「祈」 約束の場所へ、君と
第58話 双壁side K2 act.17
“Eeger” その北壁の別称は「mordwand」死の壁。
そう呼ばれる現実を今、ナイフリッジの風に自分も見た。
常にまとう風の衣を動かして、近寄った者を気まぐれに払い落とす誇り高い山。
その気まぐれに今、自分のアンザイレンパートナーは捕まりかけ「山」に眠る死へ攫われかけた。
―どうして俺のアイザイレンパートナーは風に捕まる?気まぐれな山の風で、雅樹さんは…
槍ヶ岳北方稜線、16年前の北鎌尾根で吹いた気まぐれな暴風に雅樹は攫われた。そして知った別離の傷は痛すぎる。
もう大切な存在を失うことは怖いから、この山のよう気まぐれに見せて他人を踏みこませなかった。
そうして16年間ずっと本当は孤独を護っていた、けれど今もう「英二」を自分は知っている。
この自分と共に山で生き続けると誓ってくれる唯ひとり、その相手へと想いをぶつけた。
「俺と最高峰、行くんだろ?八千メートル峰に登るって約束したじゃないか!なのにこんなとこで勝手なことすんなっ!
か、風に煽られて転ぶなよっ、こんな風になんか捕まるんじゃないよ、英二まで風に捕まるな!な、なんでだよ…っ、お、俺の、」
16年前の激痛が今、涙に起こされて息を止める。
あの北鎌尾根で吹上げたナイフリッジの風が心を冷やす、そして罅割れる。
冷たく大きく裂けだしていく心の傷痕が、ふるい哀しみごと今を泣き出し、叫んだ。
「俺のパートナーは風に攫われるんだよ?や、山の風に雅樹さ…おまえまで今っ…」
もう嫌だ、こんなのは。
もう置き去りになんてされたくない、けれど山で生きていたい。
ずっと大好きなパートナーと山で生きたい、それなのになぜ山は風で攫おうとする?
なにか自分に責任があるのだろうか?そんな疑問と悲哀へと、深紅のウェアを着たパートナーは大らかに微笑んだ。
「大丈夫だ、光一。俺は生きてるよ?俺には最高峰の竜の爪痕がある、これって最高の御守なんだろ?だから今も無事だった、だろ?」
笑いかけ、うすく腫れた左頬を光一に示してくれる。
そこに横一文字、あざやかに細い深紅の傷痕は浮きあがっていた。
―富士の竜が、最高峰が英二を護ってくれた?
今年初めの冬富士で雪崩に刻まれた、鋭く小さな赤い傷痕。
いつもは見えないのに熱を持つと浮きあがる、どこか不思議な英二の頬傷。
なにか意味がある?そう思わせられる傷へと指先ふれて、グローブを透かす熱の気配が温かい。
この温もりに「山」の祝福が自分を見つめて心が凪ぐ、ほっと息ついて光一は穏やかに微笑んだ。
「うん、だね…いま爪痕が浮んでる、おまえはコレがあったよね…俺のキスだけじゃなくって、富士の竜の御守があったね、」
雅樹には、自分のキスしか贈ってあげられなかった。
雅樹には「山」の何かは無いまま死なせてしまった、けれど英二には富士の爪痕がある。
だから英二はきっと大丈夫、そう微笑んだ向かい綺麗な笑顔ほころんで幸せにねだってくれた。
「そうだよ、俺には爪痕がある。これに山っ子がキスしたら最強の御守になるだろ?だから今、またしてくれる?」
いま自分のキスに無力を感じた、それに英二は気づいて言ってくれるのだろう。
こういう優しさが英二の良い所だな?嬉しくて光一は綺麗に笑った。
「うんっ、だね、追加しとこっかね、」
そっと頬の傷痕へよせた唇に温もり触れる。
やさしい熱に生きている願いがうかぶ、そして本音が心から泣き出していく。
―諦めるなんて出来ない、離れたくないよ、
もし今、ザイルを止めることが出来なかったら?
もしも16年前と同じに救けられなかったら、自分はどうしたろう?
いま仮定に本音が泣きながら、援けられた今の現実に幸せが安らいでいく。
そんな自分に途惑うほど募る想いから、そっと離れると英二は綺麗に笑ってくれた。
「なんか俺、今、幸せだな、」
「だね、でも天辺に行ったらもっと幸せだよ?」
あの場所で、ふたり並んで立ったら幸せだろうな?
そんな想い素直に笑って光一はザイルパートナーの掌をとり、一緒に立ちあがった。
「行こう、英二、」
笑いかけ手を離し、ザイルを伸ばしながら先を歩き出す。
その背後にアイゼンの雪踏む音が生まれて、天空の雪原を足音ふたつ昇っていく。
凍れる白銀へ夏の朝はふる、まばゆい光のなか登りあげナイフエッジの狭い頂上に辿り着いた。
―雅樹さん、アイガーの雪と太陽はまぶしいね?
蒼穹の点に微笑んでカメラを出し、ゴーグル外して遥か東の涯を見る。
いま一日の始まりに生まれた太陽、その光輝が生まれる方角に故郷は佇む。
この体に生命を受けた山、この名前を与えられた山、そして夢と約束を育んだ山。
その全てがある故郷への想い、その全てに立ち会ってくれた俤を見つめる心は東へ還る。
―雅樹さん、約束を叶えたよ?夢がまた1つ叶ったね…英二がいてくれるから、叶えられるね、
午前8時前の標高3,975m、聳える岩壁の上に望郷の恋はナイフエッジの風に駈けていく。
その風追うようファインダーを向け、約束の頂と空の瞬間にシャッターを切った。
そのまま撮影していく隣、ふっと森の香くゆらせ綺麗な低い声が微笑んだ。
「光一、こっちに『MANASUL』を向けて?」
「うん?」
振向いた向こう、コンパクトデジタルカメラのスイッチを長い指が押す。
無音でシャッターを切らせホールドする掌、ワインレッドのグローブが甲を覆っている。
その色とデザインにツェルマットの記憶が笑って、楽しい気持ちごとパートナーにレンズを向けた。
「撮影ありがとね、英二。じゃ、ふたり一緒に撮ろっかね、」
「おう、」
頷いてカメラをおろし、左手の甲をこちら向けてくれる。
ファインダーに銀嶺と空を入れ深紅のウェア姿にセンター合わし、カメラを固定すると隣に立った。
ちょうどのタイミングでシャッター切られ、すぐカメラを抱えると再生画面で確認していく。
ふたり並んで時計の時刻と写っているのに微笑んで、振り向くと英二は山を見渡していた。
―イイ貌しそうだね、
愉しい予兆に笑ってカメラをホールドすると、ファインダーを覗きこむ。
レンズ越し見つめた長身は深紅のウェアを靡かせながら、ダークブラウンの髪に光冠きらめかす。
いつもの「山」に見惚れる貌が明るみだす、銀と青の世界ふる陽光は深紅を輝かせて綺麗な低い声が笑った。
「アイガーの雪と太陽は、まぶしくて綺麗だな、」
誇らかな笑顔が蒼穹の彼方を見た瞬間、シャッターボタンをそっと押した。
正午前、アルピグレンのベースキャンプに着いた。
手早くテントを片づけ北壁を見上げる、その高度1,800mの彼方に稜線が蒼い。
あの場所には氷雪と光だけがあった、そして今は緑のなか花を踏まぬよう歩いて行く。
なんだか夢みたいだね?そんな想い笑って携帯電話を定時前の日本へ繋いだ。
「おつかれさまです、後藤副隊長。国村です、今ベースキャンプの回収を終えました。ミッテルレギ稜チームも下山完了です、」
「おつかれさん、じゃあタイムは達成だな?」
まだタイムを言わぬまま、山ヤの警察官トップに立つ男は笑ってくれた。
きっと登山計画と時差を計算して電話を待っていた、そんな様子嬉しくて光一は笑った。
「はい、宮田と揃って3時間を切りました、」
「宮田もか?そうか、よくやったなあ…よくやっ…」
笑った語尾がくぐもって、涙のんだ気配が伝わらす。
この涙の意味は言われなくても解かってしまう、たぶん二人への想いが泣いている。
いま泣いてくれる後藤に雅樹は何を想うだろう?そう微笑んだ向こうから後藤が言ってくれた。
「よくやったなあ、おめでとう。明日の予備日は休暇扱いだしな、全員、羽を伸ばせと伝えてくれ。光一、宮田に替ってくれるかい?」
やっぱり後藤は英二が可愛いんだな?
そんな後藤の気持ちが嬉しく可笑しくて、電話向うへ笑いかけた。
「やっぱり後藤のおじさん、英二が一番だね?今すぐ変わってあげるよ、」
「おう、すまんなあ、」
愉しげに深い声が笑ってくれる、その陽気な雰囲気が懐かしい。
この陽気な山ヤが7年前は共に登り、まだ高校生だった自分に山頂を踏ませてくれた。
あの日があるから今日の記録も作られた、その感謝と微笑んで携帯電話を隣に差し出した。
「はい、ご指名だよ?」
「ごめん、ありがとな、」
綺麗な低い声で笑って、白皙の手に受取ってくれる。
歩きながら携帯電話を耳元に当て、いつもの端正な口調で話し始めた。
「おつかれさまです、宮田です、…はい、大丈夫です。…はい、そうしますね、…はい…」
電話で繋ぐ相槌の間、故郷の声が少しだけ聴こえてくる。
深い声が話す断片と、頷くアンザイレンパートナーの表情に会話内容が解かりやすい。
たぶん怪我と体調の具合と休養のことだろうな?そんな予想に心配性な旧知の山ヤが懐かしく愉しい。
隣に会話を聴きながら歩く草原は風ゆるやかに緑が香り、明るく静かな世界は陽気で、けれど隣に冷厳の世界は佇んでいる。
いま歩いて行く陽気な世界も好きだ、それでも青と白の世界へ立ちたいと願うまま蒼い壁に笑いかけた。
―アイガー、また逢いに来るからね?今度はもっと速く登らせてもらうよ、この男と一緒にね。そのときは風、吹かせないでよ?
北壁を登る間ずっと無風だった、けれど頂上雪田で風は英二を捕え惹きこもうとした。
あのとき見つめた恐怖と祈り映した心へと、小さな不安と緊張がゆっくり瞳を披いた。
―今夜、だね…ほんとに良いのかな
今夜、あの紙袋を本当に開くのだろうか?
この遠征訓練に発つ直前、周太が贈ってくれた紙袋の中身を自分は使う?
その問いかけが今また鼓動を響かせだす、ほんの1時間ほど前にいた白銀の世界から意識が夜へ向う。
こんなふうに自分が怯えて悩むだなんて、今まで一度も知らなかった。
―雅樹さんにはコンナに悩まなかったのにね、ほんとに雅樹さんのコト信じ切ってたから…でも今しかない、
英二と対等でいられるのは「今」しかない。
もう明後日には帰国の飛行機に乗る。
そして青梅署に戻ればもう2日後に自分は異動し、昇進する。
それから後はもう、英二と自分は部下と上司の立場に別れて、ただ「ザイルパートナー」だけではいられない。
―今しかない、それに機会が次あるのかなんて誰にも解からない、もう後悔するのは嫌だ、ね…
ほんとうに「今」を見つめる事しか出来ない、そう自分は16年前に思い知らされた。
あの夏に雅樹と見つめた夢と約束、そして想いと、その全てが絶たれた瞬間の恐怖と哀しみを繰り返せない。
あの夏にふたり見つめあい重ねあった時間と感覚、この永遠の秘密に泣いた傷痕から今、明日へと向き合いたい。
―雅樹さん、雅樹さんも望んでくれるのかな?俺が誰かと本気で想い合って、抱きあうこと…雅樹さんじゃないヤツとして、いいの?
きらめく夏に抱きあった永遠の秘密は、もう枯れることのない花となって今も心に咲いている。
季節が色を変えて幾度と廻っても、この永遠だけは輝いて自分の全てを明るく照らすだろう。
この永遠が愛しくて想い募るまま、懐かしい声が記憶から静かに微笑んだ。
『光一。大好きだよ、本気で。だから十年後を約束させて、十年、僕を待たせていて?』
まばゆい8歳と23歳の夏、あの時が自分たちの永遠で約束と夢と自分を造りあげた。
あのとき抱きあった秘密を信じたくて自分は待っていた、けれど十年の約束はもう叶わない。
訪れた十年後の残酷な現実に泣いて、諦めて、半分は「山桜」のためでも半分は自棄で女と一夜を遊んだ。
その夜は確かに快楽があった、けれど朝には虚無が世界を色褪せさせて、喪った約束の哀しみだけ鮮やかだった。
―虚しかったね、ほんとに…だからもう興味無くなったんだよね、遊びの生えっちにはさ、
明るい草地を歩きながら6年前の虚無を見る。
あの虚しさを知っているから、英二が夜の遊びに倦んだ気持が自分は解かる。
そんな同調もなにか嬉しくて、英二なら触れあうことも楽で安らげるようなっていた。
まだ今の想いを抱く前からずっと英二の体温も香も好きで、英二の隣に眠りたいと想えた。
そんなふうに想える相手は雅樹の他には英二しかいない、だから離れたくなくて繋ぎ留めたいと願ってしまう。
「光一、電話ありがとな、」
綺麗な低い声が笑って、意識ひきもどされる。
そっと溜息ひとつ微笑んで振り返り、携帯電話を受けとり笑いかけた。
「どういたしましてだね、後藤のおじさん、喜んでたろ?」
「うん、おめでとうって笑ってくれたよ。あとマッサージちゃんとして、良く寝ろってさ。それと光一のブレーキを命令されたよ?」
自分のブレーキ役を仰せつかった、そう聴いて笑ってしまう。
やっぱり行動を後藤には読まれていたらしい?愉快で笑いながら訊いてみた。
「明日、メンヒかユングフラウに登るつもりだったこと、バレちゃってるかね?」
「ああ、ばれてると思うよ。だから、ごめんな?」
困り顔で笑ってくれる、そんな笑顔は穏やかに優しい。
この笑顔を信じて夜を委ねればいい?そんな想いに微笑むと英二は言ってくれた。
「メンヒとユングフラウ、次回に延期してくれ。それで明日は一日、のんびり過ごして疲れをとろうな?」
次回に延期、そう言ってくれるのが嬉しい。
この約束が嬉しくて、笑って光一は素直に頷いた。
「うん、解かったよ?延期ならイイよ、」
「ほんとだな?勝手に登ったりするなよ、副隊長は本当に心配してくれてるんだからな、」
念押しに聴いてくれる生真面目が、なんだか可笑しい。
可笑しくて悪戯心が起きる、からかいたくなって光一は唇の端を挙げて笑った。
「ま、ほんとに登りたくなったらね、好きにしちゃうと思うけどさ?その時はフォローよろしくね、ア・ダ・ム、」
言った言葉に端正な貌が、困ったよう笑ってくれる。
そんな表情につい、諦めた「十年後」すら叶うと期待しそうで、鼓動が笑う。
そうして自分の本音に気付かされる、今夜ほんとうは自分がどうしたいのか?
あの約束すら叶うと信じて今夜、唯ひとりに託したい。
(to be continued)
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第58話 双壁side K2 act.17
“Eeger” その北壁の別称は「mordwand」死の壁。
そう呼ばれる現実を今、ナイフリッジの風に自分も見た。
常にまとう風の衣を動かして、近寄った者を気まぐれに払い落とす誇り高い山。
その気まぐれに今、自分のアンザイレンパートナーは捕まりかけ「山」に眠る死へ攫われかけた。
―どうして俺のアイザイレンパートナーは風に捕まる?気まぐれな山の風で、雅樹さんは…
槍ヶ岳北方稜線、16年前の北鎌尾根で吹いた気まぐれな暴風に雅樹は攫われた。そして知った別離の傷は痛すぎる。
もう大切な存在を失うことは怖いから、この山のよう気まぐれに見せて他人を踏みこませなかった。
そうして16年間ずっと本当は孤独を護っていた、けれど今もう「英二」を自分は知っている。
この自分と共に山で生き続けると誓ってくれる唯ひとり、その相手へと想いをぶつけた。
「俺と最高峰、行くんだろ?八千メートル峰に登るって約束したじゃないか!なのにこんなとこで勝手なことすんなっ!
か、風に煽られて転ぶなよっ、こんな風になんか捕まるんじゃないよ、英二まで風に捕まるな!な、なんでだよ…っ、お、俺の、」
16年前の激痛が今、涙に起こされて息を止める。
あの北鎌尾根で吹上げたナイフリッジの風が心を冷やす、そして罅割れる。
冷たく大きく裂けだしていく心の傷痕が、ふるい哀しみごと今を泣き出し、叫んだ。
「俺のパートナーは風に攫われるんだよ?や、山の風に雅樹さ…おまえまで今っ…」
もう嫌だ、こんなのは。
もう置き去りになんてされたくない、けれど山で生きていたい。
ずっと大好きなパートナーと山で生きたい、それなのになぜ山は風で攫おうとする?
なにか自分に責任があるのだろうか?そんな疑問と悲哀へと、深紅のウェアを着たパートナーは大らかに微笑んだ。
「大丈夫だ、光一。俺は生きてるよ?俺には最高峰の竜の爪痕がある、これって最高の御守なんだろ?だから今も無事だった、だろ?」
笑いかけ、うすく腫れた左頬を光一に示してくれる。
そこに横一文字、あざやかに細い深紅の傷痕は浮きあがっていた。
―富士の竜が、最高峰が英二を護ってくれた?
今年初めの冬富士で雪崩に刻まれた、鋭く小さな赤い傷痕。
いつもは見えないのに熱を持つと浮きあがる、どこか不思議な英二の頬傷。
なにか意味がある?そう思わせられる傷へと指先ふれて、グローブを透かす熱の気配が温かい。
この温もりに「山」の祝福が自分を見つめて心が凪ぐ、ほっと息ついて光一は穏やかに微笑んだ。
「うん、だね…いま爪痕が浮んでる、おまえはコレがあったよね…俺のキスだけじゃなくって、富士の竜の御守があったね、」
雅樹には、自分のキスしか贈ってあげられなかった。
雅樹には「山」の何かは無いまま死なせてしまった、けれど英二には富士の爪痕がある。
だから英二はきっと大丈夫、そう微笑んだ向かい綺麗な笑顔ほころんで幸せにねだってくれた。
「そうだよ、俺には爪痕がある。これに山っ子がキスしたら最強の御守になるだろ?だから今、またしてくれる?」
いま自分のキスに無力を感じた、それに英二は気づいて言ってくれるのだろう。
こういう優しさが英二の良い所だな?嬉しくて光一は綺麗に笑った。
「うんっ、だね、追加しとこっかね、」
そっと頬の傷痕へよせた唇に温もり触れる。
やさしい熱に生きている願いがうかぶ、そして本音が心から泣き出していく。
―諦めるなんて出来ない、離れたくないよ、
もし今、ザイルを止めることが出来なかったら?
もしも16年前と同じに救けられなかったら、自分はどうしたろう?
いま仮定に本音が泣きながら、援けられた今の現実に幸せが安らいでいく。
そんな自分に途惑うほど募る想いから、そっと離れると英二は綺麗に笑ってくれた。
「なんか俺、今、幸せだな、」
「だね、でも天辺に行ったらもっと幸せだよ?」
あの場所で、ふたり並んで立ったら幸せだろうな?
そんな想い素直に笑って光一はザイルパートナーの掌をとり、一緒に立ちあがった。
「行こう、英二、」
笑いかけ手を離し、ザイルを伸ばしながら先を歩き出す。
その背後にアイゼンの雪踏む音が生まれて、天空の雪原を足音ふたつ昇っていく。
凍れる白銀へ夏の朝はふる、まばゆい光のなか登りあげナイフエッジの狭い頂上に辿り着いた。
―雅樹さん、アイガーの雪と太陽はまぶしいね?
蒼穹の点に微笑んでカメラを出し、ゴーグル外して遥か東の涯を見る。
いま一日の始まりに生まれた太陽、その光輝が生まれる方角に故郷は佇む。
この体に生命を受けた山、この名前を与えられた山、そして夢と約束を育んだ山。
その全てがある故郷への想い、その全てに立ち会ってくれた俤を見つめる心は東へ還る。
―雅樹さん、約束を叶えたよ?夢がまた1つ叶ったね…英二がいてくれるから、叶えられるね、
午前8時前の標高3,975m、聳える岩壁の上に望郷の恋はナイフエッジの風に駈けていく。
その風追うようファインダーを向け、約束の頂と空の瞬間にシャッターを切った。
そのまま撮影していく隣、ふっと森の香くゆらせ綺麗な低い声が微笑んだ。
「光一、こっちに『MANASUL』を向けて?」
「うん?」
振向いた向こう、コンパクトデジタルカメラのスイッチを長い指が押す。
無音でシャッターを切らせホールドする掌、ワインレッドのグローブが甲を覆っている。
その色とデザインにツェルマットの記憶が笑って、楽しい気持ちごとパートナーにレンズを向けた。
「撮影ありがとね、英二。じゃ、ふたり一緒に撮ろっかね、」
「おう、」
頷いてカメラをおろし、左手の甲をこちら向けてくれる。
ファインダーに銀嶺と空を入れ深紅のウェア姿にセンター合わし、カメラを固定すると隣に立った。
ちょうどのタイミングでシャッター切られ、すぐカメラを抱えると再生画面で確認していく。
ふたり並んで時計の時刻と写っているのに微笑んで、振り向くと英二は山を見渡していた。
―イイ貌しそうだね、
愉しい予兆に笑ってカメラをホールドすると、ファインダーを覗きこむ。
レンズ越し見つめた長身は深紅のウェアを靡かせながら、ダークブラウンの髪に光冠きらめかす。
いつもの「山」に見惚れる貌が明るみだす、銀と青の世界ふる陽光は深紅を輝かせて綺麗な低い声が笑った。
「アイガーの雪と太陽は、まぶしくて綺麗だな、」
誇らかな笑顔が蒼穹の彼方を見た瞬間、シャッターボタンをそっと押した。
正午前、アルピグレンのベースキャンプに着いた。
手早くテントを片づけ北壁を見上げる、その高度1,800mの彼方に稜線が蒼い。
あの場所には氷雪と光だけがあった、そして今は緑のなか花を踏まぬよう歩いて行く。
なんだか夢みたいだね?そんな想い笑って携帯電話を定時前の日本へ繋いだ。
「おつかれさまです、後藤副隊長。国村です、今ベースキャンプの回収を終えました。ミッテルレギ稜チームも下山完了です、」
「おつかれさん、じゃあタイムは達成だな?」
まだタイムを言わぬまま、山ヤの警察官トップに立つ男は笑ってくれた。
きっと登山計画と時差を計算して電話を待っていた、そんな様子嬉しくて光一は笑った。
「はい、宮田と揃って3時間を切りました、」
「宮田もか?そうか、よくやったなあ…よくやっ…」
笑った語尾がくぐもって、涙のんだ気配が伝わらす。
この涙の意味は言われなくても解かってしまう、たぶん二人への想いが泣いている。
いま泣いてくれる後藤に雅樹は何を想うだろう?そう微笑んだ向こうから後藤が言ってくれた。
「よくやったなあ、おめでとう。明日の予備日は休暇扱いだしな、全員、羽を伸ばせと伝えてくれ。光一、宮田に替ってくれるかい?」
やっぱり後藤は英二が可愛いんだな?
そんな後藤の気持ちが嬉しく可笑しくて、電話向うへ笑いかけた。
「やっぱり後藤のおじさん、英二が一番だね?今すぐ変わってあげるよ、」
「おう、すまんなあ、」
愉しげに深い声が笑ってくれる、その陽気な雰囲気が懐かしい。
この陽気な山ヤが7年前は共に登り、まだ高校生だった自分に山頂を踏ませてくれた。
あの日があるから今日の記録も作られた、その感謝と微笑んで携帯電話を隣に差し出した。
「はい、ご指名だよ?」
「ごめん、ありがとな、」
綺麗な低い声で笑って、白皙の手に受取ってくれる。
歩きながら携帯電話を耳元に当て、いつもの端正な口調で話し始めた。
「おつかれさまです、宮田です、…はい、大丈夫です。…はい、そうしますね、…はい…」
電話で繋ぐ相槌の間、故郷の声が少しだけ聴こえてくる。
深い声が話す断片と、頷くアンザイレンパートナーの表情に会話内容が解かりやすい。
たぶん怪我と体調の具合と休養のことだろうな?そんな予想に心配性な旧知の山ヤが懐かしく愉しい。
隣に会話を聴きながら歩く草原は風ゆるやかに緑が香り、明るく静かな世界は陽気で、けれど隣に冷厳の世界は佇んでいる。
いま歩いて行く陽気な世界も好きだ、それでも青と白の世界へ立ちたいと願うまま蒼い壁に笑いかけた。
―アイガー、また逢いに来るからね?今度はもっと速く登らせてもらうよ、この男と一緒にね。そのときは風、吹かせないでよ?
北壁を登る間ずっと無風だった、けれど頂上雪田で風は英二を捕え惹きこもうとした。
あのとき見つめた恐怖と祈り映した心へと、小さな不安と緊張がゆっくり瞳を披いた。
―今夜、だね…ほんとに良いのかな
今夜、あの紙袋を本当に開くのだろうか?
この遠征訓練に発つ直前、周太が贈ってくれた紙袋の中身を自分は使う?
その問いかけが今また鼓動を響かせだす、ほんの1時間ほど前にいた白銀の世界から意識が夜へ向う。
こんなふうに自分が怯えて悩むだなんて、今まで一度も知らなかった。
―雅樹さんにはコンナに悩まなかったのにね、ほんとに雅樹さんのコト信じ切ってたから…でも今しかない、
英二と対等でいられるのは「今」しかない。
もう明後日には帰国の飛行機に乗る。
そして青梅署に戻ればもう2日後に自分は異動し、昇進する。
それから後はもう、英二と自分は部下と上司の立場に別れて、ただ「ザイルパートナー」だけではいられない。
―今しかない、それに機会が次あるのかなんて誰にも解からない、もう後悔するのは嫌だ、ね…
ほんとうに「今」を見つめる事しか出来ない、そう自分は16年前に思い知らされた。
あの夏に雅樹と見つめた夢と約束、そして想いと、その全てが絶たれた瞬間の恐怖と哀しみを繰り返せない。
あの夏にふたり見つめあい重ねあった時間と感覚、この永遠の秘密に泣いた傷痕から今、明日へと向き合いたい。
―雅樹さん、雅樹さんも望んでくれるのかな?俺が誰かと本気で想い合って、抱きあうこと…雅樹さんじゃないヤツとして、いいの?
きらめく夏に抱きあった永遠の秘密は、もう枯れることのない花となって今も心に咲いている。
季節が色を変えて幾度と廻っても、この永遠だけは輝いて自分の全てを明るく照らすだろう。
この永遠が愛しくて想い募るまま、懐かしい声が記憶から静かに微笑んだ。
『光一。大好きだよ、本気で。だから十年後を約束させて、十年、僕を待たせていて?』
まばゆい8歳と23歳の夏、あの時が自分たちの永遠で約束と夢と自分を造りあげた。
あのとき抱きあった秘密を信じたくて自分は待っていた、けれど十年の約束はもう叶わない。
訪れた十年後の残酷な現実に泣いて、諦めて、半分は「山桜」のためでも半分は自棄で女と一夜を遊んだ。
その夜は確かに快楽があった、けれど朝には虚無が世界を色褪せさせて、喪った約束の哀しみだけ鮮やかだった。
―虚しかったね、ほんとに…だからもう興味無くなったんだよね、遊びの生えっちにはさ、
明るい草地を歩きながら6年前の虚無を見る。
あの虚しさを知っているから、英二が夜の遊びに倦んだ気持が自分は解かる。
そんな同調もなにか嬉しくて、英二なら触れあうことも楽で安らげるようなっていた。
まだ今の想いを抱く前からずっと英二の体温も香も好きで、英二の隣に眠りたいと想えた。
そんなふうに想える相手は雅樹の他には英二しかいない、だから離れたくなくて繋ぎ留めたいと願ってしまう。
「光一、電話ありがとな、」
綺麗な低い声が笑って、意識ひきもどされる。
そっと溜息ひとつ微笑んで振り返り、携帯電話を受けとり笑いかけた。
「どういたしましてだね、後藤のおじさん、喜んでたろ?」
「うん、おめでとうって笑ってくれたよ。あとマッサージちゃんとして、良く寝ろってさ。それと光一のブレーキを命令されたよ?」
自分のブレーキ役を仰せつかった、そう聴いて笑ってしまう。
やっぱり行動を後藤には読まれていたらしい?愉快で笑いながら訊いてみた。
「明日、メンヒかユングフラウに登るつもりだったこと、バレちゃってるかね?」
「ああ、ばれてると思うよ。だから、ごめんな?」
困り顔で笑ってくれる、そんな笑顔は穏やかに優しい。
この笑顔を信じて夜を委ねればいい?そんな想いに微笑むと英二は言ってくれた。
「メンヒとユングフラウ、次回に延期してくれ。それで明日は一日、のんびり過ごして疲れをとろうな?」
次回に延期、そう言ってくれるのが嬉しい。
この約束が嬉しくて、笑って光一は素直に頷いた。
「うん、解かったよ?延期ならイイよ、」
「ほんとだな?勝手に登ったりするなよ、副隊長は本当に心配してくれてるんだからな、」
念押しに聴いてくれる生真面目が、なんだか可笑しい。
可笑しくて悪戯心が起きる、からかいたくなって光一は唇の端を挙げて笑った。
「ま、ほんとに登りたくなったらね、好きにしちゃうと思うけどさ?その時はフォローよろしくね、ア・ダ・ム、」
言った言葉に端正な貌が、困ったよう笑ってくれる。
そんな表情につい、諦めた「十年後」すら叶うと期待しそうで、鼓動が笑う。
そうして自分の本音に気付かされる、今夜ほんとうは自分がどうしたいのか?
あの約束すら叶うと信じて今夜、唯ひとりに託したい。
(to be continued)
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