陶芸みち

陶芸のド素人が、その世界に足を踏み入れ、成長していく過程を描いた私小説です。

その73・停滞

2010-02-28 21:59:18 | 日記
 一方、学校での授業は実に退屈なカリキュラム帯に突入していた。職業訓練校では建前上、自由な創作というものができない。学校側の目的は、職人の質を決定づける「機械的精密性をもった技能」の注入が第一なのだ。つまり図面通りの正確な仕事をこなせる人間を輩出するのが学校の役割なので、生徒には個性の徹底的な排除が求められる。オレたちが学校でつくるものは作品でなく、製品なのだ。だから授業には当然、まったく面白みのない作業もふくまれてくる。
 「動力ろくろ」とよばれる、自動的にそろいの器をつくってくれる機械の操作は、心底退屈だった。くるくる回る石膏製の外型に粘土玉をぽこんと放りこみ、内型を打ちこむ。すると数秒で、寸分の狂いもなく切っ立ち湯呑みができあがるのだ。ろくろ訓練で苦労に苦労を重ねてついに体得したあの切っ立ち湯呑みと同寸同形のもの、である。そのお手軽さには、驚異と嫉妬をおぼえた。逆に、侮蔑と嘲笑も禁じえなかったが。機械でつくられたものにはまったく表情がない。色気がない。人間味がない。つまりおもしろみがない。まさしくそれは「製品」だった。オレたちは動力ろくろを操りながら、それをつくってさえいない。つくらせているのだ、機械に。次から次へと石膏型から吐き出される製品のあまりの手応えのなさに虚脱しつつ、その魅力のなさに安堵しつつ、しかし逆にその体温のない画一性と制作スピードに恐怖もした。こんなものと自分の手仕事とをコストで比較されたら、太刀打ちできないからだ。
 また「鋳込み成型」というカリキュラムも体験した。石膏型にドロドロの泥を流しこみ、しばらく待つ。石膏はよく水を吸うので、泥は石膏に接した部分だけが先に乾き、固形化する。その厚みが3~5ミリほどになったところで、余分な泥をすてる。そして完全に乾いたら、石膏型からぽこっと抜く。するときれいな土の器ができあがっているというわけだ。実によく考えられた、画期的かつ効率的、かつバカバカしい成型方法なのだった。
 猛暑はつづく。プレハブづくりの作業場の薄屋根を、連日炎天が焼いた。煮え立つような湿気が部屋内によどみ、その重い空気を扇風機が心もとなくかきまぜる。オレたちはそんな天然サウナの中で、脳の機能を停止させ、手足を自動的に反復させた。成長のない毎日にあせり、いきどおり、それでもなんとかそんな授業に意味を見いだそうとした。しかし機械操作は、ひとの手のひら、わざ、きもち、が生み出す創作物のすばらしさを反面的に教えてくれるだけで、作業自体はいかなる刺激をも心に打ちこんでくれることはなかった。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

その72・器の中

2010-02-26 08:49:19 | 日記
 登り窯づくりに参加したクラスメイトたちは、次々とリタイヤしていった。新しい労働力も補充されたが、しんどい作業に長つづきする者は少なかった。入れかわり立ちかわりのそんな中で少数の、しかし熱い中心メンバーが固定されていった。メンバーは、窯づくり作業それ自体を糧としていたが、その夜に太陽センセーが実地に示してくれる器成形の技術や、講釈をなによりもたのしみに通った。センセーからは、学校の勉強とは別次元の知識を教わることができる。手先の技能よりも、人間の根幹を形づくるような品位の高い見識を移植しようと心を砕いてくださるのだ。そんな珠玉の話を、むさぼるように体内に取りこんだ。
 太陽センセーは、桃山時代の茶陶にとりつかれたひとだ。桃山は、歴史上初めて日本オリジナルの陶芸を生んだ時代であり、空前にして絶後の文化的ピークである。桃山の製陶技術は、他の時代とは比べものにならないほどの高みに君臨しながら、またたく間に衰退し、その後ぷっつりと歴史上から姿を消した。だから謎だらけなのだ。土の在処も、成型方法も、釉薬の調合も、窯の焚き方もわからない。遠く時空をへだてた現代においては、もはや想像するしかない。だから誰もが必死にそれを探りだそうとする。推理、実験と比較、成果、そのフィードバックで陶芸の技術は革新し、同時に桃山という過去にもどっていく。最先端はすべて遺産の中にある。そのノウハウを盗んでやろうという途方もない熱意が、この分野のひとたちの意志の筋骨を形づくる。
 桃山時代の陶芸は深い精神性と結びついている。器の形そのものがダイレクトに美意識の本質を示しているのだ。だから自然と、桃山の陶芸に向かうひとたちはサムライの面構えになる。太陽センセーもサムライだった。
 ある日、センセーはこんなことをおっしゃった。
「器のつくり方はの、文献には記されてないんじゃ」
 失われた製法、それを探るのが陶芸家一生の命題。そんなひとの言葉だ。深くて重い。
「そうか・・・どこにも書き残されてないんですね?」
「いや、ところが、そうでもない。製法を書いたものは、今もいろんなところに、ある」
 瞳の奥に炎がひらめく。
「それはの、器の中に記されているのじゃ」
 センセーはそんな謎めいたことを口にした。先人は、秘伝をそんな場所に書き残したのだろうか?それとも器の中に文書でも隠したのか?頭をひねる。するとセンセーはカラカラとほがらかに笑って答えを明かすのだった。それは実にシンプルな方法論なのだ。
「つくり方など、割りゃあわかるワイ。陶片の断面を見ては想像してみりゃええんじゃ。俺が若いころは、よう古い窯跡で陶器を盗掘しては、がんがんと壊してまわったもんよ」
 内緒じゃがな、とひそひそ声でつけ足し、またカラカラと笑う。なんとやんちゃなサムライもいたものだ。
 それにしてもこの好奇心と行動力、やむにやまれぬ情熱ときたら・・・。破顔しておどけつつ野武士は、聞く者を静かに圧倒した。

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その71・報酬

2010-02-25 09:04:16 | 日記
 Fさんちでマキ窯焼成は体験できたが、若葉家の登り窯の完成はまだまだ先の話だった。オレは週末になると仲間とともに、つづら折りに曲がりくねった峠道をぬって、窯にかよった。そして火炎さんに率いられ、不屈の体力でもって窯を成長させた。
 季節は盛夏に突入していた。気象観測史上キロクテキ、とニュースが連日報道するほどの暑い夏だった。竹藪の草蒸す湿気の中での労働は、虫との戦いでもある。前夜に摂取した酒のコロンを発散するオレたちは、ヤブ蚊にとって格好の餌食だったにちがいない。山に踏み入るだけで、やつらはたちまち群れになって死角から接近し、皮膚のいちばん敏感なポイントを的確に狙撃してきた。蚊取り線香の煙にいぶされても、たくましい食欲に取り憑かれたヤブ蚊たちはまったく平気なそぶりで攻めたててくる。あまりのかゆさに仕事の手をとめると、足首や首筋などのむき出しな箇所に、火ぶくれのような虫さされの密集地帯が見つかった。呪わしい。血液くらいくれてやってもいいが、なぜやつらはかゆい物質を注入せずには食事がとれないのだろう?うまいものを頂戴しておきながら悪意の置き土産とは、盗人たけだけしいというものではないか。
ーやつらはかゆくなる物質でなく、気持ちよくなる物質を人間の体内に残していくような進化を遂げるべきだー
 そんな夢物語を思い描きながら、それでも一心にツルハシを振るった。
 また未踏の荒れ地を開拓していくと、ムカデなどの不気味な節足動物にもしょっちゅう遭遇した。それらはみなはち切れんばかりに肥え太り、しかもぎょっとするほど動きが速かった。精気のみなぎった顔でこちらを一瞥し、小バカにするように去っていく。そんなときオレは、この山が栄養そのものであることを知り、自分が手にする土の力を思った。
 穴を掘っては泥とレンガを積み上げていく地道な作業がつづいた。うだるような暑熱は、体力と気力をむしばんでいく。レンガを積む手元の継ぎ目だけを見つめていると、視野が狭窄し、朦朧として、果てしもない長城建設に駆りだされた奴隷人足の気分におちいりそうになった。しかし苛烈な陽射しがななめに傾き、山肌にやわらかい陰影をつける時刻になると、黙々と働きつづける奴隷たちは視線をあげた。そしてその日一日の労働が結構な質量をもって空間を埋め立てていることを知り、着実な成果に安堵した。薄暗がりに浮かぶ不細工な城をうっとりとながめる時間が、過酷な労働のなによりの報酬だった。

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その70・ねらし

2010-02-23 09:08:20 | 日記
 一夜と一昼をまたいで翌夕刻、メーターが目標の数値を表示した。1230度。窯内の温度が最高点に達したのだ。いよいよ焼き上がりだ。しばらく温度をキープした後、焚き口や煙道がレンガなどによって封じられた。さらにレンガ目も泥でふさぐ。激しい焼成によって生じたヒビやすき間も、同様に修繕する。完全密封状態だ。以降数日間、窯内に残った熾き火にいぶされる純粋な還元状態という環境の中で、作品は寝かされ、熟され、ゆっくりと冷えかたまり、長かった炎との闘いで焼きつけられた勲章を結晶化させていく。
 そして人間も、愛しい作品との再会を待ちわびることになる。この冷却時間の長いこと、窯開けの日の待ち遠しいことといったら・・・。今度は人間のほうが焦がれ、手を尽くしたわが子の姿をはやく見たい歯がゆさに身を焼かれることになるのだ。
 窯に作品を入れるという行為は、つまり創作の最終段階を自然にゆだねるという意味に他ならない。作意を越えた解釈が、炎という自然物によってもたらされる。その人為の届かない偶然にひとは焦れ、期待し、不安に感じ、また憧れる。祈るばかりだ。それが焼き物のいちばんの楽しみであり、苦しみなのではないだろうか。そんなことを思って、作品を持たないオレは、閉じられたマキ窯の前でわが子との邂逅を心待ちにする人々の顔をうらやましくながめた。

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その69・攻め焚き

2010-02-21 03:14:44 | 日記
 炉内温度が1000度を上まわると、焚き口付近は尋常ならざる熱さとなる。焚き口はぶ厚い鉄板でふさがれているが、それがブリキのようにベコベコにゆがみはじめる。窯焚きはこの熱との闘いでもある。ここまでくると、マキをくべるのも大変な作業だ。炉内のマキが燃え尽きるタイミングを見計らって、鉄板を開けては新しいマキを放りこむのだが、焚き口が開くとすさまじい高温の放射に襲われる。灼熱の苦行だ。初夏でも長袖で皮膚を守らなければならない。焚き口からこぼれ出る炎は、したたる汗を焼いて塩の結晶にする。
 ぐんぐん温度を上げる攻め焚き。こうなると命がけだ。額と口元をタオルで覆って、目だけを露出する。ゴーグルを用意する者もいる。ほとんど左翼ゲリラだ。軍手を二枚重ねにした手にマキを握り、リーダーの合図を待つ。リーダーは、炉内に残る熾き(おき。今まさにまっ赤に焼けきっている炭火)の量を火の大きさで、炎の質をその色で見極め、供給するマキの量と落とし場所を指示する。マキくべ係はそのナビゲーションに従い、素早く、的確な位置に、適正な量を投げこまなければならない。炎が燃えさかるその向うには、作品を並べた棚が間近にそそり立っているため、マキの落としどころを間違えれば大惨事だ。スピーディーにして慎重、かつギリギリを狙う大胆さが要求される。
「オリャー、入れろ~」
「左にあと五本、中央に一本」
「あちー!」
「よっしゃ、閉じて」
 一気呵成のオペレーションが終わると、再び鉄板が閉じられる。その間約10秒といったところ。あわただしく怒号が飛び交ったマキくべ作業の瞬後、打って変わった奇妙な静けさが訪れる。だれもが耳をすます。たった今放りこまれたマキに火がまわるパチパチという音を、ぶ厚いレンガ壁越しに聞くのだ。緊張の面持ちで、パイロメーター(温度計の表示装置)に示される炉内温度を見つめる。
ーマキがきちんと仕事を全うしてくれますように・・・ー
 それは厳かな時間だった。マキがくべられると、炉内は一時的に酸欠となり、還元状態におちいる。エネルギーを放出したがる新入りのマキと、今までかつかつでやり繰りしてきた酸素量との需給バランスが崩れ、不完全燃焼を起こすのだ。焚き口から冷気も入り、温度は落ちていく。しかしやがて、異物とみられたサラなマキにも酸素がゆきわたってついに燃えだし、炉内の炎になじんで一体化する。透きとおって伸びる健康な炎が、温度をぐんぐんと上げはじめる。完全燃焼の酸化状態。二歩さがって三歩前進。このくり返しで温度をゲインしていき、炎の質もコントロールしつつ、マキ窯では作品を焼きあげていくのだ。

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その68・還元と酸化

2010-02-19 09:09:18 | 日記
 夜がふけて、炎は完全に根を張った。マキを飲みこむ窯の食欲がじょじょに加速していく。それにしたがって火力が増す。ほの暗かった炉内は、目を細めなければならないほどにまばゆく輝きはじめる。湿気を帯びてしょぼんとしていた窯が、はち切れんばかりに膨張していくようだ。
 炎はよどみなく行進し、焚き口からエントツへ向かってスムーズに流れていく。すべてが順調だ。しかし焼き物はこれだけではつまらない。試練を経ない器は素直に育ちすぎ、面白みのない子になってしまう。逆にいろんな質の炎と対決すれば、複雑で奥行きのある風貌を手に入れられる。そこで、窯内の温度が900度を超えるあたりから、単純な素通しになっていた焚き口からエントツまでの間に人為的な障害物を与える。人類が初めて土器をつくって以来15000年の間につちかった、炎の飼育法だ。
 たとえば、エントツの中途に細長い横穴をうがち、板を差しこんで、煙道を半分フタで閉じるようにする。ギロチンのような構造だ(この装置をダンパーという)。同時に、焚き口も鉄板でふさいでしまう。内部は半密封状態となる。するとマキを飲み込んだ炎は、行き場を失って太っていく。炉内圧が高まる、という状態だ。そこでこんな現象が起きる。窯内への空気の供給がストップしたため、燃焼を媒介する酸素が欠乏し、炎は壁のすき間というすき間から外に舌を伸ばして、空気を渇望しだす。不完全燃焼で、炎の色は怨念がこもったように鈍くにごる。それでも酸素が足りない。すると、進退極まった炎はなんと、作品の素地(土)から酸素を強奪しはじめるのだ。このかっぱぎにより、土はサビ(酸化)色を抜かれ、いい具合の肌に焼きあがる。簡単に言えば、作品から酸素をしぼり出す操作だ。この焚き方を「還元炎焼成」という。
 一方、焚き口をオープンにし、煙道もクリアにしてやると、エントツは窯内の熱い空気を素通しに外に吐き出す。エントツの太い引きは、焚き口からどんどん新鮮な酸素を窯内に取りこむ。早い循環で酸素がゆきわたった炎は、どんどんマキを食べてすくすくと育ち、透きとおって完全燃焼する。これが「酸化炎焼成」だ。
 この二種類の炎の質をコントロールして、陶芸家は自分の作品に好みの色や雰囲気、質感をつけるのだ。しかし人間が完全に自然を飼い慣らすことなどできない。完全に御しきったと思っても、窯出し時に予想だにできなかった状態が出現することもありうる。というよりも、ほとんどがそうだろう。炎のいたずらは人智を超える。それはうれしい結果かもしれないし、がっかりするような結果かもしれない。そうした意味でも、陶芸は自然とのケンカであり、共同作業ともいえるのだった。

図9・※1がダンパー。ダンパーの他に、ドラフト=通称「バカ穴」という装置もある(2)。これはエントツ付近に穴をうがって、レンガで閉じたり開けたりし、煙道に抜ける空気の引きの強さを調節する機能を担う。ストローの途中に穴を開けると吸えない現象を応用したもの。図は、マキ窯を後方から見たところ。3は焚き口。

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その67・あぶり

2010-02-17 12:33:33 | 日記
 最初は「あぶり焚き」だ。窯全体から湿気を抜きながら、じょじょにあたためていくのだ。詰められた作品と、しばらく使われなかった窯自体にも、相当な水分がふくまれている。それを乾かすと同時に、炎を室内にゆきわたらせるプロセスだ。最初は焚き口の外で軽薄なマキを燃やし、その手のひらにのるほどの火をじわじわと奥へ進めていく。するとやがて火先が窯内に引っぱられるようになる。これを「引き」とよぶ。炎はエントツの引きに導かれて中へ吸いこまれ、湿気は炎に押し出されてエントツへと逃げていき、水気をふくんだ重い引きは炎をさらに内部へ引っばりこみ・・・と、その相互作用で、焚き口から煙道へ向かう火道ができていく。と同時に、細くたよりない一方通行がだんだん奔流となる。
 窯内の空気が乾いて温まってきたら、ようやく本格的な焼成の開始だ。ところがこの重要なタイミングに、あろうことか、のんき顔でおでん鍋をつつく者や、早くも寝床につく者までが出はじめた。まったくなんたる無気力、なんたる怠慢。今どきの高校生のなまけっぷりときたら、長屋の八っつぁんふうにいえば「だらしねえ、情けねえ、見ちゃらんねえ」という三段重の不届き千万だ。アカギにいたっては、夕焼けのベンチで可憐な女子と愛をささやき合い、背中からハートの虹を立たせている。やる気あんのか?
「まあまあ。先はながいからね」
 おでん鍋をつつきながら、Fさんはまたもつぶやく。
ーそっかー
 オレははたと気づいた。心の奥底で燃えさかる炎を抑えこみ、高校生たちはあえてじっと息をひそめ、窯焚き後半のハードワークに備えているのだ。彼らは自分のやるべき仕事を理解し、責任とプライドを持って事にのぞんでいる。そして自分たちが動かなければならない最も重要な時間帯を知っている。はねるために、今は強いてしゃがむ。高校生たちは、我々よりもずっと大人だった。
 そして一方、我々コドモのような大人たちは、自分の体力もかえりみず、夜通し酒を飲んで無邪気に騒いでしまうのだった。

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その66・おでん

2010-02-16 19:46:12 | 日記
 はなしのマキ窯は、平地につくられた完全地上式の単房窯だった。Fさんが自分で築いたらしい。家族用テントほどのカマボコ型の部屋に、入口(焚き口)と出口(エントツ)をつけただけのシンプルな構造だ。独立した燃焼室を設けていないため、窯内に積み上げた作品のすぐ手前でマキを燃やして、豪快に(乱暴に?)焼きあげる。心おどる原始的焼成装置だ。
 オレたちが現地に到着したとき、窯詰め作業はすでにはじまっていた。窯詰めとは、窯の中に陶製の板と柱を使って棚を組み、作品をぎっしりと並べていく作業だ。高校生たちがカマボコ内に這いこみ、Tシャツをススだらけにして黙々と働いている。中をのぞきこむと、大小さまざまな器がハロゲン灯の薄明かりに照らされ、諦念の面持ちで刑の執行を待っていた。まだ入場できない作品は、窯口の外にずらりとひろげられている。それらは棚の高さや広さ、また炎の流れる方向、灰の降りかかる場所を考慮して選択され、窯の中に飲みこまれていく。
 作業は淡々と、しかし慎重にすすめられた。さて、みんなが立ち働くその横をふと見ると、場ちがいな巨大おでん鍋と、真っ昼間からビール片手のFさんがいた。
「先はながいよ」
 絶倫顔の彼はそう言って、菜箸でおでん鍋をかき回す。もうもうと湯気をたてるおでんのただならぬ量は、これから先一昼夜という焼成時間と作業の過酷さを雄弁に物語っているように思えた。
 初夏の新緑が、アスファルトに濃い影を落としていた。みんな汗まみれで動きまわる。自分の作品が焼きあがる瞬間を思うと、生き生きと力がみなぎるのだろう。オレは飛び入り参加なので、焼くべき作品もなくタダ働きだ。しかし知識という土産を根こそぎ持ち帰るつもりでいた。
 午後早くに窯詰めは終わり、みんなが出入りしていた大穴は30cm角ほどの焚き口を残してレンガで閉じられた。さらにレンガ目を泥で埋める。窯は、一枚岩のようにすき間なくぬり固められた。そのかたわらにたたずむ窯神様に供物をささげ、焼成成功をみんなで祈願する。火が入り、いよいよ窯焚きのはじまりだ。

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その65・マキ窯

2010-02-15 10:34:39 | 日記
「同級生んちでマキ窯を焚くらしいんすけど、一緒にひやかしにいきませんか?」
 ある日、デザイン科のアカギが唐突に切りだした。
「マジ?」
 オレは目を輝かせた。願ってもない。週末に若葉邸の裏山で登り窯づくりを手伝ってはいるものの、その仕組みすらまだまだ完全には理解できていない。それ以前に、そもそも「窯焚き」というものを知っておかなければ話にならないではないか。図面どおりにただレンガを組み立てるだけでは、窯の構造がどんな作用を意図しているのか、それによってどんな焼きあがりが期待できるのかが皆目わからないからだ。なにより、ぶっちゃけ「窯焚きってどんな感じ?」ってのを全然知らないのが不安だった。窯に関する本は読んだ。太陽センセーの説明も理解しているつもりだ。しかしまだほとんど合点はいっていない。実感が乏しいのは、もちろん経験がないせいだ。その点、一度マキ窯を焚く作業を目の当たりにしておけば、窯づくりにおけるパーツひとつを組み立てるにも意味をもたせることができる。1000の想像にまさるひとつの経験。
「いきたい!」
 オレはアカギに即答した。
 学校には窯元の跡継ぎが何人かいて(ちなみにアカギも製陶所二代目社長の座を約束されたサラブレッドだ)、彼らは自分の家に窯を持っている。それらは主に電気窯やガス窯なのだが、なかには立派なマキ窯をかまえるうちもある。その窯焚きの現場へ強引に押しかけて、見学、できれば飛び入りで体験させてもらおうではないか、というのが今回の企てだ。
 マキ窯を持つのは、デザイン科に籍を置くFさんというゴマ塩ヒゲのおっちゃんで、焼き物道百戦錬磨ふうのつわもの。自宅で陶芸教室も開いているらしい(彼は、絵付けを勉強するために訓練校にはいったのだ)。そのFさんちのマキ窯で近々、高校生の子息と仲間らが窯焚きをするというので、そこにまぎれこんでしまおうというわけだ。オレたちは勇んで爆改スカイラインを乗りつけた。

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その64・体育の時間

2010-02-12 09:09:53 | 日記
 ろくろ作業でまるまった背筋をめきめきと空に起こし、野球部員は思う存分に走りまわった。ただ残念なことに、野球をするには少なすぎるメンバー(褐色のスナフキンは参加せず、木陰で憂い顔にタバコをふかすだけだった)は、すばらしいグラウンドをいつももてあましていた。
 その広い面積がめいっぱいに使われるのが、年に5回きりある「体育の授業」だ。オレは体育委員に大抜擢されていたため、いつもこの時間の前には、はりきって下準備をした。実は例年、この体育の時間には「畑仕事」や「つる首型花ビンを長板で運ぶ練習」などというシブい訓練があてられていたらしいのだが、オレは担当委員として先生に陳情に上がり、特別に本格的な体育を復活させてもらうことにしたのだった。こうして仕切り屋は、はつらつと働ける場所を見いだした。
 企画した授業は「球技大会」と言ってよかった。クラスをくじ引きで4チームに分け、毎回大げさに「第1回イワトビ先生杯争奪キックベース選手権大会」などと銘打ってむやみに権威づけし、優勝を競わせるのだ。さらに先生を無理矢理に引っぱり出して、かっこいい開会宣言と泣かすスピーチ(プロットは全部オレが書いた)をさせ、テンションをピークに持っていく。授業の最後には、先生に「本日の最優秀選手」を決めてもらい、MVP杯(オレの自作)を受賞者に渡させてシメ。おかげで毎回、大いに盛り上がった。それはまるで「すばらしきせーしゅん」を画に描いたような光景だった。
 だがこの企画は若い男連中にはウケがよかったが、お肌のUVケアが気になる女子や、肩や足腰にろくろ疲労を蓄積する年配の諸兄にはひんしゅくを買った。こうしてひとり浮かれていたオレは、たちまち失脚した。バラバラの野武士たちをまとめるのは、実にホネの折れる役回りなのだった。

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その63・天国にいちばん近いフィールド

2010-02-11 09:03:32 | 日記
 さて、訓練内容は厳しかったが、学校の校風はおおらかだった。生徒総数50人あまりの小所帯。気の合う者同士が引かれあい、集まって、休み時間に活動する卓球部やテニス部、野球部、それに農作業部などが自然に生まれた。
 農作業部は、熱いナチュラリストたちのコミューンだった。オレが朝に登校すると、校舎わきの敷地を耕してつくったムチャな畑に、必ず彼らの姿があった。麦わら帽子のツバを寄せ合って、一心に草をむしったり、種をまいたり、心細い発芽にビニールをかぶせたりしている。農業の経験者、ひたすら緑を渇望していた都会人、将来はいなかで半農半陶・自給自足の暮らしを営もうと夢見る者・・・そんな連中の知識と実行力は、ついに粘土質な地土を肥沃なものに変質させ、豊穣な実りを実現した。キュウリやトマト、サツマイモなどを調理して昼休みにふるまう彼らは誇らしげで、やはりそれはそれで創作家の顔をしていた。
 テニス部や卓球部は、学校がおわると地元の体育館に集団で移動し、青春チックな部活動っぷりを展開していた。
 オレはというと、数少ない同世代の男子たちに交じって、昼休みのグラウンドで野球のまね事をする程度だった。以前やっていた草野球では、俊足巧打・強肩のキャッチャーとしてちばてつやリーグに名をとどろかせたが(ウソ)、ここでは試合を組めるほどの人数はいない。放りっぱなし、打ちっぱなしといったのんびり練習が主だった。
 とはいえ、真昼のキャッチボールは気持ちよかった。丘の頂上をならしてつくられた広大な芝生のグラウンドは、日光をまっすぐに受けて緑濃く、周囲の林にはキジが鳴くという、都会ではありえないロケーションだ。部員たちは、午前の訓練が終わると急いでランチをかきこみ、それぞれにグローブとバットを持って丘の頂上にダッシュした。みんなそれほど親密なわけではなく、弁当の中身をさらし合って食べっこするような間柄でもないので、各自がてんでバラバラの方角から集まってくる。仲良しごっこをするには、少々片意地がこびりつきすぎている年代なのだ。ただしそんな仏頂面でも、いったんグラウンドに集まると、ボールはのびのびとその間を飛び交った。女子が外野で球ひろいをしたり、先生や事務員氏がノックに参加したりという光景は、遠い日の思い出のようで、どこか甘酸っぱかった。ひろびろと気持ちを開放できる空間。それがこの「天国にいちばん近いフィールド」だった。

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その62・実力

2010-02-10 09:49:25 | 日記
 手をかえ品をかえ、学校の訓練はすすんだ。ライバルたちのブースを見わたすと、同じ課題を与えられながら、各自の長板にはまったく別物と言いたくなる製品が並んでいた。同寸同形の筒形をつくるにも、ひとそれぞれに個性がでてしまうのだ。わずかに開いた形、つぼんだ形、口が端反ったもの、かかえこんだもの、まるく見えるもの、やせて見えるもの、華奢なもの、厚ぼったいもの、肌がフラットなもの、ごついろくろ目の残ったもの・・・様々だ。不思議なことに、同じ切っ立ち湯呑みでも和物に見えるものと、中華風に見えるもの、洋物に見えるものがある。クセによるものなのか、あるいはつくる本人のイメージによるものなのか。それらは些細な差異にすぎなかったが、見慣れてくると、だれがつくったものか一目瞭然に見分けがつくほどだった。
 格好や細工の良さとは別次元にある「強い形」「堅固な形」というものも、なんとなく理解できるようになった。結果的に同じ形でも、だらしなく挽いたものと集中して挽いたものとでは、どこかしらちがってくる。器をとり巻く漠然とした空気感のようなものだが、やはり魂を入れたものは、気のせいでもなんでもなく、輝いて見えるのだ。だからオレは、ステージを駆けあがるスピードよりも、高度な技術の獲得よりも、今つくるひと品の質を高めることに心を砕いた。そんな感じやすさが、やがて自分の芯となり、大いなる跳躍を助けてくれると考えたのだ。・・・とはいえ、この時点の最高感度でつくった逸品でさえも、先生やトップランナーたちの目にはブサイク極まるお粗末品に見えていただろうが。
 進みの早い者、遅い者が顕著になってきた。みんな教え合ったり出し抜き合ったりしながら、ゆっくりと、あるいは急ぎ足に、達人への道をのぼっていった。ライバル心はむき出しでも、同時に「同志である」という連帯感も芽生えはじめた。クラスでいちばん歳上の者と下の者とでは40歳以上もの開きがあったが、そんなことはほとんど意識されない。先輩も後輩もない。過去の履歴や年格好も関係ない。ここで意味をもつのは、今現在の実力と制作態度だけなのだった。

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その61・実感

2010-02-09 09:08:08 | 日記
 窮屈な梅雨空がひらき、「夏近し」を思わせる強い陽光が射しはじめた。田園をゆくわがマドンナと用心棒の雨傘は、目にもあざやかなパラソルにとってかわった。その虹のように幻想的な風景は、毎朝ふらふらとチャリをこぐオレの寝不足アタマに潤いを与えてくれた。
 肉体的には疲れきっていたが、毎日がたのしくてしかたがなかった。投下した労力はウソをつかない。動けば動くだけ、考えれば考えるだけ、自分の中に育ちつつある果実がみずみずしく熟していく。ガキの頃に毎日感じていた成長の実感だ。
 作業場では他人の進み具合にまどわされず、手元の土の回転に意識を集中した。訓練に費やした時間は、すこしずつすこしずつ血肉になっていく。あわてない。暗闇の中を手探りで這いずりまわり、じょじょに足場を見つけては、ゆっくりゆっくりヨチヨチと進んだ。そうしてひとつひとつの小さなことを着実に取りこむことによって、足もとはほの明かりに照らされていく。ツカチンなどのトップランナーははるか前方をさらに加速しながら駈けていたが、追いつけないなどとはこれっぽっちも思わなかった。それを疑わせなかったのは、自分がだれよりも濃い密度で考え、高い意識で手を動かしているという確信があったからだ。もっとも、クラスのだれもがそのときそう考えていたかもしれない。だけどオレには、学校外でも膨大な仕事量をこなし、多様な経験をつみ、偉大なセンセーに薫陶を受け、実践の中で学び、それが自分の知識量を劇的に増やしているという確固たる自覚があった。
ーオレの伸びしろは他のだれよりも広いのだー
 成長の実感が、そんな買いかぶり気味の自信を支えてくれた。あるいは、途切れることを許さない集中力が、脳をハイにしていただけかもしれないが。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

その60・ケズリ

2010-02-08 10:43:59 | 日記
 ケズリ作業は、1・高台(器の裏の、輪っか型に出っぱった部分)の削り出し、2・厚い部分をそぎ落として重量バランスの調整、3・かっこよくするための仕上げ整形、などの意味をもつ。しかし合理的に事を進めるために、できることなら2の重さ調整と3の整形をはぶきたい。うまく挽けば、そんな作業は必要ないのだ。だからこそろくろ挽きの段階で、極力薄く、かつ根っこから口までを均等厚に、しかもなるべく美しく同じ形に、という技量が求められるわけだ。そのあたりを雑につくってしまうと、ケズリに大変な時間と手間を要することになる。
 ただ、重さ調整と整形をはぶいたとしても、1の高台の削り出しが実にむずかしい。そのあたりを説明していこう。
 まず、挽きあがった器を半乾き程度に乾燥させる。ウェットすぎると刃がねっとりと食いこんでささくれが出るし、またドライすぎても硬くて刃が立たなくなる。ちょうどいい頃合いというものがあり、そのあたりは制作者の作品管理のしかたが問われる。
 まん丸の口べりがかっちりと動かない程度に乾いたら、シッタ(湿台)という道具が登場する。これはとんがり帽子のような形をした粘土製の台で、ろくろ挽きした器をひっくり返して固定するために使う。シッタももちろん手づくりだ。器の口径に合わせて毎度各自でろくろ挽きし、水気を飛ばしてから使用する。
 さてケズリ作業だが、まずろくろの中心にシッタをすえつける。そのとんがり部分に、器をさか立ちにはめこんで回す。そしてそいつに直接カンナをあて、厚底部分から高台の形を削り出していくわけだ。背の高い切っ立ち湯呑みは、シッタのてっぺんを心もとなくくわえこんで乗っかっているにすぎない。不安定さを補助するものはなにもない。はめこむというよりは、口の内径をちょこんと引っ掛けただけのあやうい状態だ。その状態でろくろを高速回転させ、逆さになった湯呑みの底に刃物をあてる。こうして器の余分なぜい肉をそいでいき、高台は形づくられる。
図8
 まったく怖ろしい行為ではないか。削っている最中にカンナ(バターナイフを曲げたようなケズリ用刃物)の刃が、限界よりほんの少しでも深く土肌に食いこめば、たちまち口のグリップは外れ、湯呑みちゃん・一巻の終わり、となる。かといって表面を刃先でなでているだけでは、いつまでたっても高台は土中からフォルムをあらわさない。ギリギリの抵抗を見切ってえぐりこむしかない。まるで肝だめしだ。ろくろ上のシッタはハイスピードで回っているので、刃がわずかでもつまずくたびに、湯呑みは実際にすごい勢いで飛んでいった。そしてはるか遠方に破壊の音を聞くこととなる。恥ずかしいったらない。かといって回転速度を落とすと、エッジの立ったシャープな高台を削り出すことができない。ジレンマだった。
 さらに、高台の内側の堀をどこまで深く削れるか、というチキンレースの様相も呈する。攻めすぎて底を掘り抜き、穴をあけた経験は数知れず(「お、植木鉢か?」 by イワトビ先生)。かといってビビりすぎると、底が厚く残って重量オーバーとなり、臆病者あつかいされる(「お茶飲むたびに筋肉がついてまうぞ」同)。腹を決め、ノンブレーキで突っこむしかない。
ーチキンとは呼ばせねえ!ー
 祈りと呪詛とを同時に吐き散らしつつ、ろくろのアクセルを踏みこみ、震える手でカンナを立てた。ケズリは、まさに勇気と根性試しの場だった。

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その59・恍惚

2010-02-05 09:44:25 | 日記
 切っ立ち湯呑みの制作はつづいていた。しかし泣くほど苦労したほんの半月前のことがウソのように、ある時点から湯呑みの壁は薄くまっすぐに屹立するようになった。呼吸をとめ、視線を一点に落とし、左手の指先に神経を集中させる。おなじみ「ろくろ首」というのは、首がにょろろ~んと伸びるおばけだが、なるほどあれだ。指先が筒の腹をきれいにすべると、そのアタマはぎょっとするほどの勢いで上昇してきて眼前に迫った。伸びる伸びる。擬音で表現すれば、ぴょるるるる~、である。ついに口べりまでを完璧に挽ききり、オレは快感にひたった。
 名前どおりに切り立ったその姿は、玉取りしたときのちっちゃな土玉からはおよそ想像がつかないほどのタッパがあった。見込みから口べりまで完全に同径同厚の筒型。横から見ると、指のすべった航跡が水平方向に並んで(厳密には水平ではない。指はらせんを登っていくのだから)、正確な等間隔を刻んでいる。あわてず、遅れず、途切れることなく、リズミカルに走るシュプール。底点の茶だまりから頂までをコイル状にめぐるたった一本の線が、この湯呑みを形づくったわけだ。オレは菊練りの構造を思い起こし、あの巻貝型のらせんがもつ意味を、実感として理解した。確かに、練りや殺しをふくめてここに至るまでのすべての作業が、深い意味合いにおいて連結していた。永い歳月を費やしてつちかわれた人類の叡知が昇華し、この美しい器形を世に生ましめたのだ。
ーかっこいい・・・ついにこんなパーフェクトな形が挽けるようになったんだなあ・・・ー
 うっとりするような出来映えだ。クラスの他のだれが挽いたものよりも光り輝いて見える。まるで宝石だ。そんないとおしい切っ立ち湯呑みを前に、オレは恍惚した。周囲に見せびらかし、記念撮影まですませた。・・・それが焼きあがると「くんれん製品」として一個50円で叩き売られようとは、まだ知らされていない頃のできごとである。
 だが切っ立ち湯呑みは、この時点ではまだ完成とはいかない。「ケズリ」という作業がのこっている。器は、挽きっぱなしで成形完了というわけではないのだ。

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