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Tomotubby’s Travel Blog

Tomotubby と Pet の奇妙な旅 Blog。
でもホントに旅 Blog なんだろうか?

アンティキティラの青年

2009-11-02 | Europe ところどころ


「アンティキティラの青年」

西暦1900年、海綿獲りの漁師が「潜水病」により次々と命を落としていた頃、ロードス島近くのドデカネス諸島・シミ島から海綿を獲りにチュニジア沖まで出かけていた小型帆船が、帰路、嵐を逃れてクレタ島とペロポネソス半島先端のマレア岬の中間にある寂しい島、アンティキティラ島に停泊した。嵐が収まった後、ここでも海綿を収穫しようとした漁師たちは、偶然にも海底に古代ギリシャの沈没船の積荷を見つける。

当時、ギリシャでも他のどこの国でも、考古学研究の目的で沈没船から古代の遺物を回収するような事例はなかったが、潜水服の発明が回りまわって考古学に貢献することになった。紀元前1世紀に占領地からローマに戻る途中に沈んだと思われる船から回収された遺物の中で最大の収穫は、当時見向きもされなかった世界初のコンピュータ「アンティキティラの機械」であろうが、美術的に最も価値が高いと思われるのは「アンティキティラの青年」と呼ばれる青銅の彫像であろう。

ブロンズという材料は海水に侵されない性質を備える。裸身の青年像は海の底に沈んだことで、陸地に遺された多くの青銅の彫像が辿ったように破壊されて鋳直されることなく、二千年の歳月をほぼ完璧な姿で生き延びることができたのだろう。実際「アンティキティラの青年」が展示されているアテネ国立考古学博物館には、青銅の彫像は十体を数えるほどで、その殆どはアンティキティラ以降に沈没船から発見されたものである。

潜水病が漁師を襲う

2009-11-01 | Europe ところどころ

最初期の潜水服 (モナコ海洋博物館で撮影)

潜水服のお蔭で海綿の収獲量は増えたが、漁師たちの体はその見返りに未知の病に侵されることになった。それは、職業病ともいえる「潜水病」だった。

潜水時に、コンプレッサーで海上より送られる高圧の空気を呼吸すると、大量の窒素が血液や組織の中に溶け込む。呼吸とともに溶け込んだ窒素を徐々に体外に排出した後に海から上がれば問題はないのだが、このような調整をしないで海中から急浮上すると、体内の圧力が一気に低下して、血液や組織の中の窒素が気泡化してしまう。こうして起こるのが、減圧症、いわゆる潜水病である。

気泡化した窒素は膨張して、組織を傷つけたり、血管の閉塞、狭心症の原因になる。症状としては、軽度なものでは、腕や脚の関節や筋肉の痛みとして現われる。脊髄や脳に及ぶ重度なものになると、しびれや麻痺、頭痛や錯乱が起こり、重篤な場合は循環器障害により死に至る。

不幸なことに、海綿獲りの漁師たちは、潜水病についての知識や予防措置を知らなかったため、20世紀初頭までに二万人以上が麻痺により働けなくなり、一万人以上が死亡したという。この数は実に海面獲りの漁師の総数の過半に至ったという。

海綿獲りの悲劇

2009-10-30 | Europe ところどころ
八千年の長きにわたってギリシャで連綿と続けられてきた素潜りによる海綿獲りの漁法は、19世紀半ばになって歴史上初めての革新を迎える。潜水服が発明されたのである。

当時の潜水服は、ゴム引きのカンバス地でできていて、金属製の首輪に水が入らないように固定され、そこにガラスの覗き窓のある球形のヘルメットがネジ留めされたものだった。ヘルメットにはバルブが付いていて、ホースを繋いでエアー・コンプレッサーで新鮮な酸素を送ることができる。重装備ゆえに、もはや素潜りのように自由に泳ぐことはできないが、海により長くより深く潜ることが可能になったわけである。

潜水服の登場は、海綿獲りの作業効率を飛躍的に向上させることになった。その結果、ギリシャの漁師たちは莫大な富を手にすることになるのだが、それも束の間。予期せぬ悲劇が彼らを待っていた。


生海綿

Man Ray, Meret Oppenheim, Madonna Louise Ciccone

2009-09-27 | Europe ところどころ
前回に続いて、シュールレアリスト Man Ray の撮ったシュールレアリスト Meret Oppenheim。タイトルと写真から言いたいことは分かってもらえると思うが...



モンパルナス三大美女のひとり Meret Oppenheim は、Madonna Louise Ciccone に似ているのである。いやマドンナの方がメレットに似ているのだ。まるで生まれ変わりのようにも見える。マドンナは髪は金髪だが、あれは染めているだけ。マン・レイのモデルをつとめた頃のメレットは20歳そこそこらしいが、30歳代の頃のマドンナと瓜二つで、メレットの方がより大人っぽく見える。

メレットは、マドンナのデビュー当初の1985年に、72歳でこの世を去っている。悪趣味ではあるが、50歳代に突入して老化が隠せなくなってきているマドンナが、今後をいったいどのような風貌になるのか、老年のメレットの写真から想像できるような気がする。




34年ぶりに復刊した南天子画廊の「GQ」メレット・オッペンハイム特集号が欲しい。そういえば「元祖 日の丸軒」に飾られていた横尾忠則のシルクスクリーンのポスターは、南天子画廊のアーティスト・プルーフだと、ぺぺ・アンドレが自慢げに話していた...

Gilles Berquet, Man Ray, Meret Oppenheim

2009-09-26 | Europe ところどころ
ボンデージ・ファッションが流行した頃に、四谷に「A.Z.Z.R.O.」というラバー・フェティシスト御用達のお店があった。私は体質的にラバー・アレルギーで、コンビニで買った商品を入れてくれるプラスチック・バッグの離型材にすらかぶれてしまうたちなので、ああいうラテックス製コスチュームを着ることはおろか触ることもできないのだが、観るだけという条件で連れて行ってもらった。お店では Gilles Berquet というフランスの写真家をプッシュしていた。彼らがプロデュースしたのだろうか、日本でも彼の写真集が今はなきトレヴィルという西武系の出版社から出版されていたが、それは随分大人しめの内容で、「A.Z.Z.R.O.」で見せられたのは、どう見ても密輸されたとしか思えないご禁制の写真集だった。ジル・ベルケは既に La maison temoin というオフィシャル・サイトを開設しているので、興味のある男性諸氏はご覧頂ければ、にんまりとしてもらえるだろう。



そのようなベルケの写真の中で、私の脳裏に焼きついているのが、女性?がタコに食らい付こう、或いは齧り付こう、吸い付こうとしている写真であった。タコと女性という組合せは、北斎の「蛸と海女」をもって嚆矢とするのだろうが、北斎のあぶな絵でタコに陵辱されていた対象が、ここではタコをモノにしようとしていて、主客が逆転している。彼の写真には珍しく裸体すら写されていないこの写真に妙に惹きつけられたのは、そのあたりにあるのかもしれないと思った。

ある日、Man Ray が Maret Oppenheim を撮った写真の一枚を観ていて、ベルケのタコの写真がフラッシュバックした。裸体のメレット・オッペンハイムが版画の輪転機とともに写り、白い肢体と対照的な黒いインクが彼女の掌から腕についている、マン・レイの代表作である。

私には、オッペンハイムの体にべっとりとついたインクがタコの吐いた墨のように思えた。つまりマン・レイは「タコの不在」を撮ったのではないか?と。いや、よく見れば輪転機が六本足のタコにさえ見えてくる。無論、マン・レイが美しいオッペンハイムを撮ったのは 1933年と遠い昔で、ジル・ベルケが生まれてもいない時代である。改めてベルケの写真を見ると、人物の中心が左へずれた構図、画面左上にかかる黒、丸い輪転機を思わせる丸いテーブルと、マン・レイの撮ったオッペンハイムの写真との共通点が見つかる。ベルケは先人マン・レイを意識してタコの写真を撮ったのではないかと思えてきた。あえて裸体を封印して。

タコの絵のレストラン

2009-09-23 | Europe ところどころ


サントリーニ島イアの町はずれに、素敵なタコの絵の描かれたシーフード・レストランを見つけた。「Petros Restaurant」 火口を望む眺めが見られる二階に上る階段の外壁にタコは描かれていた。長く繊細な足をのばす青い大ダコのイメージが忘れられなくなった。



イアで二泊してから、島の中心街のフィラにある別のホテルに移ったが、滞在中は雨に悩まされた。小降りになった隙に、フィラの北に接した高台の街、フィロステファニを訪れた。崖上の急斜面に張り付くように季節営業のペンションがいくつも造られている。終始喧騒に包まれているフィラの街と違い、ここでは5月始めは未だオフシーズンのようで、人通りも少ない。ペンキを塗って間もない派手な外装のホテルが、曇空の下、まるで大きな青いタコのように見えた。


エーゲ海のタコ

2009-09-22 | Europe ところどころ
前回、地中海沿岸地域では広くタコが食されていることを書いた。住民がタコを食するかどうかについては、住所や民族や宗教などはあまり関係ないのだろう。この広大な地域は、かつて一度はローマ帝国として束ねられていたわけだし、当時は、キリストもモハメッドも生まれてはいない。カソリックもオーソドックスもイスラムも、現在この地域で主に信仰されている教えのいずれもが生まれる以前から、住民は普遍的にタコを食べていたのだろう。

ローマ帝国の時代は勿論、大ローマが分裂した後も人々は巨大な内海、地中海を介して船で広く交流し、海産物を中心とした食材を用いた共通の食文化を築き上げたのだろう。狩猟文化圏である北部ヨーロッパとは全く異質の海洋文化圏。例外なのはユダヤ人。ローマ帝国より古い歴史のあるユダヤ教を信じる人たちは、今も鰭や鱗のないシーフードを食べることを禁じている。長い歴史を持つユダヤ教の教えが伝播せず世界宗教になりえなかったのは、戒律が厳しく独自性が強いこともあるが、とりわけ食生活における制約の影響が大きかったのではないか。つまりユダヤ人のみが、例外的にタコ、イカ、エビ、カニ、貝類や鰻を食べなかったせいかもしれない。

クノッソス宮殿に程近い、クレタ島イラクリオンの誇る考古学博物館で、タコの文様が描かれた壺が展示されていた。新宮殿期の紀元前1500~1450年のもので、パライカストロから出土。ユダヤ教すら成立していない時代の遺産である。壺いっばいに八本の足を広げたユーモラスな姿を見ていると、当時、タコは人々のご馳走だったに違いないと思えた。


ギリシアの山火事

2009-08-27 | Europe ところどころ
ギリシアで燃え続けている山火事が凄いことになっている。TVニュースではマラソン競技発祥の地マラトンに火が迫っている等、首都アテネの北東部の火事ばかりが報道されているが、実のところ山火事は三箇所で同時多発的に起こっている。煙は北からの風に乗ってペロポネソス半島や西エーゲ海にまで広い範囲に広がっている。


アクロポリスのマッス

2009-08-26 | Europe ところどころ


アテネ空港からリムジンバスでアテネ市街に向かったときの感覚、それはこの街を初めて訪れたときと全く同じであった。いつまで経っても、どこまで進んでも、アクロポリスの丘は眼前には現れない。そうしているうちにバスはシンタグマ広場に着いてしまう。

いつからだろう。丘はアテネのどこからでも見えるランドマークだろう。と今度もまた根拠なく信じ込んでいたのだが、古代とは違って現在、ビルの並ぶアテネ中心街から丘を一望のもと見ることが叶う場所は意外にも少ない。古代アゴラの周辺までやって来ると、前方に遮るものがなく丘の全貌を見ることができる。そしてこの方向から眺めたとき、セットバックしたパルテノン神殿も姿を現すのだった。

夜はもちろんライトアップされたパルテノン神殿を望むことができる。その神域というより石造りの城砦と呼びたくなる眺めは、極めて彫刻的であり、まさしく「マッス」である。そして見る者誰しもを圧倒する。木のない石のみの城砦は、われわれ日本人の美意識からなんとかけ離れていることだろう。


空港は地図右下の白い部分。アテネの北東部で燃え続けている山火事が心配です。

Athineon Politia

2009-08-22 | Europe ところどころ
アテネ・アクロポリスの丘から、日没を背景にして天文台のシルエットの見える方向に下りていくと、散歩を楽しむ人で賑やかな通りに出ました。ちょうど古代アゴラの西側を南北に走るアポストル・パブル通り。海の方へ緩やかな傾斜のついたこの通り一帯がティシオ地区で、オープンテラス・スタイルのカフェの並ぶ、パリかウィーンのような雰囲気なのです。一帯でひときわ目立っていたのは、Athineon Politia というカフェでした。遮るものなくアクロポリスを望むことができる立地がよいのはもちろんのこと、店内を大きな窓から覗くと、天井の高い開放的な室内にはアクロポリスを材にとった巨大な壁画が描かれていてなんとも楽しそうなので、休憩がてらコーヒーをのむことにしました。私はフレーバーコーヒーのアイス・フラペチーノを頂きましたが、スターバックスなんかより美味。このお店、味にうるさい日本に進出しても繁盛するんじゃないかな。と思ったりしました。



Athineon Politia のウェブサイトも見つけました。ここでかかっている断片的なギリシア語の歌が気になります。ホルガー・チューカイの「ペルシアン・ラブ」なんかとも似ていて、フルで聞きたくなりました。曲のタイトルをご存知の方がいらっしゃれば、ぜひ教えてください。