日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

内田良平「支那観」五 列國支那分割の趨勢 三佛國 四 獨逸 五 米國  

2020-07-06 15:03:43 | 内田良平『支那観』

 
         

   内田良平「支那観」

       

 
五 列國支那分割の趨勢  

(三) 佛國 
 佛国の安南に據りたる、由來亦た淹し即ちち明の萬歴の末、
其宣教師始めて此地に入りしより、
乾隆中、阮福映を援けて越南王とならしめ、
咸豊中福映の曾孫弘任の教師を毅し耶蘇を厳禁するの事あるや、
終に兵を出して其罪を鳴らし、
柴混を攻陷し交阯を取下し同治の末(我が明治七年、1874年)
終に弘任と盟約を結びて之を其保護の下に置きたるもの、
是れ實に佛国東亞經營の第一歩たりしなり。

 而して其後クールべー提督の遠征は一時厥功を奏する能はざりしも、
日清戦爭の終るや、謂ゆる三国同盟の力を以て、
我に逼りて遼東還附をなさしめ尋いで一八九八年廣州灣租借を以て、
其東亞経営の基礎を固うし、
終に其力を雲南、貴州及び廣東廣西一帯の地に伸べて
此地點を以て他國に割讓若くは租借せざるの約を結び、
又た英佛協商によりて四川鐵道の共同敷設を策せり。

 而して其獲得せる鐵道利權は實に正太鐵道一五一哩、
雲南鐵道二九一哩、四寗鐵道五〇哩等にして、
着々として其経營を進むるを怠らず、
是亦た露英に次きて其勢力の侮るべからざるものなり。

(四)
 獨逸  
 獨逸の東亞に於ける根據地は山東の一角
即ち一八九八年に於て租借したる謂ゆる膠州灣に過ぎず、
然れども其辛辣なる外交政策は深く袁世凱との夤縁を繋ぎ、
終に之に依て山東省全部の鐵道及び鉱鑛權を獲得し
以て漸次中原に進出せんことを策せり。

 即ち現に獲得せる、
 膠濟鐵道二四五哩、
博山支線二四哩、
津浦鐵道北段三九一哩、
 の鐵道敷設權を其着手とし、
此諸線を延長して、
一方は省南線即ち靑島より江蘇省宿遷地方に至り、
一方は西北線即ち青島より直隷の一部に出で、
更に西南線によりて河南省に至らんとするの豫定にして、
若し其計書にして成らしめば、
齊桓管仲の遣劇は再び獨逸によって演奏せらるるやも
亦た未だ知るべからざるなり。

五 米国  
 米國はモンロー主義の国なり、
然れども其東亜の利権に朶頤するや、
或は滿洲中立意見の發議者となり、
或は四国借款の主動者となり、
決して永く冷淡の態度に甘んずるものに非ず。

 其の巴奈麻連河の開鑿事業を進捗したる、
比律賓群島の防備を増修したる、
太平洋艦隊を增設したる、
若し一朝好機の熟するものあらば、
亦た必ず
比律賓を根據として、
嶺南の一部又は揚子江流域の間に加入し
以て其勢力圏を割定せんとするの意あるに、
孰れか之を燭炤數計龜トを待って而して後知るべしといはんや。

 
 露国の北歐よりする南下と、
英人の印度よりする東浸は、漸勢なり、
漸勢は其餘力溢れて、自然の勢をなせるものなり。

 故に其根帯牢乎拔く可からざるものあり、
獨佛二国に至りては、其の沿革侵略的にして、
露英二国と其軌準を同ふせず、
隨て其の實力の上に於ても自ら懸隔あり、
米伊以下の諸邦に至りては国際壇上の陪賓にして、
最恵園の利益谷を均濡せんが為に伴列する者面己、
然れども国際間の干繋は、
其利害を一局に決するものに非るを以て、
陪賓にして正賓の権を犯し、
累を比隣に嫁するもの大に之れ有り、
米人の驕慢帝国を汚辱するの類、
乃ち爾り、而して日本に至りては自國の防衛上、
必す大陸に於て、堅固なる権域なかるべからず、
安全なる漸路を開かざる可からず。

 而も今の支那大陸は、支那人の支那大陸に非すして、
露英獨佛諸列邦の権力均衡上の爭區なり、
諸列邦の之を分割分取せざる所以のもの、
唯だ一の日本帝國あるが爲のみ、
然り、將來日本帝國の位置は、
永久に此疆域をして諸列邦の爭區に放擲し、
朝に一利権を取り、
夕に一権域を奪び税源は攀げて
之を其借款の担保に盡さしむるを託すべき乎。

 支那保全の言下に、此の尨大なる敗國にして、
之を擧げて白色人の手中に移さば、
日本帝国は洋上の一孤國に化了せむ。

 彼の好辯漢、北守南進を説いて、
帝國の防備を放棄せむとし、
大陸發展の漸路を塗塞せむとす。

 南門を開いて南出せば、
北門は忽ち虎狼人間の巷に跳らむ、
慮らざるも亦甚しいかな。

      (權藤成卿)


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