四王天延孝著『ユダヤ思想及び運動』
附録第三 シオンの議定書
第十五 議定
世界の同時革命
・・・・・・・・・フリーメーソンは情報蒐集所
・・・・・・・・・秘密結社弾圧
・・・・・・・・・共産主義
・・・・・・・・・刑罰の峻厳
・・・・・・・・・司法の定年制
・・・・・・・・・ユダヤ王は家長となる。
〔世界同時革命〕
各國同時に革命を勃费させ、
現在の各國の政府が凡て没落して(之は恐らく一世紀かゝる)吾々が決定的に主人公になった曉には、
如何なる陰謀も吾々に對して企てられない様に、
眼を見張り、吾々の征服に反對して荀も武器を執るものは、
何人と雖も容赦なく之を塵殺して終ふであらう。
新に祕密結社を創立するものは死刑に處する。
吾々の認めてゐる現存秘密結社は、吾々の爲に働いたものも、
吾々に反對してゐたものも、凡て一律に解散させ、
その會員は欧羅巴から甚だ遠い大陸に追ひやって終う。
餘り善く知ってゐるゴイムのフリ—メ—ソンも同様に取扱ふ。
何等かの理由で許してやって置くフリーメーソン社員は
何時でも之を追ひ払うことにして之を絶えず脅迫して置く。
吾々は法律を出して秘密結社員全部を欧黴巴から叩き出して、
ヨーロッパは吾々の政治の中心地とする。
吾々の決定したことは決定的で之に対する控訴も嘆願も許さない。
吾々がゴイムの社会に對立、騒擾の根を深く植えこんであったから、
秩序を恢復するのに無慈悲の方法を用いて
吾々には到底反抗は出來ないことを見せなければならぬ。
將來の幸福の為にはどれだけ多數の犠牲者を出そうとも、
何等考慮する必要はない。
眞に己れの政府の存続を忠実に考へ、
特権の存続を希ふのでは無く、
その職責を全うすることを願念する政府は
例え虐殺に訴えても善をなすことを努めなければならぬ。
永続する政府を創立する最善の方法は、官憲の権威を増強せなければならぬ。
それは政府の権限を頗る大さなものと且つ之を揺ぎ無きなものとしなければならぬが、
その基づく所は神か ら選ばれたのだから神秘的であるとの感想を與へることにある。
近年迄帝政露国がそれであったから、羅馬法王と共に吾々の随一の敵であった。
伊太利が血の海と化したことを思ひ起されたい。
併し此の如く血を流したのはシーラであったが伊太利は彼の髪の毛一本にも触れ得なかったのだ。
シーラは国民を虐げたのであるが、国民には强者と見えたのである。
彼は大胆にも再び伊太利の地を踏んだが何等虐待を受けなかった。
国民と云ふものは勇敢と沈着とによって国民を魅了して終ふと之れに触れようとしなかった。
〔フリーメーソンは情報蒐集所〕
前述の如く秘密結社は將来潰すのであるが、
吾々が主人公となる迄は、却てフリーメーソン組合を世界各国に増設して行くのである。
而て現在名士であり又は名士になりそうな人々をそこへ引っ入れるのである。
それはフリーメーソン組合は吾々の主要な情報蒐集期間であって、
吾々の勢力はそこから出るからである。
此等の組合は凡て吾々丈が承知して居て、
外の者には誰にも知られない唯一っの理事者の下に統一されなくてはならぬ。
即ちフリーメーソン組含は凡てユダヤ長老に支配されるのであって
組合から一人づつ代表者をその理事會議に出席させて、
理事會と世に現はれゐる方のフリーメーソンとの連絡に任じさせるのである。
理事会が標語を與へ、事業計画の編成に參加する。
此の組合には凡ての階級の代表者を集めてゐる。
極秘に属する政策は組合を設ける日から吾々が承知してゐて、
その指導に当たるのである。
国家警察、国際警察の殆ど凡ての手先はその組合に加盟させるが、
それは 警察として擾亂者に対して予防措置を講じて呉れるばかりでなく、
我々の行動を世間に向て秘匿して呉れ又不平を起させる為などにも役立つから、
是非必要なのである。
〔秘密結社弾圧〕
秘密結社に這入る人の多くは、 野心家や物好きなど一般に軽々しい人々で、
この計量に對して六ヶ敷ことなどは言わずに、
却って之が実行を助けて呉れるのである。
何か紛攪が起ったとすれば、
それは彼等の結束が餘り強固になるので之を要する攪乱する必要が起った為である。
何か陰謀が起こされたとすれば
その頭目には必ず最も必要な忠實な家來が一人立ってゐ居るのである。
吾々丈がフリーメーソンの事業を指導するのは極めて當然の事である。
なぜなれば吾々が何處へ行くべきか又行動の目的は何であるかと心得て居るからである。
ゴイムに至ては何にも解らない、すぐ後とでどう云ふ結果が来るかすら判らない。
彼等が計画をする時には、彼等の野心の一時的満足の外考へない。
その計画は結局彼等の為では無くて、
吾々が彼等に鼓吹したものであることも自分でやって居ながら気が附かない。
ゴイムが組合に加入するのは単なる物好きか公共の金の分配に預らうと云ふ希望からである。
中には實現不可能な希望を実現する機会を掴もうとするとして這入って來るのもある。
彼等は演説会の盛況と嵐のような柏手喝采にすっかり感激したり気を善くして居るが、
その拍手や成功は吾々が大金を使って彼等に贈ってやるのである。
此く吾々が成功させてやるのは、
遂には起る不成功で意気消沈することを大きくし之を利用する為である。
人に鼓吹された考へをも、
確かに自分が考え出したものだと信じ切ってゐる様な人には その士気阻喪が甚だしい訳である。
ゴイムの最も賢いものでも、
無邪気に吾々を信頼させる様に指導することが
どれ程容易なことであるかは諸君想像の外である。
之とは逆に又彼等を落胆させることも極めて容易なことである。
唯些細なしくじりや人が喝采を止めた丈でも彼等は志気阻喪するのである。
その場合、次の成功を準備してやると云へば彼筹は完全に服従して來るのである。
吾々ユダヤ民族は、計画が實行出來さへすれば成功などは意に介せないのであるが、
ゴイムは之と反對に成功さへすれば目的はどうなっても構はぬと云ふ風である。
〔共産主義〕
この心理状態が即ち彼等の指導を容易ならしめるのである。
外見は虎の様なゴイムは、精神は羊の様なもので、
彼等の脳は様々な愚劣なことを苦も無く受け入れる。
吾々は彼等の頭の中に一つの妄想を入れた。
それは人間の個人主義を
単なる象徴的思想たる集產主義〔訳註 共産主義と紙一枚の主義〕に没入することを夢みる妄想である。
彼等は此の妄想は主要な天然法則と正面衝突をすることが今以て諒解出來ず、
今後も又決して諒解出來まい。
天地創造の始めから、自然は個々のものを造って、
個性と云ふものを確認させる為にその個々は他のものとは違はしてあるのである。
吾々の古代の長老は如何に先見の明があったか、
彼等は、重要な目的を達する爲には手段にこだわったり、
その目的達成の為に供する犠牲などを勘定してはならぬ、と言ったのである。
吾々は小粒の家畜たるゴイムの犧牲は勘定しなかった。
吾々が自身多くの犠牲を出したが、
その代り吾々の民族が夢にも想わなかった地位を獲得出來た。
吾々の犠牲の數は比較的には餘り多くないが之に由て民族の破滅を免れ得たのである。
何人も避け得られない終局は死である。
であるから、新秩序の建設者たる吾々自身が死,ぬよりも先づ、
吾々の仕事をごたつかせる人々の死を早めてやった方が宜しい。
吾々はフリーメーソン結社員を誰も気が附かない樣に殺そう。
本人自身もそれは判らない、
必要になれば彼等全部も自然の死の様な姿で息を引き取るであらう。
吾々の同胞は之を知っても抗議などは敢てしない。
吾々がフリーメーソンの中で聊かでも吾々のいふ事を聴くまいとするものを根こぎにしたのは、
左様な方法を以てしたのである。
なぜなれば吾々はゴイムには自由主義を説くけれども、
吾々ユダヤ民族と吾々の手先は鉄の規律を以って押へて居るのである。
吾々の勢力によってゴイムの法律を適用することは最少限に止めたのである。
法の権威と云ふものは吾々が持ち込んだ自由主義解釋で失承せしめた。
最も重要なる政綱や道徳の根本は吾々の思ふ様に
且つゴイムの爲政者に吾々が示した方向に向て法廷で定めて終った。
この目的は至極簡単に逹せられた。
それは表面吾々と何等の関係の無い手先きの仲介により、
或は新聞などをと利用したのである。
貴族院議員や大官達に一も二も無く吾々の忠言を聴く者すらある。
ゴイムの純動物頭脳には物を解剖したり、観察したりする能力はない。
況や決定した時効が如何なる結果を導くかと云ふ先々の事などは 尚判りはしない。
吾々とゴイムの間には理窟の考へ方はこんな相違がある御蔭で、
ゴイムの本能的、動物的心理と較べて、吾々民族が神の選民であることが判然するのである。
ゴイムは物を見るけれども、 予見をすることは出來ない。
そして物質上のこと以外には発明する能力はない。
之に由って之を観れば天然が
吾々ユダヤ人を王として世界と導く様に造って呉れたことがいかにも明白である。
〔刑罰の峻厳〕
吾々が天下を掌握する日には、征服の成果を收め凡ての法律を変革するであらう。
吾々の法律は簡潔で、明晰で、確定的であって解釋の必要は無い。
それであるから誰でもそれを根本的に學び得る。
その中にハッキリ入れて置くべき要点は官憲に對する完全な服従である。
此の服従によって凡ての権力濫用を無くすることが出来る。
それは何人も例外なく、
吾々の最高権威者に属する絶対権の前に責任を負ふべきものであるからである。
次級官吏の権力乱用も亦無くなる。
若し犯した場含は、もう再犯の到底出來ない程峻厳に処罰されるからである。
吾々は官憲のやる事を細かく監視する。
これで物事が善く運ぶのである。
若し一部に腐敗があると必ず他所にも之を惹起することになる。
如何なる法律の違反も、腐敗行為も処罰を免れることは無くする。
役人の横領、怠慢も最初見せしめ的に嚴罰すれば跡を絶っであらう。
官の権威からすると、最上権の神聖を侵さんとするものは、
軽微のことでも、適当なる罰則即ち厳罰を課せなければならぬ。
犯罪が私利私慾を充たさんとする場介には特に然りである。
厳罰を蒙る犯罪者は主権、 政綱 及び法律擁護の為に官界の職場で斃れる兵士である。
個人的理由や支配者側であるからと云よて公職を缺くこと免じ得ない。
裁判官が馬鹿げた慈悲を見せようとすると、
それは刑法に違反することを知らなけれほならぬ。
元々刑法と云ふのは犯罪を無くする爲懲戒的見せしめの為に作られたのであって、
司法官の徳性を誇示する爲に出来たのでは無い。
此等の徳性は私的生活には尊重すべきものであらうが、
公的生活は人間生活の教養ををなす基地であるから、こゝではその特性は尊重されない。
〔司法の停年制〕
吾々の裁判官は五十五歲に達すれば現職を退くのである。
その理由は、
第一に老人は兎角先入観に捉われやすいと、新秩序に容易に従いたがらない。
第二に吾々の云う事を聴く吾々の人事を刷新するに役立つからである。
現位置に止まりたいものは何でも服従しなければならなぬ。
概して言へば、吾々の裁判官は
人を処罰し、
法律と強制制しなければならぬことを理解してゐる人々の中から選ぶのであって、
ゴイムが現在考へてゐる様な政治の意義を無視して、
自由主義の夢に任かせて步く様なことはしない人でなければならぬ。
屡々人事の異動を行ふ方式は役人の間に堅い結束の起るのを予防し、
彼等の運命の懸る政府の利益に彼等を結び附ける。
最も若い裁判官は
吾々の人民相互の間に設ける秩序を害するおれのある弊害を看過しない樣に教育する必要がある。
現今ゴイムの裁判官は彼等の職責に対する明瞭な認識が欠けて居るので、
如何なる種類の犯罪にも 情状酌量を加へる。
之は今日政府が司法官を任命した時に、
教養の観念と職員職責に対する信念とを吹き込まないから起こるのである。
動物が餌を探す為に子供を出してやる時と同様に、
ゴイムは職務の性質をも説明せずに高い位置を與へるのである。
そこで彼等の権威は彼等自身の努力と自身の執務とで地に塗れる結果になる。
所でこの結果が、吾々の方式の利益となる更に一つの事例である。
吾々の社會体制の見地から
部下に與へる教育を掌る官庁の凡ての重要位置から自由主義を駆逐する。
此等の椅子は行政事業の為吾々が仕込んだ人々丈に與へる。
人は恐らく老朽官吏の淘汰は國費の負担増加になると論ずるであらう。
之に對しては次の様に答える。
夫等の人々廃めさせる前、予め民間事業に位置を捜してやって、
彼等が失った所得はそちらで得られる様にする。
世界の金は吾々の手の中に集中されたのであるから
経費の嵩むを恐れる必要はない。
吾々の専制は凡ての點から見て一途に出てゐるから、
吾々の大権の働きは凡て尊重され、文句なしに服従される。
吾々は苦情にも、不平にも考慮を拂はない。
若し不平屋が實行運動を起したならば、
制裁を加へて外のものの見せしめにする。
司法上の判決を覆へさんとする控訴権は撤廃する。
司法部は 主権者の絶對的特権であるから、
吾々が任命した裁判官が誤った判決を下すことがあるといふ様に
人民に考へさせることは許せない。
併し萬一、裁判に過誤あった場令には吾々自身で之を取り消す。
その時には職務をわきまへない廉でその裁判官を処罰する。
そして再び過失が犯せない程重く責任を問ふのである。
繰り返し述べるが、
吾々の官憲が行う凡ての仕事を厳密に監督して
善良なる官吏による政治を要求する権利のある人民を滿足とせる。
〔ユダヤ王が家長となる〕
吾々の主権者の人物からして、
吾々の政府は族長であって父の如き保護者と見られるであらう。
吾々の人民はそれを父と見なし、
その役目は凡ての要望、凡ての為さんとする所を見て呉れ、
人民間の事やら、
人民と主権者の関係やら凡てに瓦って心配して呉れるのである。
此くして人民はこの保護者、
この指導者が居くては安寧な生活はどうしても出來ないと思ひ込む様になり、
吾々の主権者の専制にに服從し之を尊敬し遂に之を神化する樣にもなる。
人民が吾々の役人は君主の言ひ附けをー生懸命に實行するに甘んじて、
彼等の職域の最小範岡は止ろことを知った場合には尙更そうなる。
故に吾々の人民は、幸福に思ふ、
それは萬事は彼等の生活問題の内に律せられ、
丁度賢明な両親が義務と服従と法によって
彼等の子供等を教育しようとする様なものであることを認めるからである。
吾々の政策の祕密から眺めると、人民とその官庁とは小さい子供の類である 。
諸君の知られる如く吾々専制は権利と義務とに立脚する。
義務の實行を要求する権利は人民の為の父親たる政府の第一の義務である。
强者は人類を、天然法則卽ち服従に立脚する社会秩序に向て導く為に、
その威力を使ふ権利を持ってゐる。
此の世界に於て凡ては他人の力か環境か又は自らの本性か、
要するに自己の力以上の力に從へられる。
故に人類の幸福を實現する為には最も强いものにならうではないか。
吾々は現存秩序を侵犯するものは何人でも躊躇なく犠牲にしなければならぬ。
それはこの国民敎育的な大問題は、害悪を見せしめ的に懲罰することにあるからである。
イスラエル王が欧羅巴の捧げた冠を神聖な頭に頂くときには世界の族長となる。
そこへ行く迄に拂はなければならない犠牲者は、
ゴイムの政府共が幾世紀かの競爭時代に
愚にも付かない偉大さを爭ふ為に供物として斃した犠牲とは比較にならぬ程少い。
吾々の王は人民と絶えず接触して之に演説をする。
それが直に全世界に宣伝されるであらう。