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活動写真放浪家人生

活動写真を観ながら全国放浪の旅ちう

俺は、君のためにこそ死ににいく

2007年06月10日 23時45分00秒 | あ 行 (2007)

Photo_268  <なんばシネマパークス>

 東映は、前にも似たような作品を作っている。「ほたる」で、私はあの作品に胸を打たれた。先の尖ったニードルか何かで、全身をチクチク刺されているような気持ちがして、戦争とはなんとも無残で酷なものかと思った。残酷な描写はないのに、とても残酷で、これは編集の技によるものだろう。伝えたいという気持ちもあるが、それは娯楽性も備えていなければならず、困難な作業だが、見事だと私は思った。

 脚本が悪いのか、監督に力量が無いのか、私の感受性が麻痺しているのか・・・本作を流れるように、ただ観た。特別攻撃隊のなんらかが、私には伝わらなかった。食堂のおかみさんとのつながりも、それほどの絆を感じなかった。実際のエピソードをつなげていったからかもしれないが、臨場感はなかった。戦争体験者が、戦争を知らない者に、戦争の無意味、意味を語り継ぐのは大変なのはわかる。百聞は一見にしかずで、経験者は語るのだが、それを万人の胸に響かせるのは容易ではない。容易ではないことが、この作品を観ればよくわかる。似たような作品で、下を作ってどうするのだと言うしかない。ならば、「ほたる」を再映するか、違う視点で作り直した方がいい。

 ラストの写真に心を動かされる。作り物ではない、本物の写真を並べられたところで、私は胸が熱くなった。お金をかけて頑張っても、一枚の本物の写真には勝てないのだ。観るべきは、ロールスーパーで、不思議な映画だと思う。ただ、ロールスーパーが上がり始めたら、観客は立ち上がって、出口へ急ぐ。これを観なきゃどうするんだと思いつつ、前を歩いてスクリーンを遮る人の足を止めたかった。ただし、ブラックバックにロールではなく、映像にロールがあがるのを観ずして半分以上が立ち上がるのは、作品の出来を象徴している。観客の心に胸打つ作品であれば、ブラックバックであっても、ほとんど立つ人はいない。  <60点>

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アンフェア the movie

2007年04月01日 23時30分00秒 | あ 行 (2007)

The_movie_1  <TOHOシネマズなんば>

 いつもの年とは違い、今年に入って、良い映画に出合っている。読み直すと、「良作だ」「秀作だ」「100点だ」と書いている。こんな年は珍しい。100作品観て、うちの10本が良作であればめでたい。そのうちの1本を人に勧める。100分の1作品をみんなに「観て!」という私が、今年はすでに5作品もみんなに観てもらいたい・・・そんなことになっている。こういう状態が続くと、高望みするのか、勘違いしてしまって、映画を観よう!と映画を年に数本しか観ない人にも言ってしまう。数本しか観ない人には、その人の好みを考え、慎重にお勧めするが、「今は、けっこうみんな、面白い映画をやってるよ。」なんて答える。そんなことがあるわけがないのに。私はウソをつくことになる。勘違いや間違いはいいけど、ウソはいけない。「それでもボクはやってない」「パフューム」なんて、すっごい映画が頭から離れないのか、わずか何本の影響で、みんな良いものだと思う。映画っていいな・・・そう感じる男の口から出てくる言葉が「なんでもいいから映画を観よう!」「みんな面白い!」になってしまうのだ。そんなわけがない。やっぱり私はまだまだの人間である。

 本作は、はっきり書くと・・・観なくてもいい。期待せずに行っても、楽しめない。どういうわけか、頭から、外国人俳優がど下手だ。英語なのに、下手な喋りだとわかる。表情もおぼつかない。撃たれた時の芝居は、大根にもなっていない。つまり、評価の対象にもならない芝居をする。冒頭から私は唖然とした。冒頭からこの様であるから、タイトル後も期待できない。期待はなくても、つまらない。台詞がどうも野暮ったい。センスねえなぁ・・・台詞が妙に気になる。台詞と台詞の間、動きの間も「喋ってます」「走ってます」というカットをつなげただけのようで気に入らない。肝心な子供も学芸会だ。これは学芸会映画ではないので、子供も子役だからと手を抜いちゃいけない。大人と対等に芝居する一人の俳優でなければならないと私は思う。

 ありきたりな台詞、野暮ったい台詞はどうあれ、妙な間は編集のせいか?とも思いつつ観ていた。だが、ワンシーンワンカットで撮ったものの中に妙な間がある。間、呼吸というものは、大切なものである。監督より、進行、助監督の腕に頼るところが大きい。役者のタイミングも必要だ。そう思うと、キャスト、スタッフがひとつになりきれていないのだとわかる。こんなに丁寧に構図を考えて撮影されているのに、こんなに丁寧に考えて照明をつかっているのに、もったいなぁと思わせた。撮影と照明が見事だ。暗い部分が多いので、照明の仕事がよくわかる。 バンバン、銃がでてくるのは、ハリウッドだから通じるのであって、日本を舞台にしたら、ちょっと滑稽に私にはみえてしまう。何でもありだと私は思うけれども、そんなこたぁない・・・と、私らしからぬ突込みをいれる。

 それにしても、エンドロール後のワンシーン・・・あんなに長いワンシーンは、ズルイ。エンドロールが出る前に出しちゃいけないの?何がしたいのかわからない。んー、久しぶりに毒を吐いた。

  <40点>

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女性映画傑作選13-4

2007年03月11日 22時00分00秒 | あ 行 (2007)

2_24  <高槻松竹セントラル>

Photo_236

痴人の愛(1946) - <70点>

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         刺青(1966)- <75点>

 宝塚から高槻市駅へ。上映10分前に着いた。足早に高槻センター街を歩く。今日は足早が多い。気持ちは十代でも、身体は間違いなく四十代だから、走ることをしなくなった。足早である。

 今回の「女性映画傑作選」で、4作品続けてぐっとくる作品を観たので、今日はあまり期待していない。期待せずに行き、こんなもんだよなという2作品を観た。宇野重吉、若い!この頃の宇野重吉の出ている作品を私はほとんど観ていない。頭のよさそうな端整な顔立ち。とてもハンサムだ。京マチ子がまたまた妖艶な肉感美で痴人を演じる。この女優、本当に女優になる為に生まれてきたのだと思う。どの作品に出ても、きっちり自分の姿を観客に印象付ける。

 若尾文子のエロティックをまた観る。見えそうで見えない・・・吹き替え女優もいるのだろうが・・・カメラの工夫も、いつも面白い。この女優もいい。この時代、出まくっている。時代に翻弄されるどろどろした人間模様。女が一人で生きていくには、男を利用しなければならないのか。ひっくるめては言えないが、男たちの頂点に立つ勝気な女を演じさせたら、京マチ子を上回る。それはおそらく、端整な清楚な顔立ちによるものではないかと、私は思っている。

 ひっそり静まりかえったセンター街。風が強い。ビルの谷間の三角のコーナーが、風の吹き溜まりになっていて、ゴミが宙をくるくる回っていた。

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女性映画傑作選13-2

2007年03月08日 23時45分00秒 | あ 行 (2007)

1_15  <高槻松竹セントラル>

 Photo_240 おとうと(1960) - <80点>

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     非行少女(1963) - <85点>

 私の生まれる3年前、私の生まれた年に公開された2作品である。このプログラムはいい。どちらも映画史にのこっている作品で、私はどちらも観ていない。あの時、テレビで見なくて良かったと思う。いつもやってくる映画館だが、今日は一層、張り切って阪急高槻市の改札を出る。

 市川崑監督の常連、岸恵子って、本当に美人。私が岸恵子出演作を初めて観たのは「男はつらいよ 私の寅さん」のマドンナ役だったのではないかと、遠い記憶をさぐる。小学生の頃、それでもオバサンだと思った。何年か前、同じ映画を観たが、オバサンじゃない。きれいなお嬢さんだ。それより遡ること10年だから、とんでもなく若くて美人。顔にみとれてしまう。川口浩はちょっと学芸会風だが、「冒険家にでもなろうかな。」なんて台詞、40代以上の人が今観たら、くすっと笑ってしまうかもしれない。私はあの歴史に残るヤラセ番組を思い出した。構成も展開も台詞も・・・脚本の素晴らしさは観ていてわかる。丁寧なカメラ、構図。確かな演技力。じっと息を殺して観てしまった。

 私が物心ついたときは、和泉雅子はおばちゃんだった。おばちゃんではなかったのかもしれないが、三十代以上は40才でも50才でも同じだった。子供の目にはそう映る。ところが、日活に出ていた頃の和泉雅子は、こんなに幼顔でかわいらしい目をしていたのだと驚く。ウブという言葉が似合う。私は岡本喜八監督の「肉弾」の大谷直子を思い出した。「肉弾」の大谷直子の初々しさを見た時の気持ちで、和泉雅子を見る。初々しさが似ている。見ている私の頭が勝手にくっつけているのかもしれないが・・・。当時は問題作だった「非行少女」・・・現在では、非行でもなんでもない。このくらいで不良扱いされたら、今の中学生、高校生はほとんど「非行少女」「非行少年」となる。時代は変わった。本当に変わった。とんでもなく変わった。わずか45年前の青春期を扱ったドラマなのに・・・。私たちは、非行に慣れ、それをあたり前とし、常識にしたのだろう。非行に走るには、環境が大きくかかわるし、本作もそういう設定だ。現在は・・・苦しい環境だけではなく、恵まれた環境であっても非行になる。・・・非行という言葉も死語になっているのかもしれないけれど・・・。見終えた後、時代があまりにも急速に変わったことに、私は恐怖を感じた。

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蒼き狼 地果て海尽きるまで

2007年03月06日 23時00分00秒 | あ 行 (2007)

Photo_232  <ワーナー・マイカル・シネマズ千葉ニュータウン>

 昨日に続いて、今日も同じ劇場へと行く。昨日もそうだったが、風が強い。昨日は南風、今日は北風だという。どこかで風速35mを観測したらしく、春一番かとも思うが、ちょっと早い。台風のようだ。夏から秋にかけての日本の台風コースもここ数年、おかしな動きだ。異常気象の未来予想が新しく出て、50年後の地球の温暖化地図が、10年後の温暖化地図になった。地球の破壊はスピードが速い。50年後の予想図だったので、私は死んでいると思ったが、その図が10年後になるなんて想像もできなかった。これからどうなっていくのか、先進国が吐き出した地球の生物を巻き込む環境破壊。自分の投げた石が跳ね返って自分に当たることほど痛いことはない。

 シネマスコープになるとどうなるのか?私は昨日、この映画館にきて、そう思ったが、本作はシネマスコープだった。昨日のヴィスタで上下左右画面がいっぱいだったが、横長にする為、上下を切っている。せっかくのシネマスコープなのに、ヴィスタより小さいと思った。火曜日の昼間の回は、定年後のおじさんやおばさんが多く、予告篇の間中、ぺちゃくちゃと喋る。本編上映中も「ほうっ」「なるほど」と有声音で独り言のように呟く。ここは映画館であって、家で観るDVDではない。平日の昼間は、お年寄りが多いのだが、あまりマナーがよろしくない。メールを打つなどのとんでもない一部を除いて、若い人の方がよっぽどマナーを知っている。

 私は澤井信一郎監督の映画を一作も面白いと思ったことがない。かろうじて「動乱」は記憶にある。苦労して監督になった人だが、なぜ、澤井信一郎の起用がわからないが、この監督のお金をかけた大作である。角川出版のお飾りとなった角川春樹は、角川の力を借りることなく、独自のプロデュースを展開する。澤井信一郎というより、角川春樹という理由で少し食指が動いた。角川映画を作ったのは間違いなく角川春樹だが、角川というところは冷たい。大映とヘラルドをそのまま角川とし、歴史ある大映の名前まで消した。ヘラルドも消すらしい。「角川映画」にするらしい。情の無い映画会社だ。映画が好きな連中ではないからだろう。営業、利益だけで動いている映画会社のような気がする。そういう意味では、角川春樹は映画を愛していた。幹部の反対を押し切って映画産業に手を出した。今の角川は、角川春樹が作ったのに、蚊帳の外にしてしまうなんて・・・。「取締役に戻しただけでもいいだろう!」なんて声が会社から聞こえてきそうだ。

 「マリー・アントワネット」もそうだが、モンゴルでモンゴルの話を日本人が日本語で演じる・・・過去にも作られてきたにせよ、私はそればかりが気になる。日活の和製ウェスタンとまではいかないが、妙な気分になる。とても苦手だ。苦手だけど、観たい。宣伝もハンパじゃない。妙な気分のまま大筋を追っていく。CGも頑張っているが、和もののCGを観るとき、実写とどこで線切りをしてくっつけてあるのかをみつけようと踏ん張る。どうも私はひねくれすぎている。素直に観るときもあるのに、本作は完全に斜めで観た。戦いのシーンはよく頑張っているが、びっくりするほどのものではない。たくさんの人と衣裳と馬をよく用意したと感心する。やはり、ひねくれている。ひねくれ過ぎて、感想も書けない。どうしましょ。   <40点>

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エクステ

2007年02月21日 22時30分00秒 | あ 行 (2007)

Photo_222  <梅田ブルク7>

 あんなにテレビで予告を流していながら、大阪では「ブルク7」のみの公開となっている。映画館でも、テレビでも、食指の動く予告だ。なんのこっちゃわからない内容だが、徹底した娯楽映画、ホラー映画だとわかり、この予告の見せかたが上手い。仕事をバサバサと切り上げてしまい、地下鉄に飛び乗り、梅田の地下街を走り、20時50分のレイトショーに間に合った。こんなに走ったのは何年ぶりだろう。街をぶらつく、歩くのは好きだが、走るということをやっていない。上映5分前にチケット売り場にやってきて「エクステ!」と、息をきらす。窓口はひとつしか開いてなかったが、係の女性は二人居た。

 「20時50分の回でよろしいですか?」と言う。それしかないので、「はい。」と答える。座席表を取り出し、「お席の希望はありますか?」と言う。上映開始まであと3分なので、「後ろの方ならどこでも。」と答えた。チケットを発行し、「座席の変更、上映時間の変更はできませんので。」と、手渡された。この場合、変更する時間も、上映時間の変更もできない状態にある。「上映10分前になりましたら、エスカレーター前の入り口にお越し下さい。」・・・マニュアルをどうにかしてほしいが、チケットを受け取って、私は小走りに入り口へ急いだ。あと1分。私の観る「エクステ」は、最上階で、エスカレーターを5つも上がらなければならない。走りながら7番スクリーンへ。場内へ入ると、予告がはじまったばかりであった。

 こういうホラー系は、いつも思うが、カップルか女性同士が多い。男だけ、男同士が少ない。遊園地で、お化け屋敷に入りたがるのは女性で、絶叫マシンに目を輝かせるのは女性で・・・そんなことをふと思う。目がなれてきて、あたりを見渡すと、30人程度の観客がいたが、男性は5人だった。女性仲間で観ている7人のグループもいた。

 発想のみ面白い。物語は単純極まり、無理矢理かな?と思わせた。そして・・・恐怖のビジュアルは、すべて予告篇で公開していた。CGを駆使しているところも多いが、実にたくさんの髪の毛を美術として用意したのかと驚く。そこに重きを置いていて、どうだ!凄いだろう!と監督から言われながら観ている気がした。凄いが、それだけです・・・私は心の中で呟いた。

 大杉漣は、苦労人で、歳をとってメジャーになったからか、どんな作品でも受けている気がする。主役だろうが、脇役だろうが、ちょい役だろうが、積極的に映画、テレビに出る。変幻自在に役をこなすが、本作の異常者には、無名の新人中年を使ってほしかったと思う。大杉漣は大杉漣で、気迫は伝わるが、恐さがない。何か得体の知れぬおどろおどろしさがない。爽やかで魅力的なオーラを持った大杉漣だ。

 ホラーを観にきたが、恐い映画ではなかった。楽しい映画でもなかった。オープニングの流行りの「自分の行動をト書きにする」台詞は、どうでもいい。初めから気を殺がれる。オープニングの明るさが、後の恐怖を倍増させる・・・狙ったのだろうが、見事に失敗していた。それよりなにより、本作全体に流れる「母親が我が子に虐待をくりかえすシーン」に興味を抱いた。作品からすれば、不必要なのだが、その不必要をじっとみつめてしまう。膨らませたら、社会問題を取り扱った良作になりそうだ。  <45点>

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映画監督って何だ!

2007年02月02日 22時30分00秒 | あ 行 (2007)

Photo_214  <第七藝術劇場>

 映画の著作権は「監督」にある。『七人の侍』は黒澤明のものである。東宝固有の財産ではない。『男はつらいよ』は山田洋次のものである。松竹固有の財産ではない。制作費を出し、配給をするが、映画の著作権は監督が有する・・・と、あたり前のように書いているが、これがまったく違う。映画には「不都合な真実」がある。映画、作品の著作権は、製作会社が有し、監督には何の権限もない。完成したら、映画は製作会社のものとなり、監督とは縁が切れる。これが現実である。

 日本映画監督協会設立70周年記念として制作された本作は、すべての製作会社、配給会社を敵にまわすものである。とても短い作品だ。1時間10分。600人の協会の監督のうち、160人を超える監督がすべて俳優として芝居をする。通行人などのエキストラもすべて映画監督である。監督の顔は知らない人が多いと思うし、私もほとんど名前と顔が一致しないが、パンフレットを見るとすべて写真入で名前と監督作が書かれている。こんな映画は他国にはないだろう。監督が集まって、自分達が出て、一本の作品を作るなんて。

 もう、DVDになって、本屋で売っているらしい。メイキングも楽しいらしいので、是非、「映画の著作権は誰が持つべきか。」を考えてもらいたい。どうあがいても、監督なのだが、法律の壁は厚い。映画を芸術とするならば、それを作った人間が著作権を別にやってしまわねばならぬのか・・・じっくり理路整然と、楽しく学べる。映画に興味を抱かない知人数人に、本作のことを話したら、とても興味を示した。「監督が著作権を持たないなんて・・・。」映画に興味を持つ方は尚更、是非。

Photo_223  たまたまこの日はトークショーだった。2人の監督の予定が3人になった。観客は30人ばかり・・・東京からやってこられて、申し訳ない気がす2_23 る。パンフレット(実際には、ちゃんとした本になっているのだが・・・)を買うと、監督がサインをしてくれるという。ロビーへ出ると、みんな本を買い、サインを求めている。見本を見て、とても面白そうなので、私もミーハーとなり、一冊求めて、後ろに並んだ。監督は4人になっていて、とても贅沢な裏表紙に化けた。監督たちは全員、サインをして、「ありがとう」と相手の目を見た。自宅まで電車を乗り換えて50分ちょっとかかる。あまりにも楽しい本だったので、時を忘れ、もう着いたのかと嘆いた。厚くはない本だが、何度も同じところを読み、さらにじっくり読んだので、読み終えた頃、外が白々と明けてきた。  <75点>

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サスペンス傑作選3-3

2007年01月31日 22時30分00秒 | あ 行 (2007)

Photo_208  <高槻松竹セントラル>

Photo_209  死の十字路(1956) - (80点)

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           江戸川乱歩の陰獣(1977) - (50点)

 そんなこんなで、また高槻へ向かう。こういう特集をされてしまうと、高槻へ毎日通うことになる。仕事に通っているのか、映画館に通っているのか・・・。古い映画を観るだけが良いのであれば、新世界日劇、東映、トビタ東映でいいし、3本立700円、1,000円で楽しめる。仕事の帰途、立ち寄ることも無理がない。だが、新世界から飛田にかけて上映される作品群は、「映画館として、選んではいない」という組み合わせがほとんどである。不眠症の男が『なんちゅう3本立や。』で、たまたまみつける「ビリケン」なんて発見もあるだろうが、しっかりとチョイスしてくれる高槻松竹セントラルとは、ワクワク感がまったく違う。オールドファンや映画史を学んだファンなら誰でも知っている監督、脚本、カメラマンの名前が縦書きでズラリと並ぶ。名俳優、クセのある脇役の名前を見ただけで、観る前からすでに楽しい。私は旅を楽しむオッサンだが、実際に旅をするより、旅の計画を立てているときの方が楽しい時もある。こういう作品の上映時間を見ながら、計画を立てるとドキドキする。旅の計画のそれに似ている。

 2本立で、江戸川乱歩原作の作品をかける。私の脈拍は200をこえているかもしれない。本作を映画館で観ることができるならば、フィルムで観ることができるならば、仕事なんて後回しだなどと考える。常識ある大人の考えることではない。とてもいけない。子供は真似をしてもいいが、大人は真似をしないでほしい。

 平日の昼間は、60才を過ぎた映画ファンが多く、その数にびっくりすることもある。50年代、60年代の映画を懐かしんで観ているのか、観逃して観ているのか気になる。観逃したのなら、50年も待ったのか・・・。この60才を過ぎた映画ファンは、夜の回には姿を消し、観客は10人弱となる。いつもそうである。

 夜に入った。おばちゃんがテケツのスタッフに「パンフレットありますか?」と訊ねた。私は『えっ?パンフレットなんてあるのか?』と、声のする方を見た。スタッフは「はい、これです。」と、三つ折りのチラシを手渡した。おばちゃんは黙って受け取った。わたしはその何気ない光景を見てハタッと思い出した。そうだった。今、言われているあのチラシは、私の小学生の頃はパンフレットと呼ばれていた。私は、チラシ(パンフレット)の解説を食いいるように読むおばちゃんをしばらく見ていた。あれは、チラシであり、パンフレットだった。では、パンフレットは何と呼ばれていたかというと・・・「プログラム」である。プログラムでは、コンサートや寄席のイメージがあるが、映画もプログラムだった。30年、40年前の映画は、一本立というのは珍しく、ほとんどが二本立、三本立だった。そんな時代、間違いなく、今のパンレットは、プログラムと呼ばれていた。小学生低学年の頃、東映まんが祭を上映していた映画館のテケツ横に、マジックで「プログラムあります」と書かれていたのをフリーズ画像で思い出した。そう思うと・・・パンフレットって何なのさ・・・などと考える。

 小学6年生の時、学校の図書館に「江戸川乱歩全集」が揃った。これが、クラスで話題になった。当時としては画期的な真っ黒に銀色のタイトルで、本そのものだけでも珍しかったが、題名を見て、この本の中には何が詰まっているのだろうと想像した。子供用としての江戸川乱歩だったが、エロもあり、グロもあった。あんなもの、あの時代によく置いたと思う。性の目覚めは江戸川乱歩ではないが、エロとグロの新鮮な世界に没頭した。後に、小学生向けに削ぎ落とした本だと知ったが、それでも純情少年の頭は混乱した。

 推理小説という名前ができる以前の「探偵小説」である。江戸川乱歩の書いた探偵小説を、大人になった私はレベルの低いものだと決めてしまっていたが、とんでもない勘違いだった。映画を観ると、そこにはとんでもない見事なサスペンスホラーがあった。リアルタイムサスペンスを抜群の迫真演技で三國連太郎はおろおろと巧みにこなす。個人的には嫌いな顔立ちだが、新珠三千代が若くて美しい。ホラーとサスペンスとエロを合体させて融合させて、ひとつの塊にした。子供でも観ることのできる時代だったから、当時の小学生はどう感じたろう。かなり刺激的だったに違いない。いや、現在の大人にも刺激的で、21世紀にはもう作ることなどできない「映画黄金時代の秀作」と言い切れる。『淫獣』は色彩効果を多用に使った凡作だが、70年代の松竹は、よくこのような題材で映画を封切っている。実験的映画を観たような気がした。

 あーっ、高槻は面白い。

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インビジブル2

2007年01月21日 23時30分00秒 | あ 行 (2007)

2_20  <天六ユウラク座>

 ブログをはじめて半年あたり経った真夏の夜、私は今日観た映画のことを書きながらふと思った。映画に関するブログだから、映画のことを書くのは当然だが、何千という映画ブログがありながら、ストーリーを含めた「感想」「評論」ばかりである。十人十色で、感性の違った評論を読むのはそれなりに楽しく、まったく別次元で私とは完全に逆の意見でありながら、いつもトラックバック、コメントをしていただいている方もいる。それも楽しく、お互いにお互いを面白がっているのも楽しい。だが、映画のストーリーと評論だけを書き綴っているブログが目立つ。お互いを刺激しあうのも必要ではあるし、生き甲斐になるが、これでは、映画好きのサークルとあまり変わらない。全国のお互いに知らないもの同士の映画サークルである。映画に興味はもっていて、完全なる娯楽だと思っている方は、読んでもわからない。「ぴあ」や「ウォーカー」の方が親切でわかりやすい。それはそれでいいのだが、私は別のことを思った。

 普通の人の場合・・・一年間で映画館で映画を観るその本数は1.8本という。一年に2本も観ない。そのかわり、DVDやVHSをレンタルして自宅で観る本数は20本と多い。10本、映画館で観る人でも、観ない人から比べたら「よく観るね。」と言われる。映画は観なくても、映画の話題は日常会話でよく出るので、私はそういう話しをいろんな場所、いろんな人から聞いてきた。昨年、私の映画館で観た映画は328作品で、友達や知り合いにはあまり話さないが、言えば気色な目で私を見るかもしれない。

 一年で1作品も観ない人は別として、何本かでも観る人に、もっと観てほしいと言えないだろうか。映画の魅力を多くの方に伝えられないだろうかと、あの夏の夜、考えた。あまり観ない人でも、観てみるかな?と思わせる方法はないだろうか。私のボキャブラリーの少ない稚拙な文章力ではなかなか困難だとはわかっているが、割と強くそれを思った。これを機に、私は前文を書くようになった。ブログ名を「映画館で映画を観ないあなたへ」とすればはっきりしていいだろうが、それがすべての目的ではないし、リンクされている方にもお手間を取らせるので、そのままにした。

 10月、ある出来事によって私はブログを閉鎖しようと思ったが、そのとき、たくさんの方からコメント、メールをいただいた。コメントの中には、私の知らない人もいた。私は自分の知っている範囲内の方が読んでいただき、トラックバックしているだけだと思っていたのに、私のまったく知らない方が読んでおられることを知った。その数は少なくなかった。はじめてそこでアクセス解析なるものをクリックしてみた。1日で350~400のアクセスがグラフとなって出ていた。私などのブログに、そんなに入ってくれているのかと驚いた。閉鎖しないでほしいという励ましのコメント、メールとアクセス数に驚いた私は、どなたかが楽しみに読んで下さるかぎりは続けようと思った。そこから、私の前文はますます長くなった。

 私ごときがおこがましく、厚顔無恥だと言われそうだが、ある想いがあって、書き続けている。一方に「一年で100本以上、映画館で映画を観る人がいる」一方で「一年で数本だけ、映画館で映画を観る人がいる」。私は両者のその間に立って、「なぜそんなに映画館で映画をたくさん観るのか。映画館で映画を観る魅力とは何なのか。」を、説明ではなく、映画にまつわるお話で書こうと思った。説明ではなくとしたのは、押し付けるつもりはないからであるが、要するに、橋渡しのような役割を担おうと思ったのである。『どうしてそんなに映画館で映画を観るの?』『DVDで十分じゃない?』と言われる方へ、それはなぜなのかを答え、応えたいと思った。映画評論より、前文のほうが長くなってしまうことがあるのは、そういう想いがあるからである。

 これが、徐々に思わぬ事態になった。評論よりも前文だけを楽しんで読まれている方が多くなってきたのである。前文についてのコメント、メールをよくいただく。映画の魅力を知ってほしいと前文を書きはじめたが、前文を書かなければならなくなった観がある。最後は映画の評論だが、映画とは関係ないことも書く。「カプセルホテルの投宿」「地名や人名の由来」「今日こんなことがあった」などにも興味を抱かれた。書くのは苦痛ではないが、コラムやエッセイとして読んだ・・・という返事をたくさんいただく。私は『コラム』や『エッセイ』を書く能力などなく、無名で浅はかで偉くもない。戦争について、人生について、環境汚染について、愛や恋について・・・私の思っていることを書くこともあるが、コラムやエッセイなどという崇高なものではない。多くは、私のプライベートを文字にして暴露しているだけなのだ。これに興味があるという。本当におかしなことになってきた。

 ただ、ヨチヨチ歩きのような私の稚拙な前文を楽しんで読んでいただいているということは、それに続く映画評論、感想も読んでいただいているというわけで、少なくとも、幾らばかりかでも、映画館で映画を観るという魅力を知っていただけたらと願っている。偉そうに書くつもりはないし、畏れ多いと思っているが、映画をよく知る方と映画をあまり知らない方の橋渡し。その役割をいつも考えている。映画館で映画を観る楽しみを、私が書いたことによって、一人でも知っていただけたら幸いである。

 ご自分の文章の才能を自負していらっしゃる方もいて、私も「文才あるなぁ。私の文章は下手だなぁ。」と認めるが、私の知るかぎりではすべて、映画に詳しい方に発信する記事を書かれている。映画に詳しい方に読んでいただいて唸らせるのは、とんでもなく凄いし、私にはとてもマネのできない技だ。そういうわけで、私は別方向へ歩くようにしている。映画に詳しい方には、興味がない当たり前のことを書いているかもしれないが、映画ファンを一人でも多くしたいという願いがあってのことである。そういうわけで、私は色で何を書いているか分けた。 「グリーン系は前文」 「ブルー系は評論」 「オレンジ系はその他気づいたこと となっている。私の記事は、いつも、長いと言われているので、評論だけを読まれる方は、ブルーだけを読まれると時間が省ける。総じて、ブルーはグリーンより短い。ただし、『大文字版』はブラックのみで書いているので、辛抱して読んでほしい。

 無理矢理、パート2を作ったらしいが、よくできたストーリーだ。私としては、CGをふんだPhoto_194 んに使ったポール・バー・ホーベン監督のA級の前作より楽しんだ。視覚的に楽しむのは前作だろうが、ストーリーを楽しむのは本作だ。前作は、視覚的な印象しか頭に残っていない。皮膚が透けて骨と筋肉と内臓が見え、骨が透けて筋肉と内臓になり、血管だけになり、透明人間になっていくCGは見事だった。こ~んなことまでできてしまうのかと、眠りかけていた目が冴えた。その後のエロとグロも観ごたえがあった。だが、本作はそこまでCGを凝らない。おそらく・・・予算がないからだと思う。全体にB級の空気が流れている。あれだけのCGだったのに、それ以上の映像がないとは「やっぱりパート2か。」となりそうだが、凝ったCGなんていらない。それ以上にスリリングな構成、ストーリーがある。凝ったCGよりも内容で勝負している。どんなにCGでとんでもない映像を観ても、やはり物語なのだと教えてくれる。ただ、楽しめる。教訓やテーマなんて難しく考える必要はない。粋なラストカットまで、楽しく観よう。

 日本では前作が大ヒットとはいかなかったので、CGが地味になった分、全国公開とはいかなかったのか、天六ユウラク座でかかった。誉めてはいるが、シネコンの全国一斉公開だったら、私の印象は変わったかもしれない。映画館、場内の雰囲気、椅子の座り心地によって、作品の印象はとんでもなく変わる。天六ユウラク座は、あまり良いとは言い難い映画館だ。・・・とても設備の悪い映画館だ。B級作品を単館で、二週間交代でかける。B級だとわかって行くから、やや私の評価は高くなっているだろう。 <75点>

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悪夢探偵

2007年01月21日 23時00分00秒 | あ 行 (2007)

Photo_193  <敷島シネポップ>

 多くの映画ファンのブログは、ストーリーを書き、つづいて評論を書いている。私は基本的に映画のストーリーを書かない。ただ、書かねば評することが困難なときに、評論に交えることがある。ストーリーを書かないのは、悪戯に時間がかかるという面倒さがある。そして、ストーリーはひとつだから書かないでもいいという気持ちがある。評論は十人十色でも、ストーリーはひとつだと思う。人によって書き方が変わるだけで、別に新しい要素を入れ込むことなどできない。新しいものを入れたら別作品になる。観る前に読まれる方のことを考えると、前文としては邪魔である。だったら読まなければいいが、懸命に書いたのであろうから、私は読むようにしている。しかし、夜中、いくつものブログを歩き、同じストーリーを読むのは少々くたびれる。観てない方への優しさかもしれないが、観てない方へストーリーを教えるのはどうかと思う。観た人にはストーリーは必要ないから、独自の文章でストーリーを書くという意味が私にはよくわからない。gooなどの映画解説をそのままコピー&ペーストしている方もいらっしゃる。なぜだろう。そこまでする必要はないと思う。映画評論、映画の感想は読むものであっても、映画のストーリーは読むものではない。観るものである。観る前にストーリーを知りたければ、チラシの裏側を読めばいい。または映画雑誌や情報誌を読めばいい。たくさんの抗議を受けそうだし、仲良くしてもらっている仲間がまた減りそうだが、私はそう思っている。

 昨年に続き、また塚本晋也監督の映画を観る機会に恵まれた。ミニシアター扱いだが、敷島シネポップは東宝の全国公開の封切をかける映画館だから、万人受けするのだろうと想像する。原作、脚本、監督、撮影、美術、編集、プロデュース、そして出演までやってのける多才な人で、誰にもない独特の世界を映像化する。いつも楽しみにしている。あのデビュー作「鉄男」から10作目だという。あれから随分と経つが、まだ10作目なのか。塚本晋也が映画で儲けているとは到底思えない。どういう生活をして生きている人なのか気になる。映画学校で講師でもしているのだろうか。多才な監督は学校で重宝がられるのだが・・・。

 いつもドキドキハラハラドロドロさせてくれる。比較的、上映時間の短いフィルムが多いが、本作は106分と並みである。いつものように、物語の発想がとんでもない。どこからこんな発想が生まれるのか。どこを押したらこんな発想が浮かぶのか。天才と狂人の間を行き来しているような感じがする。もう、オープニングからいきなりとんでもない。期待は高まる。撮り方もいつもの塚本晋也で、つなぎ方もいつもの塚本晋也。これを「塚本ワールド」というらしい。よく聞くし、雑誌などに書いてある。塚本晋也には塚本晋也しかできない異様な雰囲気がスクリーンから放たれる。この空気感は誰にもないが、他はできず、この空気感しか撮ることができないのかとも思う。

 とにかく面白い。次はどうなる?次はどうなる?基本的にホラーだから、胸がズシズシと高鳴る。ところが本作は、1時間を過ぎたあたりから塚本ワールドの勢いが弱くなってくる。これまでの空気感が薄れ、普通の映画になっていく。撮り方もつなぎ方も塚本晋也だが、とんでもない発想に手をやいて、終われないようになってしまったかのようだ。ラスト30分・・・「あー、なるほどネ。」と、胸の高まりは消えていった。どうして素人のhitomiを起用したのだろうか。美人だし、長身だし、目に力があるが、素人台詞に素人芝居だ。キャリアはあるが、俳優としては素人だから頑張っている。その頑張っているのがわかる。頑張ってます!と聞こえてきそうで、途中からうんざりした。本作がいつもの70分くらいにしてくれていたら、どうだったろう。解決なんてしなくていい。途中でぶち切ってもいい。ここで終わったらいいのに!ここでロールスーパーになったら最高だと2度、思った。塚本晋也の作品はすべて観ているはずだ。本作はとても残念だ。

 本作はPG-12とされている。先日観た「ホステル」はR-18だった。映像、内容は「ホステル」よりグロいし、きつい。本作がPG-12なら「ホステル」は一般映画だ。または「ホステル」をR-18とするならば、本作は上映禁止だ。とても曖昧だ。2日前の気持ちをまだ引きずっている。どうしても「ホステル」のR-18が気に入らない。 <60点>

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愛の流刑地

2007年01月15日 22時50分00秒 | あ 行 (2007)

Photo_186  <TOHOシネマズなんば>

 肉親ではなく・・・相手を殺してしまいたいほどの愛、自分が死んでしまいたいほどの愛。人生の中で、そんな経験をする人は多くはないだろう。その前に、そんなものがあるのかと思う人も多いだろう。憎悪によって相手を殺してバラバラにすることはあるらしいが、愛するからこそ、相手を殺してしまいたい、自分が死んでしまいたいという愛は、ほとんどの方はわからないはずだ。これまでにも書いてきたが、殺しもしなかったし、死にもしなかったが、私にはこれに似たような心の経験がある。それが鮮明に頭にのこっていて、私はそれから去りたいのだが、なかなか腕を放してくれない。束縛されたままである。こんなマイナス思考は滑稽だが、どうしても頭は逆戻りする。こんなのイヤだ。結婚しない・・・そのせいにするのもおかしいかもしれないが、あの頃の体験が、多くの割合を占めている。一度、妥協しなかったら、次も妥協はできない。人に恋をするのは自分中心の我がままであっても、人を愛するということは、命がけのような気がする。恋愛とひとくくりにはできない。恋と愛は似ているようで、まったく違う。しかし、私が体験したあれほどの情熱はもう持ちあわせていない。おじさんになった・・・。人間の情熱がここまでとは!と、いまでもまだ、あの頃の自分を思い出す。

 秋の公開のはずが、主演がなかなか決まらず、年を越えた。こういう題材の場合、困った時の寺島しのぶ頼み・・・キャストが決定したとき、私はそう思った。公開してもなかなか観にいかなかったのは、2時間以上もずっと座っていられる自信がなかったから・・・原作モノだが、原作と映画はまったく違う分野の芸術であり、これを比較することなどできないし、私は比較する頭脳も持ち合わせてないから、観る前も観た後も読まない(観た後に原作を読むこともあるが・・・比較はしてないつもりだ)。

 2時間はあまり気持ちのよいものではなかった。比較はできないと書いたが、いかにも文芸作品ですというタイプの映画だ。訴えかけるものはただひとつだから、それに尾鰭をつけて賑やかにしようと苦労している。季節も選んで、抜群の背景を作るが、「作りました。」「捉えました。」という苦労話を観客に押し付ける。性的描写は、かつての日活ロマンポルノの域を出ていない。まだ、日活の方が芸術的な濡れ場(性描写をこう呼ぶ)を提供してくれていた。街の夕暮れと濡れ場がダブるが、観ていて「洋物ピンク映画か?」と思う。洋物ピンク映画に多い手法だ。新しいものはない。

 渡辺淳一、東映の「失楽園」が当たって、東宝でも一発いこうと思ったのかもしれないが、作品的には「失楽園」が遥か上をゆく。あれはタイトルもいい。「楽園を失う」。答えがタイトルそのままだ。本当なら「失・楽園」と分離して読むべきだろうが、「失楽園」という新語は、流行語にもなった。あの頃、「失楽園する」「あの二人は失楽園だ」「俺、失楽園してる」という言葉を聞いたが、私は「そんな馬鹿な」と思っていた。「失楽園」は「失・楽園」であって、最後は奈落の底に落ちるわけだから、現在進行形では先がわからない。「失楽園」が決まっているなら、やめておくべきだ。「失楽園」という言葉は勝手に独り歩きして、単に「不倫をする」ということになってしまった。不倫であっても、成就すれば、失楽園ではない。楽園のままだ。

 本作のストーリーはわかりやすい。わかりやすいが、感情移入することはできようか。この難しい重いテーマに挑んで映像化する意気込みには感心するが、成功していない。これに似た体験をして、とんでもない修羅場をくぐってきた私でも、制作者は、甘すぎやしないかと思った。同じ場所で同じ事をくねくねと悩み苦しむ・・・人間の生の姿かもしれないが、何をいまさらとしか感じない。ただ、演出の力か、演技力の力か、美術の力か・・・ラストまで飽きることはなかった。だが、それだけである。  <50点>

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無花果の顔

2007年01月12日 23時30分00秒 | あ 行 (2007)

Photo_179 <敷島シネポップ>

 同じ字を書いて、東京では日本橋(にほんばし)、大阪では日本橋(にっぽんばし)と読む。東海道の起点であり、今も国道一号線の起点であるから、東京の日本橋は有名だが、大阪の日本橋はあまり知られていない。東京の日本橋は、上を首都高速で覆われたとはいえ、ちゃんと橋らしく残っている。大阪の日本橋と言うと、大阪の人は東京の秋葉原と同じようなイメージで、電気街を思い浮かべる。また、「にっぽんばし」とは言わず「にほんばし」と言う。大阪は「にっぽんばし」である。何がどこが日本橋かわからない人も多いだろうが、日本橋はちゃんとある。コンクリート造りで小さく短く、橋らしくないのだが・・・。

 私は難波で映画を観るとき、地下鉄の日本橋駅で下車して道頓堀の方へと歩くことが多い。1000回はここで下車して歩いたろう。日本橋と難波は一駅あるが、乗り換えねばならず、繁華街は駅と駅の中間にあり、歩いて3分だ。地下鉄を乗り換えるより足のほうがはやい。今夜もそのコースを歩いた。日本橋と難波の間は一駅というものの、地下街でつながっているので、普通は地下を歩くが、今日は寒空の下、外を歩いた。大阪の中心とも言える場所で、道頓堀が近づいてくるといつもの週末より人が多い上に、かたまりとなっている。新年会なのだろう。男女が10人も集まり夜ともなれば、奇声をあげて走り回る。異常だが、ここでは気にならない。ごく普通の風景だ。

 道頓堀を左に折れ、千日前筋へと向かう。大阪は、南北に通る道を「筋」といい、東西に通る道を「通り」という。「御堂筋」「谷町筋」「四ツ橋筋」などは南北の道で、「千日前通り」「中央大通り」「都島通り」などは東西の道だ。筋と通りで、自分がどの方向に向いているのかがわかる。京都もそうだが、碁盤の目になっている街は、位置関係がわかりやすい。千日前筋を南に歩いていて、数年前から思っていたことがあった。私が大阪へやってきた1_8 25年前と比べて、道頓堀もかなり変わったが、千日前筋はあの頃の景 色とは比べものにならないほど変わった。あんなにたくさ んあった映画2_13館、喫茶店、食堂はすべて姿を消し、今はパチンコ店だらけだ。私のよく泊まるカプセルホテル「アムザ1000」は、千3_9日前筋のちょうど真ん中にあり、10時のチェックアウト前に映画館へと歩くが、両側が巨大なパチンコ、スロット店で、10時の開店前に何千人という大人が並んでいる。道幅は大きいが、人の列でとても狭い。土日に限ってと思っていたが、平日も並んでいるようだ。みんな、若い。何をして食っている人たちなのかと聞きたくなる。この開店前の行列が、どんどん大きくなっていく。二年前より昨年の方が多く、昨年より今年の方が多い。

 千日は、仏教用語である。千日前は、元処刑場であった。何千人もの犯罪者がここに収監され、毎日毎日、首を斬られ、通りにさらされた。どこの誰だかわからなくなった無縁Photo_184 仏は、アムザ1000の東にある。大都会の一等地だが、そこだけビルもな2_14 く、ポカンと空白になっている。以前は崩れ かけた壁で囲っていたが、10年くらい前に改修し、仏様の像を配し、線香立も作った。道頓堀を作って、その名を遺した安井道頓の墓があると伝わるが、よくわからないらしい。無縁仏を集めて一つにした大きな墓石もある。ここの管理は、曽根崎心中で知られる三津寺なのだが、刑場で亡くなった無縁仏を埋葬し1_9 たのは、千日前筋と千日前通りが交差する北西の角にある竹林寺だ。表は二重の塔で、その後ろの高いビルの中 3_10に本堂がある。ほとんどの人は通り過ぎ るが、法善寺横町へ行っ たついでにでも覘 いてみるといい。千日前がどういう地2_15であったかが入ってすぐ右手に書かれている。

 この向かいに千日前デパートがあった。私が小学生の頃、大火災になり、テレビの生放送で中継された。煙にまかれて窓から飛び降りる人たち、はしご車に飛び乗って消防隊員Photo_185 の身体にぶつかって二人とも絡み合いながら落ちていく。そんなショックな映像がたくさん映し出された。今でもはっきりと覚えている。そこが刑場跡と広く知られるようになったのは、この大火災の背景に?というゴシップが報道されたからだ。跡地は後に、ダイエーが経営するフランスのプランタンデパートとなる。日本一、客入りが悪いと有名になり、ビルはそのままに撤退した。そこに、今のビックカメラが入った。ただ、地下1階と2階は大きなパチンコ店である。

 掘ればまだまだたくさんの骨が出てくるはずの土地、それが千日前である。たくさんの骨や墓石が出たという情報はなく、工事中にグチャグチャにしてしまった可能性は大きい。そんな土地が、大型パチンコ店の拠点になっている。大阪ではもっとも大きなパチンコの街だろう。刑場跡で、たくさんの魂が眠っている千日前に、朝から何千もの人が開店1_10 を待っている。そんなことをここ数年思いながら、私は映画館へと向かう。「敷島シネポップ」は、アムザ1000から30m南へ歩いた辺りにある。ここ2_16 からまた30m南へ歩くと、NGKなんばグランド花月前に出る。敷島シネポップは3つのスクリーンをもち、パチンコ店3_12 「マルハン」の4階にある。地下2階から地上3階は、パチンコのマルハンである。

 桃井かおり脚本・監督作品というだけで興味があった。予告もよくできていて、テレビとは別人のような山田花子の姿だけでも観たいと思った。ミニシアター系だが、東宝系の敷島シネポップでかけるとは思わなかった。ここでかけるということは、短い上映期間ではないだろう。いつでも行くことができるとノホホンとしていたら、今日が最終日だという。慌てて、最終日の最終回へやってきた。小津安二郎のようなカット割りで、頭から「期待できる!」と興奮気味だった。四角いテーブルに座った4人の会話を面倒な撮影(1人に1カメラ)と編集をして楽しませてくれる。この会話は、同時に流れているテレビニュースとリンクしなければならないので、編集の際のことを重要に考えて撮らねばならず、大変な神経を使っただろう。凡才では浮かばぬ台詞(桃井かおりと石倉三郎がうますぎて、勝手に喋っているようで台詞に聞こえない)とカメラアングルに私は呆気にとられ、口をあけたままスクリーンの虜となるが、物語があまりにも平坦である。映画が斜陽となり、物語の平坦な映画は多くなったが、平坦な物語で目を釘付けにする作品は少ない。演出力、演技力、技術力などが一体となる・・・監督の持つ、目に見えぬ空気や風をいかにスタッフ、キャストが理解し、作り上げていくかにかかっている。

 本作は、そこまでの高ぶりはなかった。冒頭の雰囲気がスクリーンからビシバシと伝わり、観客は引き込まれるので、その調子を持続するには力が足りない。映画をあまり観ない方も、カメラアングルが気になったろう。突然、ときどき出てくるので目立つ。それほどこだわる必要もなかろうと思う。特筆すべきは、すべての台詞と山田花子の芝居である。新喜劇では、不細工でボケという役割を続けている山田花子が、別人のようだ。とても可愛い女性を演じている。こんな山田花子を見たことはなかったし、自身、これまで演じていなかったろう。ベタベタの大阪弁の彼女が、懸命に東京弁で台詞をこなす。山田花子の新鮮さに驚く。普通の女性じゃないか。いや、とても可愛い真面目な女性じゃないか・・・これを機に、喜劇を土台とした何でもできる女優として活躍してほしい。喜劇から出た俳優は、何でもこなせると私は思っている。

 私の感覚がおかしいのか、誰にも言ってないが、山田花子の顔をちょっとどこか触ったら上野樹里になりそうだと思う。上野樹里の顔をちょっとどこか触ったら山田花子になりそうだと思う。何年か前、パナソニックのCMに出ていた上野樹里は、ショートカットで、今よりややふっくらしていた。その時に、似てない?と思った。が、その固定観念が拭えず、上野樹里を見るといつも山田花子を思い出し、山田花子を見るといつも上野樹里を思い出す。 <60点>

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犬神家の一族(2006)

2007年01月08日 22時30分00秒 | あ 行 (2007)

Photo_176 <TOHOシネマズなんば>

 成人の日だという。1月の第2月曜日だという。3連休の為に無理にそんなことをしている。1月15日なんてどうでもいい日になってしまった。ということは、成人の日はいつでもいいじゃないか。てなことを考えながら夜を悶々と過ごした。「王の男」を観て帰宅しても眠れず、食欲もない。精神安定剤を飲んで寝ようとするが、どんどん頭が冴えてくる。そのうち、部屋に朝日が射してきた。

 20歳は、人生の成長の頂点だと言われてきた。生まれた時から人は成長をはじめ、20歳でピークになる。20歳を過ぎると成長は終わり、老いへと向かう。基本的に世界共通らしいが、日本では14、15、16歳で大人としていた時代もある。人生50年と言われた時代もあったし、人生40年と言われた時代もあった。私は今、43歳だが、人生50年の頃であれば、隠居せねばならない。時代によって成長の頂点は変わる。それも大きく変わる。現在、日本人の成長の頂点は22歳だと言われている。20歳で大人の体にはなるが、まだまだ成長は止まらない。日本人の寿命が延びる中、成長する頂点も延びたわけだ。成長の天井は高くなったが、テレビでは沖縄の成人式の暴動を伝えていた。「ズレている。」・・・私はただ一言、そう呟いた。

 私が20歳の成長の頂点の頃、角川映画第一作「犬神家の一族」がテレビ放映された。封切の時は観られなかったが、大学に入った頃、何かの機会でスクリーンで観た。「悪魔の手毬唄」は中学生の頃、封切で観ているのに、第一作目を観ていなかった。私はこんなに面白い作品だったのか・・・後の金田一耕助シリーズの頂点を最初に撮ったのかと思った。レンタルビデオ店ができてからは、ビデオを借りてテレビで見た。何度も何度も見た。多くの俳優が演じたが、私の世代では、金田一耕助は石坂浩二である。同じ世代で、金田一耕助を古谷一行と浮かぶ人は、映画よりテレビを見ていた人たちである。

 読んでから観るか、観てから読むか・・・観てから読むに決まっているが、どれも似たような独特の世界を描く横溝正史の原作を何冊か読んだことがあった。アイデアは抜群だが、筒井康隆から松本清張に傾倒して読み漁っていたので、文章の下手さが気になり、何冊かでやめた。私などが文章力を言うのも偉そうだが、松本清張に没頭し、急に横溝正史を読むと、とても清張には敵わなく、読む気を失った。

 眠れぬまま朝を迎え、8時に自宅を出て、9時に難波へ着いた。9時30分からの本作を観るためだ。晴れ着姿の女性が高島屋前で携帯をいじっている。夜型の私が、朝一の映画館に行くことは滅多にない。映画を観続けて徹夜をし、そのまま翌日も朝から観る・・・昨年も何度かやっているが、そういう機会しかない。体に疲労感はあるが、目はぱっちりしている。頭もはっきりしている。祝日の難波とはいえ、朝9時30分の回は流石に人は少ない。それでも場内に50人はいるだろう。長い長いお馴染みのCMと予告篇を15分も観て、ようやくはじまった。

 オープニングタイトル→人名テロップ、金田一耕助の振り返ってフリーズ→人名テロップを観ながら「あっ!木枯らし紋次郎だ!」と心の中で叫んだ。これは前作にはなかったのでは?まだ、私は中学生だったが、思えば、テレビシリーズの木枯らし紋次郎の第一話から第三話までと最終回は市川監督である。木枯らし紋次郎は映画監督が順番に演出を勤めている。

 記憶に新しいのは、大学時代の教授であった宮川一夫キャメラマンが、テレビの木枯らし紋次郎について熱く語ったことがあるからである。テレビの第一話から第三話までの市川崑監督についたのは、宮川一夫だった。そして、シリーズのオープニングを撮ったのも宮川一夫だった。木枯らし紋次郎は、放送が進むにつれ、視聴率は尻上がりとなったが、オリジナル脚本ではなく、笹沢佐保原作ものだったので、原作が尽きたという理由で潔くやめてしまった。今なら、原作をはなれて、オリジナルで作り続けるだろう。後に、ある程度の新しい原作が揃ったところで、第二シリーズも誕生する。

 ちょっとうる覚えだが、あの有名な名オープニングを考えたのは、市川崑監督ではなく、実は宮川一夫のはずだ。「毎週流れるオープニング」という新しい挑戦に悩んでいた市川崑監督に、一度はやってみたいと密かに胸に抱いていたアイデアを宮川一夫は出したのだった。宮川一夫はキャメラマンなので、構図や動きやカット割りなどのアイデアは出すが、構成や内容までは口を出せない。アイデアは浮かんだが、どこにも出せない。宮川一夫は、ここぞとばかりに監督にオープニングタイトルの話をした。それが、タイトル→紋次郎の動きとフリーズ→人物名→紋次郎の動きとフリーズ→人物名というものだった。私は子供心にうきうきしたが、大学で作った本人に話を聞かせてもらい、「あれを作った人が目の前に?」と驚いた。そういう思いがあってか、本作のオープニングに「宮川一夫だ。市川崑だ。木枯らし紋次郎だ。木枯らし紋次郎の中村敦夫も出ているぞ。」と、浮き足立った。

 おそらく、DVDになっていると思う。そうそうたる映画スタッフが名を列ねているので、是非、観てほしい。あのシリーズは、テレビで一回ぽっきりでは惜しい作品だ。スタッフの映像美やキャストの豪華さだけではなく、練り上げた原作を45分のドラマにまとめたので、物語、内容が濃い。後に、必殺シリーズが同じようなやり方となる。テレビ時代劇が大嫌いな私でも、最後まで必殺シリーズだけは見た。光と影の使い方が、テレビでは惜しい。もったいない。映画のスタッフの仕事だとよくわかる。殺しの芸術。刀から一滴の水が流れて落ちるアップにもバックライトをあてて、一枚の画にする。

 いろいろ書いたが、前作よりもおとなしい作品だと思った。同じ監督、同じ俳優で同じ映画を撮る・・・たくさんの人の思いがお正月映画を誕生させたのかもしれないが、前作のように、何度も観たいとは思わなかった。あの日に突っ走った石坂浩二も、若くなく走る。お馴染みの台詞の加藤武も流れるように台詞をはく。カメラ位置も監督らしくない。地域的位置関係もわかりにくい。狭い空間だということはわかる。 ラストの犯人の自殺は、脚本を現場で変えたものである。脚本では、ドバッと血が吹き出て死ぬことになっているが、監督が、そういう死に方は可哀想だと、変えたのだった。それがそのままここでも再現されている。私は元に戻すのかと思って楽しみにしていた。 犬神家の家系や事情を話すくだり、なぜこういうことになったのかを説明して犯人をあてるくだり・・・前作のマルチ編集は抜群だったのに、それもなかった。どうも、面白い部分を削ぎ落として、きれいさっぱりになった感じがした。

 予告篇はみせ過ぎている。天井裏から見える死体、湖に突き出た足、人形の首・・・全部みせてどうするのだ。後は謎解きだけになる。前作を知っていて、あそこまで予告でみせられたら、私などは前作にはなかった特別な時間をくれそうだと勘ぐる。下手な予告篇をつくり、流してしまった。そこが残念でならない。

 昼の12時前に終え、街をぶらつく。お正月休みの最終日でも、難波の街はいつもの休日のようにお祭り騒ぎだ。このまま帰宅する。夕方から寝ようと思ったが、気持ちが高ぶり、なかなか眠れない。ブログもさわることができなかった。結局、夜中になった。いつごろ寝たのか、最後に時計を見たのが翌日未明の3時20分。目覚ましをあわせた9時に目を覚ました。 <40点>

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王の男

2007年01月07日 22時00分00秒 | あ 行 (2007)

Photo_175  <動物園前シネフェスタ>

 故郷から大阪にもどってきて、特に何もすることもなく、何もしたくはなく、5日、6日と一日中、部屋にくすぶっていた。二日間も自宅に閉じこもりっきりというのは、私としては珍しい。食欲もなく、睡魔もない。つまり、食べずに寝ていない。変な具合だと思うが、これは精神的なもので、身体が悪いというわけではない。7日も朝からテレビもつけずに、ボーっと部屋に居たが、夕方になって焦りが生じた。お正月。俺は三日間も何をやっているのだ・・・そう思うとハラハラしてきて、着替えるやいなや、表に飛び出した。夕方の風はとても冷たい。どこへ行くともなく彷徨っていたが、目的もなく地下鉄に乗る。北へ向かう御堂筋線の地下鉄内はガラガラだった。天王寺で降りるか、動物園前で降りるか、難波で降りるか、梅田で降りるか。地下鉄に乗っていても、窓の外は真っ暗でつまらない。JRに乗るべきだったと悔やむ。カルシウムは足りているとは思うのだけれど、真っ暗な窓外を見ているとイライラしてきて、動物園前でドアが開いたのを見て、反射的に降りた。ここで降りたら、上は新世界である。

 廃墟のようなフェスティバルゲートをうろつき、7階のシネフェスタへたどり着く。映画を観る気はなかったが、動物園前で下車したら、いつものコースなので、7階へ来た。新世界で何度もロケハンをやったという「鉄コン筋クリート」をやっている。観なきゃいけないとは思うが、時間表を見るとはじまったばかりである。これから15分後にはじまる映画が「王の男」だった。観るか観ないか迷った。気分的には、このまま新世界の夜の町を歩いていてもよかった。が、長年の癖というものなのか、頭と行動が別物になっていて、私は財布をあけて会員カードを取り出して、チケット売り場の前に立っていた。1月7日になるが、2007年、1本目である。シネフェスタができて以来、ずっとここに通いつめてきたが、3月31日で姿を消す。南部で唯一のミニシアター(4つのスクリーンがあるが、そのうち2スクリーンはミニシアター系をかける)がなくなる。大阪市の第三セクターだ。いろいろ言いたいこともあるが、大阪市だから仕方ない。私の話など、日本語として通じないだろう。

 何の知識なくやってきたので、ちらしやポスターのみの印象しかない。ちょっと退屈で難しい韓国の安く作った時代劇・・・私はそう決め込んでいた。ところが、はじまって30分も経たないうちに、私はスクリーンを食い入るように観続けた。これは豪華絢爛、大作ではないか!忠実に歴史を映像化したものではなく、史実に抜群の物語、フィクションを織り交ぜている。小さな世界からどんどん広がりのある画へ走る。宮廷へ入ってからは室内劇となるが、はちきれんばかりの緊張感を抱きつつ観なければならない。この緊張感の持続が長い。物語が落ち着きを取り戻してから、私は椅子にお尻をぴたっとくっつけて観ていたことを知った。お尻が痛い。体に力が入っていたのだろう。

 室内劇だと思ったのは当然で、本作は舞台劇を映画化したのだという。舞台であっても、三谷幸喜作のように、完全に閉鎖された中で展開するような世界ではない。監督やスタッフは、映画というものを知っていて、舞台ではできない広がりを作ろうと、大きな宮廷内を所狭しと駆け巡る。森へ狩にもでかける。無理矢理ではなく、そこでの展開もドキドキさせる。自然な流れで、緊張感を持続させる。緊張感を緩和させる材料はないので、笑うことはできない。ただ、気持ちよい刺激に酔うのみだ。

 女装した男優の美しさには驚かされる。「ご法度」の松田龍平も色香があり、妖艶だったが、その遥か上をいく。ドアップになっても美しい。ドアップでも色香を放つ。心の小さな機微を微かな表情で演じる。舞台では味わえないだろう。ドアップも多いが、俯瞰も多い。真上から撮っているカットもある。何気ないカットにも、いちいち凝っているのがわかる。丁寧な仕事をしていると思う。

 豪華なセット、衣裳、小道具。ドラマティックに展開する抜群のストーリー。ラブ・ストーリー以外で、韓国の映画を久しぶりに楽しめた。120分の上映時間は十分、感じさせる。長いとも短いとも思わなかった。ただ、観終えた後、ひどく疲れた。重たいものを観た・・・そう思った。こういった疲れをもたせる映画も、重たい気分にさせる映画も最近、ない。韓国と言えば、ラブ・ストーリーか南北分断作品か・・・そういう観念がある方は、是非、観ておくべき映画だろう。いや、韓国映画だからなんて関係ない。映画として珠玉である。 <85点>

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