これはだめだ!

自信喪失、無気力な日本に”喝!”、反日、侮日に反撃、一矢を報いる。

ドタバタ劇で特定秘密保護法成立、米ソ二重スパイ志位正二やラストボロフ事件再発抑止に必要だ

2013-12-08 | 安全保障

与党、野党分断に成果…民主は国会対応で迷走 
 安全保障にかかわる機密情報を漏らした公務員らへの罰則を強化する特定秘密保護法が6日深夜に成立したことなどを受け、臨時国会は8日までの会期を残して事実上閉会した。  


 同法を巡り、与党は修正協議に日本維新の会、みんなの党を取り込むなど、野党の分断に一定の成果を上げた。一方の野党は、民主党が国会対応で迷走したほか、維新、みんなも立ち位置がぶれ、党内に不満を抱える結果となった。  
 みんなの党の渡辺代表が同法への賛成に前のめりだったこともあり、修正協議は与党ペースで進んだ。同党との修正がまとまると、埋没を危惧する維新の会も歩み寄った。野党との交渉にあたった自民党の中谷元衆院議員は7日午前のTBSの番組で、「限られた時間で、かなりの成果は出た」と語った。ただ、最後は自公だけで成立させる展開となり、世論の批判をかわそうとの戦略には狂いも生じた。  

 民主党は、独自の対案を提示して与党に受け入れを迫ったが、拒否されると「抵抗野党」路線を鮮明にし、安倍内閣不信任決議案や法案を担当する森消費者相の問責決議案などを乱発した。  

 ただ、国会対応はちぐはぐで、6日深夜の参院本会議では、参院執行部が採決の棄権を決めて一度は退席したものの、異論が相次ぐと議場に戻って反対票を投じる結果に。海江田代表は同法成立後、「参院の戦術は参院が考えること」と答えるのがやっとで、他党からも「野党第1党として毅然と対応すべきだ」(社民党の吉田党首)など厳しい声が相次いだ。  
         (2013年12月7日16時52分  読売新聞) 
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(マスコミは国民が知らねばならぬことを報道しただろうか!)
 与野党が対立する中、米英など先進国並みの機密保全法案が成立した。防衛、外交、スパイ活動防止及びテロ防止に関する政府全体の統一的克本格的な秘密保全ルールが整ったことになる。

 郵便局の職員は、「信書の秘密を侵す」と郵便法違反、罰則は「2年以下の懲役又は100万円以下の罰金」で防衛秘密の漏洩よりも厳しくなっている。この罰則があるから、はがきや年賀状などに記載されている各種の個人情報、即ち信書の秘密が守られている。

 国家公務員法に公務員の守秘義務、自衛隊法の防衛秘密の法制があるが、交通事故や郵便法違反より刑罰が軽い。このため情報がいとも簡単に漏洩する。国の重要情報の漏洩は刑罰が軽いのは、スパイ天国に相応しい。 

 自民党は米国から情報をもらうために法案を作成したようなものであるが、日本の自主性は追求しなければならない。独自に情報を収集することも必要であるが、今後どうするのだろうか。公明党は中国共産党とツウツウの間柄、獅子身中の虫、没法子!法律ができても日本は丸裸同然である。

 民主党、海江田代表「官僚が秘密を隠す官僚のための悪法」といったが、官僚の上を行く人物ではない。母親は東京都港区六本木のカステラの文明堂近くで海江田美容室を経営していた。母は息子を溺愛、客に「慶応に入った、卒業した」と大きなに声で自慢して育てたがボンボンで中身がない。“あぐら牧場は儲かる”とPRするレベルの人物であるから安全保障など埒外、反対をさけぶことしか能がない。民主党の党首であることが不思議である。

 みんなの党や日本維新の会は“隠れ賛成派”。少数政党が抵抗しても法案成立不可避だからテレビ映りを意識して大げさに騒いだだけの茶番劇。共産党や民主党は、この種法案は全て反対、慎重な審議を求めたのは廃案にするためにすぎない。

 マスコミは、国民の知る権利を云々するが、国民が知らなければならない「真相」を報道していない。朝日新聞は、記者が自分で傷つけた沖縄の珊瑚が傷んでいると捏造して報道した出鱈目な新聞社で、戦前戦中は軍部よりも軍国主義を鼓吹し助長した“前科者”である。
 近衛首相のブレーンだった同社の尾崎秀美は、軍部の海外進出を督促した似非国粋主義者を装っていたがゾルゲの手先、スパイだった。社旗は今も軍国時代の旭日旗。売れる側につく体質は戦前戦後も変らない。

 マスコミは購読者を増やしたり視聴率を上げ、利益を増やすため“危機”を煽っている。恰も朝日や毎日が、戦前、戦中に戦場の兵士の生存・死傷状況を伝え発行部数を増やした手法と瓜二つ。儲けるためなら「真相」の歪曲、無視は厭わない。

 マスコミが煽る「国民の知る権利」とは、国民のためでなく自らが取材するため、即ち、稼ぐための方便にすぎない。国民が知らねばならぬことを報道したか、否である。

特定秘密保護法を適用すべき典型的なスパイ事件:ラストボロフ事件
 
ラストボロフ事件は、昭和29(1954)年1月、ソ連代表部二等書記官ユーリ・アレクサンドロヴィッチ・ラストボロフ(当時33歳)が東京で行方不明となった。 

 半年が過ぎ8月14日、彼が国内で日本人協力者を使って情報を集めていたことが明らかにされ、アメリカへ政治亡命したことが発表された。そしてその情報提供者であった外務省職員ら日本人3人が逮捕された(1人は自殺)。東西冷戦時代、日本国内で発覚したスパイ事件としては戦後最大のスパイ事件であった。

      三好徹 『小説ラストボロフ事件』  
        

       副題 / 赤い国からきたスパイ  
       講談社文庫、1975年(第1刷) 
       カバー装幀 / 浅野洋、写真 / 永井富三 
 この文庫本「ラストボロフ事件」の「あとがき」には、「小説」の形で書かれてはいるが、内容の大半は資料から得た、とある。人名も、外国人名についてはすべて実名である。小説の主人公・倉石元少佐は、旧帝国陸軍少佐志位正二という実在の人物をモデルとしている。

在日ソ連代表部二等書記官・ユーリー・A・ラストボロフの米国亡命  
 ユーリー・A・ラストボロフは大正10(1921)年、モスクワの南方400kmにあるクルスク州で、赤軍に奉職していた父と女医の母との間に生まれた。父方の祖父は「宮農」であったという理由で土地を没収され、昭和5(1930)年の大飢饉の時に餓死した。共産党員であった父も、昭和11(1936)年の粛清の嵐のなか党員の資格を剥奪された。昭和5(1930)年に中学校を卒業したラストボロフはモスクワ測地研究所に入り、2ヶ月して徴集された。


 昭和15(1940)年に赤軍GRU(軍事諜報機関)の管理する極東語学研究所の選ばれた後、第二次大戦以降は諜報任務に従事し、昭和25(1950)年から日本勤務となった。非常に社交家で、米人や英人とよく交際していた。

 失踪当時、ラストボロフはモスクワに愛妻と8歳の娘を残していた。彼が亡命したのは、ベリヤの失脚と関係している。彼は内務省に所属していたが、内務省はベリヤの直系であった。そのため在日ソ連代表部首席パヴリチェフと次席ルノフとは対立していた。ベリヤが失脚しため在日ソ連代表部内においてラストボロフは非常に不利な状況にいた。

 昭和29(1954)年1月12日、世界スケート選手権大会出場選手団の副団長としてアナトリ・ロザノフという男が来日した。1月18日、ロザノフがラストボロフを呼びつけ、「パヴリチェフかラストボロフのどちらかが東京を離れるのではなくては、代表部の中はうまくいかない。そのことをパヴリチェフが本国へ上申した」と告げ、25日にロザノフと羽田を発ち、ソ連へ戻る予定となっていた。ラストボロフに帰国の命令が下されたのである。

 1月27日、ソ連代表部ザベノフが、代表部二等書記官ユーリ・アレクサンドロヴィッチ・ラストボロフ(当時33歳)が行方不明であると警視庁公安三課に捜査を依頼してきた。 

 ラストボロフが行方不明になった24日の行動は次の通りである。
 24日午前11時半、飯倉1丁目の都電停留所前から米軍バスに乗り、虎ノ門で降りた。その後、通りかかったタクシーを拾い、流暢な日本語で「ギンザ」と行き先を告げた。銀座裏の喫茶店「セ・シ・ボン」に現れたラストボロフは米人と何やら密談。午後2時を過ぎると、代表部に戻り、妻子のためにみやげ物を分けたり、身の回りの品を整理したりした。
 午後4時頃になると、彼はボストンバッグを持って代表部を出た。彼が訪れたのは行きつけの”東京温泉”である。従業員の女性は、写真を見せられて「本人です」と証言しているが、彼がいかにもアメリカ人のタイプであったのでソ連人だとはまったく思っていなかった。
 午後7時頃にはビフテキ屋「スエヒロ」で夕食。その後、”約束の場所”で昼間会った米人と落ち合った。その後、所在が分らなくなった。

 ベリヤ失脚後、富農出身のラストボロフは自分が監視され、やられると危険を感じるようになっていた。ラストボロフは米国CICの女性工作員に接触しアメリカへの亡命を依頼した。彼女の助けを得て昭和29(1954)年1月24日米国へ亡命、1月26日、米軍機で日本を出国した。 

 当時、米ソ冷戦下で日本とソ連に国交はなかったため、事件捜査は極秘裏に行なわれた。新聞は1月28日から、ソ連書記官の失踪を大々的に報じた。

 2月1日、在日ソ連代表部は「ラストボロフ氏は在日アメリカ諜報部に拉致、抑留されている」という声明を発表した。
 アメリカは約半年後の8月14日まで亡命を発表しなかった。同日、外務省と公安調査庁は共同発表を行い、ラストボロフのアメリカ亡命を発表した。同時にワシントンの米国務省も同じ発表を行なった。  

小説の主人公のモデルとなった“志位正二”
 
志位正二は終戦時、元関東軍第三方面軍情報主任参謀兼特別警備隊長、当時25歳であった。陸軍大学校卒業で戦争末期で昇進が早かった。実務は部下の中野学校出身者の将校や特務機関員が担当していた。


  昭和23年(1948)春、ソ連カザフ共和国カラカンダ市第20収容所に収容され、そこで内務省(MVD)の中佐・ラストボロフに協力するとの誓約書を差し出した。

  昭和24(1949)年1月、帰還船で舞鶴に引き揚げてきた。シベリアで長期間抑留されたり死亡した者が多かった中で、志位は比較的早く帰国した。シベリア抑留者は引き揚げ船で舞鶴へ上陸したら米陸軍諜報部(CIC)の取調べを受けることになっていた。彼は、そこでソ連で誓約書を提出した事実を供述し、CICの係官からソ連工作員の動きがあったら教えるよう頼まれた。
 その後、志位は米極東軍情報部地理課で元関東軍参謀という肩書きと経験を生かして高い給料をもらい勤務していた。その後、志位は外務省を経て民間で勤務した。

 昭和26(1951)年9月7日、金曜日、志位は米極東軍情報部地理課に出勤するため外へ出るとシベリアで協力を誓約した相手・内務省(MVD)ラストボロフ中佐が立っていた。彼から連絡を取り合うときの符牒を書いた紙切れを渡された。以後、志位とラストボロフの接触が始まった。

 志位が米ソの二重スパイとして動いていた時代は東西冷戦の最中で、朝鮮半島では昭和25(1950)年6月25日から昭和28(1953)年7月27日休戦)まで中朝共産軍と米韓等連合軍が死闘を展開していた。志位がソ連に提供した情報は、職務上知りえたアメリカの極東戦略、米軍の配置、日本の軍備など機密性の高いものであった。 

(ラストボロフ亡命と志位の動き)
 ラストボロフが失踪した10日後の2月3日、志位正二は東京都渋谷区幡ヶ谷のアパートで、妻と共に節分の豆まきをしていた。志位は新聞報道でラストボロフの失踪は承知していたが、アメリカに亡命したことは知らなかった。外で低い口笛が聞こえ、ギョとした志位は外に出たところラストボロフの車の運転手がいた。
 男は「サベルシーチェ・サモウヴィーストヴァ」(自殺しろ!)と低い鋭いロシア語で言うとすぐ走り去った。


 以後、志位は悩みぬいた挙句、警察に自首して、その保護を受けることにした。
 彼は2月5日朝、警視庁に出頭して、係官に全てを打ち明けた。これが日本におけるラストボロフ事件解明の発端である。

(日本人スパイ検挙) 
 やがて日米共同でラストボロフの供述とともに、在日ソ連のMVD班、GRU(軍参謀本部諜報総局)陸軍班、GRU海軍班の存在が解明され、MVD班が使っていた協力者36名の氏名や行動も解明された。この内、現職の外務省職員3名は国家公務員法第100条(秘密を守る義務)を適用され逮捕された。

 日米で共同発表があった8月24日、警視庁はこの年の3月に退官していた元外務省欧米局第5課事務官・日暮信則(44歳)、国際協力局第一課事務官・庄司宏(当時41歳)の2人を国家公務員法違反100条(秘密を守る義務)違反容疑で逮捕した。

 日暮信則外務事務官は茨城県出身で、東京外語大ロシア語科を中退、外務省の嘱託となり、昭和15(1940)年に通訳生としてソ連のペテロパウロフスクに派遣された。佐藤尚武大使時代、外務官僚としてモスクワに在勤した経験があり、「新日本会」と称する親ソ的団体の一員であったといわれている。
 終戦時、佐藤大使の秘書、モスクワ駐在大使館員として勤務した後、昭和21(1946)年に帰国した。その後も外務省で勤務していた。総理府事務官を兼任し、内閣調査室員でもあった。外務省と内閣調査室との連絡を担当していた。

 日暮信則は全てを供述した後、8月27日午後0時40分、東京地検25号室(4階)で取調を受けていたが、突然机に飛び乗り、検事の背後にある窓から飛び降りて自殺した。

 庄司宏も佐藤尚武大使時代、外務官僚としてモスクワに在勤した経験があり、「新日本会」の一員であったといわれている。日暮と庄司は業務上知りえた在日米軍情報を1回5~10万円ほどでラストボロフに流していた。

 彼等は通訳あがりのため出世は望めなかったので思想的動機というより、報酬のために情報提供に関わったと見られている。警視庁は2月の時点で外務事務官の秘密漏洩を把握していたが、公安三課長が渡米してラストボロフの自供を得て逮捕した。

 8月19日、同じ容疑で経済局経済二課事務官・高毛礼茂(当時51歳)が検挙された。高毛礼茂は連行される直前、「着替えたいから」と言って首吊り自殺を図ったが未遂に終った。

 彼は昭和24(1949)年にソ連通商代表部シュチュルバコフと知り合い、「エコノミスト」という暗号名で、業務上知り得た政府の秘密資料をソ連情報機関に流し、報酬として235万円を受け取っていた。

(裁判、判決) 
 昭和31(1956)年8月25日、東京地裁・清水裁判長は、高毛礼茂に懲役1年、罰金150万円を言い渡した。昭和35(1960)年11月、高毛礼茂の刑が確定した。

 昭和36(1961)年5月13日、庄司宏は証拠として提出されたラストボロフ調書が証明力が十分でないとされ無罪の判決が下された。昭和40(1965)年3月、無罪が確定した。

 ラストボロフの関係者には他にも元関東軍の小佐・志位正二(当時35歳)ら20数名の名が挙げられ、調べが進められていた。志位は帰国後、ソ連に情報を提供し、月1回、計30回にわたって約50万円の現金を受け取っていた。 
 志位は前記の経緯もあり自首したが、CICとの二重スパイであったと告白したこともあって13日に最後の調べが終り帰宅を許された

(志位正二の急死) 

 志位正二は自首したため起訴されなかったが、ラストボロフに協力した事が明るみに出たため外務省を退職し、一時、妻の実家のある舞鶴に身を隠した。その後東京に戻り、ソ連東欧貿易会でロシア語の翻訳をやる傍ら、シベリアに関する研究を続けていた。
 三好徹の『小説ラストボロフ事件』が出版されたのは昭和46(1971)年10月14日であり、志位が急死する約1年半前である。執筆にあたって志位がネタを提供したと言われている。

 この頃、チュメニ油田の開発が本格的に行なわれていた。昭和48(1973)年4月にモスクワでチュメニ石油開発について日ソの基本交渉が行なわれることになっていたので、それまでにマスタープランの作成を終らねばならなかった。日本側のマスタープランは日ソ経済委員会と海外石油開発が作成していたが、その中心人物が志位正二であった。

 志位正二は大急ぎで作成されたマスタープランを携行し、昭和48(1973)年3月31日、羽田発モスクワ経由パリ行きの日航441便でモスクワへ向った。飛行は順調であったが、正午過ぎハバロフスク上空にさしかかった頃、ファースト・クラスにいた男が「ウエー」と異様な叫び声を2回あげた。連れの男がスチューワデスを呼び、駆けつけたチーフパーサーが人工呼吸をしたが絶命した。 

 急死した男は、当時日本財界の大物今里広記が設立した海外石油開発の常務・志位正二、連れの男は同社専務の桧垣順三だった。機長はハバロフスクに緊急着陸を試みたが、天候が悪かったため羽田に引き返すことにした。

 午後3時過ぎ、羽田に戻り、遺体は空港警察署に運ばれた。翌日の新聞は「海外石油開発の志位常務、ハバロフスク上空で急死」と報道した。死因は後頭下(腔)窂刺検査の結果、髄液が血性だったので、脳死と判定され解剖されなかった。脳死に近い急死であった。
 この事件は、週刊誌が「やられた」「謀殺された」とセンセーショナルに取り上げた。
   
 庄司宏はスパイ行為を否認したが、日暮信則は素直に取り調べに応じ自供していた。日暮信則が生きていたら、更に上層部まで事件が波及した可能性がある。

 志位正二は帰還船で帰国、舞鶴に上陸するとCIC係官に誓約事実を供述した。昭和26(1951)年ラストボロフと出会うと、こんどはソ連機関のために働きだした。ソ連の工作員から「自殺しろ」と言われると警察に駆け込み、自供した。その後政財界に食い込み、政財界の要人から訪ソしてくれと頼まれると政財界の訪ソ団に同行し、駐日ソ連大使館のパーティーにも出席した。

 彼はこのように極めて特異な神経の持ち主である。「お坊ちゃん」タイプで煽てに乗りやすいく、例のルーピー鳩山由紀夫のようなタイプの人間である。


 ソ連KGBには暗殺の専門組織「第13課」があり、暗殺の研究を行なっていた。ソ連や米国の工作員は、志位の自尊心をくすぐって上手く利用した。鳩山由紀夫が中国に利用されているように・・・・・・。日本の政財界にはこのような人間が少なくない。ソ連は、国がロシアに変ったが、諜報組織は健在であろう。ロシアはもとより中国、南北朝鮮及び他の国々の情報機関が、日本国内で暗躍している。

日本はスパイ天国
 政治家は、知りえたことを発信することに汲々としている。政治家のホームページやtwitterには機微な情報が溢れている。ご丁寧にも中国語や朝鮮語のホームページもある。政治は国家や国の安全保障に関心が無いも同然、所謂、“市民グループ”なる人々は、国家を否定することが善であるかのように見える。これらの人にとって秘密保護法など不倶戴天の敵なのであろう。個人情報は守れと叫ぶが、国は情報を隠すな、知る権利を侵すなと言う。日本は丸裸の女性のような国で丸見え、パンツは履かなくてもカートで隠すべきところは隠さねばならない。

 秘密は官僚より政治家や財界人がよく漏らす、これが実態。法律もまだ問題点が多くあるが現状では必要悪、第三者委員会に民間人を入れれば秘密保全は保てないから、当分の間、官僚の“良識”に頼るのはやむを得ない。これも必要悪である。
 外国のスパイが暗躍しているのを放置してはならぬことである。日本がスパイ天国でいいのか、「知る権利」と「保全」を如何にバランスさせるか国民が考えねばならない。 

 他国ではスパイは死刑か無期であるが、国家公務員法では、秘密を漏らした者に対する罰則は「一年以下の懲役又は三万円以下の罰金」である。「外国為替及び外国貿易管理法」の罰則も同じ。
 いずれの法律も、郵便法や道路交通法の罰則に比べ極めて軽微である。国の安全保障に打撃を与える重大な法令違反が、自動車運転に伴う事故よりも極めて軽くなっている

 この程度の罰則であれば、確信犯であれば、“罰”よりも“勲章”として反日活動で大いに“売り”になるかもしれない。しかもスパイを取り締まることもできなかった。

 日本は世界に“誇る”スパイ天国である。

【以下、参考】 
 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に、志位正二、その父・志位正人について下記の記述がある。

志位正二 
志位 正二(しい まさつぐ、1920年1月1日 - 1973年3月31日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。

経歴
 志位正人陸軍中将の息子として生まれる。東京府立六中、東京陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科を経て、1939年9月、陸軍士官学校(52期)を卒業。同年11月、歩兵少尉に任官し歩兵第61連隊付となる。1944年12月、陸軍大学校(59期)卒業し陸軍少佐に昇進。1945年4月、関東軍隷下の第3方面軍情報参謀に発令され、終戦を迎えた。

 終戦後シベリア抑留にあい、1948年4月にソ連諜報員となる誓約を行い、モンゴルのウランバートルにあった「第7006俘虜収容所」において朝枝繁春、瀬島龍三、種村佐孝らとともに諜報員、共産主義革命のための特殊工作員としての訓練を受ける。1948年11月、シベリアより復員。1950年6月、GHQの取調べを受ける。1953年11月、外務省アジア局調査員となる。

 ユーリー・ラストヴォロフがアメリカ合衆国に亡命した後の1954年2月5日、警視庁公安課に自首し、自身がソ連の工作員(スパイ)であったことを認めた。

 その後、海外石油開発株式会社常務となる。1973年3月31日、シベリア上空を飛行中の日本航空機内で死去した。日本共産党の志位和夫は甥にあたる。
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志位正人 
志位 正人(しい まさと、1889年10月22日 - 1945年5月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。兵科は砲兵。

経歴
 東京府出身。1909年(明治42年)、陸軍士官学校に入校。1911年(明治44年)5月、同校(23期)を卒業。同年12月、砲兵少尉任官。

1938年(昭和13年)3月、砲兵大佐に昇進。同年12月、名古屋兵器支廠長に就任。1940年(昭和15年)3月、大阪兵器補給廠長に異動。1941年(昭和16年)11月、第15軍兵器部長に就任し太平洋戦争を迎え、ビルマの戦いに参戦。

1943年(昭和18年)3月、緬甸方面軍兵器部長に就任。同年6月1日、陸軍兵器行政本部監督官に転じ、同年8月、陸軍少将に進む。1945年(昭和20年)5月に殉職し陸軍中将に進級。

親族 
二男 志位正二(陸軍少佐)
五男 志位明義 (日本共産党船橋市議会議員) 
孫 志位和夫 (衆議院議員、日本共産党委員長、志位明義の息子)


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