拓庵思考~妻との日々・映画と音楽の毎日

巴座ホーム社長の私的なつづれ織り【妻にだけ弾くギタリスト 猫6人の父になる】

尾札部町のサトウシゲキ君

2021-01-28 18:13:54 | 日記・エッセイ・コラム

サトウシゲキ君の家を探しに尾札部町にレンタカーを走らせた。

 

高校の同級生でギターを演奏する彼は私のギター・ヒーローであった….

 

尾札部昆布は天然もので近隣の海は養殖の昆布。海の堺は見えないが…不思議だ。

 

私の高校は函館近郊からの下宿生も多く、シゲキ君は当時の南茅部の尾札部(おさつべ)町から来ていた。彼の下宿は高校の帰り道にあり、私の家からもさほど離れていなかったので同じクラスになった高校2年の時は毎日のように行き来していた。

 

巴座本社の傍の【馳走なか川】も使用する尾札部昆布。「宮内庁と関西方面に送っている」とシゲキ君のお父さんが語っていた….

 

シゲキ君の名前は佐藤茂樹。私は「しげき」と呼び捨てしていた。彼もまた「たぐ(たく)」と呼んでいた。

 

私の母はことのほかシゲキ君を可愛がった。うちの[母あるある]の相手の家柄や親を見て態度を変えるのではなく、愛想がよく挨拶や礼儀正しい佐藤茂樹少年を心から「シゲキ君だら(シゲキ君は)いい子だべさ」と言って「晩御飯食べていぎな(いきな)さい」と張り切って手料理をふるまった。

 

「おばさんの料理だら(料理は)なまらうまくてたまげます(すごく美味しくて驚きます)」などとシゲキ君が目を輝かせて話すものだから、いよいよ母のシゲキ君に出す料理も凝りだしてきた。そんな折、シゲキ君のお父さんが私の家に訪ねてきた。

初代HONDA LIFEたしかこれかN360の4ドアに乗っていた佐藤茂樹君のお父さん。車も外見も地味な人だったがシゲキ君には高額なギターをばんばん買い与えていた。

 

「お世話になります」シゲキ君の面影がある良く日焼けしたオールバックの眼光するどい紳士が玄関に立っていた。背丈より大きめサイズのグレーのブレザーに丈が短めの紺色のズボン。南茅部の訛り(なまり)を出さないように「息子がお世話になっています。ありがとうございます。」と母に話すシゲキ君のお父さんの姿勢があまりに良いので母は明らかに緊張して「なんも。なんも。(いえいえ)」とばかり連呼している。

 

シゲキ君のお父さんが静かに「これわだし(わたし)のところの漁業組合の昆布です」とかの、尾札部昆布を母に渡した。母も私もこの昆布の価値をまだ知らない….シゲキ君のお父さんは尾札部漁業組合の助役をしていたと記憶していたが…40年以上も前のことで定かではない。尾札部昆布はプレミアムな昆布で超一流ブランドな一品である。私と妻の大好きな日本料理のお店の【馳走なか川】の店主は大阪で修行していたので当然のごとく尾札部昆布でダシをとる。シゲキ君のお父さんが「尾札部昆布は大阪にごっそりいぐんだわ(行くんだよね)」と言ってたことを【馳走なか川】に行くたび思い出す。

 

 

尾札部や南茅部を舞台にした小説を映画化したのが2004年公開の【海猫】である。

伊東美咲を採用したのは原作のイメージが近かったのか….演技はイマイチな伊東美咲だが体当たりで頑張ったのも監督の指導がよかったのかな…

本当の函館近郊の漁師は真っ黒に日焼けしてかつ細マッチョも多い。おまけにイケメンも多く佐藤浩市はぴったり。

仲村トオルは大根役者のようで、たまに凄い役者に見える。この作品は微妙に前者の方かな…

函館近郊の漁村の磯船。子供の頃、椴法華町に嫁いだ叔母の漁師家族に何回も載せてもらった。けっこうな沖で野生のイルカに船を転覆させられそうになった怖い経験もある拓庵少年。

 

原作は谷村志穂で2002年の第10回島清恋愛文学賞を受賞している、監督は、函館を愛し函館を舞台にした数々の作品を残した森田芳光。当時内容よりも伊東美咲の濃厚な濡れ場が話題になった。主題歌は函館生まれ育ちのGREYのTAKUROの書下ろし【冬のエトランジェ】をMISIAが唄った。後にGREY自身もLIVE音源で披露している。

 

森田芳光監督は函館や函館近郊を舞台に4本作品を残している。森田芳光監督の有名な作品は1983年、松田優作主演の【家族ゲーム】。テレビでも何度も放送されたシニカルでバイオレンスでかつ笑えるブラックコメディー映画である。その他のヒット作は、薬師丸ひろ子主演【メイン・テーマ】、とんねるず【そろばんずく】、渡辺淳一のベストセラー【失楽園】、中居正広【模倣犯】(サスペンスを期待した原作ファンの怒りを買った)、ヒットはしなかったが私が驚いたのは黒澤明監督の【椿三十郎】のリメイク(三船敏郎の役を織田裕二が演じた)して大コケもした。黒澤明の作品を完全リメイクするとは世の中の批判を跳ね返す自信があったのだろうか。遺作は2012年瑛太と松山ケンイチ主演【僕達急行A列車で行こう】。C型肝炎による急性肝不全で61歳で他界している。

 

【海猫】は函館弁というか南茅部あたりの津軽弁も混じる浜(はま)言葉を佐藤浩市は饒舌に演じている。仲村トオルのなまりは全くダメだが東京の人が観たら違和感はないだろう。私の当時観た印象は、蒼井優の演技が良かったこと。2019年作品 中野量太監督 中島京子原作の【長いお別れ】の蒼井優も素晴らしい演技で私は感動した。原作は読んでいないが素晴らしい演出とカメラワーク。父親役の山崎務はいつも素晴らしい演技だが、次女役の蒼井優との応酬がとにかく良い。ちなみに長女役の竹内結子の演技が山崎務と蒼井優に比べ役者としての力量不足に感じたのは私の偏見だろうか….

シドニー行きの飛行機で涙して観た【長いお別れ】。光テレビで録画出来たので大画面で妻と観ることにしよう。

 

函館のマルハニチロのニチロビルディングには【cafe&deli MARUSEN】というカフェレストランがある。その中に函館を愛し函館を舞台にした作品を残した映画監督・森田芳光のメモリアルスペースがある。2020年11月12日に母と入ってみた。貴重な森田芳光監督の資料がたくさん展示していた….私の父はマルハニチロの前身 日露漁業の船乗りだった。学の無い父は努力して機関長というポジションで長い海外での捕獲航路を選んだ。なので私は父と暮らした記憶はあまり無い。その日、ニチロビルの昔のままのトイレに入り、一階ホールのR(アール)階段を見て昔の父との忘れていた記憶が蘇った。

 

父が苦悩していた時期がある。その時期の父は酒を呑んでは泥酔したり、母や姉に暴力をふるっては母を泣かせた。この話しは、また別の機会に丁寧に書くことにする。

 

マルハニチロのニチロビルディング。昔の呼び名は日露漁業。私の父も在籍した。父はこのビルで解雇を言い渡された。

 

父は日露漁業を解雇された後、その日露の紹介で小さい船会社に入った。オーストラリアやニュージーランドに漁獲するために長く洋上にいる生活は変わらなかった。そんな父が私とシゲキ君の学園祭での体育館でのLIVEを観に来たくだりは2018年11月22日にこの拓庵思考で書いた【海峡を越えて~『peeps hakodate』と『ピグノーズ・ギター』と号泣の『ボヘミアン・ラプソディ』】編にも記述したのだが、その学園祭にえらく感動した父はバンドメンバーを家に呼び自ら蟹を茹でて、食べやすいように振る舞ってくれたりお寿司をたくさん出前してくれたり、それはもうご機嫌だった。エレキギターを買うのに反対し、津軽三味線や演歌しか聴かない父の心を動かすほど、シゲキ君のギターソロや歌声や息子である私のスライドギターが良かったのか….そりゃそうだ。私も神保町花月や無限大ホールの息子のLIVEを見た帰りに、息子たちに会うと「飯食えな」と言って数万円渡すことがある。何故なら嬉しいからだ。父も今の私と同じ気持ちだったのだろう。

 

母の話しでは数年前に、シゲキ君が福祉の仕事で体の不自由な人たちを引率して温泉に来ているときに会ったそうだ。高校を卒業してからシゲキ君は浪人した。その後の彼の足取りはわからない。実家の住所も知らない。すっかり疎遠になり40年になるのだ。

 

「しげき君。元気がい(元気かい)」「あれ。おばさん」…と、軽く挨拶を交わしたらしいが….2019年に妻と帰省時に必ずレンタカーを借りるのだがその時はアイサイト3.5を掲載しているスバルのレヴォーグだったので遠乗りをしたくなった。「椴法華のミチコのどこ(ところ)でも、いげば(行けば)いいべさ」と母。ミチコは母の一番下の妹で函館時代は今の自由市場の北入り口の近くのお菓子屋さんで働いていた記憶がある。お世辞にも器量は良くないし、頭も悪い。北海道の南の田舎の中の田舎 椴法華と書きトドホッケと読む村(現在は函館市椴法華町)にお見合いで嫁いだ。見合い相手は高倉健の体型と髪型。顔は東映スター並みで『こんなハンサムな人がミチコおばちゃんの旦那さんになるの??』と子供ながらに驚いてぶっ飛んだ記憶がある。

 

ミチコおばちゃんの旦那様は萩野忠と書きハギノタダシと呼んだ。通称【タダシおじちゃん】である。タダシおじちゃんとシゲキ君のお父さん。シゲキ君もだが、あと南茅部近郊の木直(きなおし)町から下宿していた高校の同級生の芝井くんと小川くんも東映映画スターの風貌のイケメンというか当時の言葉で【ハンサム】だった。私は男子高だったのだが、姉の同級生のやはり函館近郊の漁村からの下宿生の女子も皆、絶世の美人だった。ハンサムなタダシおじちゃんとブサイクなミチコおばちゃんの子供は三人ともミチコおばちゃんに似てお世辞にも可愛いとは言えない容姿だった…

 

シゲキ君には妹がいて、シゲキ君と同じで歌声が素晴らしく鍵盤楽器も演奏できて音楽センスは抜群であった。シゲキ君とは顔が似ていない。どちらかというとシゲキ君が濃いめのアイヌ人のようなマスクで、そのせいか妹はサザエさんのわかめちゃん的な感じでまったく兄妹には見えなかった。これは私の姉たちにも言えることで私と全く似ていない。

レンタカーのレヴォーグで私と妻は母を乗せ「母さん川汲(かっくみ)廻って近い道できたらしいけど尾札部にシゲキ君の家探しに行こうぜ」と40年ぶりに尾札部町に向かった。レヴォーグは固い足回りだが快適ですぐに尾札部に着いたのだが、肝心のシゲキ君の家がさっぱりわからないのだ….

尾札部のバス停から少し歩き…こんな感じだったのだが….さっぱりわからず….

高校生の時は尾札部のシゲキ君の家に、このバスに乗ってギターケースを抱えて遊びに行った。

 

結局、シゲキ君の家が見つからずあきらめて長万部で毛ガニを食べようとレヴォーグを走らせた。車の中で南茅部の海や家々を見ながら母と昔話しに花が咲いた。もう一人の同級生の森町の白石田君の話の話しも出た。彼も元気かな….学習塾をやっていた時に一度訪ねたきりだ….

次姉と拓庵。入船町の長屋の前で。鎧張りの木造二階屋。二階は陽当たりが良く。次姉のしょうべん布団がいつも干してあり、ほのかにオシッコの匂いがしていた記憶がある。

 

顔が似てる似てないの話しだが…亡くなった父方の口の悪い叔父(通称ヨシおじちゃん)は「拓。お前。誰の子だ。フサちゃん浮気でもしたんじゃないか」と母に屈辱的な発言をした。私の大学1年の頃の話しだ。その叔父も私の尊敬の対象の人間ではなかった。5年ほど前に母から「ヨシおじちゃん死んだんだわ…あんた来てくれないがい」。ヨシおじちゃんは東京の竹ノ塚に住んでいたのですぐに行けるのだが、私は母に「まったく行く気はない。何故ならあんな人間に香典をあげ、合掌する気がないからだ」と言い、さらに「ヨシおじちゃは甥っ子に葬式に来てもらえないのは自業自得だ。俺の結婚式も近くにいて来れるのに来なかった。母さんのこともなめてるよ。俺は絶対行かない」と本当に葬式は欠席して、いまだに線香もあげていない。おそらく生涯ヨシおじちゃんの霊前に行くことはない。ヨシおじちゃんは父の仕送りで拓殖大学に進学した。その仕送りのせいで母はお金が無くて大変だったが、夫の弟なので仕方なく仕送りしていたある日、ヨシおじちゃんの東京の下宿先から「家賃を払ってください」と母に手紙が来たそうだ。

 

電話がない時代は手紙や電報で事実を知ることが多かった。驚いた父と母は東京のヨシおじちゃんの下宿に行くと、麻雀で負けて、こたつ布団に下着だけでくるまっているみじめな弟の姿があったそうだ….私の生まれる以前の話しらしい。父は随分とがっかりしたらしいが、なけなしのお金で下宿代を清算して服も買い与えたそうだが、お金がなくなり、ご飯を食べれず幼い姉たちはワンワン泣いて母は心底この父の弟を恨んだそうだ。だったらこの弟は兄の嫁のことを「浮気したんじゃねえか」などと言ってはならない。結果、最期は口がきけなくなる病で亡くなったそうだ….因果な話しだ….

 

ヨシおじちゃんが私の高校の時に、イトーヨーカ堂の警備本部で少し偉くなっていたようで函館郊外の新店舗出店で来ていたときにギターケースを抱えていた私とシゲキ君を軽蔑したまなざしで見ながら「そんなものやって….」と小声でつぶやいた言葉を私は聴き逃さなかった。シゲキ君は性格が善いので気にしていなかった様子だった。「拓。お前。ちゃんと勉強してんのか!しっかり勉強して、いい大学は入れ!」と言い5千円か1万円を出し「俺は兄さんに世話になったからな。お前に返す」と本当に苦労させた母の前で偉そうに私にもったいぶってお金をくれたのだった。

 

2020年11月12日このニチロビルディングのカフェレストラン【MARUSEN】の森田芳光メモリアルスペースに一番近い席で期待したほど美味しくはない珈琲を飲みながら母に「ヨシおじちゃんの葬式に行かなかったのはさ….」と、大学時代毎回会うたびに言われた「拓。お前は誰の子だ」の話しを初めて話した。母はさほど嫌な顔もせず聞き流していた。「あんたは昔っから お父さんにもあだし(わたし)にも似でないっていわれでだ(言われてた)から…..」と普通に話す母。「母さん。この日露のビルに父さん呼ばれてさ、クビになったでしょ?俺そんとき(その時)いたんだよ」と話したときのほうが驚いていた。「日露のビルから出てさ。怖い顔して真っ直ぐ市役所の方に向かって歩きだしたんだ….」と話すと母は「うそ…なんであんたがいたの?さ….」

 

正直、私も還暦になり記憶が曖昧になっているが、そんな大変な日に松風町で父からレコードを買ってもらった。何を買ったかはもう覚えていない。映画のサウンドトラックか、映画主題曲集だったか….父が日露から呼び出され電話の受け答えの顔を見て嫌な予感がしたので、父が心配になり勝手に父に「俺も一緒に行く」と言うと父は「おお。」と一緒に出掛けた。駒場車庫前の電停から市電に乗りどこで降りたかは覚えていない。とにかく私は日露ビルの一階で父を待っていた。

函館の現在の松風町。シゲキ君とこの前の森文化堂で良く立ち読みをした。赤帽の路地を入るとレコード屋さんがあったような記憶がある。そこで父にレコードを買ってもらった。

松風町電停の並びには東映があり【仁義なき戦い】を観た。シゲキ君とギターケースを抱えYAMAHAのスタジオへ練習にいった。

 

シゲキ君はギターの神のようにギターの達人であった。

 

当時のギターの神はエリック・クラプトンではない。早弾きができなければならない。クラプトンはそんなに早く弾かない。ギター少年がコピーすることをあきらめるほど絶望的なテクニックのギタリストが真の神なのである。で、神は誰か。それはラリー・カールトン(クルセイダーズ脱退後) ジェフ・ベック(BBA時代 ベック・ボガード・アピス) チャー(デビュー当時)の三人である。

ギターの殿堂入り曲の【Room335】を高校生のシゲキ君は余裕で弾けた。私はいまだに全部は弾けない。

【スモーキー】はシゲキ君の得意曲。男子校の卒業生を送る会でこの曲をシゲキ君が弾くと不良の先輩たちも黙って聴いた。私もそのバンドのメンバーだったがリズムを取るのがやっとだった…

チャーもコピーしていまだに弾いている【ジェフズ・ブギ】は難曲中の難曲。シゲキ君はいとも簡単にコピーした。私は目の前でシゲキ君の指使いを凝視するしかなかった….

 

松風町や大門広小路には当時YAMAHAのスタジオがあり、楽器もたくさん販売していた。私のフェルナンデスのハーフトーン5スイッチのオールドモデルのストラトキャスターもここで買った。シゲキ君もヤマハの最新型のギターを買った。シゲキ君はさらにラリー・カールトンやリー・リトナーや大村憲司などが使うGibson(ギブソン)社ES-335をお父さんから買ってもらった….グレコやYAMAHAのコピーではない本物だった。安くても30万円は、くだらない当時のES-335を高校生のシゲキ君は買ってもらったというより、弾けるテクニックを持っていた。

 

尾札部の漁業組合はお給料が高いのかなあ….と高校生の私はいつも考えていた。シゲキ君のお父さんは小さい車でいつも同じ格好をしているがドカーんと買う。かっこいい。さらにFender(フェンダー)社のテレキャスターもシゲキ君に買い与えたのだ….私は父に反対され雪の中、郵便配達をしてお年玉も加えてやっとの思いで7万円を貯めてのフェルナンデス社のコピーのストラトを買ったのだった…..私のストラトはアメリカ製のブースターを輸入して、函館の田家町にあった【ホワイトルーム】スタジオで付けてもらったがその後壊れて何十年もの間、車庫で弾かずに放置されていた。

2019年。館林のギター工房で私のストラトは40年の時空を超えリペアで蘇った。しかもエリック・クラプトンの【レイラ】のブラウニー仕様にダメージ塗装も施した。リペア代は買った当時の金額を超えた。 最高に満足で、今は弾かずに巴座プロテインBARに飾ってあるが誰も興味が無いのか、何も言わない。

 

当時の面影が全く無いまるきん。

あまり値上げしていない努力は素晴らしい。高校時代の値段に比べてだが…

 

まるきんの焼きそばの肉大をYAMAHAのスタジオの練習のときによく食べた。8年前に訪ねて食べたがまったく感動はしなかったが青春の思い出でである。今回の帰省で訪れてみたが定休日であった。シゲキ君とは喫茶店でスパゲティナポリタンやカレーライス、和光デパートやサイカデパートの地下でラーメンも良く食べた。函館市民体育館の当時あった五島軒のAランチやBランチも好きだったな….

ストリップ劇場のフランス座のあった場所

このあたりにYAMAHAのスタジオがあったのだが….

 

フランス座というストリップ劇場が、日活ロマンポルノの劇場の同じ通りにあり、焼きそばまるきんは日活の裏手にあった。フランス座の前を東に向かい左に曲がるとYAMAHAのスタジオがあった。スタジオは歩道に面していて。私の長姉も良く歩道から私とシゲキ君のバンドの練習を見に来た。たまに女子高生も見にきていたがシゲキ君のファンがほとんどだった。私はシゲキ君と一緒に演奏できることが何より幸せだった。なにせギターの神が目の前で弾いているのだから….

 

昔の函館の同級生に連絡をとるすべが無いのは、私が故郷の友人を大切に思っていなかったからだと思う。還暦になり、人生に余裕が出て、かつ歳を取り昔が懐かしくなったのだと恥ずかしながら認める…

 

だからシゲキ君に、このブログを通して手紙を書いてみることにする。では以下に続く。

 

 

『  佐藤茂樹君お元気ですか?

おじさんとおばさんはご健在ですか?

私は群馬県の高崎市で一緒にマーティン・スコセッシ監督のザ・バンドの【ラスト・ワルツ】を観た巴座の冠を頂いた名前の会社を経営しています。

妻はとても優しい女性で私にとっては世界一の美しい人です。一般的には普通の顔ですが妻はスタイルがクラプトンの【E・C Was Here】のジャケットのくびれたボディのモデルの女性と同じスタイルの日本人ばなれした体系で、とてもオシャレでパリの街やニューヨークの摩天楼でも絵になる自慢の妻です。

子供は三人授かりました。末っ子長男の息子は5年目の吉本芸人で【衝撃デリバリー】の杉本佳津山(すぎもと かつやま)と言います。最近テレビにちょこちょこ出ていますよ。次女は私の面白い性格や感性が似ていて二児の母で、私の会社で広報を担当しています。長女は真面目ですが二児でバツイチです。

ブリティッシュ・ショートヘアの雄と雌の猫ちゃんが二匹いて、もう めんこくてめんこくて猫ちゃんたちのためにキャンピングカーを買いました。そのうち函館に猫たちとキャンピングカーで遊びにいきます。

私は相変わらずROCKを聴いています。私の会社巴座では音楽堂という部屋があり朝から夜までJAZZやフュージョン音楽が流れています。高校生の時、買えなかったギターも腹いっぱい買いました。実はこの3年で12本も買いました。

弾かないで飾ってうっとりしながら見つめています。ショーケースに入っていたギターが自分のものになりました。幸せです。茂樹はギターまだ弾いてるの?

俺さ、昔よりうまくなったわワ。レイラも335もリフが弾けるようになったよ。スライドは下手になったな….デレク・トラックス観に行ったよ凄かったわ….感動してGibsonの本物のSG買ったんだよ。ミーハーだよな。

セミアコはGibsonでは無くアイバニーズ買ったよ。ジョージ・ベンソンもアイバニーズだし、昔はイバニーズって呼んだよね。セミアコは難しいけどいい音するワ。セミアコの練習でアコギ買ったらハマってしまってマーチンよりいい音する九州の久留米のアストリアス・ギターの大戦前モデル買ったらそればっかり弾いてるよ。妻が毎晩聴いてくれるんだ

『パパ上手ねー』って褒めてくれるからさ、嬉しくて張り切って弾いているよ。母さんは、嫌な顔して俺のギター弾くの見てたよなあ…

茂樹。俺、本当に高校のときよりうまくなったよ。また会って演奏しよう。耳も衰えていないよ。いつでもなんでも即興で弾けるよ。昔の俺たちの様にね….

自慢したいから俺のギターの写真見てね。本物のアメリカフェンダーのストラトも買ったんだよ。ストラトだけで3本買ったよ。アホだろ?

ジミー・ペイジのドラゴンペイントのテレキャスターも狙ってるんだ。弾かないで飾るんだ。

後、俺は60歳台のボディビル系の大会も出たいと思い、自宅にゴールドジムばりの設備入れたよ。俺さ、大学で少林寺拳法一筋でギターを捨てたんだ。でも少林寺はかなり極めてたよ。知らなかったろ?LAのゴールドジムも行き、マッスルビーチでトレーニングもしてきたんだ。結構マジなんだ。

今はお酒は飲まず、タバコも吸わず、ギャンブルもせず、ゴルフもせず、妻と一緒の会社で朝から晩まで一緒にいて、帰宅してからもずっと一緒にいます。俺的には、とても幸せな毎日です。

この40年間でうまくいかないときもたくさんありましたよ。でも妻がいるから一緒に頑張ってこられました。これからの人生は、いろいろな恩返しをしていきたいと思っています。

茂樹。元気ですか。

茂樹。いつか会おう。今どこにいるかもわからないけど。また会おう。

俺の自慢の妻と会ってほしいからさ。

うちの母さんまだまだ元気で、しっかりとボケないで生きてるよ。今年90歳になる。遅ればせながら親孝行でちょこちょこ帰ることにしたからさ、もし会えたらさ、ギター弾こうぜ。サウンド・パパでスタジオ借りてさドラムやベースも誰か入れてセッションしたいよね。延々とブルースを30分くらいジャムってさあ。クラプトンとオールマン・ブラザース・バンドの未発表テイク集みたいにさ。聴いたことあるか?すごいよ。カール・レイドルのベース盤も聴いたよ。最高だった。

懐かしいから、まるきん焼きそばも行こうか。3年前にコイケカレー食ったよ。昔と同じだった。美味かった。しばらく口の中にカレーの味が残ってた。今、コイケの息子のニセコイケカレーもあるんだね。騙されそうになったワ….

高校のときさぁ、カリフォルニア・ベイビーで俺がタバコ吸ってさ、シスコライス食べてる途中で追い出されたな…あれは、俺が悪かった。ごめんな。カリベビで結局、シスコライス食っていないけど今度こそ食べよう。楽しみだな…..

茂樹。必ず会おう。

せば。せばな。この言葉40年ぶりに使ったよ。函館人の言葉だよな。

いつか必ず会えることを祈って。

拓       合掌    』

 

 

 

 

YAMAHAの小さいモデル。

エピフォンのレス・ポールと中国生産のフェンダー・スクワイヤのテレキャスター

アイバニーズのセミアコ。フェンダーUSAの最新のストラト。メキシコフェンダーのパワーキャスター。

アストリアスのDプレ・ウォー。マーチンD45の第二次大戦前モデル。最高の音色にしびれる。現行のマーチンよりはるかにイイ。

エフェクターも随分買ったがまったく使わない。ブルースにはいらないよね….

 

【尾札部町のサトウシゲキ君】  完


じじちゃんの馬の入れ墨~港町はこだてブルース

2021-01-21 18:10:23 | 日記・エッセイ・コラム

じじちゃんの左の腕には入れ墨が入っていた。【じじちゃん】とは私の母方の祖父で函館で船乗りをしていたらしいが、4歳くらいからの記憶では昼間っから酒を飲んでるふしだらな人だった.

函館ドッグの港から父の船出を泣きながらみつめる拓庵少年(3歳)とじじちゃん。ケンカをしたのかいつも眼帯をして酒臭い人だった….

 

【山田三治】と書き【ヤマダサンジ】と読む。麦わらの一味のサンジと名前だけ一緒だ。昔の小学校の土曜日は4時間授業で給食は出ない。お昼の家ご飯が嬉しくて急いで帰宅すると、じじちゃんが日本酒のコップを持ちニヤリとして孫の私に「お帰り」や「大きくなったな」もいわずにじーっと見てるのだ。母に「かあさん!早くメシ!」と今思えば麦わらのルフィがサンジに言うようなセリフ「おおー!うめ~!」「もっと食わせろ!」を連呼する大食漢な小学生であったので当然土曜日は空腹マックスなのだが、じじちゃんが来ている日は母がいつもの母ではないのだ。

 

じじちゃんの酒のつまみをせっせと作り私の昼めしは作ってないのである。クソガキな拓庵少年は「はやくしろッ!おせーよ!」とわめくのだが、じじちゃんは母に吠える私をつまみにニヤケて酒を呑んでいるのだ…下水道になる以前の函館は汲み取り式でバキュームカーを見るのは日常であった。汲み取り時代の便所はトイレとは呼称したくないような世界で、寒い冬の毛糸セーターに大便やアンモニアの臭いは強烈に服に付く。当然小便器のオシッコの臭いも残る。じじちゃんが日本酒を吞むときと父や叔父さんたちが日本酒を呑むときの便所はアンモニア臭で鼻が曲がりそうになる。だから大人になったら日本酒を呑む人間にはなりたくなかったが、大学の体育会少林寺拳法部であった私は19歳から21歳までは【剣菱(けんびし)】という日本酒を強制的に吞まされることになるのだが….

 

巴座本社のある高崎市和田町は古い下水道計画の名残なのか、排水勾配を計算できなかった当時の水道設備業者の知識が浅かったのかよく下水がつまるのである。私は巴座本社の下水のつまりをときたま直す。つまりウンコの山やトイレットペーパーの山のつまりを見ながら長い棒で押し出しホースやバケツで水を流し詰まりを直すのだが、お隣りさんや二軒先の排水も詰まっているので何も言わず直すことにしている。今の若い人は汲み取り便所を知らないのでおそらくウンコの山を見て気持ち悪くなるだろう….函館入船町の函館山がよく見える港近くの長屋の共同便所は外にあった。冬は凍れて(しばれて)外に出たくないのでオシッコをしたくても我慢した。次姉は二日置きに寝小便をして、姉の布団に入るとオシッコ臭かったなぁ….

長屋の共同外便所 拓庵4歳(かな)便器の穴の下に大便や血・茶色のちり紙の山だったな….

1964年頃の正月。父の足元は雪用の下駄。姉も私もタイツの下にももひきをはいている。母は私にだけ丸井今井デパートの服を着せて、姉たちの服は編み機で編んだもの。母は私を格別にひいきして育てた。

2020年11月12日に函館に帰省した際に入船町長屋に行ってみた。長屋は解体されていたが私が毎日座ったこの船を縛るボラード(係柱~けいちゅう)は健在だった。

 

母はじじちゃんにとっては初子で可愛くて仕方がないようだった。午年(うまどし)生まれでサンジだから走る三頭の馬の入れ墨を左腕に入れたそうだ。全力で走っている競馬のゴール直前のムチをいれられて飛んでいるかのような駆けている馬の絵だった。母いわく「いきがって入れたんだべさ」…..どう考えても苦しい言い訳だと保育園児の年少の頃から思っていた。私は函館の入船町のイカ釣り船の港まで徒歩30秒という貧相な長屋で育ったので毎日船乗りさんを見てきたが、入れ墨を入れていた大人はほとんどいなかった….だからじじちゃんのことは4歳ころから軽蔑していた。入れ墨のことは小学生になり銭湯に行って判明した。軽蔑の理由はその人間性にあった。そして遊んでもらったことも、お小遣いももらったことはない。

 

妻のばばちゃんは入船町の港の前のイカの塩辛の水産加工場で働いていた。印象といえばいつもネッチョリした目ヤニがついていて強烈なイカの塩辛臭がした。それでも「たっこちゃん。たっこちゃん(拓ちゃん 拓ちゃん)」といい始めての男の子の孫の私に幼少期から死ぬ直前までお小遣いを渡してくれた。私と妻の結婚式に函館の浜育ちのイカの臭いのばばちゃんが東京渋谷のど真ん中に降り立ち私を見て「いや~立派になったべさ」と嬉しくて泣いていた….妻のことは「ねえさん。ねえさん。たっこちゃんのことよろしぐな」と妻の手を取り拝んでいた….ばばちゃんは私にとってのタニマチなのでなんでもねだって買ってもらった。じじちゃんは銭湯で「カツゲン買って」といっても無視してひとりで先に帰るような人間だった….ちなみにカツゲンとは北海道ローカルのヤクルトの前進のような乳酸菌ドリンクである。

松田聖子音楽の最高傑作【ユートピア】1983年6月1日発売。発売日に函館玉光堂でLPレコードを購入したな…

ヤクザな父と無教養で働き者の母の元に生まれた私の母の旧姓は山田フサ子という。そう私の母さんである。現在89歳で頭はすこぶる元気である。母には入れ墨の父のほかにアル中の弟もいた。このアルコール依存中毒症の叔父のことを【しげるおじちゃん】と呼んでいたがこの弟には母は実に厳しく接していた。私の母は人を見てつきあいを変える傾向があり、かく言う私の最愛の妻が大学3年生の時、初めて函館の地に着いた折に当時流行っていた松田聖子のアルバム【ユートピア】のジャケットの髪型(ブロンド色)で家に連れ行き紹介するとだ、なんと母はじろっと風紀委員の先生みたいな偏見に満ちた目で妻を上から下まで目で軽視のレーザービームを浴びせたのである…..よくもまあ入れ墨の父とアル中の弟とイカ臭でネッチョリ目くその母を持つ身分で人を軽視するもんだと思う。ちなみに後に母は妻の教養あふれる両親と会いコロッと態度を改め、今では「ゆうこちゃんの贈り物はセンスよくてみんなにほめられるべさ」とぬかしている。

 

横道をそれるが松田聖子の名盤【ユートピア】はCBSソニーのらつ腕プロデユーサーM. Wakamatsuの傑作で、アレンジは大村雅郎・細野晴臣・瀬尾一三・松任谷正隆。ギターは私の崇拝する松原正樹をメインに名曲【マイアミ午前5時】では今剛のツインギター、太いベースは美久月千晴、ドラムを島村英二など当時の音楽の志の高さが現代でも私の耳を魅了する。

 

ヒット曲【天国のキッス】はギターの鈴木茂の唯我独尊の奏法・細野晴臣のベーシストとしての本気・音楽家としての狂気の世界で構成されているがアイドルでもあった松田聖子の音楽が高度であるとはミュージシャンしかわからない世界であろう…【ユートピア】の人気曲は【セイシエルの夕陽】【秘密の花園】【天国のキッス】【マイアミ午前5時】だが、拓庵思考としては【赤い靴のバレリーナ】を2020年紅白歌合戦でも披露された【瑠璃色の地球】と匹敵する名曲として拓庵プレイリストの殿堂入りに認定している。この佳曲【赤い靴のバレリーナ】作詞松本隆・作曲甲斐よしひろ・編曲瀬尾一三 甲斐よしひろ自身がセルフカバーしているそうだが私は聴く予定はない。この曲はアコギの神であられる吉川忠英先生が至高の演奏。松原正樹先生のギターこれまたやばく…数年前にSONYのハイレゾ版を聴いたが弦を抑える左指と右手の妙はゾクゾクしたものだ….この【ユートピア】をレコードステレオからカセットの録音して当時の私の愛車のISUZUピアッツァに後付けしたクラリオンのカーコンポで大音量で再生しながら【はこだて午後23時】にひとりで狭い函館市内を延々とドライブしたっけな…..サンミュージックに所属していた時代の松田聖子のアルバムは初期の二枚以外はアイドルの音楽ではなく、へたなJ-POPアルバムより秀逸。サンミュージックを退社した後の、松田聖子音楽はただの松田聖子の自己満足音楽でよほどのファンでない限り【お耳汚し】とはこのことである。

 

妻は私が大学卒業した年に函館に来てくれた。当時妻は大学3年だった。その翌年大学4年の妻は私のお嫁さんになった。妻の父が理解の善い方というか深い愛情と考察の末、大学生だった一人っ子の妻との結婚を快諾してくれた。「結婚させてください」妻の母の顔はひきつっていた….そして妻の父は笑顔の和装姿で若造の私に折り目正しく「拓君のような素晴らしい人と結婚できて幸せだ」との言葉をくれた。私はこの時に妻を死ぬまで愛し幸せにすると自分に約束した。もちろん60歳になった今も私は妻を死ぬほど愛している。

 

妻の高崎市立佐野小学校低学年と思われる写真。妻の父は顔良し・頭超良し・性格これまた良し。かつ紳士で私は義父の喪主を務めた。26歳の暴れん坊の婿を自社の社長に任命した勝負師の義父。会社を興す前は沖電気の設計士だった。私が設計ができる建築家になったことを知ったら喜んでくれるだろう….

1966年の大沼公園で母と。湯の川カトリック幼稚園は駒場町の私の家の目の前にあった。母は背伸びして私をこのカトリック幼稚園に入船保育園から編入させた。私はいつもブレザーを着てスリッポンをはいている。母の私への深い愛情を感じる。決して裕福な家庭ではなかったので…

 

函館の入船町の長屋育ちの拓庵少年は文教地区で公務員居住地区の駒場町に引っ越すのは入船保育園年長の時で湯の川カトリック幼稚園に編入した。『マーリア様マーリア様イエズス様のお母様~』と毎日マリア様に合掌するバラ組の園児になったのだが、家から徒歩20秒で幼稚園の門をくぐれた。

園には函館弁のシスターがうようよいた。「たぐちゃん!はんかくさいことしないの!」とよく怒られた。卒園後もシスターが窓を開けて「たぐちゃん!」と笑って「元気がい?」と声をかけてくる。【いか】【にく】を【いが】【にぐ】と濁音がつくのが函館弁で【たく】が【たぐ】になる。【たぐちゃん】となり年寄りは【たっこちゃん】と呼ぶ。

 

たぐちゃんの小学校1年の秋にじじちゃんが死んだ。

 

涙は出ない。そう一滴も出ない。悲しくもない。30代になり群馬人になり母から一本の電話がくる「たぐ。あんた。ばばちゃん死んだんだわ…葬式これるがい….」私は間髪おかず「行かない。行けないな。今度帰ったら線香あげるよ」といいすぐに電話を切った。やはり涙も出ないし悲しくもない….私がひどい孫なのか、はたまたは孫に涙をながさせないじじちゃんとばばちゃんの人徳が無いのか….

 

じじちゃんの家は、狭くボロイ二階のある借家はいつもスルメや海産物のすえた匂いがした。水道水も不味く行きたくなかったが行くと必ず平成天皇と美智子妃の結婚式の額に入った写真と阿倍仲麻呂の万葉集の句が焼き付けてあるガラスのコップを眺めた。じじちゃんの家の斜め前には大正湯があった。のちに映画にもなる、私にもっともそのフォルムと色を刷り込んだ大正時代の傑作建築物の公共銭湯である。

函館大正湯。2020年11月12日撮影。この前でよく遊んだ。銭湯にも何度か入った記憶があるが熱い湯だったな….

 

大正湯があるじじちゃんの家の西側に宮田さんという、質屋を営む蔵のある洋館があった。この家の外観と室内や家具も幼い私に強烈な影響を与えた。

建築様式はヴィクトリアン様式で蔵の漆喰は黒で相当に凝った建築であった。黒光りしている無垢の床は今思うと3センチ以上ある北海道杉かと思う。

蔵の中には昭和初期のビクター社の蓄音機もある。ステンドガラスの蛍光灯や装飾灯やシャンデリアもあった。

そこの品のよいお嫁さんは「たくちゃん」と発音して言葉も標準語だった。遊びに行くと明治製菓の発売されたばかりの新感覚キャラメルのチェルシーをくれた。当時森永のキャラメルとフルヤウインターキャラメルがはばを利かせていた中で明治製菓はイギリスの地名チェルシーのネーミングでジャケットはフラワーサイケデリックだった。考えたら明治乳業のアイスクリームもパッケージもマルチカラーのドット柄でサイケデリック・ポップだった….昔のデザイナーはかっこいい作品を世に出している。

 

 

 

じじちゃんが唯一買ってくれた記憶のある鉄人28号のおもちゃ。横山光輝氏の漫画の【鉄人28号】のフォントに興味をもち絵にタイトルやフォントを立体で描くことを覚えた。他に影響を受けた漫画は、手塚治虫の【鉄腕アトム】【ジャングル大帝】【スーパー・ジェッター】【ビッグX】のフォントもかっこいい。入舟町の長屋でばばちゃんが「たっこちゃん帳面買ってきたよ」と私があまりに絵を描くのでノート(当時は帳面と呼んだ)を大量に買ってくれた。

ウルトラマンとゴジラに夢中になる前の私のヒーロー鉄人28号。このブリキのおもちゃでいつも遊んだ

鉄腕アトムも大好きだった。4歳くらいの函館公園のお花見でアトムのお面を買ってもらった。

昭和30年代後半にしてこのフォント(字体)かっこいい!

今思うとスターウォーズのルークのランドスピーダーにそっくりだ。手塚治虫は凄いな…

ナチス兵のモチーフか…これもスターウォーズの帝国軍の服やベイダーを連想する。ルーカスは黒沢明が好きなので手塚治虫にも影響うけたかも….考えすぎかな…

2020年11月11日 函館の至宝’ラッキーピエロの目と鼻の先にコメダ珈琲登場。嬉しいけどコメダ珈琲の安っぽいレンガ張りが陳腐で函館のレンガ倉庫街の中でみじめに見えた。peepsはこだての吉田編集長は卵サンドトーストを良く食するらしい。私は小倉トーストが好きだ。

 

 

函館の建築物は私に多大なる影響を与えている。【大正湯】を筆頭に母が私の服を買いに通った十字街【丸井今井デパート】【函館公会堂】などあげたらきりがない。

函館 旧丸井今井デパート 函館は大正時代に関根要太郎が傑作を函館と川越にたくさんの偉大な建物を建築している。この丸井今井は関根風であり、私も大好きな建築物である。

大正湯。映画【ハコダテ人】監督前田哲 出演宮崎あおい 大泉洋の舞台にもなる。 映画の内容はノーコメントかな…..

函館公会堂(旧箱館奉行所)駒場小学校6年生の拓庵少年写生大会でピンク色時代の公会堂を人生で初めて真面目に描き何年も校長室に飾られたらしい。飾っていないなら返却して欲しいかな….

 

初めての北海道新幹線での帰省は2020年の11月だった。高崎から大宮までグリーン車、大宮から新北斗駅までグランクラス。グランクラスは飛行機のビジネスクラスの様な座席とサービスなのだか、私はお酒を呑まないのでコーヒーを2回お願いしたが、豆も酸化してなく美味しく頂いた。

 

新北斗駅からはレンタカー、ホテルは新築のセルフチェックインで細心の注意の元母の見舞いに行った。【東京・埼玉・札幌の方お断り】と懐かしい喫茶ハワイの張り紙を見て『ここは田舎根性丸出しの自分の帰る場所ではない』と悟った….それでも母は喜んでいる。「ホテルに泊まるよ俺」それでも母は嬉しいのである。痛いはずの足をひきずり閉店間際の誰もいない自由市場でホッケ、ニシン、カレイ、筋子を買うのを付き合ってくれた。店には入らずせめて家でご飯を食べるためだ…「毛ガニ食うか?」と尋ねると「いや~あんた…たがくて(高くて)買えないべさ….買ってくれんの?いや~嬉しいわ」とニコニコしている。

 

母がホッケを焼いている間に湯の川の生協にワインを買いに行った。雪が舞い少し子供時代に返ってた感じになった。母が好きなブドウや果物も山ほど買った。「母さんたくさん買ったから喰えよ」「いや~悪いべさ…ありがとう」台所に入ると見事に老朽化した台所であった。ここで食べ盛りの私の幼稚園年長から高校3年卒業まで大食漢のわがまま息子のメシの支度を不自由な体で頑張ってくれていたのかと思うと切なくなった…。台所にはあの、ばばちゃんやじじちゃんの家の匂いがした。スルメのすえた匂いだ….「生ごみくせえな母さん」というと「なんも。ヘルパーさんが2週間に一回ゴミ捨てしてくれるべさ」と母がいう….私の住んでいたころは味噌汁やコーヒーの香りがしていたのだが….

 

「母さん。新幹線だと大宮から4時間かかんないからチョコチョコ来るよ。嬉しいべ。だから寂しいとか人にこぼすなよ」と言うとすっかり老いた89歳の母は静かに笑った「あんた忙しいべさ….」 それでも私は「なんも。来る。孫もつれてくる。待ってろ」と告げた。二泊して「帰るぞ。時間だ」といいレンタカーに乗り込み車を出すと湯の川カトリック幼稚園の門がある市電の道路に私が右折するまで家の前で見送っていた….今このブログ拓庵思考を描きながらその時の小さくなる母のことを思い出しウルっときたので電話をしてみた。聞けばその後、寒波で水道が壊れ修理費に40万円かかってショックだという…寒波のせいもあるが老朽化であるのは明白だ。私が近くにいるならすぐに直してあげられたし、ともえ座の家なら氷点下でも暖かいのに…と現実離れした妄想も頭をよぎった。「母さんの郵便局の番号おしえろ。少しカンパするから。落ち込むな。楽しいことだけ考えろよ」といい近くの郵便局から母に水道修理代のカンパを送金した。

おそらく湯の川カトリック幼稚園の卒園式。拓庵少年と母。背広は親戚の洋裁の出来るおばさんに仕立ててもらった。

大学2年の冬休み帰省時。拓庵20歳と母。駒場町の実家で。この感じだと私の友達が来て写真を撮ったと思う。母とはこんなにくっついた記憶がないので…

 

私にはまだ母がいる。妻は20代で両親を亡くした。そして私も孫のじいちゃんである。私の孫たちはじいちゃんが死んだら私のように泣かないのだろうか….それもまた仕方がないかと思うし、別に気にもとめない。私は孫たちのタニマチだから…

2020年11月七五三。高崎山名神社でiPhonで撮影した孫たち。着物は娘と息子のもの。小さいアイリッシュ・セッターは息子が履いていたもの。

2020年11月12日函館見晴公園(香雪園)母と紅葉を観る。母の後頭部を見て『老い』を痛感した。

この公園は夏は蝉取り。冬はソリ遊びをした。駒場町の家から自転車や歩きで行った。元気だったんだな…すごく遠いから….

 

今、ORLEANS(オーリアンズ)【LET THERE BE MUJIC】【WAKING AND DREAMING】を聴きながら執筆しているのだが、高校の時 個人誌【蟻巣(ありす)プレス】だったか…名前が思いだせないが米田さんだったか….ラジオのDJでアメリカンロックに詳しい方に手紙を書いたら返事がきて手紙のが最後に『オーリアンズのWAKING AND DREAMINGを聴きながら』と書いていた….とても心のこもった達筆な文書だった….米田さんお元気ですか?私は今でもROCKしていますよ。

 

 

名曲になった『ダンス・ウィズ・ミー』が収録されている。『時がすぎていく』が当時好きで何度も聴いた。ツインのストラトキャスターがたまらん。ジョン・ホール派とラリー・ホッペン派に分かれるが、私はギターテクはジョン・ホール。歌声はラリー・ホッペンが好き。

とにかく前作より重厚になったサウンド。ツインドラムになりアサイラム・レーベルはこの時期に傑作を多く輩出している。私は前作が好きだ。でも….全員汗くさそうだな….

 

 

還暦になり初めて書いた拓庵思考。いつか出版したい自伝の原稿と思い書き始めたらブログらしからぬ長さになっていますが一部の方しか読まないのでこれはこれで読みものとして楽しんでいただけたら幸いです。

 

毎日が新発見の入船町の長屋時の幼少期。知識と趣味が違いすぎて友達付き合いがかったるかった小学生時代。映画三昧の中学時代。高校のギター少年時代…..どれも私の大切なこと思い出であり、こんにちの私を作り上げた記憶たちである…..

 

じじちゃんの馬の入れ墨~港町はこだてブルース】  完