田頭城は八幡平市田頭地域の中心部にあり、標高320メートルほどの独立した丘陵に建てられていた城です。
↓↓↓田頭城の位置
かつて、岩手日報(地元の新聞です)が五千号記念事業に観光地の人気投票を行った時、なんと第二位に入ったほど遠望絶景の地であるらしいです。
(この5000号記念事業について詳細は不明。会社に電話してみましたが、いつに行ったものか担当部署の方も知らないそうです。現在が25000号を超えていることを考えれば、相当、昔でしょう…。)
つーわけで、紹介していきましょう。
田頭城のある舘山(「たてやま」と読みます。岩手では城郭のことを「舘」という漢字で表わすのが一般的です。安部貞任の屋敷跡も盛岡市内では「舘」と呼ばれています)は、幹線道路沿いにあるので、すぐにわかります。
山道をすこしばかり登ると、
現在は公園となっている二の丸、三の丸跡にでます。ここは平地の部分があるので、砦が築かれていたと目されています。
そこから、登ればすぐに本丸跡に出ます。本丸跡は比較的平地が大きいので、ある程度の規模の居館があったことが想定されます。
本丸の右手には空堀の跡があり、今では橋がかかっています。(橋の先には東屋がある。)
本丸跡にある看板には、田頭城の歴史について詳しい説明が載っています。
アップすれば、こんな感じのことが書いてあります。歴史好きの方は読んでみてください。
要は戦国時代末期に、この地方大きく治めていた南部氏の配下九戸氏が反乱をおこし、この地方の小領主たちも南部派と九戸派に分かれて争ったようです。田頭城は南部派でしたが、九戸派の一戸政包に攻められ、城は陥落、城主も捕えられたということだそうです。
地形を見れば、独立丘陵で四方を川に囲まれ非常に堅固な城に思えますが、城というのは包囲されると結構、あっけなく落城してしまうもののようです。古今の例にもれず…。
田頭城からの眺めはなかなか素晴らしいです。残念ながら、岩手山には雲がかかってしまいましたが、後日、晴天の日にでも写真を撮って差し替えておきます。
では、今日も一句。
蒲公英を 名残に城の 春はすぎ とし蔵
(注)
蒲公英=「たんぽぽ」と読みます。
もうすぐ夏が来ますね。
↓↓↓田頭城の位置
かつて、岩手日報(地元の新聞です)が五千号記念事業に観光地の人気投票を行った時、なんと第二位に入ったほど遠望絶景の地であるらしいです。
(この5000号記念事業について詳細は不明。会社に電話してみましたが、いつに行ったものか担当部署の方も知らないそうです。現在が25000号を超えていることを考えれば、相当、昔でしょう…。)
つーわけで、紹介していきましょう。
田頭城のある舘山(「たてやま」と読みます。岩手では城郭のことを「舘」という漢字で表わすのが一般的です。安部貞任の屋敷跡も盛岡市内では「舘」と呼ばれています)は、幹線道路沿いにあるので、すぐにわかります。
山道をすこしばかり登ると、
現在は公園となっている二の丸、三の丸跡にでます。ここは平地の部分があるので、砦が築かれていたと目されています。
そこから、登ればすぐに本丸跡に出ます。本丸跡は比較的平地が大きいので、ある程度の規模の居館があったことが想定されます。
本丸の右手には空堀の跡があり、今では橋がかかっています。(橋の先には東屋がある。)
本丸跡にある看板には、田頭城の歴史について詳しい説明が載っています。
アップすれば、こんな感じのことが書いてあります。歴史好きの方は読んでみてください。
要は戦国時代末期に、この地方大きく治めていた南部氏の配下九戸氏が反乱をおこし、この地方の小領主たちも南部派と九戸派に分かれて争ったようです。田頭城は南部派でしたが、九戸派の一戸政包に攻められ、城は陥落、城主も捕えられたということだそうです。
地形を見れば、独立丘陵で四方を川に囲まれ非常に堅固な城に思えますが、城というのは包囲されると結構、あっけなく落城してしまうもののようです。古今の例にもれず…。
田頭城からの眺めはなかなか素晴らしいです。残念ながら、岩手山には雲がかかってしまいましたが、後日、晴天の日にでも写真を撮って差し替えておきます。
では、今日も一句。
蒲公英を 名残に城の 春はすぎ とし蔵
(注)
蒲公英=「たんぽぽ」と読みます。
もうすぐ夏が来ますね。
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