私がビートルズを知ったのはいつ頃か覚えていない。
気がついたときは、すでに、ビートルズは大スターだったし、G.S.はビートルズから発生したものだという認識があった。
だからジュリーとタイガースとビートルズは切っても切り離せないものだと思っていた。
ジュリーが歌う洋楽のほとんどが、「ローリング・ストーンズ」と「ビートルズ」だったからだ。
ジュリーがどれほど「ジョン・レノン」を好きだったかは知らない。
けれど多大な影響を受けているのだろうなとは漠然と思っていた。
ここに貴重なインタビューがあるので載せてみようと思う。
ジョン・レノンが衝撃の死を迎えてからすぐのインタビューだ。
・・・・・・・・・・・
-知ったのはいつですか?
『ちょうど香港から帰ってきてね、成田からの車の中でしたね。9日の夕方近くです。殺された、っていうのがね、すごいショックだったし、いまだにぼくは現実として感じられないんです。
ああいうことになって初めて、というか、あらためて、というか、ビートルズの偉大さ、ジョン・レノンの偉大さを確認しましたね。
ビートルズが解散してから、いろいろ彼も悩んで音楽活動から遠ざかっていたことはわかるんだけど、しんどいながらもシコシコやり続けてほしかったという気がするのね。ブランクの長かったことが、ほんとに惜しかったと思いますよ。
でも、40歳になって、あらためてオレは音楽活動を再開するんだというね、そういうのって、お、カッコいいなあ、なんて思ってた矢先のことだったから。だからなおさら、5年もブランクにしないでずっとやってくれてたらなあ、という気がしてならないんです。』
-もっとずっとぼくたちから見えるところに居てほしかったなあ、ということね。
『そうですね。
もちろん、あまりにもビートルズは偉大だったから、ジョン・レノンもビートルズから抜け出したかったんだろうとは思うけど・・・。休んだりしないで、やり続けながらでもそれは出来たんじゃないのかなあ。』
-グループからソロへ、という歩みは、沢田くんもジョンと同じだったわけだけど。
『タイガースで、東京へ出てやってみよう、と決心したきっかけはビートルズですから。彼らがリヴァプールからロンドンに出たってことが、ぼくたちは大阪から東京に出てくるのに、やっぱり励みになりましたね。ルックスなら日本一になれるかもしれないよ、なんて言いながらね。(笑)』
-ビートルズを目標にしてた、と。
『目標ったって、足元にも及ばないけどね。いいとこはどんどん吸収しよう、みたいな精神でやってきましたしね。
とくにジョン・レノンのあの雰囲気ね。ああいう大ポピュラーな、メジャーな中にいてしかもちょっぴり、香辛料をきかせて、わびとかさびみたいなものを持っていましたね。ただ売れるレコードというだけじゃない、おやっと思わせるようなピリッとしたものがいつもあったでしょう。ぼくらも同じ音楽をやってる人間として、そういう部分にばっかり目が行ってましたから。
だから彼の死は、もちろんショックだったし、いまだに現実とは思えないですよ。朝日新聞に出てヨーコさんのメッセージを見てもまだ信じられないみたいな・・。もっとたくさんのLPを作っておいてほしかったなあ。』
-タイガースの解散はビートルズよりあとだっけ。
『昭和でいうと46年の1月ですよ、ぼくたちは。』
-ということは71年だから、ビートルズの少しあとだな。それで彼らの解散はやっぱりショックだった?
『まあ、その前からもうひとりひとりがソロ活動したりしてたから・・。もうジョンやポールのひとつずつの活動に注目してましたね。』
-そうね。それできみもジョンのあとを追ってソロ・シンガーになったわけだけど。
『そうなんですね。やはり忘れちゃいけないスピリットというかね、そういうものをぼくに教えてくれましたね。売れればいいんじゃなくて、しかもやっぱりメジャーで活動していくという・・。
ぼくもいっときは、元タイガース、元タイガース、って言われて、辟易したこともあるけど、でも仕方ないんだなあ、と思ったりね。』
-ジョンがなるべく人前に出ないようにしたというのも、元ビートルズでなくひとりのジョン・レノンに戻りたかったんだろうね。
『まあ、元タイガースと元ビートルズじゃケタが違うけどね。』
-でもきみは、ある時点で、元タイガースに開きなおっちゃったんじゃないの。
『そうですね。』
-だからね、ジョンも、元ビートルズで何が悪い、って開き直ってくれたらね、きみの言うようにもっとレコード作れたかもしれないのにね。
『でもね、きっと生まれ変わってくると思いますよ。ああいう殺され方をして、本人がいちばん心残りでしょう。ぼくは霊魂というものの存在を信じてるから。
ほんと、もう体裁とか考えずにガムシャラにやりたいことをやってないと、いつ何が起こるかわからないんだなあ、と思いましたよ。』
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気がついたときは、すでに、ビートルズは大スターだったし、G.S.はビートルズから発生したものだという認識があった。
だからジュリーとタイガースとビートルズは切っても切り離せないものだと思っていた。
ジュリーが歌う洋楽のほとんどが、「ローリング・ストーンズ」と「ビートルズ」だったからだ。
ジュリーがどれほど「ジョン・レノン」を好きだったかは知らない。
けれど多大な影響を受けているのだろうなとは漠然と思っていた。
ここに貴重なインタビューがあるので載せてみようと思う。
ジョン・レノンが衝撃の死を迎えてからすぐのインタビューだ。
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-知ったのはいつですか?
『ちょうど香港から帰ってきてね、成田からの車の中でしたね。9日の夕方近くです。殺された、っていうのがね、すごいショックだったし、いまだにぼくは現実として感じられないんです。
ああいうことになって初めて、というか、あらためて、というか、ビートルズの偉大さ、ジョン・レノンの偉大さを確認しましたね。
ビートルズが解散してから、いろいろ彼も悩んで音楽活動から遠ざかっていたことはわかるんだけど、しんどいながらもシコシコやり続けてほしかったという気がするのね。ブランクの長かったことが、ほんとに惜しかったと思いますよ。
でも、40歳になって、あらためてオレは音楽活動を再開するんだというね、そういうのって、お、カッコいいなあ、なんて思ってた矢先のことだったから。だからなおさら、5年もブランクにしないでずっとやってくれてたらなあ、という気がしてならないんです。』
-もっとずっとぼくたちから見えるところに居てほしかったなあ、ということね。
『そうですね。
もちろん、あまりにもビートルズは偉大だったから、ジョン・レノンもビートルズから抜け出したかったんだろうとは思うけど・・・。休んだりしないで、やり続けながらでもそれは出来たんじゃないのかなあ。』
-グループからソロへ、という歩みは、沢田くんもジョンと同じだったわけだけど。
『タイガースで、東京へ出てやってみよう、と決心したきっかけはビートルズですから。彼らがリヴァプールからロンドンに出たってことが、ぼくたちは大阪から東京に出てくるのに、やっぱり励みになりましたね。ルックスなら日本一になれるかもしれないよ、なんて言いながらね。(笑)』
-ビートルズを目標にしてた、と。
『目標ったって、足元にも及ばないけどね。いいとこはどんどん吸収しよう、みたいな精神でやってきましたしね。
とくにジョン・レノンのあの雰囲気ね。ああいう大ポピュラーな、メジャーな中にいてしかもちょっぴり、香辛料をきかせて、わびとかさびみたいなものを持っていましたね。ただ売れるレコードというだけじゃない、おやっと思わせるようなピリッとしたものがいつもあったでしょう。ぼくらも同じ音楽をやってる人間として、そういう部分にばっかり目が行ってましたから。
だから彼の死は、もちろんショックだったし、いまだに現実とは思えないですよ。朝日新聞に出てヨーコさんのメッセージを見てもまだ信じられないみたいな・・。もっとたくさんのLPを作っておいてほしかったなあ。』
-タイガースの解散はビートルズよりあとだっけ。
『昭和でいうと46年の1月ですよ、ぼくたちは。』
-ということは71年だから、ビートルズの少しあとだな。それで彼らの解散はやっぱりショックだった?
『まあ、その前からもうひとりひとりがソロ活動したりしてたから・・。もうジョンやポールのひとつずつの活動に注目してましたね。』
-そうね。それできみもジョンのあとを追ってソロ・シンガーになったわけだけど。
『そうなんですね。やはり忘れちゃいけないスピリットというかね、そういうものをぼくに教えてくれましたね。売れればいいんじゃなくて、しかもやっぱりメジャーで活動していくという・・。
ぼくもいっときは、元タイガース、元タイガース、って言われて、辟易したこともあるけど、でも仕方ないんだなあ、と思ったりね。』
-ジョンがなるべく人前に出ないようにしたというのも、元ビートルズでなくひとりのジョン・レノンに戻りたかったんだろうね。
『まあ、元タイガースと元ビートルズじゃケタが違うけどね。』
-でもきみは、ある時点で、元タイガースに開きなおっちゃったんじゃないの。
『そうですね。』
-だからね、ジョンも、元ビートルズで何が悪い、って開き直ってくれたらね、きみの言うようにもっとレコード作れたかもしれないのにね。
『でもね、きっと生まれ変わってくると思いますよ。ああいう殺され方をして、本人がいちばん心残りでしょう。ぼくは霊魂というものの存在を信じてるから。
ほんと、もう体裁とか考えずにガムシャラにやりたいことをやってないと、いつ何が起こるかわからないんだなあ、と思いましたよ。』
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