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郵政民営化と国家

2005年02月06日 15時39分36秒 | 世情雑感(妄想政治論)
 小さな政府は、犯罪を助長するかもしれない――。
 民間で出来る事は民間でやらせると言うのが小泉政権の方針であり、小泉政権下で50万の公務員が削減された。大学は独立行政法人とされ独立採算を求められ、郵便事業は郵政省→郵政事業庁→日本郵政公社となっており、小泉政権の民営化案が達成されれば完全に民営化が行われる事になる。郵政民営化は銀行や保険業界と殆ど同様の業務を行っているとされる郵便局が民業圧迫をもたらしていると言う指摘から行われているものだ。確かに、巨大な貯金を有する郵便局が民間企業となれば日本経済へ大変革を与える事になる事は疑う余地はない。その観点に立つならば郵政民営化は経済学的に正しい判断であり、推奨されなければならない案件である。このような経済学的判断の前には自民党等で反対のあるユニバーサルサービスとしての郵便局と言う言説は吹き飛んでしまうかも知れない。自民党等が指摘する郵便局が過疎地において重要な役割を果していると言うのは事実である。しかし、その役割はインターネットバンキング等でも代替可能かもしれないし、ニッチな分野として新規参入が進むかも知れない。このように近年のITの発達を考えるならば自民党等の指摘は説得性が無い。
 小生は本日のBlogで郵政民営化の持つもう一つの問題について考えてみたい。国民に国家を意識させる道具としての国家機関の出先という考え方である。手元に東京の地図がある方は広げて頂きたいが、官公庁の街として存在していた霞ヶ関や大手町は年々その官公庁エリアが減少している。例えば現在の大手町で官公庁があるのは気象庁等の合同庁舎群の部分だけだが、NTTビルが建つ部分も20年近く前までは日本電信電話公社という国家機関の施設だったのである(より広範に視野を入れれば東京駅周辺の国鉄関係施設も範囲に入る)。それは霞ヶ関でも同様だ。例えば日本専売公社がJT(日本たばこ産業)となるまでは虎ノ門周辺も官公庁街に含まれていたと言えるだろうが、現在では霞ヶ関駅周辺の各省の本省が集まる地域に縮減している。何よりもつい20年程前まで我々は「国」が存在しなければ生活が出来なかった。電話(電信電話公社)、郵便(郵便局)、生活に欠かせない「塩」(専売公社)、移動の為に使用する鉄道(国鉄、営団地下鉄)、道路(道路公団)、金融機関(政府系金融)、教育機関(国立大学)等「国」という存在は我々の生活の奥深くまで浸透していた。この中で未だに国の残滓があるのは政府系金融くらいなものだ。後は大方、民営化されたか民営化への道筋がつけられている。
 これは国民からするならば国家と言う存在へ頼る頻度が低下していることを示している。つまり、日本人は20年前に比べて日本国という存在を知覚する機械が減少しているとも言えるだろう。戦前の学校には天皇皇后両陛下のご真影が飾られていたと言う。これは国民へ国家と言う存在を知覚させる為の重要なツールであった。この構図は、多数の国家機関を国民生活へ深く関与させる事で国家の意向を全国津々浦々へ浸透させようとしていた20年前までの日本と殆ど変わらない。国民は国家の強制力を理解するが故に、国家が国民を支配しようとする束縛を許容する。その強制力を理解させる手段が20年前までは多数の国家機関だった。しかし、その大半が民営化された今日では国家が国民へ「支配している」という現実を知覚させる事は以前に比べて格段に難しくなっていると言う事が出来るだろう。これは国家の政治支配が弱体化していることを示している。そして、政治支配が弱体化しているならば政治的権力もまた民営化していくという過程が現われてもおかしくは無い。
 政治的権力の民営化とは何かといえば、国家が独占的に有している暴力の行使権限に他ならない。犯罪率の上昇や凶悪化という事案が近年指摘されているのは周知の事実である。この事実は本来、暴力の行使を行う事が出来ない筈の一国民が暴力を行使してしまっていると言う事実である。つまり、国家の暴力の独占にほころび生じ、個々人が行使してしまう状況が生まれてきているという事である。郵政民営化が経済学的には極めて正しい選択肢である事も又、多くの理解が得られているし、多くの人々は其れを推進すべきだと考えている。小生もその考え方と同じ路線に存在している。しかし、国家の威信を日本全国に知らしめている存在であるとも言える郵便局の民営化は日本国という存在の政治的威信を更に低下させていくことは間違いないだろう。
 この国家の威信と言う側面についての議論はまだこの国では殆ど議論が行われていない。

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