陶芸みち

陶芸のド素人が、その世界に足を踏み入れ、成長していく過程を描いた私小説です。

その145・土の力

2010-05-31 09:02:48 | 日記
 ところが、暗闇の中で集合体となったものをながめるとすばらしい出来映えだったのに、ひとつひとつをバラバラに手に取ると、そうでもない。白土のものは灰との噛み合わせが悪いのか自然釉のかかりが薄かったり、赤土のものは鉄が浮き出して朱泥のようにテカテカになってしまっていたり、耐火度の高いものは焼き締まりが甘かったり、逆に低いものはゆがんだり裂けてしまっていたり、と散々だ。自分の勝負作で満足のいくものは、ほとんど採れなかった。
 しかしそんな中で、火炎さんは傑作を何点も回収していた。それはプロの仕事だった。技術的な格のちがいもあろうが、まず第一に土の差だ。彼は山を歩き、あちこちをほじくり、土を採取し、実験をくり返し、作品に使うべき生地土を厳選している。昔から、一・土、二・焼き、三・細工、という。粘土工場で調合されたものを手軽に購入し、焼成環境を考えたセレクトもたいしてせず、細工をほどこすことに心奪われていたオレは、土の重要性を今さらながらに思い知らされた。
 自分のものの中にも、センセーから頂戴した土で挽いた小皿や、もぐさ土という特別な土でつくった茶碗には、うまく焼けているものもある。しかしその他に、納得のいくものはあまりなかった。窯出しされた作品には「炎に破れました」感がありありだ。一方、長年風雨にさらされた自然の土はあつかいづらいが、炎と一体化すると、驚くべき真価を発揮した。石がはぜ、灰が食いつき、炎の走った痕跡をまざまざと残し、全身に完結した風景をまとう。それは学校で焼きあげるクラフト製品とは正反対の、表情豊かな個性美だった。器のどこを切り取っても、ちがった景色がそこにある。物起承転結を各面に盛りこんだような、そんな劇性。マキ窯を焚くのは三度めだったが、これほどの仕事を目にしたのは初めてだ。オレはようやく、マキ窯で器を焼く意味が少しだけ理解できた気がした。
 火炎さんは自分の初窯を無事に終わらせたことで、ほっとした顔をしていた。しかし窯出し品全体を見わたすと、大成功と悦ぶ気にはなれない。一の間では温度が最高点まで上がりきらず、灰の融けが鈍かったために、ほとんどの作品に色気がつかなかった。二の間からはいい作品も出たが、三の間はマキ不足の関係もあって釉が融けきらず、ほとんどが生焼けだった。焚き手の技術不足もあろうが、窯の構造にも改良の余地がありそうだ。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

その144・奇跡の光景

2010-05-29 13:17:55 | 日記
 いつも思うのだが、窯を開けた瞬間の光景そのものが芸術品と見える。大小メリハリのついた作品の構成、色彩の調和、ガラス質の光沢と暗い異物沈着の質感のコントラスト。窯の内壁までが、とけた灰の影響で底光りしながら棚と同調していて、はからずもその画づら自体に目を奪われる。まるでガウディの建築物か、ロダンの壮大な彫刻「地獄門」だ。
 考えてみれば、窯詰めしたての作品群は、まだ生まれたての青臭さを漂わせていて締まりがなく、たよりない。形がただそこにあるというだけの落ち着かない存在だ。それが燃えさかる炎の中にあっては、まるで生命を吹きこまれたかのように力をみなぎらせる。自らが灼熱そのものとなって拡張をはじめるのだ。炎の奥にゆらめいて見えるその姿は、荒行に耐える修験者だ。そしてすべての行を終えて冷えきった窯の底にたたずむ彼らは、凝固した金属のように引き締まり、圧倒的な素材感、重量感、緊迫感を宿す。その変貌ぶりは劇的で、息を呑まずにはいられない。薄明かりに照らしだされる静かな光景は、蒼古としつつ怪しげな光を帯びていて、まるでおそろしく永い歳月をへて掘り起こされた黄金の遺跡のようだ。炎が時間を圧縮する。かくて土くれは、炎という奇跡をくぐり、玉となる。
「順ぐりに運び出して」
 窯内に這いこんだ火炎さんのくぐもった声。オレを陶然とさせた自然の芸術作は個々の作品に解体され、リレーで窯の外に運び出される。長大なイカダのように並べられた長板が、次々と大小器で彩られていく。最後の一個が窯口から出ると、足もとはおびただしい作品群によって埋めつくされた。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

その143・自然の仕事

2010-05-28 09:10:08 | 日記
 一週間ぶりに見るかぶと窯は、木漏れ日のなかに森閑と寝静まっていた。高温の炎を腹にかかえているときは精力をみなぎらせてふくらみきっていたのに、常温にまで冷えた今は、ひっそりと落ち着いてたたずむ。火のかけらをこぼしていた数知れない傷跡には、すさまじいすすがこびりついている。膨張と収縮にねじあげられた背はひび割れ、皮膚がぼろぼろとはがれ落ちて痛々しい。荒れて黒ずんだその姿は、壮絶な戦闘を終えて草に横たわる兵士のようだった。
 窯出しの招集に応じて集まったのは、ごく少人数だった。あれほど汗した自分たちの行為の結果を確認したいとは思わないのだろうか?窯焚きは祭りじみていて楽しいが、むしろ窯出しの瞬間にこそ、喜びは凝縮されているのに。
「さ、開けようか」
 気にもかけない様子で、火炎さんは言った。
 焚き口をふさぐレンガが崩された。暗闇の奥に光が射しこみ、じょじょにその内界がつまびらかになっていく。例の感動が押し寄せる。棚を組んだときには色気もツヤもなかった土くれの隊列が、火と融合して様相を一変させ、再びあらわれるときの衝撃!何度立ち会っても、この自然の仕事には圧倒される。それとわかっていてもついつい、おおっ、と声をあげてしまう。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

その142・前段

2010-05-27 09:00:16 | 日記
 余談になるが、代々木くんは窯焚きを終えたまさにその夜、交通事故に遭っていた。道の合流点で後方からぶつけられたらしい。彼も魂が抜けていたにちがいない。不吉の出席番号13番氏はひどいムチウチとなり、首にゴツいコルセットを装着していた。その姿がまたオオアリクイにそっくりで、オレたちは彼を気の毒がる前に、つい笑いだしそうになった。そもそも、彼を気の毒がるのに飽きてしまったということもあろうかと思う。代々木くんは、同情していてはきりがないほど常にケガをしている、ツイていない男なのだ。そして彼の大ケガはまだまだこれだけではすまないので、お楽しみに。
 さて、到着。若葉邸ではいつもと同じ光景が出迎えてくれる。まず庭先で最初に姿を現すのは、必ず太陽センセーだ。外でろくろを挽いていたのか、ガラクタを散らかしていたのか、あるいはカマキリと闘っていたのか、それともぼーっと日向ぼっこをしていたのかはわからない(師の日常は、この四種類の行動パターンで構成されている)。とにかくセンセーは、いつも汚れて穴の空いたシャツ姿で中庭にいる。愚かな弟子たちの到着をそわそわと待っていたに決まっている。のだが、
「おお、また来ょったんか」
やれやれしょーがないやつらじゃの、と、言葉は素っ気ない。なのに笑みは満面だ。
「ま、茶でも点ててくれや」
 そのままぞろぞろとお茶室に上がりこむ。ひとまずセンセーにお茶を点ててさしあげ、ついでに自服のお抹茶もいただく。形だけマネしながら、お茶の心を学ぶのが若葉家流だ。室内のしつらえはその時節のもの、道具類はどれもセンセーの手によるものだ。茶碗は、志野、織部、黄瀬戸、唐津、高麗、いろいろなものを用意してくださる。抹茶の最後の一滴をすすりこんだ後、名碗の鑑賞(観察・解剖)ができるという寸法だ。そこで講義がはじまる。
 優しいおじいちゃんの目が、作家の辛辣なそれに変わる。舌鋒は鋭利かつ峻厳だ。この一週間は、窯出しに分不相応な夢をみて大傑作を待ちわびていたのに、センセーのきびしい物の見方に接すると、過度な期待はたちまちしぼんでいく。理論的かつ実際的なセンセーの言葉に幻想は漉しとられ、無惨な現実だけが浮かび残るのだ。このまま窯を閉じっぱなしにして逃げ帰りたくなる。しかしそうもいかない。お説教・・・いや、講義が終わると、重い足取りで窯に向かった。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

その141・秋

2010-05-26 08:50:00 | 日記
 魂の抜けた数日間をすごした。ろくろを回しても気分がのらない。目的が失われ、作業はうわの空。作品の向こう側に見えていた世界が霧散してしまっては、モチベーションも維持できない。次なる目標を定めなければ。しかしろくろのイワトビ先生は言う。
「乗り気でないときでも、きちんとしたものを挽かなあかんのが職人や」
 それはそうだろうが、今の自分は気持ちを支える骨格が抜けてしまって、まるでクラゲのようだ。懸命に緊張の糸をつなぎとめようとするが、窯づくり以上の新しい挑戦をさがすのはむずかしかった。
 そんなときに、待ちに待った電話。
「窯を開けるよ」
 火炎さんから声がかかったのは、窯の火を落としてから一週間後だった。オレは代々木くん操る改造レジェンドに乗っけてもらって、山に向かった。作品との対面は、学期末の通信簿をもらう気分だ。ついに半年間の成果が明らかになる。
 すっきりと晴れ渡っていた。乾いて澄んだ空気。山頂を通過するとき、視界いっぱいにあざやかな景色がひらけた。渓流のように引き締まった風と、深くて濃くてかるい空と、そして錦織りなす紅葉。毎日を全力で走りつづけ、土や回転やレンガを至近距離に見ているうちに、頭上で季節は移っていた。
(あつすぎる季節が終わっちまったぜ・・・)
 今さらのようにそのことに気づき、ガラにもなく感傷にふけりたくなった。しかし怪車・アリクイ号のけたたましい爆音と、カーオーディオから流れるX-japanの大絶叫(代々木くんも合唱中)がそれを許してくれなかった。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

その140・バーンアウト

2010-05-25 07:57:51 | 日記
 三日めの夜。一の間が高温に達して作品が極限まで絞りあげられる頃、圧されて行き場を失った炎は、狭間穴(さまあな)という小窓を通って二の間にまわり、ふたつめの窯内を温める。こぼれた炎にあぶられて二の間の空気もこなれ、作品たちも攻め焚きへの心構えができていく。一の間が焼きあがると、十分に温度が上がった二の間の焚き口(窯の横っ腹に設えてある)からマキ投入を開始する。マキの着地点のすぐ脇に作品の棚組みがあるので、慎重に放りこまなければならない。しかもぎりぎりを狙う大胆さが必要だ。
 窯番に張りつきっぱなしの代々木くんは、すでに火の化身といった様相だ。目にもとまらぬ早さでマキをくべる。手つきは職人さながらで、強烈な炎を宿す瞳はしばたたくこともない。その姿は焚き火中毒者じみていた。オレは彼のために(いや、作品と窯のために)一心にオノを振るってマキを生産する。オレの仕事が、彼の仕事が、作品の出来に直結する。最後の力を振りしぼった。
 二の間が焼きあがり、三の間へと炎を移植する。みっつの窯を支配した炎はエントツまで縦走し、高く夜天を焼いた。小屋に満載だった丸太はすべて、窯の旺盛な食欲によって消化された。
 燃料が底を突いて、ついに窯焚きは終了だ。巨大なカブトムシは密封される。あとは祈るのみ。いつものように窯出しまで、不安まじり、夢まじりの複雑な時間をすごすことになる。だけど今回だけは、レンガ壁の奥に遠ざかる熾きの燃えつきる音を聞いているうちに、特別な感慨がこみあげてきた。それは寂寥感だった。ふさがれた焚き口を見ながら、だれもがぼんやりしていた。寝不足のうえに、肉体労働で疲れ果てているせいもあるだろう。が、それ以上に、「数ヶ月がかりの大仕事」に最後のピースがはまって、自分に空っぽを感じたのだった。今までの時間が、努力が、つくりあげたものが昇華した。最高の達成感はいつも、奇妙な喪失感という副作用をもたらす。窯の中では、自分たちのかけらがふつふつと醸成されている。かぶと窯に炎の生命を吹きこんで、オレたちはバーンアウトした。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

その139・盛り火

2010-05-24 09:02:25 | 日記
 桃山の陶工の立場になって考えよ、と言われた意味が実感できる。当時の彼らは、還元雰囲気にしたいと思ったとき(つまり炎を大きくしたいと思ったとき)、ロストルやドラフトのことなど考えない。厚い鉄板などもなかったろう。最も単純に発想すれば、マキをめちゃくちゃに詰めこむ、ということになるはずだ。オレたち現代人は、知識にまどわされてしまうのだ。作品づくりが機械操作に終わってはならない、と思い知らされる。
 焚き口をマキでふさぎ、ダンパーも半ば閉じると、炎は窯内に閉じこめられる形となった。こうなると、大量のマキをくわえさせられた炎は成長したい、なのに窯の容積は限られている、というジレンマが発生する。危険水域を突破。炎の膨張が、自身をおさめるハコの大きさをついに上まわる。すると、窯のすき間というすき間から火先が飛び出してくる。別の言い方をすれば、炎が酸素を求めて四方八方に舌を伸ばしているのだ。恐怖さえ覚えるほどの激烈な盛り様だ。
 このときはじめて、自分たちがいかにレンガを粗っぽく積み上げたかが露見する。炎がこぼれすぎだ。箇所箇所で、レンガの整形や緊密性をごまかした記憶が痛烈に突きつけられる。抑圧された炎は、つぎはぎの壁を破り裂かんばかりにのたうちまわり、周囲に緊張を強いる。
 一方、これほど荒れ狂う炎の奥で、作品たちはただじっと待つ。奪われ、締められ、堅固な結晶となるまで、ひたすら耐えしのぶ。熾きの間から、どろんとにごった炎の底にゆらめく器が垣間見える。それらは自然釉の衣をまとって、完成形に近づこうとしていた。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

その138・シンプル窯

2010-05-23 07:05:37 | 日記
 焚きはじめてから二昼夜。炎は大きく育ち、パイロメーターの数値も順調に上がっていった。900度を超えると、炉内雰囲気の操作が必要になってくる。今回は1250度まで還元炎で焼くことになっている。酸素の供給をしぼらねば。ところが、かぶと窯はおそろしくシンプルな窯なので、酸素量の調整も、普段焚いているガス窯のように小手先でちょいちょいとはいかない。かつて焚いたFさんちの窯や、越前・無量窯と比べても、炎をコントロールする装置がふたつみっつ少ないのだ。たとえば、焚き口の下から風を送りこむ「ロストル」が無い、エントツを通過する空気の流れを調節する「ドラフト」が無い。また今までに焚いたふたつのマキ窯は、マキをくべた後に必ずぶ厚い鉄板で焚き口をふさいで炉内を密閉していたのだが、それすらもしない。空気はつねに筒抜けだ(つまり、常に酸化状態なのだ)。あるのは、煙道の出口へ抜ける空気量を制限する「ダンパー(ギロチンのようなフタ)」だけだ。窯は軽装備、素人の焚き手は徒手空拳。この状況で、いったいどう還元炎をつくりだすというのか?
 しかし、こちらには太陽センセーという豪腕がいた。
「焚き口をマキでふさぐんじゃ」
 コロンブスの卵!ぽかんと開けっ放しの焚き口からは、炎が大きくなるほどにどんどん外気が取りこまれる。窯内の空気は常時入れかわり、新鮮な酸素をもらった炎は完全燃焼して、健康な酸化炎となってしまう。しかしマキを燃焼室に放りこむのではなく、焚き口一杯にすき間なく、半分くわえさせるように詰めこんでしまえばいいのだ。そうすれば鉄板でフタをしたのと同じ状態となり、外気は遮断される。さらに入れすぎ気味のマキが大きな炎をつくり、炉内は酸素欠乏におちいる(すなわち還元状態)。マキとギロチンのはさみ討ち。そうしてもがく炎は、生地土からサビ質(酸素)を奪い取って、作品を冴え冴えと焼きあげてくれる、というわけだ。シンプル。賢い。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

その137・飯場生活

2010-05-21 09:09:01 | 日記
 若葉家の窯焚きはたのしい。山の上では火の守りと酒盛り、下の母屋では休息と酒盛り。三昼夜の間は代わるがわるに数人ずつが待機し、好きな場所で始終酒盛りが行われている。そしてたまに窯焚きをする(あ、逆か)。
 火炎氏は料理名人だ。そば粉からそばを打ち、鶏ガラからラーメンスープを煮出し、自家製生地でピザをつくって電気窯で焼き、客人にふるまってくれる。窯焚きそっちのけで厨房に立ち、うまいものづくりに精をだす。本職はどっちなんだ?と思わずにはいられない。新妻・はるみちゃんもおにぎりを差し入れたり、おいしい料理でもてなしたりで、窯焚き人足の疲労を癒してくれた。いい居心地だった。
 とはいえ、肉体労働でしぼりきったからだを茶室で雑魚寝という三日間は、結構きつかった。人数が多いときには、男女入り乱れてオイルサーディンのようになるしかない。窯焚きの高揚と修学旅行の興奮とで、とても寝つけるものではない。そんなとき、眠れないメンバーは車座になり、いつまでも立てひざを突き合わせて焼酎を酌み交わした。そうして下でわいわい盛りあがっていると、山の上で火の番にひとりきり残された火炎さんの声がする。
「うおーい、だりか~、てーちだってくり~」
 あの料理人は、いつの間に山にのぼっていたのか?ひとのいないところいないところを補完する、とてもえらい火炎さんなのだった。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

その136・突き抜ける

2010-05-20 09:00:25 | 日記
 センセーのデモンストレーションを見せていただいてから、だんだんとマキ割りのコツがつかめていった。恐怖によるためらいが軌道を狂わせ、衝撃を殺してしまう。躊躇なしに打ちつけることが肝要なのだ。迷いを払った一撃は、面白いように丸太を切り裂きはじめた。ごつくて強大な敵を一刀のもとに仕留めると、快感が背骨を突き抜ける。スッパスッパと、夢中になってオノを打ちこんだ。繊維がねっとりと入り組んだものなどは多少手をわずらわせたが、そんな陰険な相手ほど、討ち倒して勝利したときのカタルシスは大きい。オレは新たに没頭できる仕事を見つけた。
 大量にできたマキを積み上げながらふと見ると、代々木くんはそのむくつけき背を焚き口に丸め、一心に炎を育てていた。こちらからひょいひょいと投げわたすマキを、遠慮なしにひょいひょいと火にくべ、小さな瞳いっぱいにオレンジ色の幸福感をたたえている。いつの間にか彼は、いちばんおいしいポジションを持っていったのだ。あなどれないやつだ。こっちがせっせと手にマメをつくっている間に、オオアリクイはせっせと高火度をつくりつづけた。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

その135・マキ割り

2010-05-19 09:14:41 | 日記
 実際、マキ割りは大変な重労働だった。長さ1メートル、太さが人のヘソ回りほどもある丸太を立て、その円心に巨大なオノを打ちこむ。振り下ろすオノがまた、野球バットほどもある頑丈な柄に重厚な鋼刃(鍛治師・太陽センセーが打ち鍛えた宝刀)のついた尋常ならざるシロモノ。マキ割りといえば、時代劇で無口な武士が淡々とこなすあの画づらを想像しそうだが、実際は、ヘヴィ級ボクサーがタイトルマッチ前にロッキー山中で行う秘密特訓に近かった。
 しかしへっぴり腰からくり出される一撃は、正規の軌道からほど遠いポイントにヒットする。刃先は、丸太にダメージを与えることもなくはじき飛ばされたり、また、足指のすぐ手前に落下したりした。冷や汗がにじむ。たまたまスイートスポットに当たっても、腰が入っていないために、木のみっしりとした繊維に刃が食いこんで抜けなくなる。大汗が流れる。くり返しくり返し、こわごわにオノを打ちこんだところで、なかなか割れるものではなかった。
 マキの供給を待ちきれず、栄養不足の火はじょじょにやせ細っていく。焦る。ところがそんなピンチにおちいると、どこからともなく太陽センセーが現れるのだった。手のひらに「ぺっ、ぺっ」とツバしつつ。
「こうやるんじゃ。よう見とけや」
 老陶芸家は大オノをひったくると、柄を固く握りしめ、腰を入れて大きく振りかぶった。鉄刃の先端がお尻にぶつかりそうだ。しかしその反動を利用して始動。丸まった背中は筋肉のコブであったかと思いたくなる力強い打ちこみが開始される。風を切る音。柄はしなり、刃が美しい円軌道上を走る。
 ぱかーん。
 木目の中心に叩きつけられた鋭いインパクトは、幹を貫いて地面にまで達する。丸太は見事に両断された。あっけにとられるほどの簡単な作業だ。
「ほい、次」
 半割れを立てると、刃先は再びその中央を垂直に走る。御歳七十七のセンセーがオノを振り下ろすたびに、くさび形の鉄塊は素直に丸太の繊維を裂いた。そしてまっぷたつからよっつ、やっつと断ち割られる。木片は「マキ」と呼び名を変え、どんどん焚き口に飲みこまれた。窯の炎はようやく与えられた栄養を摂取し、めきめきと音を立てながら肥え太っていった。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

その134・考証

2010-05-18 09:09:43 | 日記
 センセーは陶芸資料館を訪れても、研究所の成分データなどには興味を示さない。学芸員にいってウラから陶片を持ってこさせ、それを凝視することにふける。そして些細なヒントからひらめきを得、実際的に方法論化する。文明の力を借りてそっくりなものをつくるよりも、先人の知恵を遺産から看破することにこそ心血を注ぐのだ。さらに山に帰ると、手あたり次第に実験して考証する。いろいろな木をさがしてきてはいちいち焼き、灰にし、釉薬として試して、任意の色を出すためのマキを特定する。同じ樹の種類でも、浜辺にはえていたものか山腹のものか、枝か幹か根か、どの箇所が石灰質でどの部分が珪酸質か、そこまでを徹底して調査する。今までに焼かなかったものはない、というところまで突きつめて考え、行動しているセンセーの言葉には、説得力があった。
 さて、いろいろな素材をさんざん試しつくし、太陽センセーは結論づけた。桃山の陶工たちが用いていたのはとどのつまり、
「どんぐりの樹(つまり雑木)のようじゃ」
 しかも多少湿気たくらいのなまくらなマキで、悠長に焼くのがいい。豊富な経験が導き出した輝ける解答。それこそが、驚くべきことに、
「建築廃材で焼いたらちょうどええわ」
なのだ!なるほど、ここにくるまでには様々な紆余曲折があり、理にかなった事情があったのだ。
 ・・・だが、横たわる虫食い電柱を前にしたオレたちは、影でそっとささやき合った。
「なんやかんやいって・・・結局はマキ代をケチってるだけのような気もするけど・・・」
「マキ割りなんてしんどい作業するより、売ってる松マキで景気よく焼きたいよなぁ・・・」
 バチ当りな弟子たちなのだった。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

その133・合理

2010-05-17 09:11:31 | 日記
 炎が大きくなると、燃料の供給も急を要してくる。今までに体験してきたマキ窯焼成は、かたわらに山と積み上げられた割り木をポイポイ放りこんでいくだけで事足りたが、若葉家の窯焚きはそれほどお手軽ではない。マキ小屋に転がっているのは「マキ」ではなく、輪切りにされた丸太なのだ。こいつを片っぱしからオノで断ち割りつつ、窯を焚かなければならない。つまりマキの生産と消費が同時進行なのだ。在庫ゼロのかんばん方式。せわしないったらない。かぶと窯はいつまでたってもオレたちを肉体労働から解放してはくれない。しかしそれがあってこそ、やり甲斐と、作品を手にしたときの喜びがあるというものだ。徹底的に現代の利便性を排除し、古代の作法に帰ろう、というのが太陽センセーの理念なのだ。
「古来のものをこしらえるには、古来の装置のメカニズムを思い起こすんじゃ。なぜ窯がその場所に築かれ、なぜ炉内のその位置に柱があり、なぜ棚板やツク(棚組みをするときの支柱)がその形状であり、なぜその燃料を用いなけれなければならなかったのかを考えねばならん。窯の傾斜、風向き、湿気、道具の寸、マキの種類・・・それらはすべて偶然ではなく、意図されたものなんじゃ。合理なんじゃ」
 だからその頃のやり方をそのまま再現してみる。それこそが、当時の技術を探る最良の方法であり、当時の陶工たちの心の内を知る最大の術なのだ。上手な焚き方は最新の情報をひもとけば簡単にわかる。効率的に温度を上げるには最新式の窯の構造を写し取ればいい。上質な炎を得たければ高価な燃料を使えばいい。しかしセンセーは、もっと深い部分を掘り起こそうと考える。どれだけ理詰めで最高のものを用いようと、当時のように焼きあげることはできない。だからこそ、非効率でも桃山時代式のやり方にこだわるのだった。彼らは粗末な窯で焚いていたのだから。雑木を焼いていたのだから。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

その132・火入れ

2010-05-15 09:20:47 | 日記
 機は熟した。窯は万全、燃料は潤沢、気力は充実。そして今まさに、続々と搬入される作品の窯詰めが終わろうとしている。
 入れかわり立ちかわり窯づくりに参加したメンバーは、12人ほど。集まった作品数は、計一千点。それぞれの想いを詰め、窯は小さな焚き口を残してレンガで閉じられた。
 太陽センセーの手からお神酒が供えられ、全員で柏手を打つ。焚き口の上に祭られているのは、火炎さん手製の怪物をかたどったリュトン(角杯)だ。その窯神様に、安全な焼成とすばらしい焼きあがりを祈願する。先人と自然への感謝も忘れない。
 いよいよ待ちに待った窯焚きだ。みんなの見守る前で、火炎さんがマッチをする。新聞紙から焚き口に組まれた木へと火が移っていき、ついにあぶり焚きがはじまった。はじめは木っ端を使った小さなマキ組みで焚き口付近を温め、少しずつ火を大きくして、エントツへと抜ける火道をつくっていく。焚き口からエントツの間には、みっつの窯にひしめき合う作品群という障害物が立ちふさがるため、なかなか通り道はできない。しかし熱せられた空気は、進み、もどり、迷い、滞り、押し合いへし合いしつつも窯内を貫き、ついに惑うことのない一本の道すじをつける。いったん煙道まで通った火道は次第にくっきりとした流れを形づくり、太い引きとなる。こうして炎は、成長しつつ、確固とした往路を突き進んでいく。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

その131・秋

2010-05-14 09:03:30 | 日記
 それ以降も、着々と窯焚きの準備は調えられた。
「焼き締めで鮮やかな自然釉をのせるために、松のマキが必要じゃ」
と御大から命を受けると、オレたちはすかさず山中にトラックを走らせ、草むらに踏み入って松の倒木をさがした。
「灰が必要じゃ」
と言われると、若木を焼いて燃えカスをかき集めた。
 そんな作業と平行して、作品づくりもすすめた。ぐい呑みや茶碗、小皿、鉢、土鍋などもろくろで挽いた。ビアマグも挽いておくように、と申しわたされた。初窯を焚き終えた後の祝杯用に使わなければならないからだ。登り窯づくりに参加した歴代メンバーにも呼びかけ、全員に焼成への参加をうながした。登り窯づくりにたずさわった以上、窯焚きの機会だけは逃すわけにはいくまい。その実現に向けて、オレたちは加速していた。野天でチリチリと首すじを焼いた猛暑はすでに遠く、今や秋も深まり、樹々も赤く色づこうかという季節にさしかかっていた。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園