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Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

あのころの景色③

2024-04-04 23:42:01 | つぶやき

あのころの景色②より

 2016年1月に「35年後の景色」を記した。そこで扱った写真の解説を次のように記している。

野沢温泉に向かう途中に、飯山市内で1枚だけシャッターを切った。それが1枚目。市街を通るかつての国道117号のひとつ西側の裏通りだ。道の真ん中に消雪パイプが見えるが、おそらく今年はほとんど使っていないだろう。日陰にわずかながら雪が残っているが、ほぼ雪は無し。この時期に積雪ゼロなどということがかつてあったんだろうか。見て分かる通り、右手に「みはる寿司」という看板が見える。わたしの記憶ではここでかつてもシャッターを切った覚えがあって、この日記憶通りシャッターを切った。帰宅後かつての写真を紐解いてみたら、2枚目の写真があった。同じように「みはる寿司」の看板が。2枚目の写真はわたしが中版カメラを購入した頃に撮ったものだから、昭和56年か57年の冬のもの。35年くらい前のものだろうか。あの当時と同じ看板なのか2代目なのかは定かではないが、記憶通りの写真が見つかるとは思っていなかった。冬季間はこの通りは毎年こんな感じだったから、当時は消雪パイプが入っていなかったと思う。いちおう店の入口は1階にあったが、2階くらいのところから下って入るようなことが普通にあった。今は消雪パイプが入っているから、35年前のような景色になることはないのだろうが、それにしてもまったく雪の無い景色に驚く。こんな具合だから、もちろん野沢温泉に行く途中の道にも雪はなく、飯山市瑞穂から野沢温泉への坂を上り始めると、ようやく周囲に雪が。とはいえ、野沢温泉も道には雪はなく、普通タイヤでも大丈夫なほど、今年の光景は普通じゃなかった。

 写真を撮影した2016年は、正月明けまでまとまった雪が降らなかったのだろう、野沢温泉でもさほど雪が無かったのは、道祖神祭りを報告した「これもまた、御柱」の写真でもわかる。

 

 

 さて、今回同じ場所から再び写真を撮ってみた。2016年から既に8年経過している。まったく同じ光景が映し出される。ほぼ40年を経過しているのに、ここの風景は変わっていない。あえていえば、「35年後の景色」で記した通り、もはや除雪されずに2階ほどの高さのところを歩く光景は見られない。にもかかわらず、あの時と同じ看板と、店の雰囲気がそのまま見られるところに、不思議な思いが湧いてくる。

続く

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あのころの景色②

2024-04-03 23:06:27 | つぶやき

あのころの景色①より

 昭和54年から5年間暮らした飯山市。いろいろあったが、仕事で初めてほ場整備にかかわったのは、栄村の小滝という集落にある小さなほ場整備だった。先日、栄村まで足を伸ばしたが、さすがに栄村まで行くと、まだ雪に覆われていた。とりわけ生活圏は除雪されていて雪の姿は限定的だったが、農業地帯に入ると、道も除雪されていない。あたりまえだろう、無駄な空間まで除雪する必要もないし、いずれ雪は自然に消えるもの。そう考えると、そのままでも消えるものなのに、あえて除雪費を要して手間をかけなくてはならない地域の大変さは、雪のない地域の人々には想像しづらいだろう。人々の動きが早まったことが、除雪という当たり前な行為を「あたりまえ」と思わせることに繋がった。そのいっぽうで人々は手間のかかることはしたくなくなった。草刈管理と除雪を対比すると、その間には大きく格差がついたように思う。このことはまた触れることにしよう。

 

劣化した落差工の蓋の向こうに見えるのは高社山

 

水槽の下に石が集積されている(整備されたほ場から拾い出したものと思う)

 

下方は南永江の集落、土手が大きい

 

こうして草刈がされない畦畔もちらほら

 

急傾斜ということもあって、農道はコンクリート舗装した

 

 さて、小滝の現場は、まさに水田地帯であって、生活空間と離れていて、現場を遠方から望む程度しかできなかった。同じ飯山時代に、もうひとつ直接担ったほ場整備があった。旧豊田村の南永江の集落背後の急傾斜地帯である。小滝と違ってそこそこの面積の整備だったと記憶する。飯山市より南に位置するため、こちらにはもう雪はない。南永江の神社周辺の整備で、傾斜8分の1ほどの斜面にある水田地帯である。さすがに40年を経ていることもあり、当時布せられた水路も、だいぶ古くなっている。落差水槽の蓋が凍上でぼろぼろになっている姿をあちこちに見ることができる。この水槽の蓋は、飯山に限らず、いたるところで劣化している姿を見る。最も最初に交換したくなる構造物のひとつ。とはいえ水路そのものは、すぐに整備しなくてはならないというレベルには達していない。事実地区内を見渡しても、一部局所的に更新してある箇所が見られたが、トータルに見ると、早急に更新しなければならないという域には達していない。

 集落を下方に、急傾斜の水田の法尻には湧水を除けるための溝が掘られている水田が多い。川を挟んで北永江の集落が見え、その先には高社山が望める。その手前に当時はなかった上信越道を走る車が見える。

続く

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あのころの景色①

2024-04-02 23:47:16 | つぶやき

 昨日も「一切ねぎらいの言葉をもらえないかもしれないが…」と記したが、実はその通りなのである。区切りが無いということは、そういうことかもしれないが、同僚たちはもちろんのこと、仕事で縁のある方たちからも、当たり前に「継続」の雰囲気があって、退職とは知りつつも、「何もない」。それでいいとは思っていたが、実に「こんなものなのか」とも思っている。あえていえば、仕事で縁のあった方たちで、すでに仕事場から去って久しい方たちから「長い間、お疲れさまでした」と労いの言葉をいただく程度。そんな言葉を耳にすると、ちょっとこころに響く。これが本来なのではないかと思いながらも、まったくの当たり前の日が続いていることに、少し違和感のようなものを抱いてしまった。そのはずではなかったのに、と思うのに、それが現実であるとともに、「こんなものよ」と割り切ることもできる。退職する前から「今年で終わり」と宣伝される方たちもいるが、わたしは一切してこなかったのに、結果的に「いつまで?」と聞かれれば「今年で終わりです」と答えていたから、皆が知るところになっていた。少しわたしが描いていたストーリーとは違うのである。

 一切とまでは言わないが、基本的に退職の挨拶もしなかった。したがっていわゆる退職の令状を出す予定もない。そうだろう、ねぎらいのことばをいただいていないのに、そのようなものを誰か求めているとも思えない。そのまま元の場所で働くというのは、かつてならなかったスタイルだから、周囲にも戸惑いのようなものがあるのかもしれないが、全くなかった例でもない。「どうしていたんだろう」、そう思い描く姿があったが、とはいえ前例に真似る必要もない。

 

 

 さて、退職辞令をいただく2日前に長野での会議があって、それにあわせて初任地だった飯山で担った現場をいくつか見てみようと足を伸ばした。もう40年以上前の記憶を呼び戻してのものだが、その後も何度か通過していた地である。高速道路が近くまで延び、そして新幹線の駅ができた地は、明らかにあのころとは違うとともに、積雪量がまったくあのころと異なる。3月末でもしっかり積雪のあったマチに、今は除雪した雪が時折見える程度。あのころもそういう年があることも稀にあっただろうが、今はそれが恒例のよう。写真はマチから飯山線を渡ってすぐの「坂上」の交差点。ここに雪はまったく写り込んでいない。当時、毎日この交差点を右折して、住んでいたアパートへ向かった。交差点手前の右手にあったクルマヤさんに毎日のように顔を出して帰った。もう看板は出されていないが、この日もタイヤ交換に来られていたお客さんがいて、対応されていた。声を掛けようかと思ったが、忙しそうだったので掛けられなかったが、お元気な姿を見られて安堵した。この界隈にはよく通った電気屋さんや、先輩の家もあった。すべてが昔通りとはいかないが、このクルマヤさんのように、少し当時を思い出せる空間が残っていてほっとしたところだ。この交差点を右折すると、いわゆる仏壇屋の並ぶ通り。もちろん仏壇のニーズも、当時とはだいぶ異なっているだろう。マチの姿が明るくなったのとは対照的に、この通りには変わらぬ暗さが残っていた。

続く

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いつも通りの1日の始まり

2024-04-01 23:16:03 | つぶやき

 何事もなく、いつも通りの1日が始まった。
 定年を迎えた翌日とは、暦の並びからならなかったが、土日を挟んで新年度が始まった。そもそも片づけが何もできず、ちょうど土日があったおかげで、休日を利用してこれまでの自分の机の上、中、そして周囲を片付けられた。これらも3月があまりに忙しかったせいでもあるが、何も変わらず、新しい年が始まったあたりに背景があったりする。定年なのだから、ふつうならそれまでの埃を払って、きれいさっぱりとけじめをつけるものなのだろうが、そういかなかった自分のけじめの「なさ」をさらけ出したようなもの。これほど境がないままに、一区切りをするとは思ってもみなかった。だからこそ、いつもと何も変わらず、4月1日が始まった、というわけだ。考えてみれば4月1日が月曜日、そして3月31日が日曜日、おまけに「大安」だったというあたりは、とてもけじめがつけやすい並びではあったのだが、それを利用したように「片付け」たのは、「計画的」だったのだろうし、わたしに似合った定年の迎え方だったとも言える。

 当初は考えてもいなかったことだが、昨年末になって、定年を機に書き散らしてきたものとともに『伊那路』に連載している記事をまとめて印刷したいという気持ちが高まった。年明けとともに『伊那路』を印刷されている会社に相談して、できれば3月末までには刊行したいと考えた。約1か月ほどで計算論文を選択して精査し、体裁を整えて原稿を完成させたわけだが、あまり余裕がなかったため、細部まで見直すことはできなかったし、印刷費の関係で、小さな文字で2段組と、いってみれば一般向けの刊行物にはほど遠かった。というこで、販売もせず、お世話になった方々を中心に配布する程度の、未公開刊行物で済ませた。定年〝記念〟というわけではないが、かたちとして残したかったわけである。

 いつも通りの日を迎えることはわかっていたから、いわゆる退職を理由の送別ではないが慰労会はしたくなかった。一切行っていない。〝〇〇〟らしいと言われるのかもしれないし、それを理由に、一切ねぎらいの言葉をもらえないかもしれないが、自ら歩んできた道は、その筋書きを当たり前に導いていたように思う。だからこその〝今日〟なのだろう。意外にも、その日は、いつも通り始まったはずだが、実はわたしの目には、いすつも通りではないものも見えた。今はここに記せないが、もう少し時を経てから、あらためて見つめ直してみたい、と思っている。ひとのこころも、視線も、意外と空間設定で変わるものなのだと気がつくとともに、社会設定(立場といっても良いのだろう)に促されるように人々は意識を変化させるのである。

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新たな4月へ向けて

2024-03-12 23:17:31 | つぶやき

 先日「拭えないこの後の時代を憂い 前編」において「まさかの怒涛の3月を迎えた」と記した。確かに会計検査が入ったこともその理由だが、わたしにとっての最後の人事は、付録もついて初めてハローワークへ求人というモノを出した次第。

 長らく出先採用で働いていただいていた女性が、家庭の事情で辞められるという。本音はまだ働きたいと言うのだが、ご主人の依頼でご主人の仕事を手伝わなくてはならないという。今の部署に来てからわたしの事務部分を支えていただいたから、直接的には7年という付き合いだった。そもそもここへきて7年、それも長いのだか…。ちょうどわたしの定年に合わせるように辞められるから、「良かった」のかもしれない。新しいわたしの後任が、新しい人とともに始める、やりやすいかもしれない。

 今年の人事ではわたしのいる部署はわたしが代わるだけでほぼ出入りはない。あえて言えば、再雇用職員が昨年4月初めと比べると二人減って二人増えるから、そこだけである「変化」は。そのうちの一人がわたしだから、そしてもう一人も一昨年まで再雇用で働かれていたから、顔ぶれは変わらない。とは言うものの、怒涛の3月の背景には再雇用職員の入れ替えや、前述した出先採用の女性職員の求人といった、いつもはなかった心労(?)があった。この7年、ずっと悩まされ続けたのは再雇用職員の存在。人はそれほどいがみ合うという関係はない。ところが7年前から同じ部署に同い年の再雇用職員が配属された。再雇用職員は、基本的に地元に配属される。それでいて前歴は管理職。かつてならやりづらいという印象はあっただろうが、再雇用職員がこれほど当たり前となった今は、たとえ前歴が管理職であっても、お互いわきまえている部分もある。したがってわたしも「やりづらさ」は、当初はまったくなかった。ところがその二人が犬猿の仲、それも年を重ねるほどに、両者は口も利かなければ挨拶もしない。それだけなら良いが、性格がまったく正反対だから、それを理由に態度を露にしたりする。それほど人数が多い出先ではないので、周囲の人たちがやりづらいのは言うまでもない。それぞれに聞けば、それぞれが「悪い」という。この関係を解消するには、二人とも辞めてもらうしかないと考えていた。早期退職という看板があったため、65才までは仕方がなかったが、その年に達したのを契機に、翌年以降の採用は「しない」と引導を渡した。

 1か月ほど前の来年度人事(人員配置)が公表された際、「おまえのところは首を切ったのに、こっちには使えないやつが採用になって回された」という苦言をいただいた。ようはけして仕事ができなくて辞めていただくわけではないのに、いっぽう別の部署には天下りの再雇用が押し付けられて「まったく仕事ができない」という。人手不足だというのに、「なぜ首を切るんだ」と言うのである。とはいえ、わが社は再雇用であっても人員配置の際の勘定に入る。再雇用ばかり雇うと、若い人を外へ出さなくてはならなくなる。できれば地元出身の若者を地元で育てたいという思いが、わたしにはある。以前にも記してきたことだが、今は維持管理の時代。したがってお客さんの事情を理解するには、その地域で経験を積んだ方がお客さんのニーズに整合する。確かによその地域を知ることも必要だが、「地元」を意識してほしいと思う。そのためには、年寄りがその経験を摘んではならないし、そもそも年寄りはその知識を若い人たちに伝えていかなくてはならない。ということは、再雇用職員もその地元に精通した者でなくてはならない。人事理由で地元に長くおられなかった人もいるが、そうした人には遠慮してもらうしかない、と思う。

 この7年間、犬猿の仲の二人をどう扱うかで悩まされ、その間にはあえて再雇用職員を異動させるという策も講じたが、より一層わたしの悩みは増幅させられた。わたしがしなくてはならなかったことをわたしの在任中にできたことが、最後の大仕事だったと思う。故に怒涛の3月への誘いだったというわけであり、付録に女性求人という仕事が加わった。顔ぶれは変わらないが、穏やかな船出が4月から始められそうである。

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今年も“ホンヤリ”

2024-01-07 23:40:24 | つぶやき

出来上がった“オンベ”

 

点火は厄年の人が

 

燃え上がるホンヤリ

 

 今年も公民館の役員だったことから、どんど焼き、いわゆるこの辺りでは「ホンヤリ」という松焼き行事にかかわった。ここに住み始めたころは、子どもたちの親、ようはPTĄが主体になって行事の詳細を決めて、実行していた。子どもたちの減少というどこでも当たり前に起きている現象によって、子どものいる家庭が減少して「人手不足」というわけで、公民館が手伝うようになった。人によっては「なぜ公民館が」と疑問を呈す人もいて、事実今回行った公民館活動のアンケートにも同様の疑問を書き込む方たちがいた。とはいえ、PTĄが「やーめた」と言えば、結局担うのは公民館か自治会しかない。有志で、という方法もあるが、形として受ける団体があれば、確実に毎年実施してくれる。さもなければ「今年はあるのか」と不安にもなるわけで、やはり、確実に実施してくれる団体があるから、安心して松飾りもできるだろえう。松を降ろしたあとに松焼の行事が「あるのか、ないのか」状態では、正月も迎えづらいというもの。もちろんかつてのような立派な松飾りをしなくなった現代においては、そう困る人もいないのかもしれないが、そうはいっても安心感が異なる。そういう意味でも、実施してくれる団体があることの前提は大きいというわけである。どんど焼きは、いわゆる神送りの行事でもある。迎えた神をおくるためには、不可欠な行事である以上、誰かが担っていく必要性がある行事でもある。繰り返すがその担い手がはっきりしていることが行事の前提でもあると、わたしに限らず人々は考えていないだろうか。正月飾りが消滅しない限り、求められる行為だと思う。

 

 さて、このあたりではずいぶん以前から小正月より1週間も早いころにこの松焼き行事が行われるようになった。なぜなのか正確なところは知らないが、子どもたちの「学校が休みのうちに」という意識があったのかもしれない。しかし、この流れは他地域にも広がり、小正月に松を焼くという時間的意識は薄らいでしまった。もちろんその最たる要因は、小正月の行事の衰退でもあり、成人式が1月15日ではなくなったというところにも理由はある。「暦の上で」という言葉をよく聞くわけだが、毎年祭日が移動するような行事は、「暦の上で」という言い回しはできず、結果的に祝日の意図を失わせていく。まぎれもない事実である。

 

 さて、コロナ禍を経て、4年ぶりに公開のホンヤリとなった。コロナ禍は役員だけで実施するから、ほかの方たちには自粛であった。焼いてもらいたい松飾りは、それぞれが持ち寄るというスタイルで、役員は集まった飾りだけで円錐状に盛り上げて火をつけた。ところが今年は増量材をヤマから持ち出し、心棒に最初に寄せ集めた。したがってその周囲に松飾りを寄せていったので、コロナ禍より太いホンヤリになったと思う。この盛り上げた櫓のことを主催したPTĄの代表は、「オンベ」と称した。ということは櫓がホンヤリというわけではない。そもそもホンヤリの語源はどこにあるのか、となる。

 

 午前8時に始めた準備は1時間もかからずに形になった。そして1時間後の午前10時にホンヤリへの点火となった。火をつけるのは厄年の人たち。厄を祓うという意図もホンヤリにはある。昨年同様に快晴のもとホンヤリは実施された。しだいに風が強くなったが、増量材のせいか、燃え尽きるのが早かった。みな持ち寄った餅を焼いて、自宅へもって帰って行った。もちろんこの餅は無病息災の意図がある。

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刈り初めの儀

2023-12-25 23:59:22 | つぶやき

 ある事業の起工式が行われて先立って安全祈願祭が行われた。いわゆる地鎮祭である。通常規模がどの程度を「通常」と言ってよいかは難しいが、多くの人に注目されているような事業の場合、こうした起工式が今もって行われることは多い。おととい行われた同じような起工式では、ここでいう安全祈願祭は実施されなかったが、形式的に「鍬入れ」が行われて、国会議員やお役所の偉い方々が盛り立てられた砂に鍬を入れる「もどき」を行った。大事業だけに、勢ぞろいした「偉い」方たちの数も多く、見事な「鍬入れ」でもあった。繰り返すが、とはいえ安全祈願祭というスタイルではなかった。

 今日行われた起工式では、従来方式で安全祈願祭が行われ、地元の神社の神職によって神事が行われた。仕事がらこうした起工式に立ち会うことが、今までにも何度かあったし、少なくなったとはいえ、時おりこういう場面に出くわす。参加するのはこれが「最後だろう」と思う安全祈願祭で、いわゆる「刈り初めの儀」というものを担った。ずいぶん昔にも同じ役を担った覚えがあるが、どこの現場であったかは記憶がない。それほど昔に「なぜわたしが」担ったのか、そのあたりも記憶にない。刈り初めの儀は整地するという意味らしく、砂盛された上に建てられた萱の葉を刈る役である。地鎮祭のクライマックスとも言える所作の中でも、最も最初に担うため、「人のするところを見て真似て」というわけにはいかない。ということで、事前にどうやってやるか、やり方を教えてもらってであったが、かつての担った時のやり方とそう変わるものでもなかったので、なんとなく教わってなんとか務めることができた。刈り初めの儀は、設計会社が担うものと言われていて、このあとに鍬入れ(施行主)、鋤入れ(施行者)と続く。

 かつては砂盛もそれほどきれいな形に成形されなかったものだが、今の砂盛は見るからに不自然なほどに奇麗に盛られていて、専門の業者が作り上げているのだろう。まさに「もどき」、というか形式的な所作であり、先日の「鍬入れ」は「やったぞ」というアピール、ようは写真用の催しであった。だいぶこういう儀式は略されるようになったが、注目度の高い事業では、いまもってこうした催しが行われることも事実。そして起工式が行われて、いよいよ事業は本格化するというわけである。

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忘年会がひとつも無かった年の瀬

2023-12-23 23:37:54 | つぶやき

 先ごろ総務省が25グラム以下の定形の封書について上限料金を84円から110円に引き上げる案を公表した。定形50グラム以下も同一料金になると言うから、その分は重さで悩まなくて良いものの、「上がる」ことに違いはない。その他の料金も3割ほど上がるという。

 年末にあちこちに会費を納入しているわたしにとって、これまで何年も上がらなかった会費が「上がる」ことの懸念である。例えば年6回通信を郵送すると、年額郵送料が504円だったものが、660円となる。差額にしてみたらそれほどではないものの、156円「上がる」ことに違いはなく、会報の送料を加えると、200円以上会務を圧迫することになる。これは例えばであって、毎月冊子を発行している会となれば、年額にすれば千円ほど負担は「上がる」。ようは会費を上げざるを得なくなるということ。人口減少や、人々の感心の寄せどころが変わって、全てにおいて高齢化の進む世界は、この後継続不可能となる例が他出するのだろう。いっぽうで紙ベースの「印刷」物は時代遅れ感が高まっていく。もはや、この後の情報社会に、かつて先んじていたと思っていたわたしも、ついていくことはできそうもない。

 これほど「年末感」のない年は、これまでなかった。「年末感」をもてない理由のひとつは、廃止される傾向のある「忘年会」である。わたしの仕事場も、忘年会を廃止したわけではないが、業務が多くてそれぞれの心持ち「ゆとり」がない。もちろん「忘年会をしたくない」、あるいは「必要ない」と思っている人たちもいるかもしれないし、コロナ禍を経て「飲み会」が減っていることも事実。それでも「忘年会」という言葉が、これほど聞かれなかった年はこれまでない。そして「忘年会は?」と問いかけると、「忙しいから辞めましょうか」となる。それならと、今年は忘年会は異論なくなくなった。コロナ禍を経て、久しぶりに「飲み会」があるかも、と思っていた地元の年末総会でも「飲み会」は中止された。「コロナ」を理由にすれば、「飲み会」は安易に廃止される、そもそもインフルエンザだとか、風邪が流行っているとか、理由付けするのは簡単だ。明らかに今年は、身近での「飲み会」はコロナ禍並みに消滅して、仕事の関係の「飲み会」だけが突出して多かった。来年以降一線を退けば、こうした「飲み会」もまったく無関係となる。

 気がつけば世間ではクリスマスだという。「年の瀬ではないか」と気がつくわけだが、そういえば今日も仕事で出向いた大きな事業の着手式で会った知人の口から、「今日これ(着手式)があったので、朝早くに松を採りに行ってきた」と耳にした。「早いですね」とわたしが漏らすと、「もう数えると日が無いに」と言われ、「確かに」と答えた。この時期に「年末感」がなくなっていたのは、もうずいぶん前からなのかもしれない。そこへ今年の「忘年会」「無し」論が加勢している感じだ。

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このごろ

2023-11-16 02:55:12 | つぶやき

 日々書き記すことができなくなって3か月。「この人、死んだ?」と思われるようにとらえられる姿が、このブログにはうかがえる。まさに死んだようなものなのかもしれない。20年もの間、ほぼ毎日のように記してきた日記なのだから。「三日坊主」という言葉もあるが、これほど長く続けてきたことが止まったのだから、「思うところ」はたくさんある。

 コロナ禍、妻が少し体調を崩しかけた時に、「もしコロナなら…」と、寝室を別にした。家に「わたしの部屋がない」と、かつてから妻は愚痴をこぼしていた。息子は二部屋使っているし、わたしは倉庫代わりの書斎があるのに、居間に自分の道具を広げて占領している。もちろんわたしだけではなく、妻も居間にいろいろ広げているから、我が家の居間はごみ部屋のようだ。その居間はシロの寝室にもなっているから、白の毛があちこちに綿埃のようになっている。そしてその居間で妻もろとも転寝しているから、その惨状を目の当たりにしたらびっくりするだろう。空き部屋は、唯一座敷。その座敷に妻はふとんを運び入れてから、ずっとそのまま座敷が寝室となっている。

 そのおかげで、転寝後の作業を寝床に入ってから、寝そべってやっている。最近疲れがとれずに、今日は居間の転寝から目が覚めたのは、午前1時半だった。それから風呂に入って、雑用を終えて寝床に入ったのは、もう午前2時半過ぎ。それから寝床の中で今日やった仕事の整理をして、明日の予定を描いて、思いついたようにこれを書いている。妻と同室だったときはできなかったこと。こんな時間になってしまうと、長時間は無理だが、最近は寝床に入ってから1時間から、時には2時間近く作業をすることも…。意外に意識がはっきりしていて、「ことが進む」時間帯だ。ところが最近、そこから電気を消して、床に入ってからなかなか寝付けなくなった。1時間くらい寝られずに「ヤバい」と思うことも。転寝2時間、寝床に入って3時間から4時間が睡眠時間、というのが今のわたしの明日への経過だ。相変わらず先が見えず、抱えた宿題だけを数えて「まだ減らない」とため息だけをつく。

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完全復活にはほど遠いが…

2023-10-22 18:52:45 | つぶやき

 完全復活にはほど遠いが、すこしばかり思うところを記録しておくこととする。

 日本民俗学会の年会が成城大学で行われた。誘われなければ足を向けることはないわたしだけに、誘っていただけたことにはとてもうれしいわけである。もちろん成城大学を訪れるのは初めてであり、そもそも東京のどのあたりにあるのかも頭にはなかった。松本から参加する3人とわたし、それぞれ東京行の切符を買ったから、立川までは個々向かうことになったが、同じ特急に乗った。松本あたりからなら中央線は当たり前な「足」だが、伊那谷から、とりわけ下伊那エリアからとなれば、当たり前な「足」は高速バスだ。日野バス停から中央線日野駅までは歩いて20分ちょっとほどのところ。したがって高速バスの方が所要時間は短いのかもしれないのだが、ほかの方たちが特急「あずさ」だというので、迷わず中央線を利用しての同じ「足」を選んだ。ところが、前述したように立川までは別々。本当に久しぶりの中央線に乗り(松本へ行く際に利用することはときおりあったが、岡谷から東へ向かうのは記憶にないほど昔のこと…)、今型の「あずさ」に初めて乗った。「へー、座席ごとコンセントが使えるんだ」などとと思いながらの立川行きであった。

 さて年会の内容はともかくとして、懇親会の席で『現在学研究』の10月20日発行第12号を手渡しで倉石美都さんからいただいき、現民俗の会代表の巻山さんとともに、「先を越された」、で盛り上がったわけである。実は『長野県民俗の会会報』の次号は、倉石忠彦先生の追悼号となる(急遽追悼号になったため、一般論文とともに構成される)。ようは民俗の会に先んじて現在学研究会に追悼号を「出されてしまった」というわけである。お世話になった倉石先生への思いもあり、わたしにとっては書いたこともない追悼論文を会報へまとめた。追悼文ではなく、「論文」にしたいという思いがわたしには強くあった。稚拙なものだが、その思いだけで9月末日の締め切りまで、ほかのことはさておきまとめることに専念した。仕事が忙しいのに、少し仕事をおろそかにしないと間に合わないくらいだった。もちろんそのツケが今来ていて、年会に向かう「あずさ」の中へも仕事を持ち込んだ。帰路の「あずさ」内でもいくつかの仕事を処理した。それでもとりあえずだが、追悼論文をまとめたばかりだったので、出来立ての『現在学研究』の追悼号で巻山さんと盛り上がった。

 そんな『現在学研究』の追悼号には、大勢の方たちより追悼論文と追悼文が寄せられていた。とりわけ自らまとめた論文にも引用させていただいた三輪さんの追悼文を読んでいて、共感するというか、おそらく同じような場面にかつて出くわした記憶がよみがえった。まったくの素人であったわたしの自治体史誌編纂の「いろは」は、やはり倉石先生の助言によるところが大きかった。そして、おそらく「こんなことを聞くと」、「こんな具合に返答されるのだろう」という返答が、三輪さんの倉石先生とのやり取りに見えて、親近感を覚えたわけである。会報の発行はまだ2か月以上先になるが、大事にしていただいた民俗の会らしい追悼号になると確信している。

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「やっぱり書いとかないと」

2023-07-01 23:31:50 | つぶやき

 「あれもやりたい」「これもやりたい」、そういえばすっかり「そのままになっている」、気がつけばそんなことばばかり頭の中で通り過ぎていく。結局「何もできていない」、これが「年老いた」ということなのかどうなのかも、考えたくもない、というより考える隙もなく日々は過ぎていく。年老いた者が、一人前ではなくなっていくことが、この歳になってわかり出した、というところだろうか。でも周囲を見ていると、「何をやっているんだ」と口にしたくなる。人間、どんどん悪い方向に向かっている、そうも思うし、そう見える年寄りを批判するのも問題だと、気づいてはいるものの、「とはいえ」やっぱり「許せない」と他人にも口にしてしまうし、自分にもその言葉を返してしまう。

 こうした悶々とした言葉を綴ったことは、過去にも何度もあるのに、飽きることなく同じ言葉を並べる。きっと歳を重ねるほどに愚痴のように繰り返すのだろう。

 さて、冒頭の言葉の通り、「あれもやりたい」ではないが、「あれも書かなくては」「これも書かなくては」と思うこと、貯めていることがいくつもある。『伊那路』1月号に寄稿した西天竜に関する「小史」の2回目を、そろそろと思っているうちに数か月。書いたらすぐに掲載してもらえる連載とは違うのだから、掲載までの期間を考慮すると書いて事務局に届けないと1年以上空いてしまう。悪い癖が「すぐに書ける」という安易な心持ちだ。これがわたしの悪い面で、こうして仕事も貯めてきた。後がなくなったのだから時間の貯金はないはずなのに、相変わらずである。その証拠がこの日記である。今日の日記を書き込む時点で、すでに10日ほど空白となっている。もちろん埋め合わせるつもりでいたのに、「明日でいいか」を続けてしまう。あっという間の10日である。

 あれやこれやと考えながら次の原稿の構想が出来上がったから、と掲載誌の短編はどの程度の分量で良いかと、と過去誌をあらためて開いて見る。そこで当時時間がなくて読まなかった記事を、あらためて読んだりして「へー」と感嘆する。時間ないのに、なんで「今読むの」状態である。でも、「今読んだ」のには理由もある。自分自身が何か「民俗」だったりする。その理由を紐解くのも良し、と思いながら言い訳をして、結局そこからヒントをもらう。「なるほど」とは思うが、その「なるほど」も二日三日で泡と消える。それすら記憶に遺すのではなく、ここにでも残さないと、わたしの痴呆レベルではみなリセットされてしまう。「やっぱり書いとかないと」…と思い、いきなり「こうなった」。

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次へのステップ

2023-06-30 23:52:38 | つぶやき

 叙勲の祝賀会というものがあった。そもそもわたしには縁のない世界であり、こういう場に招待されるのは最初で最後だろう。たまたま今の立場があったからの縁であり、そうでなければ一生無縁の世界だ。公共の場で働いた方々に縁があり、そうした世界にかかわっていても、受託側には無関係だ。もちろんそうした立場でも受賞される方はいるが、めったにないし、よほどの立場でよほどの功績がなければあり得ない世界。このことはだいぶ昔に触れている。

 コロナ禍明けということもあって、参集者を絞っての祝賀会だったという。故にわたしは締めの音頭を依頼された。まさに唯一の経験だったと言える。当たり前の言葉を添えるのも寂しいと思い、わたしが印象深く思っていた当人のエピソードを添えさせてもらった。長らくお付き合いがあったからこそのものであり、また、日ごろ気にかけている「問題意識」のなかで捉えていた情報を交えた。わたしなりに、わたしだからこそ語ることのできる「言葉」であったと思っているが、当人や、周囲のみなさんがどうとらえたかは不明である。

 「いつも若かった」わたしがずいぶんと経験を重ねて年老いたわけだが、だからこそできることがあると、最近おもうようになった。年寄りは排除される世の中になったが、これまでの恩返しのつもりで、さまざまな人々を支え、また助言できることは多い。もちろん仕事で得たものである。金銭の絡まない助言が、この後のわたしの役割だと、今は考えている。

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寺坂を歩く

2023-06-18 23:16:24 | つぶやき

寺坂

 

階段上の建物が十王堂

 

参道

 

十王堂内

 

 最近十王めぐりをしているが、飯島町にはその手のものが少ない。全町で認識しているものは2箇所のみだから、集落ごとにある駒ヶ根市中沢に比較したらその様子が異なる。やはり寺の影響と言えるのだろう。どの時期に寺が地域住民のための信仰になり得たのか、というあたりに関係するのだろうが、飯島氏の影響で甚大な力を要した西岸寺にとって、現在のような地位を得た背景に関わってくる。

 その西岸寺にも十王が存在する。参道の入口に堂があり、その中に納められているが子どものころからこの道をよく知っているわたしにとって、ここに十王があるという記憶がなかった。この場所はかつて「駒つなぎの松」という松があったのだが、今はその木はない。この参道入り口までの段丘崖を上る道は、わたしの名前をつけていただいた父母のお仲人の家への道で、「義理の道」とでもいって良い「道」だった。その家へ行く際には、必ず通った道で、盆や正月には子どものころ毎年歩いたものだ。またそうした「義理」にかかわらずとも、「寺坂」と言われたこの道は、子どものころ何度となく歩いた空間である。その段丘崖下からの登り口に「千成地蔵」というお地蔵さんがあって、今とは違って少し暗がりのようなところにあったように記憶する。昭和58年にお地蔵さんのあった背後の十王堂沢が荒れて、災害を引き起こした。小さな川なのに、どこからこのような土砂がやってきたのか、と思うほど沢は土砂を押出し、それまでも天井川であったが、そこがすっかり埋まってしまったのだ。明治から大正期には、この坂元のあたりに「十王堂学校」という学校があったという。

 この寺坂は現在も当時と同じ姿を見せるが、今は通る人はほとんどいない。しかし、写真でもわかるように参道入口の踊り場にある石段の幅はずいぶん広い。4メートルほどあるだろうか。参道もまたほぼその幅で続いており、当時としては広い道だったといえる(段丘崖の道は2メートルほど幅)。その踊り場に十王堂が現在あり、かつての十王はもっと下の方にあったのではないだろうか。ここの十王は木造であり、おそらく上段の真ん中に据えられている大きめのものが閻魔王なのだろう。奪衣婆はあるが、地蔵菩薩の姿はない。左側の厨子に入っているのは弘法大師である。右側の逗子は閉扉されていて中が見えないが、もしかしたらこれが地蔵菩薩なのかもしれない。

 踊り場から階段を登ると約百メートルほどの見事な参道となる。

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10分単位の表示のない目覚まし時計

2023-06-17 23:49:23 | つぶやき

 最近、長く利用してきた目覚まし時計が設定した時間に「鳴らない」。これでは目覚まし時計の意味がないわけで、「叩いたり」スイッチを「入切」して様子をうかがったりするが、鳴ることもあれば鳴らないこともある。ようは確実性に乏しくなってしまって、「使えない」道具になってしまった。確かに置時計としては立派に使えるが、主旨は「目覚まし」だから、無用の道具となってしまったことは確かだ。

 そこでたまたまあった新しい別の目覚ましを利用したのだが、どうみても安っぽい。その目覚まし時計には、秒分針を読む刻みの印線があるが、目覚ましようの設定印線がない。初めて使った日、秒分針のために振られた線に合わせて目覚まし時間を設定したのだが、翌朝思い込んでいた時間から遅れて鳴った。よく考えたら、設定を間違えていた、ということになる。ようは秒分針のための指示線は時間単位で5秒(分)割となっている。ようは12~1の間に線は4本降られていて、5分割となっているから、例えばひと目盛りが10分ではなく1時間の5分の1となる。従って5本あると思って合わせると、実は4本しかないので設定時間を間違ってしまう。

 目覚まし時計のいわゆるデジタルではないスタイルのものは、基本的に秒分針とは別に目覚まし針を設定するための10分単位の目印が記されているもの。ところがこれがない目覚まし時計が存在する。小さく簡単なものや、多機能スタイルの安物には10分単位の線が示されていないものが多い。こうなるとすごく曖昧な設定しかできず、それこそ5分割線を目安に「だいたい」に合わせるしかないわけである。「目覚まし」を意図している以上、最低でも6分割線を示してほしいものである。

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桃源郷

2023-06-14 23:59:11 | つぶやき

 桃源郷(とうげんきょう)は、俗界を離れた他界・仙境。ユートピアとほぼ同意で、陶淵明の『桃花源記』はかつて存在した武陵郡地域の話なので「武陵桃源」(ぶりょうとうげん)ともいう。

 Wikipediaにある「桃源郷」の説明である。もちろん桃の花が咲き誇る世界をそう呼ぶことも多い。けして俗界を離れていなくとも、桃源郷と思うような空間に遭遇することがときおりある。あくまでもわたしが感じる桃源郷であって、多くの人はそう思うことはないだろう空間であったりもするが、わたしのイメージする桃源郷は、確かに存在する。ずいぶん以前に日記にも記したことがあるが、飯田市竜東のある洞の中に仕事で訪れたとき、その洞に入り込むように迂回した道沿いに家があり、それより奥には家はなく、その先は山林から尾根に続いていた。山林と田畑の境界域にため池があり、水田の水源はそのため池であった。そしてその家の背後に見える空間は、すべてその家が所有する土地だった。ようは洞の中すべてが一人の所有物で構成されていて、他人が入り込んでくることはない。洞の中だから、確かに眺めという点では開放感はないが、他人には左右されないその空間を、桃源郷ではないかと感じた。

 洞の中というのは、その空間が自分だけでなにかしらイメージできるのなら、まさに桃源郷と成す好条件となる。県内、とりわけ伊那谷ではハナモモを植えているところがあちこちに存在する。阿智村の月川温泉周辺はまさに「桃源郷」として知られていて、今や大勢の観光客がその季節に訪れる。それほどでなくともハナモモを傾斜面に植えて、桃源郷たる光景をつくりあげている空間が、今はあちこちでもてはやされている。

 最近十王のことを触れているが、かつては野ざらしであったり、堂内に置かれていてもその堂に鍵がかかっていないことが多かったが、今は間近で見られない十王が多くなった。ようは堂内に、あるいは集会施設などに納められて、よそから出向いてもすぐには見られないという例が多い。今日ある会議が終わったあとに事前にお願いしておいた十王堂を開けていただき、十王を確認してきた。その際鍵を開けていただいた方が、たまたま仕事でお世話になった方でびっくりしたわけであるが、十王を確認したあと、その方のお宅にお邪魔してひと時を過ごさせていただいた。戦時中に近くにあったという秘密の施設の話を、その方と案内をしていただいた方にお聞きし、今どきにしては生々しい話をうかがったわけであるが、その方の家の真ん前の道には10メートル近い擁壁があり、その下にその方の畑が洞の中にある。畑はきれいにされていていろいろ植えられてあったが、ちょっと高低差がありすぎて作業は「大変だなー」とは思ったが、洞の反対側斜面にはまさにハナモモがたくさん植えられていて、花が咲けば斜面が家側に向いているため、家からその光景がよく見えるだろう。迎えていただき誘導された部屋からは、その斜面が見えるとともに、その向こうの山々はもちろん、地域の中心的な施設がはるか向こうに見えている。小学校もあれば、支所も見え、それらは川の向こうに並ぶ。これもまた「桃源郷」であると思ったわけである。ふだんの暮らしの視線の先に、こうした光景が見られるというのは、前述した洞の中という環境とは異なり、視界という観点では見事な「桃源郷」なのである。選んでも、なかなかこういうところに住むことはできない。

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