日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

菊池寛著『二千六百年史抄』 鎌倉幕府と元寇~建武中興~吉野時代   

2024-05-23 11:31:19 | 作家・思想家


    菊池寛著『二千六百年史抄』 
  目次  
    序 
    神武天皇の御創業  
    皇威の海外発展と支那文化の伝来     
    氏族制度と祭政一致     

    聖徳太子と中大兄皇子  
    奈良時代の文化と仏教  
    平安時代 
    院政と武士の擡頭  

      鎌倉幕府と元寇   
    建武中興  
    吉野時代 
    足利時代と海外発展  
    戦国時代 
    信長、秀吉、家康 
    鎖国 
    江戸幕府の構成    
    尊皇思想の勃興  
    国学の興隆 
    江戸幕府の衰亡 
    勤皇思想の勃興  
    勤皇志士と薩長同盟  
    明治維新と国体観念  
    廃藩置県と征韓論 
    立憲政治  
    日露戦争以後



   鎌倉幕府と元寇   
 平家の衰亡は、武家にして、藤原氏を学んで、大宮人としての弊害を承け継ぐと共に、土地を根拠とする武士自身の生活を忘れたためである。
 日本に於ける大叙事詩とも云ふべき平家物語に於ける平家の人々の頼りなさと、「風流」とは、この弊害を、そのまゝに現はしてゐる。

 源頼朝は、前車の覆轍に鑑みて、容易に鎌倉を離れなかった。

 平家の追討にも、義経、範頼の二弟をしてその事に当らしめ、自分は鎌倉を離れなかつた。
 武士が領国を離れ京洛の地に入ることは、その本拠を失ふことであることを心得てゐたのである。
 
 木曾義仲、旭将軍の勢威を以て、京洛の地に暴威を振ひながら、忽ちにして一敗地にまみれたのも、
彼にはよき教訓であったであらう。

 彼は、建久元年初めて上洛し、権大納言右近衛大将に任ぜられたが、直ちに拝辞した。 
彼は、たゞ六十六箇国総追捕使(そうつゐぶし)、もしくは征夷大将軍として、兵馬の権を握ることに専心した。
兵馬の権のある処に、やがて、政権も亦帰属することを、彼は意識してゐたのであらう。


 さらば、弟、義経と不和となるや、義経逮捕を名として、全国に守護を配置して軍事、警察を司らしめ、
又、兵糧米徴発のために、各所の荘園に地頭を置いた。

 これらは、すべて鎌倉と縁故深き、いはゆる御家人を以てしたから、幕府の強固なる統制は全国的に及んだ。
また朝廷に議奏の公卿を置き、朝臣を任免せんことを奏請した。

かくて、頼朝は、鎌倉に在って、政権を掌握したのである。  

 頼朝が、その武家政治に依って、天下を統一し、国民生活を安定せしめた功績は、
武家嫌ひの北畠親房さへ、之を認めてゐるくらゐだが、
朝廷に対する尊崇の念を多少とも有してゐた彼が、日本の国体とは相容れざる武家政治を開始したことは、
百世の下、やはりその責任は問はれなければならぬと思はれるのである。

  
 いはゆる、大衆間の判官びいきの反動として、世の識者の間には、
頼朝を偉人として認める人が多いが、幕府の統制強化のためとは云へ、
義経、範頼を初め眷属功臣を殺すこと140余人に及ぶと云はれる彼、
又強固なる幕府は建設されたが、彼の正統の子孫が、悉く非命に斃れることを予知しなかつた彼には、
どこか人間として、欠陥があったのではあるまいか。  


 頼朝死後、頼家、実朝が相次いで非命に斃れ、鎌倉幕府の命運、将に傾むかんとするが如き情勢を示した。
折しも、京都には天資英邁文武の諸芸に達し給うた後鳥羽上皇が、おはしましたから、
討幕の御計画が進められたのは当然である。これが承久の変である。

  

 が、関東の将士は、頼朝以来の武家政治を謳歌してゐたと見え、
彼等は北條義時の命令一下京都に馳せ上つたのである。


 変後、北條義時父子が、後鳥羽上皇、順徳上皇、土御門上皇を遠島に遷し奉ったことは、凶悪の極みであって、
その不臣は足利尊氏以上でないかと思はれる。


 幕府は承久の変後、院宣に応ぜし人々の所領三千余箇所を没して、有功の将士に与へ、新たに地頭職を設け、
幕府の基礎は、更に強固なものとなった。
しかも泰時、時頼等の傑出した人物が相継いで執権となり、鎌倉幕府の全盛時代を現出した。


 承久の変に於ける不臣を敢てした鎌倉幕府が、かくも強大になったことは、悲しむべきだが、
武士の統制機関が出来るだけ、強大となって、将に来らんとする皇国未曾有の危機たる蒙古襲来に当らうとしてゐたことは、
北條氏が、無意識の裡に行ってゐたせめてもの罪滅ぼしであらう。

 

 蒙古の欧亜征服が、いかに圧倒的で、その勢力がいかに強大であつたかを考へるとき、
一島国日本が、彼をして一指も触れしめなかったことは、
世界史上の奇蹟であり、日本民族の優秀性を誇示するに足る史実であるが、
その大きな功績は、強固なる鎌倉幕府を統帥した八代の執権 相模太郎時宗に帰すべきで、
武家政治の罪も、その功績に依りて、少くともその二三割は償ひ得たと云つてもよいだらう。

 

 時宗大勇猛心を以て、蒙古の使者を斬ること再度、承久以来阻隔してゐた朝幕の間も融和し、
君臣一如、上、亀山上皇は、御身を以て国難に代らんと、皇大神宮に祈請を凝らし給ひ、
下、鎌倉の将士は驀進して敵艦を襲って、顧ることをしなかった。


 弘安4年(1281年)、7月晦より、閏7月1日の夜にかけての大暴風に、敵15万の大軍は覆滅して、還り得たるもの、
わづか5分の1だと云はれてゐるが、15万の大軍を石築地に依って、よく防禦した将士の奮戦が、
やがてこの天佑を待ち得たのであらう。

 この一大勝報を得た朝野の感激は、如何ばかりであつただらう。

 63日間、一堂に籠つて、蒙古調伏を祈つたと云はれる宏覚禅師が、
「末の世の末の末まで我国はよろづの国にすぐれたる国」と詠んだのは、
その当時の国民的自覚と歓喜とを、代表したものであらう。


 この歌に現はれたる如く、蒙古の撃退は、
わが国民の民族的自覚心を向上せしめると共に、海外発展の壮志を呼び醒した。
世界の最大強国たる蒙古を撃退した国民にとって、怖るべきものは、何者もなくなったわけである。
以後、日本の海賊衆は、朝鮮及び支那の沿海に出没し始めたのである。

 

   建武中興   

 元寇は、日本の輝しき大勝に終つたが、その戦禍を甚だしく受けたものは、
戦勝の殊勲者たる鎌倉幕府それ自身であつた。

 文永、弘安の両役に於ける莫大なる戦費は勿論、
その前後に於ける辺海警備の費用、諸社寺に於ける祈祷に対する恩賞などで、鎌倉幕府の財政は、漸く窮乏を告ぐるに至った。


 それと同時に、幕府を窮地に陥れたことは、文永弘安の両役に於ける戦功者に対する論功行賞の問題だった。
平家を滅した時は、平家方の土地を恩賞に与へることが出来たし、
承久の変に於ても、没収された京方の公卿武士などの土地を恩賞に与へることが出来た。

 が、元寇に於ては、その戦勝に依って獲たる所は皆無であった。
しかも、幕府は、将士を励まさんがために恩賞を約束してあったのだから、
戦後将士の恩賞を求むる者、引きも切らず、その訴訟は20年間も続いたと云はれてゐる。


 幕府が、かうした難関に直面してゐた時、
弘安7年北條時宗が34歳の壮年で世を去ったことは、北條氏の運命を決したやうなもので、
その子貞時は凡庸、その孫高時は暗愚にして、一族の中の内訌(ないこう)相次ぎ、北條氏の衰運は、著るしいものがあった。


 宛(あたか)もよし、京都では、第96代後醍醐天皇が、即位し給うた。
御即位の当初は、後宇多法皇が、院政を聴かれてゐたが、元亨元年(1321年)天皇に政(まつりごと)を還し給うたので、
天皇は御英明の資を以て、記録所を復し給ひ、絶えて久しき御親政の実を行ひ給ふことになった。


 天皇は、後の三房と云はれた万里小路宣房(までのこうぢのぶふさ)、吉田定房、北畠親房の三名臣を初め、
日野資朝(ひのすけとも)、日野俊基(としもと)等の英才を起用せられ、鋭意諸政を改め給うたので、
中興の気運勃々たるものがあつた。

 しかも、北條氏が皇位継承の問題にさへ、容喙することを憤らせ給うた天皇は、後鳥羽上皇の御志を継ぎ、
(つと)に、北條氏討滅の御計画を廻らせられてゐた。


 正中元年(1324年)その御計画は、北條氏の探知するところとなり、
資朝、俊基の公卿を始め、土岐頼兼(ときよりかね)、多治見国長(たぢみくになが)などの犠牲者を出したが、
天皇は隠忍してその時機を待たせられて居たが、
嘉暦元年(1326年)北條氏の皇位継承に対する干渉露骨となるや、
天皇の御決心いよ/\深く、北條氏討伐の御計画は、正に一触即発の域に達した。


 所が、この御計画が、意外にも三房の一人にして天皇の御親臣なる吉田定房に依つて幕府に密告されたのである。
北條氏の大兵が、内裏を襲はんとするを聞召(きこしめ)され、
元弘(げんこう)元年(1331年)8月24日、天皇は、俄(にはか)に宮中を出でさせられ、
ついで27日笠置山に御潜幸遊ばされたが、
北條氏は、足利尊氏、金沢貞冬、大佛貞直(おさらぎさだなほ)等を将とし、大兵を以て笠置を襲った。  
  

   
 楠木正成が、勅命に依つて蹶起し、河内、赤坂城に菊水の旗を飜したのは、この時である。

 太平記に依れば、天皇がおん夢に依つて、正成の存在をお知りになったとあるが、
天皇も宋学に御造詣深く、正成も宋学を研究してゐたと云ふから、
さうした因縁で、夙(つと)に正成の忠志を御存知であったのではあるまいか。

 

 正成は赤坂城に天皇を迎へ奉るべき準備をしてゐたが、
笠置山の間道を知った賊兵は、夜中山上に達し、火を放って猛攻したので、笠置は遂に陥り、
天皇は北條氏の手に依って隠岐に遷(うつ)され給うた。

 

 笠置の陥る前、護良親王を迎へ奉った楠木正成は、
笠置陥落後も、関東の大軍を迎へて、奇計を以て之を悩ますこと20日に及んだが、
遂に孤掌(こしやう)鳴りがたきを知り、城に火を放つて自殺と思はせ、
護良親王を擁し一族郎党を引きつれ、風雨に乗じて、姿を晦ました。

 

 焼死と信ぜられてゐた正成が、吉野に兵を挙げられた護良親王と呼応して、赤坂城を奪還したのは、
元弘(げんこう)2年(12332年)の4月であつた。
正成は、更に金剛山に千早城を築いて、寄せ手の北條氏の大軍を馳せ悩ました。

 

 千早、赤坂、吉野のうち、赤坂、吉野は落ちたが、
千早城のみは、賊の大軍に囲まれながら、金剛山に因んで、金剛 不壊(ふゑ)の姿を示した。

 しかも、村上彦四郎 義光の御身代りに依つて吉野を落ち給ひし、
護良親王から諸国の武士に賜うた高時追討の令旨は、
北條氏の無力に愛想を尽かしてゐた諸国の武士に、有効適切に作用して、勤皇の志を起すものが、相続いた。
 

 新田義貞、赤松則村(のりむら)、伊予の土居、得能などがそれである。
 この間、隠岐におはしました天皇は、名和長年のお迎へを受けさせられて、
伯耆(はうき)の船上山(せんじやうざん)に行幸遊ばされた。


 九州に於ては、菊池武時が、探題北條英時を襲って、九州に於ける勤皇の第一声を挙げた。

 中にも、播磨の赤松則村は、京都の手薄を知り六波羅探題を襲はんとしたので、
鎌倉幕府は驚いて足利尊氏、名越(なごえ)高家の両将に、兵を率ゐて救援に上洛せしめた。


 足利尊氏は途中 近江 鏡ノ宿にて、密勅を蒙るや、之を秘して、何気なく京都を通り、丹波に入って、
足利氏の所領たる篠村八幡宮祠前に於て、勤皇の旗を挙げ、山陰道を上つてゐた千種忠顕(ちぐさたゞあき)の官軍と合して、
六波羅を攻めて、之(これ)を滅した。


 関東に於ても、北條氏の運命は尽きてゐた。
先に、千早の攻囲軍中にあって、護良親王の令旨を戴いて、東国へ帰つてゐた新田義貞は、義兵を起して鎌倉に攻め入り、
北條氏一族を討滅した。時に元弘三年(1333年)5月である。

 此処に、源頼朝に依って、始められた武家政治は150年にして一旦滅び、
輝しい天皇御親政の御世となったのである。
いはゆる建武中興がこれである。

 

   吉野時代   

 北條氏の滅亡するや、後醍醐天皇は、伯耆より御還幸の途につかせられ、
兵庫迄お迎へ申し上げた楠木正成に、
「北條氏を討滅し、今日京都に還幸出来るのは、偏(ひとへ)に汝の忠節による」とのお言葉を賜ひ、
正成の軍を先導として、京都に入らせられた。


 正成の光栄歓喜如何ばかりであつたであらう。

 御還幸の後、記録所を再興し、親しく政(まつりごと)をみそなはせ給ひ、
雑訴決断所(ざっそそけつだんしょ)を置いて訴訟を決せしめ給ひ、
武者所を設けて、武士の進退を掌(つかさど)らしめられた。
関白をも置かれなかったから、事実上の御親政となったのである。


 が、建武中興の大業が、間もなく破れ、北條氏に代って足利氏の興起を見るに至ったに就いては、
次の原因が数へられる。

 

(一) 建武中興に参加した武士の中には、自己の利害関係や、恩賞目当に行動した者が大部分であったこと、
 従つて、之等の武士は公家勢力の再興を欣ばず、公家と武家とが頗る不和であったこと。

  

(二) 政治の実権が久しく朝廷を去ってゐたから、公卿(くぎやう)は政治の実際に疎く、
 しかも鎌倉幕府の滅亡と共に、幕府が処理してゐた政務をも朝廷で併せ行はねばならぬことゝなり、
 政務が渋滞してしまったこと。


(三) 訴訟の裁決に当って統一を欠き、恩賞に不満を懐く者も現はれ、新税に対する不平などもあり、
 人心漸く新政を離れるに至つたこと。

 かうした新政に対する不平不満を利用して、自己の野心を逞しうしたのは、足利尊氏であった。
足利氏は、新田氏と共に、源義家の子義国から出で、その勢ひは兄の家なる新田氏を凌いで、
源頼朝の直系が断絶した後は、源氏の統領として、武士階級の輿望を集めてゐたのである。

 しかも、六波羅を滅して先づ京都に入るや、巧みに私恩を施して人心を収め、
北條氏に倣って政権を私(わたくし)せんとして、密かに機会を狙ってゐたのである。


 尊氏の野心を早くも察せられたのは、建武中興に大功労のおはしました護良親王で、打倒尊氏を策せられたが、
却って尊氏の讒(ざん)に遭ひ、鎌倉に流され幽閉され給ふに至った。


 たま/\北條高時の子、時行が信濃に兵を起し、父祖の覇業の地たる鎌倉を奪還せんとして襲来した。
相模守として鎌倉に在った尊氏の弟 直義は、敗れて鎌倉を脱出するとき、畏(おそれおほ)くも護良親王を弑(しい)し奉った。
これが、足利氏の悪逆の最初である。


 尊氏は、それを聞くと、勅許を待たずして、関東に下り、時行を逐(お)うて、そのまゝ鎌倉に止まり、
新田義貞を除くことを名として、頻(しきり)に兵を蒐(あつ)めた。叛心既に明らかである。


 天皇は、新田義貞をして西より、陸奥守北畠顕家(あきいへ)をして東より、鎌倉を挟撃せしめ給うた。
 
 義貞は、途中尊氏の軍を破り、足柄箱根に尊氏、直義と戦ったが、
官軍の一将が俄かに賊軍に応じたため、竹ノ下に大敗して潰走するに至った。
尊氏、直義その後を追うて、西上するや、
建武の功臣たる赤松 則村(のりむら)など、官軍に叛いて尊氏に応じ、東西から京都に迫ったので、
天皇は延元元年(1336年)正月1日、難を比叡山に避け給うた。


 が、陸奥の北畠顕家が、尊氏を追うて西上し、義貞、正成、長年等と協力して、尊氏を破ったので、
尊氏は弟直義と兵庫から、海を渡って、九州に奔(はし)った。


 当時九州には、先に建武の中興に忠死した菊池武時の子武敏があり、
少弐貞経(せうにさだつね)を誅し、勢威を振ってゐたので、尊氏を迎へ撃つて、博多の東方なる多々良浜(たたらはま)で激戦したが、
時利あらず、敗退したため尊氏の勢力は、九州一円を風靡し、九州の将士争うて之に属した。


 延元元年(1336年)4月、尊氏兄弟は博多を発し、途中、中国四国の兵を併せて海陸より並び進んで東上した。


 当時、新田義貞は、赤松則村を播磨の白旗城に囲んでゐたが、急を聞いて、朝廷に奏上した。
朝廷は、楠木正成に命じて、義貞を援けしめられる事になった。


 正成が敵を京都に入らしめんとの献策が、藤原 清忠のために、遮られたのは、この時の事である。
京都は、大兵を擁しては、長く保ちがたき土地であることは、木曾義仲の場合でも分るし、
尊氏の最初の京都入りの場合でも分るのだから、正成の献策が容れられたならば、
尊氏は再敗地に塗(まみ)れたかも分らないのである。


 正成、桜井駅に子 正行(まさつら)と訣別し、兵庫に赴きて、義貞と共に賊の大軍と戦ひ、腹背敵を受けて忠死を遂げた。
此処に於て賊軍は京都に入り、名和長年、千種忠顕等の諸将 難(なん)に死し、天皇は難を比叡山に避け給うた。


 京都に入った尊氏は、先に北條氏の擁立した量仁(かずひと)親王(光厳院)の御弟 豊仁(とよひと)親王を立て、
天皇(光明院)と称し奉った。
  
 次いで、尊氏は使者を比叡山に遣(つかは)し、偽り降って、天皇の御還幸を乞ひ奉り、天皇が還幸あらせられると、
花山院に幽し奉ったので、天皇は夜に乗じて、神器を奉じて吉野に行幸あらせられた。
延元元年(1336年)12月のことである。

 以後、57年間を吉野時代といふ。

  

 後醍醐天皇は、その後も新田義貞に勅して、皇太子 恒良(つねなが)親王、皇子 尊良(たかなが)親王を奉ぜしめて、
北陸経営に当らしめ、又 陸奥の北畠顕家(あきいへ)を西上せしめて、京都の恢復を計り給うたが、
顕家は延元3年(1338年)5月、摂津の石津で戦死し、
新田義貞は、延元3(1338年)年7月藤島の戦ひで戦死した。


 しかも、延元4年(1339年)、後醍醐天皇は、吉野の行宮(あんぐう)に崩ぜられたので、
南風いよ/\競はず、吉野の朝廷の柱石たる北畠親房の苦心経営を始めとし、
楠木正成の遺子正行の奮闘、菊池武敏の弟武光が、征西将軍 懐良(かねなが)親王を奉じて一時九州に雄飛するなど、
朝廷のために忠誠を尽くす将士も多かったが、遂に京都を恢復する迄には至らなかつた。

 

 これより先、足利尊氏は、京都に於て擅(ほしいまゝ)に幕府を開き、征夷大将軍と称し、
子 義詮(よしあきら)、孫義満相次いで政権を握った。

 元中9年に至り、義満は使を吉野に遣して、
後亀山天皇の還幸を乞ひ奉ったので、
天皇はこれを許し給ひ、京都に還幸し給ひ、神器を後小松天皇に授け給うた。

 
吉野時代の変乱は、足利尊氏が、後醍醐天皇の御親政に背き、武家政治の復興を計ったことに起因してゐるが、
当時武士階級に大義名分を解するもの甚だ少く、多くの武士は利害情実に依って動き、
昨日の宮方(みやかた)は今日の武家方(ぶけがた)となり、今日の武家方は明日の宮方となるといふやうに、
動揺常なく、遂に足利氏をして野心を遂げしむるに至ったのである。

 
 されば、北畠親房は、吉野の朝廷の中枢にあって、軍政両方面に肝脳を砕いてゐたが、
人心の頽廃を嘆じて、日本の国体を明らかにせんとし、

「神皇正統記」を著述し、

「大日本は神国なり。天祖始めて基を開き、日神(ひのかみ)長く統を伝へ給ふ。
 我が国のみこの事あり。異朝にはその類なし。この故に神国といふなり」と、
冒頭第一に、国体の真髄を発揚してゐるし、
「凡そ王土に孕(はら)まれて、忠を致し命を捨つるは人臣の道なり。
 必ず之(これ)を身の高名と思ふべきにあらず」と喝破して、


 当時の武士の通弊たる恩賞目当の進退に対して、大鉄槌を下してゐる。

 「大日本史」「日本外史」の勤皇思想も、「神皇正統記」にその源を発してゐる。

「正統記」は実に明治維新の大原動力をなした千古不磨の著述である。
生きては老躯を以て朝廷に尽くし、その二子顕家(あきいへ)、顕信を君国に捧げ、
死しては、その著述に依って、皇基を永久に護ってゐる。
私は、北畠親房を、日本無双の忠臣だと信じてゐる。
   
     

 
     

〔参考〕  
 





 
 


   



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