陶芸みち

陶芸のド素人が、その世界に足を踏み入れ、成長していく過程を描いた私小説です。

その59・恍惚

2010-02-05 09:44:25 | 日記
 切っ立ち湯呑みの制作はつづいていた。しかし泣くほど苦労したほんの半月前のことがウソのように、ある時点から湯呑みの壁は薄くまっすぐに屹立するようになった。呼吸をとめ、視線を一点に落とし、左手の指先に神経を集中させる。おなじみ「ろくろ首」というのは、首がにょろろ~んと伸びるおばけだが、なるほどあれだ。指先が筒の腹をきれいにすべると、そのアタマはぎょっとするほどの勢いで上昇してきて眼前に迫った。伸びる伸びる。擬音で表現すれば、ぴょるるるる~、である。ついに口べりまでを完璧に挽ききり、オレは快感にひたった。
 名前どおりに切り立ったその姿は、玉取りしたときのちっちゃな土玉からはおよそ想像がつかないほどのタッパがあった。見込みから口べりまで完全に同径同厚の筒型。横から見ると、指のすべった航跡が水平方向に並んで(厳密には水平ではない。指はらせんを登っていくのだから)、正確な等間隔を刻んでいる。あわてず、遅れず、途切れることなく、リズミカルに走るシュプール。底点の茶だまりから頂までをコイル状にめぐるたった一本の線が、この湯呑みを形づくったわけだ。オレは菊練りの構造を思い起こし、あの巻貝型のらせんがもつ意味を、実感として理解した。確かに、練りや殺しをふくめてここに至るまでのすべての作業が、深い意味合いにおいて連結していた。永い歳月を費やしてつちかわれた人類の叡知が昇華し、この美しい器形を世に生ましめたのだ。
ーかっこいい・・・ついにこんなパーフェクトな形が挽けるようになったんだなあ・・・ー
 うっとりするような出来映えだ。クラスの他のだれが挽いたものよりも光り輝いて見える。まるで宝石だ。そんないとおしい切っ立ち湯呑みを前に、オレは恍惚した。周囲に見せびらかし、記念撮影まですませた。・・・それが焼きあがると「くんれん製品」として一個50円で叩き売られようとは、まだ知らされていない頃のできごとである。
 だが切っ立ち湯呑みは、この時点ではまだ完成とはいかない。「ケズリ」という作業がのこっている。器は、挽きっぱなしで成形完了というわけではないのだ。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

最新の画像もっと見る