一方、学校での授業は実に退屈なカリキュラム帯に突入していた。職業訓練校では建前上、自由な創作というものができない。学校側の目的は、職人の質を決定づける「機械的精密性をもった技能」の注入が第一なのだ。つまり図面通りの正確な仕事をこなせる人間を輩出するのが学校の役割なので、生徒には個性の徹底的な排除が求められる。オレたちが学校でつくるものは作品でなく、製品なのだ。だから授業には当然、まったく面白みのない作業もふくまれてくる。
「動力ろくろ」とよばれる、自動的にそろいの器をつくってくれる機械の操作は、心底退屈だった。くるくる回る石膏製の外型に粘土玉をぽこんと放りこみ、内型を打ちこむ。すると数秒で、寸分の狂いもなく切っ立ち湯呑みができあがるのだ。ろくろ訓練で苦労に苦労を重ねてついに体得したあの切っ立ち湯呑みと同寸同形のもの、である。そのお手軽さには、驚異と嫉妬をおぼえた。逆に、侮蔑と嘲笑も禁じえなかったが。機械でつくられたものにはまったく表情がない。色気がない。人間味がない。つまりおもしろみがない。まさしくそれは「製品」だった。オレたちは動力ろくろを操りながら、それをつくってさえいない。つくらせているのだ、機械に。次から次へと石膏型から吐き出される製品のあまりの手応えのなさに虚脱しつつ、その魅力のなさに安堵しつつ、しかし逆にその体温のない画一性と制作スピードに恐怖もした。こんなものと自分の手仕事とをコストで比較されたら、太刀打ちできないからだ。
また「鋳込み成型」というカリキュラムも体験した。石膏型にドロドロの泥を流しこみ、しばらく待つ。石膏はよく水を吸うので、泥は石膏に接した部分だけが先に乾き、固形化する。その厚みが3~5ミリほどになったところで、余分な泥をすてる。そして完全に乾いたら、石膏型からぽこっと抜く。するときれいな土の器ができあがっているというわけだ。実によく考えられた、画期的かつ効率的、かつバカバカしい成型方法なのだった。
猛暑はつづく。プレハブづくりの作業場の薄屋根を、連日炎天が焼いた。煮え立つような湿気が部屋内によどみ、その重い空気を扇風機が心もとなくかきまぜる。オレたちはそんな天然サウナの中で、脳の機能を停止させ、手足を自動的に反復させた。成長のない毎日にあせり、いきどおり、それでもなんとかそんな授業に意味を見いだそうとした。しかし機械操作は、ひとの手のひら、わざ、きもち、が生み出す創作物のすばらしさを反面的に教えてくれるだけで、作業自体はいかなる刺激をも心に打ちこんでくれることはなかった。
東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
「動力ろくろ」とよばれる、自動的にそろいの器をつくってくれる機械の操作は、心底退屈だった。くるくる回る石膏製の外型に粘土玉をぽこんと放りこみ、内型を打ちこむ。すると数秒で、寸分の狂いもなく切っ立ち湯呑みができあがるのだ。ろくろ訓練で苦労に苦労を重ねてついに体得したあの切っ立ち湯呑みと同寸同形のもの、である。そのお手軽さには、驚異と嫉妬をおぼえた。逆に、侮蔑と嘲笑も禁じえなかったが。機械でつくられたものにはまったく表情がない。色気がない。人間味がない。つまりおもしろみがない。まさしくそれは「製品」だった。オレたちは動力ろくろを操りながら、それをつくってさえいない。つくらせているのだ、機械に。次から次へと石膏型から吐き出される製品のあまりの手応えのなさに虚脱しつつ、その魅力のなさに安堵しつつ、しかし逆にその体温のない画一性と制作スピードに恐怖もした。こんなものと自分の手仕事とをコストで比較されたら、太刀打ちできないからだ。
また「鋳込み成型」というカリキュラムも体験した。石膏型にドロドロの泥を流しこみ、しばらく待つ。石膏はよく水を吸うので、泥は石膏に接した部分だけが先に乾き、固形化する。その厚みが3~5ミリほどになったところで、余分な泥をすてる。そして完全に乾いたら、石膏型からぽこっと抜く。するときれいな土の器ができあがっているというわけだ。実によく考えられた、画期的かつ効率的、かつバカバカしい成型方法なのだった。
猛暑はつづく。プレハブづくりの作業場の薄屋根を、連日炎天が焼いた。煮え立つような湿気が部屋内によどみ、その重い空気を扇風機が心もとなくかきまぜる。オレたちはそんな天然サウナの中で、脳の機能を停止させ、手足を自動的に反復させた。成長のない毎日にあせり、いきどおり、それでもなんとかそんな授業に意味を見いだそうとした。しかし機械操作は、ひとの手のひら、わざ、きもち、が生み出す創作物のすばらしさを反面的に教えてくれるだけで、作業自体はいかなる刺激をも心に打ちこんでくれることはなかった。
東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園