<TOHOシネマズなんば>
成人の日だという。1月の第2月曜日だという。3連休の為に無理にそんなことをしている。1月15日なんてどうでもいい日になってしまった。ということは、成人の日はいつでもいいじゃないか。てなことを考えながら夜を悶々と過ごした。「王の男」を観て帰宅しても眠れず、食欲もない。精神安定剤を飲んで寝ようとするが、どんどん頭が冴えてくる。そのうち、部屋に朝日が射してきた。
20歳は、人生の成長の頂点だと言われてきた。生まれた時から人は成長をはじめ、20歳でピークになる。20歳を過ぎると成長は終わり、老いへと向かう。基本的に世界共通らしいが、日本では14、15、16歳で大人としていた時代もある。人生50年と言われた時代もあったし、人生40年と言われた時代もあった。私は今、43歳だが、人生50年の頃であれば、隠居せねばならない。時代によって成長の頂点は変わる。それも大きく変わる。現在、日本人の成長の頂点は22歳だと言われている。20歳で大人の体にはなるが、まだまだ成長は止まらない。日本人の寿命が延びる中、成長する頂点も延びたわけだ。成長の天井は高くなったが、テレビでは沖縄の成人式の暴動を伝えていた。「ズレている。」・・・私はただ一言、そう呟いた。
私が20歳の成長の頂点の頃、角川映画第一作「犬神家の一族」がテレビ放映された。封切の時は観られなかったが、大学に入った頃、何かの機会でスクリーンで観た。「悪魔の手毬唄」は中学生の頃、封切で観ているのに、第一作目を観ていなかった。私はこんなに面白い作品だったのか・・・後の金田一耕助シリーズの頂点を最初に撮ったのかと思った。レンタルビデオ店ができてからは、ビデオを借りてテレビで見た。何度も何度も見た。多くの俳優が演じたが、私の世代では、金田一耕助は石坂浩二である。同じ世代で、金田一耕助を古谷一行と浮かぶ人は、映画よりテレビを見ていた人たちである。
読んでから観るか、観てから読むか・・・観てから読むに決まっているが、どれも似たような独特の世界を描く横溝正史の原作を何冊か読んだことがあった。アイデアは抜群だが、筒井康隆から松本清張に傾倒して読み漁っていたので、文章の下手さが気になり、何冊かでやめた。私などが文章力を言うのも偉そうだが、松本清張に没頭し、急に横溝正史を読むと、とても清張には敵わなく、読む気を失った。
眠れぬまま朝を迎え、8時に自宅を出て、9時に難波へ着いた。9時30分からの本作を観るためだ。晴れ着姿の女性が高島屋前で携帯をいじっている。夜型の私が、朝一の映画館に行くことは滅多にない。映画を観続けて徹夜をし、そのまま翌日も朝から観る・・・昨年も何度かやっているが、そういう機会しかない。体に疲労感はあるが、目はぱっちりしている。頭もはっきりしている。祝日の難波とはいえ、朝9時30分の回は流石に人は少ない。それでも場内に50人はいるだろう。長い長いお馴染みのCMと予告篇を15分も観て、ようやくはじまった。
オープニングタイトル→人名テロップ、金田一耕助の振り返ってフリーズ→人名テロップを観ながら「あっ!木枯らし紋次郎だ!」と心の中で叫んだ。これは前作にはなかったのでは?まだ、私は中学生だったが、思えば、テレビシリーズの木枯らし紋次郎の第一話から第三話までと最終回は市川崑監督である。木枯らし紋次郎は映画監督が順番に演出を勤めている。
記憶に新しいのは、大学時代の教授であった宮川一夫キャメラマンが、テレビの木枯らし紋次郎について熱く語ったことがあるからである。テレビの第一話から第三話までの市川崑監督についたのは、宮川一夫だった。そして、シリーズのオープニングを撮ったのも宮川一夫だった。木枯らし紋次郎は、放送が進むにつれ、視聴率は尻上がりとなったが、オリジナル脚本ではなく、笹沢佐保原作ものだったので、原作が尽きたという理由で潔くやめてしまった。今なら、原作をはなれて、オリジナルで作り続けるだろう。後に、ある程度の新しい原作が揃ったところで、第二シリーズも誕生する。
ちょっとうる覚えだが、あの有名な名オープニングを考えたのは、市川崑監督ではなく、実は宮川一夫のはずだ。「毎週流れるオープニング」という新しい挑戦に悩んでいた市川崑監督に、一度はやってみたいと密かに胸に抱いていたアイデアを宮川一夫は出したのだった。宮川一夫はキャメラマンなので、構図や動きやカット割りなどのアイデアは出すが、構成や内容までは口を出せない。アイデアは浮かんだが、どこにも出せない。宮川一夫は、ここぞとばかりに監督にオープニングタイトルの話をした。それが、タイトル→紋次郎の動きとフリーズ→人物名→紋次郎の動きとフリーズ→人物名というものだった。私は子供心にうきうきしたが、大学で作った本人に話を聞かせてもらい、「あれを作った人が目の前に?」と驚いた。そういう思いがあってか、本作のオープニングに「宮川一夫だ。市川崑だ。木枯らし紋次郎だ。木枯らし紋次郎の中村敦夫も出ているぞ。」と、浮き足立った。
おそらく、DVDになっていると思う。そうそうたる映画スタッフが名を列ねているので、是非、観てほしい。あのシリーズは、テレビで一回ぽっきりでは惜しい作品だ。スタッフの映像美やキャストの豪華さだけではなく、練り上げた原作を45分のドラマにまとめたので、物語、内容が濃い。後に、必殺シリーズが同じようなやり方となる。テレビ時代劇が大嫌いな私でも、最後まで必殺シリーズだけは見た。光と影の使い方が、テレビでは惜しい。もったいない。映画のスタッフの仕事だとよくわかる。殺しの芸術。刀から一滴の水が流れて落ちるアップにもバックライトをあてて、一枚の画にする。
いろいろ書いたが、前作よりもおとなしい作品だと思った。同じ監督、同じ俳優で同じ映画を撮る・・・たくさんの人の思いがお正月映画を誕生させたのかもしれないが、前作のように、何度も観たいとは思わなかった。あの日に突っ走った石坂浩二も、若くなく走る。お馴染みの台詞の加藤武も流れるように台詞をはく。カメラ位置も監督らしくない。地域的位置関係もわかりにくい。狭い空間だということはわかる。 ラストの犯人の自殺は、脚本を現場で変えたものである。脚本では、ドバッと血が吹き出て死ぬことになっているが、監督が、そういう死に方は可哀想だと、変えたのだった。それがそのままここでも再現されている。私は元に戻すのかと思って楽しみにしていた。 犬神家の家系や事情を話すくだり、なぜこういうことになったのかを説明して犯人をあてるくだり・・・前作のマルチ編集は抜群だったのに、それもなかった。どうも、面白い部分を削ぎ落として、きれいさっぱりになった感じがした。
予告篇はみせ過ぎている。天井裏から見える死体、湖に突き出た足、人形の首・・・全部みせてどうするのだ。後は謎解きだけになる。前作を知っていて、あそこまで予告でみせられたら、私などは前作にはなかった特別な時間をくれそうだと勘ぐる。下手な予告篇をつくり、流してしまった。そこが残念でならない。
昼の12時前に終え、街をぶらつく。お正月休みの最終日でも、難波の街はいつもの休日のようにお祭り騒ぎだ。このまま帰宅する。夕方から寝ようと思ったが、気持ちが高ぶり、なかなか眠れない。ブログもさわることができなかった。結局、夜中になった。いつごろ寝たのか、最後に時計を見たのが翌日未明の3時20分。目覚ましをあわせた9時に目を覚ました。 <40点>
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