昭和の恋物語り

小説をメインに、時折よもやま話と旅行報告をしていきます。

水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百七)

2022-03-16 08:00:53 | 物語り

 しかし床が用意された部屋に入ったとたん、正三の意識が一変した。
「ぼ、ぼくは、小夜子さんひとすじ決めている」と、身体を固くした。
「ほらほら。なにごとも、お勉強ですよ。すべての殿方は、みなさんお勉強をされてから事にのぞむものですよ」
 芸者の言葉に真実味を感じてしまった。
小夜子との初接吻。いきなりとはいえ、体が硬直してしまった。あのおりのことが、小夜子と正三との主従を決定づけたんだと考えた。呆れる芸者をしり目に、正三が脱いだ服をたたんでいく。
「早くいらっしゃいな」と急かす芸者に、「明日の出勤に着ていかなければならんから」と、言い張る正三だった。
「ふふふ、照れ屋さんなのね」。芸者の妖艶な声が、いま、はっきりと思いだされた。

小夜子にきつくなじられる正三――逓信省に入省以来、源之助以外にはない。
皆が皆、正三にかしずいている。批難する者はいない。詰問する者などひとりとしていない。
一切の言いわけに耳をかさぬ小夜子に、はじめて怒りの表情を、正三が見せた。
報告書提出以来、官吏さまとしてたてられる日々を送る正三。
同僚はもちろんのこと、直属の上司ですら敬語を使う。
認可を求めて日参する企業の役員たちは、最敬礼をせぬばかりの態度で接してくる。
年端のいかぬ正三に対して、頭を下げに来る。
他の部署への陳情のおりですら、わざわざ挨拶にくる。
それが、正三の後ろ盾である源之助に向けられているものだとしても、悪い気はしない。

その正三が、小夜子になじられている。
しかも公衆の面前で、容赦なくなじられている。
非が正三にあるとしても、少しの弁解も聞かぬ小夜子にたいし、沸々と怒りがわいてきた。
“そこまで言わなくてもいいじゃないか。しょせん、酒の上でのことじゃないか。
ぼくにしても、筆おろしが芸者ごときあばずれだったことは、慙愧にたえないんだ。
そんなぼくに、ここまで傷口に塩をすり込まなくても……。”

小夜子は正三の言いわけを聞き入れるわけにはいかない。
もしいま聞き入れてしまえば、小夜子自身がくずれてしまう。
武蔵をすでに受け入れている小夜子は、正三の不実をせめる以外にない。
いま罵詈雑言を浴びせつづける小夜子は、正三の心に消えることのない傷をのこすかも知れない。
“こんな嫌な女なの、小夜子は……”。そして小夜子もまた、傷ついていく。

今日の小夜子との再会は、正三にとって、最悪のものだったかもしれない。
人生に分岐点があるとすれば、いままさに、だ。
金色夜叉物語りでは貫一がお宮を足げにするけれども、いま、正三が足げにされた。



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