
天皇皇后の伊勢参拝の最中 スキー旅行
天皇皇后は20年に1度、社殿を造り替え、ご神体を移す式年遷宮「遷御の儀」を昨年終えた伊勢神宮を参拝するため3月25~28日の日程で私的に三重県伊勢市などを訪問される。
この間、皇位とともに伝わるとされる「三種の神器」のうち、剣と璽(じ=曲玉)を携える「剣璽動座」も行われる。剣璽が皇居から持ち出されるのは、前回の式年遷宮後に伊勢神宮を参拝した平成6年以来、20年ぶり。両陛下の神宮参拝は13年11月以来である。週刊文春の新聞広告に「伊勢参拝の最中 雅子さま 奥志賀スキー旅行 『雅子や愛子にも行ってほしい』美智子さまの思い届かず・・・・・」とある。
皇太子の奥さんは、結婚以来、神道に関連する儀式は一切拒絶している。この種行事には“適応したくない”との固い意志を持っているものと観察される。“適応障害”とは神道を拒否する口実だ。私は毎年新年の宮中参賀に出かけているが、皇太子夫婦が楽しそうに話をしながら参賀に集まった群集に応えていたことを目にしたことがある。夫婦で会話を交わしながら参賀に集まった群衆に応える皇族は皇太子夫婦以外にはいない。病気ではないと直感したが、これは錯覚だったのか。
2007年の3月、“療養中”の身でありながら東京・日本橋の高島屋の裏口にドイツ製超高級車「マイバッハ62」(当時の価格で約5200万円?)で乗りつけて買い物をした。これを高島屋の従業員である私の従兄弟が確認している。雅子さんが予告なく突然買い物に訪れたので店員がびっくりしたと話していた。病気とはいえない、神道を拒絶するための“仮病”であろう。これは下衆の身、私の勘ぐりである。
翌年皇太子はブラジルへ訪問した。2008年6月23日(現地時間)、サンパウロで開催された創価学会国際部の集会に来賓として池田大作の長男と共に参加している。東宮御所の改修工事に際しては皇室ゆかりの品々をヤフーオークションに出品されていたが、出品された“商品”は皇族から贈られたもので、誰が誰に贈ったか分かるように作られたものである。出品した軽薄な者は、これに関する知識や関心がないから気付かなかったようで、買い手は宮内庁に問い合わせたため出品者がすぐ判明し、あわてて出品画面を削除した。出品者は皇室のしきたりや伝統に反発しているための仕業であった。以って瞑すべし。皇室の崩壊はかなり進行している。
“3代目”、皇室の権威失墜
3月19日付の読売新聞は愛子さんの学習院初等科卒業の挨拶に御所へ向かう皇太子一家の記事には、夫婦そろって卒業式に出席、「6年間で大きく成長したわが子の姿を感慨深げに見守り、『厳粛な中にもすがすがしさを感じる良い式でした』との感想を出された。」、愛子さんは初等科生活について聞かれ「『楽しかったです』と答えられた。」とのことである。
そうか!そうか!皇太子一家も庶民の家庭と何等変わらぬ生活をされているようだ。
また、3月13日付読売新聞朝刊の「女性セブン」の広告には、皇太子一家について、卒業までの苦悩、「手紙」にこめた雅子さま(50)愛子さま(12)6年の万感、「授業参観」で囁かれた“異例”、「山中湖同行」巡るご夫妻と長官のバトルなどの活字が並んでいる。
どれもこれも皇太子一家の私的なこと、これまた、庶民の家庭で見られる光景である。そうか! そうか! 皇太子は“雅子、愛子”で日が暮れる。これは法律違反でも何でもない。“私人”であれば真に結構なこと、皇太子はぞっこん惚れ込んだ夫人と愛しい雅子さんに夢中、平々凡々の生活に沈潜し幸せ一杯花一杯といった印象を受ける。しかし、皇太子夫婦は“私人”だけではない別の存在でもある。
3月17日、国賓ベトナム主席閣下歓迎式典
(宮内庁のホームページから)
国賓として来日したベトナムのチュオン・タン・サン国家主席の歓迎晩餐会が3月17日夜、皇居・宮殿で開かれた。晩餐会には、皇太子、秋篠宮夫妻ら皇族や皇族方はじめ、安部首相ら146人が出席した。雅子夫人は欠席した。3月6日、天皇皇后両陛下が宮殿に在京外国大使夫妻(ホンジュラス,セネガル,レソト,アイルランド)を招いて開いた“午餐”に皇太子夫婦は欠席している。雅子夫人は“ご病気”が療養中というが物見遊山は満面お笑みで臨まれる。スキー旅行に行くくらいだから、いたって健康。私は彼女は“病気”ではなく“仮病”を装っているか、皇室のあり方に意図的に反発しているのだろうと“錯覚”している。
平成25年の1年間における天皇皇后の国賓に対する接遇はどうであっのだろうか。見てみる。天皇は皇后さまと共に,この年6月に来日されたフランス国大統領閣下及びヴァレリー・トリエルヴェレール女史の歓迎行事,ご会見に臨まれ,宮中晩餐を催された。また,公式実務訪問賓客の接遇として,3月にはスリランカ国大統領閣下及び同令夫人を,4月にはメキシコ国大統領閣下及び同令夫人を皇后さまとお迎えになり午餐を催された。9月にはトルクメニスタン国大統領閣下をお一方でお迎えになり,ご会見,午餐に臨まれた。
このほか,キルギス国大統領閣下及び同令夫人,ベナン国大統領閣下及び同令夫人,スロベニア国大統領閣下及びバーレーン国皇太子殿下とご会見になったほか,スペイン国上院議長,オランダ国最高裁判所長官夫妻,カナダ国下院議長夫妻,インド国首相夫妻,モンゴル国首相夫妻,ヨルダン国上院議長,スペイン国首相,欧州理事会議長,欧州委員会委員長,ハンガリー国首相夫妻及びラオス国国民会議議長をご引見された。
さらに,ベルギー国王女アストリッド殿下を御所でのご夕餐に,退任する国連大学学長夫妻,両陛下のご成婚を記念して創設された皇太子明仁親王奨学金財団の理事長,着任した国連大学学長及びタイ国王女チュラポン殿下を御所でのご昼餐に,東日本大震災の復興を支援されたジョー・プライス夫妻,ブルネイ国国王陛下及び王妃陛下,赤十字国際委員会総裁を御所でのお茶に,第5回アフリカ開発会議に出席した各国首脳夫妻等37名,日本・ASEAN特別首脳会議に出席する各国首脳夫妻14名を宮殿での茶会にお招きされた。
在京の外交団との関係では,この1年間に着任後間もない29か国の大使夫妻をお茶に,着任後3年を経過した20か国の大使夫妻を午餐にお招きになり,離任する16か国の大使夫妻をご引見された。これを見ると国賓や外国の賓客に対する接遇の機会が多いことが分かる。これらの行事に雅子夫人は欠席している。
雅子夫人の行状は、国賓として来日した外国人やその国に対して失礼なことだ。いずれ皇后になる立場を考えれば放埓に近い。
3月19日付読売新聞朝刊に掲載された週刊文春の広告も、「『雅子や愛子にも言ってほしい』美智子さまの思いも届かず・・・・・天皇皇后 伊勢御参拝の最中 雅子さま 奥志賀高原スキー旅行」との言葉が見える。この広告にも、情実人事、乱倫、家庭にヒビ、教授の転落、セレブ生活の資金源、やらせ、コピペ、妄想リケジョ、ドロボウ、佐村河内守などなど、マイナスイメージを与える言葉で溢れている。
このようなスキャンダルレベルと同じ次元で雅子夫人の交情がとらえられていることは、最低だ。そうかそうか、雅子夫人はカルトを信じているのだろう。神社や宮中祭祀には結婚以来一貫して“適応”しない。結婚以来、見事に拒否“症状”を貫いている。これを公式には“適応障害”とういい高度な日本の医療技術を以ってしても“不治の病”なのか、なかなか治らない。東宮医師団以外の権威ある医師の診断を受け、その結果を公表すれば、国民の信頼、支持を得られが、受けると都合が悪いのか拒んでいる。
平成25年2月21日、皇太子誕生日に際しての記者会見で下記のような問答があった。
「問3 雅子さまの治療についてお聞きしますが,医療の現場では診断や治療方針について主治医以外の医師の意見を聞く動きが徐々に広がっています。いわゆるセカンドオピニオンというものですが,雅子さまの療養が10年目となった今,東宮職医師団以外の医師から意見を聞くことも有効ではないかという声も出ているのが現状です。殿下は,雅子さまの治療に対してセカンドオピニオンを用いるお考えはございませんでしょうか。」
皇太子殿下
「私としましては,今まで見ておりますと,東宮職医師団が大変に良くやってきていただいていますし,その治療を私も非常に深く多としておりますので,今のところセカンドオピニオンという考え方は特にございません。」
皇太子夫婦が気に入った“東宮職医師団”の手では、何年たっても病気が治せないのであるならば、無碍にセカンドオピニオンを拒否することはない。下衆の身としては、皇太子はマインドコントロールされていと勘ぐってしまう。
更に不思議というか、意図的というか8月15日の終戦の日には天皇・皇后は九段の国技館で行われる全国戦没者追悼式に出られ戦没者の霊を慰められている時を選ぶかのように、この日に限って皇太子夫婦は那須御用邸に出かけて優雅な夏休み、一家そろってバカンスを満喫される。そうか、そうか、御用邸がある那須には、確か創価学会の施設があったはず、親子そろってお友達と交際が出来れば、ハッピー、ハッピーだ。
ということで皇太子夫婦には昭和天皇や今上天皇に見られるような“国民と共にある”という姿勢は、私には窺えない。庶民がこのような暮らしが出来るなら結構なことであるが、卑しくも末は天皇・皇后になる人のこと。連綿と続く日本の歴史や文化の主柱ともいえる立場、そのあり方を考えれば、路悪趣味やスキャンダル満載の雑誌の紙面をにぎわす振る舞いは真に嘆かわしい。
己がいかにあるべきか深く考えているのか分からない。国民統合の象徴になられる立場の人間が外に発信するほどのニュースではない。将来、天皇皇后になるべきではない。最近は戦後の“日本”を見直す機運が高まっている。皇太子一家の行状を見ると、皇太子夫婦が天皇になるのを好まない勢力が増える可能性がある。
敗戦後、昭和天皇はどう生きたか、
今上天皇は何を受け繋いだか
昭和21年1月1日、昭和天皇は年頭に際して詔勅を出された。その冒頭、「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ・・・・」と国民に語られた。このような自覚が皇太子夫婦にないから始末が悪い。
昭和21年に開廷した極東国際軍事裁判(東京裁判)は、昭和23年に判決が下され、昭和23年12月23日、占領軍は旧軍の“戦争犯罪”を日本国民意終世記憶させるため皇太子(現在の今上天皇)の誕生日を選んで東條英樹元首相らA級戦犯7人を処刑した。昭和23年の前後、占領下の皇室は重大な危機に晒されていた。昭和天皇の退位を求める声が内外に強くあり、戦争責任問題も追及されていた。
こうした情勢下にあって、昭和天皇が自らの言葉で国民に対して、先の大戦についての謝罪を行なおうとしていらした事実が、戦後の長い期間を経て平成15年7月号の「文芸春秋」に昭和天皇の「謝罪詔勅草稿」として明らかにされた。天皇の謝罪文作成と謝罪を見送った経緯は、加藤恭子著「昭和天皇『謝罪詔勅草稿』の発見」(株式会社文芸春秋・2003年12月15日)として出版された。
もし、この草稿通りに天皇の「謝罪詔勅」が公布されていたら、その後の日本の歴史は大きく変わったはずである。
この詔勅には、敗戦直後の昭和天皇の心境が率直に表されている。起案したのは昭和天皇と苦労を共にした初代宮内庁長官であった田島道治である。
加藤恭子著「昭和天皇『謝罪詔勅草稿』の発見」によると、当時の昭和天皇の心境を宮内庁長官の田島道治が「大日本育英会」の用箋に書き残している。
「天皇陛下には満洲事変以来、君国のために或いは屍を戦場に暴(さら)し、或は身を職域に殉したる何万といふ人々及其遺族の上に思を寄せられ常に断腸の思をしてお出でになります。又戦傷者、戦災者、引揚者、引揚未済者及その家族等の直接戦争犠牲者は勿論、一般に産業の荒廃、諸物慣の騰貴、生活物資の窮乏等の為め、国民全般が衣食住にも不自由し、塗炭の苦難に當面して居ることを日夜御心配になつてお出でになります。そして此未曾有の災殃(さいおう)を招いたことは時勢の趨く所支へ難きものであつたにも拘らず、陛下としては御自分の不徳に由るものの如く御考えになり仰いでは祖宗に愧ぢ畏れ俯しては国民に済まなく御思ひつづけのやうに拝します。
斯様に御心を常に国民の上に寄せられ、御身は皇居に御出でになつても一刻も安き御心持でない様に拝察致しますが、去りとて方今世界の大勢は猶騒然たる上に国内に於ても諸事革新の際とて思潮の対立、紀綱の廃弛等容易ならざる時であり、内外諸般の情勢を大観しますれば、陛下御一身の潔きことに急なるの餘(あま)り、国家百年の憂を御閑却になる結果を生じますやうなことは到底許されませぬ事情が存しますので、陛下は此際最も至難な荊棘(けいきょく)の道を御とりになる御覚悟を以て、大義名分の存する所に則り天下人心の帰向する所に従ひ国民と共に新なる決意に燃えて身骨を労し心志を苦しめ躬を以て顛難の先に立ち、四国宣言受諾の際の『自分はどうなつてもよろしい』との恐れ多い御詫意を新たにせられ、
世論に超越して再建日本の為に全力を挙げて象徴たる御本分を御蓋しになり、以て戦争による犠牲者達に報ゆる所あらんと固く御決意の様に拝します。
我々国民は国の象徴たる、又国民統合の象徴たる陛下の此崇高なる犠牲的な御心を体して日本再建の為に一同感奮興起し戮力(りくりょく)共心誓つて国運を扶持恢弘(かいこう)しなければならないと存ずるものであります」と。
昭和天皇の生き方は、今上天皇にも受け繋がれているように見受けられる。大東亜戦争末期、今上天皇は日光に疎開され、敗戦後焼け野原となった東京に戻ってきたので、戦争の惨禍を痛いほど分かっおられる。天皇皇后の沖縄やサイパン島訪問などの慰霊の旅、戦没者追悼式への出席はもとより地震や台風などによる被災地の訪問などには昭和天皇の心に通じるものを見ることができる。
平成25年12月18日、天皇誕生日に際しての記者会見で、記者の「80年の道のりを振り返って特に印象に残っている出来事や,傘寿を迎えられたご感想,そしてこれからの人生をどのように歩もうとされているのかお聞かせ下さい。」との質問に
天皇陛下は
「80年の道のりを振り返って,特に印象に残っている出来事という質問ですが,やはり最も印象に残っているのは先の戦争のことです。私が学齢に達した時には中国との戦争が始まっており,その翌年の12月8日から,中国のほかに新たに米国,英国,オランダとの戦争が始まりました。終戦を迎えたのは小学校の最後の年でした。この戦争による日本人の犠牲者は約310万人と言われています。前途に様々な夢を持って生きていた多くの人々が,若くして命を失ったことを思うと,本当に痛ましい限りです。
戦後,連合国軍の占領下にあった日本は,平和と民主主義を,守るべき大切なものとして,日本国憲法を作り,様々な改革を行って,今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土を立て直し,かつ,改善していくために当時の我が国の人々の払った努力に対し,深い感謝の気持ちを抱いています。また,当時の知日派の米国人の協力も忘れてはならないことと思います。戦後60年を超す歳月を経,今日,日本には東日本大震災のような大きな災害に対しても,人と人との絆きずなを大切にし,冷静に事に対処し,復興に向かって尽力する人々が育っていることを,本当に心強く思っています。
傘寿を迎える私が,これまでに日本を支え,今も各地で様々に我が国の向上,発展に尽くしている人々に日々感謝の気持ちを持って過ごせることを幸せなことと思っています。」と答えられている。これを見れば昭和天皇の心は、今上天皇にも受け繋がれていることが分かる。
皇室の前途を考える上で懸念されることは、皇太子一家を巡るニュースなどからは、皇太子は“雅子、愛子”で日が暮れる毎日を楽しんでおられることは十二分に分かる。懸念すべき点は、昭和天皇や今上天皇が歩まれた“国民とともにある”という姿や日本という国、歴史や文化などにどれだけの関心があるのかないのか分からないことである。
昭和天皇は戦争の惨禍から荒廃した日本を再建するため力を尽くされた。今上天皇もそれを学ばれた。皇太子夫婦には、祖父、父と浮け繋がれた心、即ち、下記の
●国民全般が衣食住にも不自由し、塗炭の苦難に當面して居ることを日夜御心配
●此未曾有の災殃を招いたことは、陛下としては御自分の不徳に由るものの如く御考えになり仰いでは祖宗に愧ぢ畏れ俯しては国民に済まなく御思ひつづけ、
●御心を常に国民の上に寄せられ、御身は皇居に御出でになつても一刻も安き御心持でない様に拝察
●陛下御一身の潔きことに急なるの餘(あま)り、国家百年の憂を御閑却になる結果を生じますやうなことは到底許されませぬ
●最も至難な荊棘(けいきょく)の道を御とりになる御覚悟
●天下人心の帰向する所に従ひ国民と共に新なる決意に燃えて身骨を労し心志を苦しめ躬を以て顛難の先に立ち
●『自分はどうなつてもよろしい』との恐れ多い御詫意を新たにせられ
●世論に超越して再建日本の為に全力を挙げて象徴たる御本分を御蓋しになり
●戦争による犠牲者達に報ゆる所あらんと固く御決意 された。
祖父や父の時代と時は変わったが、昭和天皇や今上天皇が“国民と共に”という心で歩まれてきたことに関して皇太子夫婦はどれだけの関心があるのか。また国民統合の象徴になる立場をいかように考えているか。
皇太子夫婦の行状がこのまま続くならば、中長期的には国民の皇室に対する敬愛の念を失わせ皇室の権威を貶める。タイの王室がいい例である。中国マネーを貰い離婚再婚を繰り返した暗愚な皇太子が皇室の権威を貶め、それとともに中国マネーがタクシン元首相やインラック首相を後押しし、国王支持勢力と対立抗争を繰り返している。
タイの王室は、1935年に、プミポン国王の兄アーナンダ国王(ラーマ八世)がスイスで即位し、第二次世界大戦終結後に同国王は帰国した。その半年後に王宮内で額を撃ち抜かれて死亡した。事件の詳細は不明であるが、結果として祭り上げられたのが、現在のプミポン国王だった。プミポン国王は高齢で健康面からもかつての影響力がない。その地位を3代目の暗愚な皇太子に譲るべきか、聡明とされる皇女に譲るべきか迷っておられるらしい。王位継承もままならない。
「国を有(たも)つ者は以て慎まざる可(べ)からず。辟すれば則(すなわ)ち天下の僇(りく)と為る」(「大学」) 「辟」とは、一方に偏り対応が中正を失うこと。人間はとかく親愛するものに対しては過度の愛情に溺れがちである。
「僇(りく)」とは、人を殺す、辱しめるの意味に用いる。だから「国を有(たも)つ者は以て慎まざる可(べ)からず」なのだ。日本の“3代目”にはこの自覚が欠落している。タイ国内は国論が2分され王室は厳しい状況に置かれているが、”暗愚”と”聡明”、 “3代目が暗愚”、タイ王室と何やら似ている。
タイ王室は明日の日本の皇室を暗示している。