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The WorldⅥ~雲のむこう、約束の場所~

2005年02月18日 22時54分19秒 | 世情雑感(サブカルチュア)

 昨年後半にインターネットから生まれ新たな文学形態「電車男」が一世を風靡した。「雲の向こう、約束の場所」は新海誠監督の最新作であるが、本作はまさに「電車男」時代にもたらされた新たな少年と少女の恋物語と言えるかも知れない。しかし、そこには歴然とした内輪受けの構造が存在していると言わざるを得ない。無論、この作品を単体として評価してもそれは指摘可能であろう。精緻な科学技術考証、メカニックや軍事、社会描写はその方向に関心を持っている人々に微笑をもたらすに十分なものであるが、それはそのような視点でこの作品を見ない人々にとっては無価値な要素に他ならない。そして、それはこの「雲の向こう」と類似した視点で少年と少女の恋物語を描きだしたジブリアニメ「耳をすませば」と対照的に語る事によってそれは明白に導き出せるかもしれない。
 何がこの二つの作品で異なっているのであろうか?最大の相違は時間的なものである。「耳をすませば」は時間的に連接してストーリーが進展していくが、「雲の向こう」は話の前半と後半では3年という時間差が存在しているという事だろう。しかし、「雲の向こう」の中では少女の時間は一種、固定化されているために連続性が維持されているという見方も可能であろう。少年と少女の忘れられない夏休みという設定は両作品にも共通している。その後の話の展開に相違が見られるのは、「耳をすませば」が少女の視点で、「雲の向こう」が少年の視点で進められるからだ。少女は英雄にならなくとも、努力を行えば自身の望みを叶える事が出来る――まるで「おしん」以来の伝統でもあるかのようにだ――。しかし、少年は英雄にならなければその努力が報われる事は無いのであろう。いや、そういう矜持を持たせようとしているのかもしれない。あたかも「電車男」がその恋に報われるために女性を痴漢から守るという英雄行為を行う必要があったようにである。だからこそ、「雲の向こう」の少年も蝦夷にある塔まで少女を連れて飛ぶという――そしてその為には北海道民500万の犠牲を許容する――という必要があったのである。しかし、普通は英雄になる事は出来ない。だからこそ視点を女性において淡々と恋物語を描いたのが「耳をすませば」なのである。英雄になる事を諦めた――或いは英雄になれない事を知っているからこそ――、一般人は「耳をすませば」に共感できる。しかし、電車男へシンパシーを抱ける人は、英雄になれる可能性をほんの一かけらでも信じているのだろう。つまり、この作品は少年はとは、恋を成就させるには英雄にならなければならないという共通認識を持つ人々には自然と受け入れられる内容であると言えるだろう。つまり、この作品は少年の英雄性の追求という内輪受け的世界観――The World――を有していると言えるだろう。
 「雲の向こう、約束の場所」を製作した新海誠監督は背景と透過光の魔術師と表現出来るかもしれない。この二点の描写から我が国アニメーション界に於けるポスト宮崎だという指摘はあたっているだろうし、ストーリー性という側面においても継承者と言える(宮崎監督よりも脚本面ではしっかりしているかも知れない)。少なくとも、押井守や庵野の後継者ではなさそうである(メカニカルな面やSF的側面では類似点は多いが)。しかし、この点だけは指摘する事が出来るのではないだろうか。ジブリの「耳をすませば」と新海誠の「雲の向こう、約束の場所」は同じ物語を描こうとしていると。その両者の相違点は「耳をすませば」は一般人向けに作られ、「雲の向こう、約束の場所」は電車男向けに作られている。