、ここ「吉楽」か、旧南信濃村の紺屋旅館か、と言えるほど、宿泊回数が多い場所。後者より「吉楽」の方がきっと多かっただろう。建物が当時と同じかどうかについては、記憶が定かではない。いわゆる仕事で利用される方がほとんどだった。

 この森宮野原駅前でも、今年の残雪はこの程度であった。

続く

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あのころの景色⑥

2024-04-07 23:23:24 | つぶやき

あのころの景色⑤より

 飯山市桑名川の千曲川に「七ヶ巻の渡し」というものがあった。いわゆる渡し舟である。残念ながら、飯山時代に待望のカメラを取得したのに、あまり写真は撮影していない。今から思えば、フイルムカメラであるから、むやみに撮影すれば、当然フイルム代もかかるし、現像代、焼付代と要した。お金に余裕がなかったから、シャッターを切るのは限られていた。この渡し舟についても、撮影したという記憶はない。渡し舟が岸に繋がれている写真は撮ったかもしれないが、ちょっと探すのには時間がかかる。

 七ケ巻にはかつてスキー場があった。その印象がないのは、そもそも当時流行っていたスキーもしなかったから、興味がなかった。スキー場は昭和42年12月に開業し、同57年に閉鎖となっている。15年ほどの営業で終わっているのだが、昭和54年から昭和58年まで飯山に暮らしたわたしは、営業期間にここを通過しているはず。七ケ巻は、千曲川右岸にある集落。対岸が桑名川で、両者を結ぶために渡し舟があった。もちろん渡し舟を利用しなくとも、七ケ巻に入る道はあったが、いずれにしても七ケ巻は野澤温泉村。桑名川は飯山市。ようは自治体が異なる。それは今も同じだが、現在は国道117号線のバイパスが右岸に開けたため、七ケ巻の方が騒々しい。いっぽう旧道側である桑名川を通過する車は集落関係者くらいしかいなくなった。当時とは大きな違いである。

 

 

 そして渡し舟。渡し舟も廃止になったのは昭和58年だから、わたしが暮らした時期は渡し舟末期だった。ようは渡し舟が往来している姿を何度も見ている。が、写真には納めていない。栄村へ行った際に、旧道を走り、かつてのわたし船のあった場所の下流側から写真を撮ってみた。以前は渡し舟があったという看板が目立つようにあったように記憶するが、今は渡し舟のあったことを示唆する表示はないように見えた(よく見ればどこかにあったのかもしれないが)。ただ、七ケ巻側には現在も当時のケーブルを渡した鉄塔が残っていて、小屋のようなものも残っている。わずかながらのかつての名残りである。なお、昭和57年に永井修二さんが撮影された写真が「七ケ巻の渡し」にあるとともに、おそらく廃止直前のものと思われる写真が「長野県最後の渡し舟 千曲川七ヶ巻の渡し」にあった。

続く

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あのころの景色④

2024-04-05 23:52:26 | つぶやき

あのころの景色③より

 2018年6月に「ネガフイルムの劣化」を記した。そこで扱った写真の解説を次のように記している。

 かつて「北信の石仏・後編」で飯山市瑞穂にある万仏山の観音について触れた。弘化3年(1846)に造立されたもので、飯山に暮らした昭和50年代後半には何度となく足を運んだ、わたしの好きな石仏群だった。瑞穂福島地区の上部に福島神社があり、その脇の三叉路に「第一番」が立ち、ここから万仏岩まで三十三観音が建てられた。映画「阿弥陀堂だより」に登場した阿弥陀堂が、この山道の先にある。阿弥陀堂そのものは映画のために建てられたもの。

 

一番

 

 

 若いころ何度となく訪れた山道観音。瑞穂は千曲川右岸であり、飯山市の中心街から中央橋を渡って向かうと、木島平村にいったん入り、その先にある地域。もちろん木島平村を通過せずに行く道もあるが、飯山市中心から向かうには木島平村を通った方が早い。とはいえ、かつて樽川が決壊した際に災害復旧で携わった樽川と千曲川合流点の排水機場の横を、樽川を渡る橋ができているのは知らなかった。おそらく、この橋を渡る道を選択すれば、木島平村を通過せずに瑞穂にたどり着けるのだろう。「あのころの景色①」でも触れたが、かつてと大きく異なるのは、道が変わったことだ。飯山市木島のあたりも、木島平村から中野市方面へ行くには、かつての下木島の集落内を走らずに、樽川沿いに連絡するバイパスができていて、かつてと印象が違った。もちろん旧道を走れば、昔ながらの集落内の道に戻る。

 万仏山への道の手前、福島集落も傾斜地に展開される集落。北側の小菅とよく似た空間である。さすがに観音さんを何体が確認し、「阿弥陀堂だより」のために造られた建物が見えるあたりまで上ると、雪が除雪されておらず、それより上へ足を踏み入れることはできなかった。野沢温泉へ向かう道から、一気に上り詰めるこの傾斜は、意外になかなかのもの。ここに多くの家々が展開されるわけだが、長野県内でもときおりこうした傾斜地の集落を見かけるが、豪雨時はどうなんだろう、と気に病む。

 雨の降る中で訪れた石仏群、明瞭な写真は撮れなかったが、振り返れば千曲川が眼下に展開されていて、その地形の変化が実感できる。

続く

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