11月10日、もうそんなになるんだな・・と思います。
いつもだともっと寒いのですが、ことしはポカポカ陽気でよかったですね(^^)
さて、明日の御命日を前にして、高倉健さんの思い出のつづきをお話したいと思います。
健さんが、「四十七人の刺客」という作品で、大石内蔵助を演じられまして、
そのときの完成披露試写会の様子は、以前お話したと思います。
そのとき、まだ宣伝部にきてまもなかった私に、いろいろ励ましてくださったこともお話しました。
これにはもうひとつ、続きがありまして、雑談ではいろいろなかたにお話していますが、
健さんというひとが、いかにすばらしいひとだったか、あらためてお話して、
故人をしのびたいと思います。
健さんはわたしに「キミは、『四十七人の刺客』の初日は、俳優控室の係をやるの?」と、きかれたので、
「わかりませんけれども・・」とドキドキしながらお答えしましたら、
「じゃ、初日、お願いするね(^^)」とニコニコと話してくださったので、感激したかつらぎでした。
初日になりました。私はやっぱり控室係になりました。健さんがニコニコとされていました。
わたしは、俳優さんたちにお茶をだしたり、灰皿をすすめたりしながら、映画館のほうに行って、
「いま、お客さんたちがならんでます!」「いま、お客さんたちが映画を見ながら感激しています!」と
俳優さんたちに報告していたのでした。
健さんは、明るくみんなと談笑されながら、「よかったね(^^)」といってくださっていました。
すると、「〇〇君(わたしの本名)、ちょっとお願いがあるんだけど」と申します。
わたしが「ハイ、なんでしょう?」とききましたら、
「ちょっとね、宣伝部長と営業部長を呼んできてくれるかな(^^)」と
おっしゃいます。
下っ端の私にとっては宣伝部長も営業部長も雲の上の人だったのですが、
とにかく健さんのおっしゃることなので、
すっとんでふたりの元へ行きました。
で、もっと驚いたのは、宣伝部長(当時。いまはどうなったかはご本人の名誉もあるのでいいません)と
営業部長(当時。以下同文)が、ふたりとも真っ青になりながら、
健さんのもとにやってきたのでした。
このふたりをしても健さんは「超超超大スター」だということなのでした!!
ハラハラしながらわたしがみまもっていたら、
健さんがおもむろにきびしい口調でこうふたりにおっしゃいました。
「きょうの10時の『打ち込み』、全国でいくつだったか、全部報告してごらん!」
宣伝部長と営業部長は、もうそれはそれは真っ青になりながら直立不動で、
「日劇東宝で〇〇、渋東シネタワーで〇〇、梅田で〇〇、‥以上です、健さん!」
と報告していて、こんな姿をわたしは初めてみて、「健さんのオーラってすごい!」とおもったのでした。
すると、健さんは、しずかにこうおっしゃいました。
「・・・つまり、この映画の配収は(当時は配給収入でした。いまは興行収入です)〇〇億円だね?」
宣伝部長と営業部長は、「その通りです、健さん!」とビックリしていました。
「宣伝費はいくらだった?」と健さんがおっしゃったので、
宣伝部長が「・・・・〇億です」
健さんがはじめてニコニコして、「ふたりともよくがんばったね、お疲れさん(^^)」
とおっしゃったので、宣伝部長も営業部長も、大変ほっとしながら、帰っていきました。
わたしは、(´∀`*)ポッカーンとして、その光景を見ていました。というより、呆然としました。
なんで10時の打ち込み(10時に入る全国の劇場の人数と興行収入のことをいいます)だけで、
配収がわかるんだろう?!
わたしは健さんにたずねました。「なんで、10時の打ち込みだけでわかるんですか?!すごすぎです!」
健さんはニコニコと私に応えてくれました。
「ボク、だって、200本映画に出てるんだよ?そのくらいのこと、わからなくちゃダメでしょう!(^^)/」
というのでした。
「でもどうやって調べるんですか?」と私がさらにきくと、
「(´ー`*)ウンウン、じゃキミはまだ宣伝部にきたばかりだから教えてあげるよ。
まず、土曜日の映画の初日には、営業部に行って、全国の劇場の数字を見せてもらいなさい。
それから、前売り券が、全国の劇場でいくら売れたか、それも教えてもらって、
毎週かならずメモを取るんだよ。
そして、どんな年代層のひとが買っていったか、全部調べるんだよ。
それを毎週データをとっていくと、いまみたいに、大体、どの年代のお客さんが全国できていて、
どのくらいの配収になるか、わかるようになる。
それを毎作品続けていったら、君もいつかきょうの宣伝部長や営業部長みたいになれるぞ!
女の子だからといって、遠慮することはない、どんどんこの調子でがんばってね!(^_^)/」
わたしは、健さんが、まるで映画の神様みたいに見えました。
ただ、ロケのときに、みんなと一緒に立っていたり、コーヒーを淹れたりするだけではなくて、
映画ビジネスの発展を真剣に考えているんだなと、
大、大、大感激したのでした!!!
もちろん、次の月曜日から、猛然とわたしが、営業の数字をメモし始めたことはいうまでもありません!
「ありがとうございます!がんばります!」と私がいったら、
「おぅ!・・・でもこのことは、みんなにはナイショだよ(^^)」
と健さんは、ビックリするほどやさしい笑顔で
おっしゃってくださいました。
その当時で65歳。でも、ビックリするほど若々しくて、かっこよすぎる健さんでした。
そして、さっそうと、付き人の人たちを従えて、劇場をあとにされました。
わたしはいつまでも見送っていました。
・・・あれから、23年。
私は宣伝部長にも営業部長にもなれませんでしたが、
映画や演劇を愛する人間として、なんとか、健さんのすばらしいお話を
こうして、お話できる人間になりました。
健さんが文化勲章を映画人として初めて受賞されたときには
当然だと思いました。
だって、こんなにすばらしい人格の人なんですもの!
(ね?女性週刊誌とか、週刊誌がいかにウソばっかり書いているか、
わかりましたでしょう?超一流のひとは、性格も超一流なんですね!)
健さんの一連の対応からまなぶことはたくさんありましたし、
その宣伝部長も営業部長も、大変な栄達を遂げ、出世しました。
そのときの、健さんと宣伝部長と営業部長とわたしのひみつの会話で
それぞれ奮起したのだと思います。
日本映画は大変な隆盛をその後とげ、健さんは、きっと満足されたと思います。
「あなたへ」で最晩年も映画人として活躍でき、
本望だったとおもっています。
健さんにお子さんはいませんが、「健さんチルドレン」は映画人の中にたくさんいます。
すばらしい健さんの財産を、これからもかたりついでいきたいとおもっています!