陶芸みち

陶芸のド素人が、その世界に足を踏み入れ、成長していく過程を描いた私小説です。

その62・実力

2010-02-10 09:49:25 | 日記
 手をかえ品をかえ、学校の訓練はすすんだ。ライバルたちのブースを見わたすと、同じ課題を与えられながら、各自の長板にはまったく別物と言いたくなる製品が並んでいた。同寸同形の筒形をつくるにも、ひとそれぞれに個性がでてしまうのだ。わずかに開いた形、つぼんだ形、口が端反ったもの、かかえこんだもの、まるく見えるもの、やせて見えるもの、華奢なもの、厚ぼったいもの、肌がフラットなもの、ごついろくろ目の残ったもの・・・様々だ。不思議なことに、同じ切っ立ち湯呑みでも和物に見えるものと、中華風に見えるもの、洋物に見えるものがある。クセによるものなのか、あるいはつくる本人のイメージによるものなのか。それらは些細な差異にすぎなかったが、見慣れてくると、だれがつくったものか一目瞭然に見分けがつくほどだった。
 格好や細工の良さとは別次元にある「強い形」「堅固な形」というものも、なんとなく理解できるようになった。結果的に同じ形でも、だらしなく挽いたものと集中して挽いたものとでは、どこかしらちがってくる。器をとり巻く漠然とした空気感のようなものだが、やはり魂を入れたものは、気のせいでもなんでもなく、輝いて見えるのだ。だからオレは、ステージを駆けあがるスピードよりも、高度な技術の獲得よりも、今つくるひと品の質を高めることに心を砕いた。そんな感じやすさが、やがて自分の芯となり、大いなる跳躍を助けてくれると考えたのだ。・・・とはいえ、この時点の最高感度でつくった逸品でさえも、先生やトップランナーたちの目にはブサイク極まるお粗末品に見えていただろうが。
 進みの早い者、遅い者が顕著になってきた。みんな教え合ったり出し抜き合ったりしながら、ゆっくりと、あるいは急ぎ足に、達人への道をのぼっていった。ライバル心はむき出しでも、同時に「同志である」という連帯感も芽生えはじめた。クラスでいちばん歳上の者と下の者とでは40歳以上もの開きがあったが、そんなことはほとんど意識されない。先輩も後輩もない。過去の履歴や年格好も関係ない。ここで意味をもつのは、今現在の実力と制作態度だけなのだった。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園