陶芸みち

陶芸のド素人が、その世界に足を踏み入れ、成長していく過程を描いた私小説です。

その10・道具づくり

2009-11-30 09:51:05 | 日記
 まずは実技訓練に先がけて、道具づくりをしなければならない。今後一年間の訓練に必要なモノ、ことによると一生涯使いつづけることになる道具類を、棒っきれや鉄片といった粗素材から加工してつくるのだ。竹ベラ、トンボ(器の直径と深さをはかる物差し)、シッピキ(ろくろで挽いた作品を切りはなす切り糸)、カンナ(高台を削り出すナイフのような金属製ヘラ)・・・配布されたプリントに製図されたそれらの形状は、どれも専門的でプロ仕様。見たこともないようなシロモノばかりだった。オレも陶芸教室で多少は器づくりを経験してきたが、そこで使っていたおもちゃのようなものとはまったく別物だ。この道具類は、これからのリアルな実戦にもちいる「自前の武器」なのだ。借り物でなく、自分たちの手足としてなじんでいくことになる。ただ困ったことに、図面通りに材料を刻んでいっても、まだそれをどう使うのかがイメージできない。はじめて知る素材、形、そして使い方。あらためて自分がド素人であることを思い知らされた。
 はじめのうちクラス内は、だれもが無言で手を動かしつづけるため、しんと静まりかえっていた。オレもその沈黙にしたがった。訓練に対する不安や緊張があるうえに、まわりは全員が初対面。ライバルたちに自分の無知を悟られたくはないし、自分以外はみなウデに覚えのある者にちがいない、という猜疑もある。しかし敵もさてはそんな見方をこちらに対してしているとみえ、警戒感で総すくみ。高校や大学の入学直後のように、多少の振れ幅はあってもほぼ同等の人生を送った者たちが集まるのとはちがい、それぞれがまったく別の道のりを生きてきた多様な32名なのだ。即座にうちとけるというわけにはいかないのだった。かくして、おたがいに探り合いながらの奇妙な時間がつづく。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

その9・製造科

2009-11-29 10:10:59 | 日記
「作業場に移動するよ、いかな~」
 案内された製造科の訓練棟は、かざり気のないプレハブづくりだった。質実剛健とよぶにふさわしい、使い勝手本位の素っ気なさがシブい。
 横着な立てつけのドアから入った瞬間、ひんやり、しっとりとした空気につつまれる。と同時に、むせかえるような土の気配が迫ってきた。身が引きしまる。広さは、バスケットコートが二面はとれそうなほどもある。天井はむやみに高い。「工場制手工業」という言葉を思い起こさせる、典型的な作業場だ。そしてここがそのまま教室となる。特別な講師を招いておこなわれる専門性の高い学科の授業は別棟の講義室で受けるが、ふだん待機したり、昼食をとったり、ホームルーム、担任の講義、副担任のろくろ訓練、その他実技訓練にはこの場所をつかう。いわば自分たちのベースキャンプだ。
 一限めのチャイムが鳴り、さっそく最初の授業がはじまった。まずは無骨な作業台を並べて、座る配置が決められる。それからお約束の自己紹介が順ぐりにおこなわれた。
「陶芸家を志しておりまして、腕を磨こうとこちらにお世話になることにいたしました」
「リストラにあったんですが、ハローワークでこちらを紹介されまして、へへっ」
「海外青年協力隊で派遣されたインドネシアで陶芸を覚えました」
「製陶所の家を継がなきゃなんないから、しかたなく」
「マンガが売れなくなっちゃって・・・」
「陶芸体験のできるペンションを経営するのが夢なんです」
「あたしなーんにもかんがえてませーん」
 ・・・さまざまだ。思えば、誰もが過去をすて、新しい未来を求めてやってきたのだ。職業訓練校は多種多様な人種の巣窟といえる。ただ、美大キャンパスで散見する、いきなり尻を出したり、クラスの征服を宣言したり、中指を立ててみせたり、といったでたらめなキャラは見受けられなかった。みんな、おしなべておとなしそうだ。あるいは、そのヒツジの皮の下に凶暴なキバを隠し持っているだけかもしれないが。このオレのようにね、フッフ・・・
 さてコミュニケーションもそこそこに、すぐに授業は実戦段階に突入した。

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その8・更新

2009-11-28 08:16:17 | 日記
 それから数年たって、オレは本当に決断してしまったのだった。直感は大きな波となり、ついにこのものぐさ男に行動を起こさせた。
 すでに獲得したものに頓着するのをやめた。マンガをすて、暮らしをすて、町をすて、すべてをすててみた。すると、驚くほどすっきりと心を整理することができた。開き直りは強い。眼前に広大な地平がひらけた。窮屈な背後をかえりみる必要はまったくない。空っぽにした自分に、新しいものを詰めこんでいくのだ。これからすべてをつくりあげていけばいいのだ。そうしなければ生きていけないところまで追いつめられていたわけだが、別の言い方をすれば、いったん転んだおかげで新たな道を走りだすことができたのだ。
「いちに、さんし」
 なんて晴れやかな気持ち。ラジオ体操がこれほどすがすがしい運動だと、東京にいたあの頃にほんの少しでも気づくことができただろうか?かぐわしい春風に洗われながらオレは、胸をひらいて背伸びの運動~、ごーろく、しちはち・・・と、細胞にみずみずしい体液を送りこんだ。
 丘の上のこの場所は、空っぽの自分にふさわしい環境だった。よけいな情報がなにもない。青い空と、深い緑と、地べたには濃い影があるきりだ。ただそこに立っているだけで、新鮮なものが体内に殺到してくる。ささやかな建物群は装飾がそぎ落とされ、自分をみがいてくれる徹底的な機能だけがおさまっている。オレはこの場所ですべてを吸収し、更新されていく。小学校入学、中学校、高校、大学入学・・・あのときもこんな気持ちだっけ、としみじみ思い出した。
 まわりの仲間たちもおなじように考えているのだろう。みんな緊張しつつも、屈託のない笑みをこぼしている。だれもが多かれ少なかれ、開き直りにちかい覚悟を決めて、ここへやってきたにちがいない。職業訓練校とはそういう場所なのだ。
「はいー、しゅうごう~」
 製造科、デザイン科がそれぞれに集められ、担任と副担任の先生が紹介された。わが製造科の担任は、のぺ~とした雰囲気の40代「しゅが先生」、副担任はきびきびとした年配の職人「イワトビ先生」という。ボケなすび&鷹の爪、と表現したい、よくいえばメリハリのきいたコンビだ。
「じゃ、いよいよ訓練にはいるからね、いかな~」
 なすびのほうが仕切るのには少々不安が残るが、とにかくオレたちはしたがった。

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その7・漂着

2009-11-27 09:17:47 | 日記
 サボりだすときりがないのがフリーランスの世界だ。朝まで酒を飲んでグダグダになり、夕方近くまで眠るようになり、食うに困るとしぶしぶイラストや読み切りの原稿を描いた。つまりオレは、金がなくならないと原稿を描けないようになっていた。やがて編集部から足が遠のき、原稿でなくアルバイトで食いつなぐようになる。その生活は、ただただ凡百のプータローの姿だった。たまに連載もののような大きな仕事もしたが、自分自身が楽しめていないことに気づいた。楽しんで描かれていないものを読まされた読者が、楽しめようはずがない。連載はたちまち打ち切られた。なのに最終話を描きあげると、いつもほっとした。そもそもマンガを読まないオレは、この仕事が好きでもなんでもなかったのだ。今の生活に疑問を感じるようになった。
 そんなとき、陶芸という世界に出会った。きっかけは、「やってみない?」という友達につれられて、陶芸教室に体験にいったことだった。
「たのも~っ。ろくろをやらせてもらいたいのだがー」
・・・とは言わないが、看板を人質にかかえてドアを蹴り飛ばすような勢いで、オレは乗りこんでいった。どういうわけかオレは、いつも新たなことに挑戦するときは自信満々なのだ。たいした裏づけもなく、オレは自分を信じきっているのだ。
「まあ、ようこそいらっしゃいました」
 先生はオレより少々年上の女性で、トマトしか食べない、という怪人物だった。彼女は、この道場破りと見まがう無法な男をおだやかに迎えてくれた。
「ろくろをされたいようですけど、あなた、陶芸のご経験は?」
「ぜんぜん」
「ろくろをさわったことは?」
「いちども」
「・・・」
 あとから知ったことだが、陶芸では素人が最初からろくろを使うなどということはしない。手びねり成形によって、器のつくられる順序を知り、構造を理解し、造形に、用途に考えをおよぼし、はじめて技術としてのろくろ成形という選択肢が発想されるのだ。そこに行き着くまでのプロセスを全部はしょれば、ろくろ挽きは成形技法でなく、ただのアミューズメントになってしまう。
 しかし先生は物わかりよく、町の無法者にろくろを開放してくれた(事を荒立てるのがめんどくさかっただけかもしれない)。オレは生まれてはじめて、ろくろというものに向かった。
「では、まずね・・・」
「あ、いや、なにも教えないでください。ひとりで全部やってみせますから」
 この根拠のない自信はどこからわいてくるのか?ひとにはまったく理解できないかもしれない。とにかくオレは、自分の価値を決して疑うことができない。信じてみる。そうして力がみなぎっていくのだ。
 しかし、このときの態度は今思えば、自信ではなく、意欲から出たものだった。今でもはっきりと思い返すことができるのだが、ろくろ上の土と対峙したファーストタッチで、オレはある確信をおぼえていた。すなわち、
ーオレは将来、これを仕事にするにちがいないー
という直感を。

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その6・上京

2009-11-26 09:23:43 | 日記
 まんまと念願の上京を果たすと、さっそく編集者に紹介された「某マンガ家」のスタッフとして働きはじめた。
 オレはアシスタントとしてはまるっきり知識ゼロのド素人だったが、持ち前の器用さとかしこさと感受性で、すぐに技術的なものはマスターした。とてつもない才覚といわざるをえない。そんなだったので、周りの先輩アシスタントの仕事っぷりを見ては、
ーなんでこのひと、こんなに描くのが遅いんだろ・・・?ー
とか、
ーヘタだなー・・・オレならそうは描かないのに・・・ー
などと生意気なことを考えていた。
 しかし最大の不満は、親分となったマンガ家そのひとが、ヘ・・・うまいわけではなかったことだ。そのうえに、ケ・・・経済的にひかえめで、いじわ・・・優しくはなく、つまり、とてもじゃないが師匠として仰ぎ見ることができない。しかも、四畳半一間に先輩アシ三人がデスクを並べ、オレはその足もとの暗がりにちゃぶ台を置いて背景を描くという、劣悪な環境。さらに時給300円で一日18時間勤務という、およそ法的に考えられない労働条件。食事は三度三度コンビニ弁当で、600円以内の制限つき。眠気と空腹に耐えつつ、しばしば、自分は雪の野麦峠を越えてやってきた職工なのでは・・・?という幻覚を、うつらうつら見ることがあった。
 24時間のうち18時間を拘束されながら、残った時間で自作品を描きあげたのは、我ながらあっぱれというほかない。その作品が、ある賞にひっかかり、オレはわずか3ヶ月でタコ部屋生活から開放された。この日をさかいに、新米アシスタント氏は、晴れて「マンガ家」様となったのだった。
 独立した当初は、そこそこ順調だった。何本か読み切りものを描きおろし、いろんな雑誌に掲載された。スピリッツ、アクション、ヤングジャンプ、少年チャンピオン・・・どこに載っても、トビラのキャッチコピーは作者を「俊才」とうたっていた。なんとオレをピタリと言い当てた言葉だろう、「俊才」。ところがここで勘違いがはじまる。オレは本当に自分のことを俊才(=才知の優れたひと)であると思いこみ、安心感にひたり、サボることをおぼえていったのだ。堕落した生活がはじまった。

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その5・転職

2009-11-25 09:42:39 | 日記
 教師生活はらくちんだし、夏休みはたっぷりあるし、子供たちを相手にえらそうにふんぞり返っていられるのはなかなか気分もよかった。ただ、物足りなさも感じていた。日々の虚無感はいちじるしく、深刻なものだった。最も大きな理由はなんといっても、赴任校が男子校だったことだ。オレは女の子が大好きなのだ。この砂漠のような環境は耐えがたい。一年半もたつと、不良教師はその男地獄から抜け出す計画に熱中しはじめた。
 そんなとき、マンガ雑誌の「新人賞・マンガ原稿募集」のページに目がとまった。
「よっちゃんはマンガが上手やねー」
 ふと、自分が子供の頃からこう言われつづけていたことを思い出したのだ。
ーこの手をつかえば、東京にのぼれるかもしれない・・・ー
 思い立ったが吉日。ながい夏休みを利用して、マンガを描きはじめた。ところが、マンガをあまり読まないオレは、ストーリーづくりの作法も、作画のテクニックも知らない。そこで、とりあえず「日記のような世間話をマジックとボールペンで画用紙に描きつける」というムチャな方法でマンガ制作にとりかかった。マンガ原稿は通常、Gペンと黒インクで墨入れをするのだが、そんな常識すら知らなかったのだ。あまりに無鉄砲なチャレンジというほかない。ところが、この恐るべき無作法原稿からわが輩の天賦の才を見抜くらつ腕編集者がいるから、世界はあなどれない。
「すぐに東京に来て、アシスタントをしながら腕を磨いてみないか?」
 間違いなくきみは売れるから、という殺し文句に夢心地になり、オレはその電話を切るか切らないかのうちに、校長にあてた辞職願いをしたためていたのだった。

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その4・教師生活

2009-11-24 08:48:50 | 日記
 時給制のバイト教師だけでは生活が苦しいので、夜は進学塾で数学の講師をした。共通一次試験でチンピラ美大の足切りにさえ引っかかりそうだったオレが、数学を教えるなどとは驚天動地だが、とにかく今夜の飲み代と明日のパン代のために、インチキ講師でもなんでもやらざるをえなかった。受けもったのは「中三・特Aクラス」。偏差値が抜きん出ていて、県下最高レベルの高校入学をめざす秀才たちだ。彼らは、昼間の悪ガキ高校生たちとは、つむじの巻き方からしてちがっている。丸メガネ(サングラスではない)が鼻先にしっくりと似合い、前髪もまゆの上できれいにそろっている。学ランのそで口には鼻水でなく、指を切りそうな折り目がつき、シャツもちゃんとズボンの中。クツだってかかとを踏んづけることなく履くことができる。そのお行儀のよさと、頭脳の回転のはやさは、まったく異次元のものだった。オレは彼らに追いつき追い越そうと(彼らのほうが先をいっているのだ)、参考書を読んで必死で勉強した。彼らのまえでオレは、話のわかるアニキとしてではなく、なんでも知っている大人としてふるまわなければならない。なのに、アンチョコを盗み見ながら黒板に書きつける方程式が、自分でも理解できていないことがよくあった。
 だがここでもオレは人気者だった。テストの結果が優秀だった生徒には、ごほうび代わりにすばらしい体験をさせてあげた。こっそりと広場で、原付バイクを運転させてやるのだ。なんとすてきな先生ではないか。ある夜、こんな具合に何人かの生徒をつれてパチンコ屋の駐車場にいき、原付の乗り方を教えてやっていた。あるガリ勉くんは、大きな瞳いっぱいにスリルと興奮をたたえて、オレの自慢の「ヤマハ・jog」にまたがった。しかし彼はなにを思ったか、いきなりスロットルを目一杯にふかし、エンジンを全開にして走りだしてしまった。jogはフロントタイヤを高々とかかげたまま、駐車場の薄明かりから暗闇のなかに消えていった。・・・かと思うと、数十メートル先で激しい火花が散り、クラッシュの大音響がきこえた。あわててみんなで駆け寄ると、彼はドリフのずっこけオチのような格好ででんぐり返っている。
 オレはとっさに叫んだ。
「野郎ども、ずらかれ!」
 生徒にケガがないことを確認し、集会を解散させた。オレ自身も、動かなくなったjogを押して、一目散に逃げた。本当にやばい先生だった。

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その3・流浪のひと

2009-11-22 07:24:14 | 日記
 思えばここにいたるまでは、でたらめな暮らしっぷりをしてきた。
 中学、高校では、勉強もしないで絵ばかり描いていた。美大の学生時代には彫刻科に籍を置いたが、ほとんどラグビーと酒とに四年間を費やしたようなものだった。さいわい、時代はバブルのまっさかりだったので、卒業時にはたいした就職活動をすることもなく、いなかの私立高校に非常勤の美術教師としてもぐりこむことができた。しかしこんなインフレ教師にまともな授業などできるはずがない。ろくにカリキュラムもつくらず、始業時間に遅刻しては、その場しのぎに教卓によじのぼった。そしてもろ肌脱いで奇妙なポーズをとり、「わたしをデッサンしなさい」などとのたまう、こっぱずかしい先生だった。
 そんなテキトーな授業がもとで、事件が起こった。ある日校長が、文部省の小役人だのPTA役員だのを引きつれ、予告もなしに授業を視察にきてしまったのだ。上半身はだかのオレは、教卓上でポーズをとったまま身動きがとれない(その日の生徒たちのスケッチブックには、どのページにも、冷や汗タラタラの半裸男が描かれていた)。校長は校長で、青ざめてその場にかたまってしまっている。空気が凍りつくとはこのことだ。スーツ姿やザアマス眼鏡の面々は、ひそひそ声で意見を交わしあいながら教室を出ていった。案の定、放課後になるとハレンチ教師は校長室に呼びだされ、お偉いさん方にとり囲まれた。ところが、連中はどういうわけか、先刻の教室での光景を激賞してくれた。拍手喝采。破天荒な授業が、「個性的」という当時はやりはじめた便利な言葉に置きかえられ、いたくウケたらしい。勘違いもいいところだ。しかし災い転じて福。こうしてこれ以後も、思いつきのバカ授業はつづくこととなった。
 それでも生徒たちには人気がある先生だった。気やすく「先輩」とよばれ、タメ口でコミュニケーションがとれるざっくばらんな関係だった。なめられていただけなのかもしれないが、信頼は厚かったと思いたい。よく「彼女に子供ができちまった」だの「親を刺そうと思うんだけど」だのと気軽な相談を受けた。そんなときオレは、彼らをアパートによんでビールをふるまい、ひざを突き合わせて夜通し語らったりした。
 通知表は、全員に最高点をつけてやった。県下でも極めつけにアタマがわるく、偏差値ピラミッドの最底辺に位置する高校だったので、この「5」の成績は、とりわけ今まで劣等生とさげすまれてきた落ちこぼれたちをよろこばせた。だれもがその評価にやる気をくすぐられ、目を輝かせ、一心にスケッチブックに4Bを走らせてくれた。このバカ教師の授業は、いつもお祭りのようだった。

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その2・あたらしいあさ

2009-11-21 06:08:06 | 日記
 ここは、一年間かぎりの就学で世に通用するその道の技能を身につけさせてくれる、いわゆる職業訓練校というやつ。三十代なかばにもなったマンガ家くずれのオレを、三倍という入試倍率の中からひろいあげてくれた奇特な学校だ。
 丘が頂くみっつよっつ並んだ学校の建物群は、背が低くこぢんまりとしてみえるが、少数の精鋭(三十問のかんたんな常識問題と、20分間という短時間のスケッチ、そして面接とで、ひどく乱暴に選りすぐられた精鋭たちである)が使うには相応のスペースと設備が確保してある。またひろびろとした敷地内外には緑があふれ、開放感があった。
 毎朝9時になると駐車場ヨコの広場で、先生(正式には「指導員」)の号令がかかる。製造科32名とデザイン科22名全員が整列し、ラジオ体操がはじまるのだ。老いも若いも男も女も関係なしに、中身本位で集められたメンバー。おそろいの作業服をきて隊伍を組み、CDラジカセの明るすぎる声に一糸乱れず・・・とはいかないが、動きをぎくしゃくとシンクロさせる。その光景は、ほとんど昭和時代のいなか刑務所を連想させた。
 さて、なぜだか先生から名ざしで「ぜひきみに」といわれて体育委員を任ずることになったオレは、ここぞとばかりにラジオ体操のデモンストレーターをかって出た。新たな学園生活のために頭をモヒカンに刈りこみ、気合い充填、なんでもすすんでやってやろう、という心がまえだったのだ。
「あたらしいあさがきた きぼうのあさだ・・・」
 桜の花びらが視界いっぱいを流れていく。本当にぴかぴかの朝だった。オレたちが立つ丘は、広大な田園地帯を見おろし、遠く周囲をゆるやかな山の稜線にかこまれていた。高くむき出しの太陽のもと、空気は透きとおり、光が清潔だ。騒音とも、排気ガスとも、また空を埋めたてる高層文明とも無縁な世界がここにある。まっさらな一日がはじまる。キジが鳴いてやわらかな風がそよぐ中でのラジオ体操が、オレは大好きになった。
 こうしたシンプルかつ恵まれた環境のなかで、訓練ははじまった。

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その1・陶芸職業訓練校

2009-11-20 09:05:35 | 日記
 学校は、長くS字にうねる坂をのぼりきった丘の上にある。入学試験のときには、大都市から走った線路がぷつりと途切れる終着駅に降りたち、寒風吹きすさぶ田園地帯をバスで40分、さらに停留所から雪の残るあぜ道を25分も歩き、最後にまちかまえるこの急坂にちょっとだけ尻ごみを感じたものだった。それからひと月がたっていた。無事に入学をはたしたオレは、近くにひとり暮らしのアパートを借り、心も軽くチャリで通学することにした。輝ける未来に向かって、幸せいっぱい夢いっぱい。一日一日が新鮮な希望にみたされていた。そして朝、この坂の急勾配を一気通貫にかけ上がれるかどうかが、当日の体調と気力のバロメーターとなる。オレは願掛けにも似た心もちで、その朝その朝のペダルをふむ脚に力をみなぎらせた。
 春前までは東京のかたすみのコンクリートの牢獄によどんで、マンガやイラストをちまちまと描いていた。少年誌、青年誌、大衆週刊誌の誌面をただよってはすき間をうめ、その年の確定申告書に申しわけ程度の数字を書きこめるだけという生活だ。万年床にねそべって物思いにふけり、起きてはデスクに背中をまるめてペン先をのたくらせ、夜は酒場で飲んだくれ、その三点をヨタヨタと行き来するだけの毎日。スネを切ったらとろりとジンが匂い立ってきそうなほど酒につかっていた。
 そんな日々に、オレは唐突にピリオドを打った。やりたいことをやろう、という発作的な決断にそそのかされ、「陶芸」という新たな道に飛びこんだのだ。入試の合格証を受けとると、ただちに雑誌社との一切の関係を断ち(すでにあちらから断たれていたも同然の身だったので、やすやすと逃げおちることができた)、荷をまとめた。古い自分をリセット。手足がもげ、羽もズタズタのチョウが、もう一度サナギにもどったような気分だった。
 そんなウブでエンプティな心に、いなかの朝のあざやかな風が生気を吹きこんでくれる。チャリをこぐ脚にも力がみなぎるというものだ。坂の下から見あげると、できたての青空を背景に小箱のような学校がちょこんと建っている。緑にかこまれたその天空の小箱は、それまでコンクリートの地ベタをはってすごしてきたオレにとって、天国にいちばん近い場所のように思えた。気力はそれだけで充実。渾身の体重をペダルにのっけて、オレはひと息にアプローチをかけのぼった。
 丘の頂上にたどりつくと、仰々しい看板をかかげた門がまちかまえる。
「窯業高等技術専門校」
 それがオレの通う学校の正式名称だ。

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プロローグ

2009-11-18 09:40:54 | 日記
「作家は、茶碗いっこの中にみずからの世界観をうたい込まねばならんのじゃっ」
 老境の陶芸家は背をまるめ、ショボショボと重そうなまぶたの奥に灰色のひとみをキランと光らせた。視線は、たなごころに抱えこんだ茶碗にすえられている。怖じ気づきたくなるような内圧みなぎる凝視。自作の抹茶碗を切っ先するどいまなざしで解剖しつつ、陶芸家は言った。
「ひとつの宇宙をつくるのじゃっ」
 宇宙をつくる。ふーむ、おかしなひとだ。でも強い言葉だ。声はか細くかすれているが、血液が走って見える言葉。このひとはそんな言葉を吐く。
 出会ってすぐに、オレはこの陶芸家の人間性を全的に信頼するようになった。また生きざまにあこがれるようになった。そして彼の言うことを盲目的に神聖視し、したがうようになった。いつしか彼の言葉は、道深くに分け入ろうとする新米陶芸家(オレ)の心細い足もとを照らす道しるべとなっていった。神様は、ときにひとの運命にいたずらをして面白がる。神様の手のひらからこぼれ落ちたサイコロは気まぐれな座標上をころがって、オレと、この水木しげる似の老陶芸家に劇的な接点をもたせた。修行生活は、こうした幸運からはじまった。
 「陶芸修行」なんて、自分が費やした一年間を呼ぶのはおこがましい気もするけど、その濃密な日々はたくさんの財産をもたらしてくれた。ド素人も同然だった趣味作陶家が、一年という短い月日とたくさんの出会いをへてどんなふうに変化していったのか。陶芸の知識と技術、感性、それに創作そのもののもつ意味とを、どう腹にとりこんで消化していったのか。これからそんなことを書かせてもらおうと思う。このラクガキが、読み物として楽しんでもらえるだけでなく、陶芸や創作にまったく関心がなかったひとの興味のとっかかりになってくれればうれしい。
 そんなわけで、どうかいまだ道なかばにいる半可者の生意気な書き散らかしに、少しだけおつきあいを。

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