萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第25話 山音act.2―side story「陽はまた昇る」

2011-12-06 23:49:39 | 陽はまた昇るside story
山で誓う、あるべき約定



第25話 山音act.2―side story「陽はまた昇る」

日原林道にミニパトカーを停めると12時前だった。
12月を迎える雲取山は、午後に掛る寒気がひやりと浸していく。
2人とも隊服のウィンドブレーカーを着て、救助隊制帽キャップを被った。
今日は仕事道から回り、水源林巡視路チェックを兼ねた登山訓練をする。
ザックを背負って仕度が整うと、大きく伸びをしながら国村が笑う。

「やっぱさ、山の方が良いよね。うん。空気がさ、気持いいよな」
「ああ。そうだな、山は良いな」

微笑んで英二は、ご機嫌な細い目を見た。
ついさっき武蔵野署射撃場で「めんどくさい」と言っていた目とは全く違う。
ほんとうに国村は、山か酒があればご機嫌なのだろう。2つ揃えばまず機嫌が良い。
だから逆に、それを邪魔されることが大嫌いだ。射撃大会への出場は当にその邪魔になる。
それでも選出されたからには、国村には出場してもらわないと困るだろう。
だから射撃訓練と登山訓練をセットにして、国村の機嫌を保っている。

「宮田、今日の日没って何時だっけ?」
「16:28だよ。日南中時が11:29だったかな。うん、もう日が西に寄っているから、そうだな」
「やっぱ13時半には復路だね。まあ仕事道から水源林の巡視路チェックだからさ、終わるかな」

そう話しながらクライマーウォッチをセットすると、並んで歩き始めた。
もう紅葉も終えた樹林帯は落葉が温かい。かさり乾いた音に登山靴の足許をくるんでくる。
落葉の合間からは、どことなく冷気をふくんだ香がたつ。その香りに国村が笑った。

「昨夜の雨はさ、この辺は雪だったな」
「なんとなく落葉が冷たいのって、そのせいか」
「うん。ほら、沢を見てみなよ。岩の根元あたりな」

言われてみると、黒い岩根には白く吹きだまりが出来ている。
かすかな雪が、正午にもまだ残されていた。昨夜の寒気で雪は氷になっているかもしれない。
これからの時期は、そうしたアイスバーンが山の危険を増す。
凍った雪を眺めながら、国村が言った。

「これからさ、雪が増えていくよ。そうしたら雪山シーズンだ」
「うん、そうだな。俺には初めての雪山だよ」
「ほんと楽しいよ雪山は。まあさ、危険が多いから救助とか大変だけどね」

雪山の危険。
そのことも英二は、警察学校時代に多くの資料を眺めた。
低温による凍傷、凍死。凍結による滑落事故。雪崩やブロック崩壊。
どれもがこの、奥多摩の山でも起きることだった。

けれど都内という気軽さに、ハイカーは軽装備で訪れてしまう。
そうして遭難事故が奥多摩では多発する。首都の山岳地域であることが、こうした暗部をも生む。
こんなふうに警視庁山岳救助隊は、首都警察でありながら自然と向き合う。
その現場の厳しさは、経験を積むほどに思い知らされた。
ほんとうによく、山岳経験の少ない自分を卒配させてくれたと思う。

こうした現場の厳しさは、警察学校時代に解っていた。
それでも山岳救助隊になりたくて、経験不足を補おうと必死で勉強や実技講習に励んだ。
それは現場に立った今も変わらない、だってまだ山ヤ経験2カ月程度だ。
そのいま横に立つ国村は英二と同い年、けれど山ヤ経験は18年になる。

「雪山になったらさ、その日すぐ登ろうな」

楽しそうに国村が、歩きながら提案してくれる。
そうだなと言いかけて英二は止まった、雪山になるのは早いと12月中旬。深雪は1月だろう。
もし1月なら1ヶ月後には2月上旬の警視庁けん銃射撃大会がある。
おそらく雪山の初め頃は、国村は射撃訓練も忙しい頃のはずだ。
その頃に訓練放棄をされたら、きっと青梅署の面々は困ってしまう。少し考えて英二は答えた。

「うん、そうだな。射撃の訓練が終わった後で、登ろうな」
「そんなの嫌だね、」

あっさりと国村は言って、細い目を笑ませた。
訓練はいつでも良いだろ?そんなふうに目が言っている。

「積ってすぐのね、新雪はほんとうに美しいんだ。俺は絶対に見に行くよ」

やっぱり駄目かと英二は笑った。
前から「新雪がいいんだ」と国村は話してくれていた。
きっと去年のシーズンが終わってから、ずっと国村は新雪を待っている。
だから新雪を逃すなんて考えは、国村には求められそうにない。
仕方ないなと英二は微笑んだ。

「じゃあさ、その場合は午後に射撃訓練に行こうな?」
「そうだな。新雪を見た後だったら、まあいいかな。射撃場って夜は何時までだっけ」
「また確認しておかないとな」

言いながら英二は、ちょっと大変かもしれないと覚悟した。
年明けて新雪が降ると、また初日のように厄介が起きるかもしれない。

訓練初日の国村は「めんどくさいなあ」と言って屋上へ逃げた。
その後はもう逃げださないで射撃訓練をしている。時間短縮の為にズルもするけれど。
その間に雪もふったが、まだ少なく積雪は無い。だから国村も練習に行っているのだろう。

けれど新雪が積もったら、放っておけばたぶん国村は逃げるだろう。
その逃亡先はもう屋上では済まないだろう。もっと高い場所へ逃げるに決まっている。
せめて逃亡先の把握確保は出来るようにしたい。思いながら英二は口を開いた。

「国村の射撃訓練にさ、俺は全部つきあっているよな」
「うん、そうだね。ありがとな」
「じゃあさ。俺の雪山訓練にはどの程度、国村はつきあってくれる?」

訊いて国村の細い目が楽しそうに笑う。
笑いながら当然だろうと国村は言った。

「雪山だろ?そんなの全部つきあうよ。だからね、俺の雪山訓練にもさ、宮田も全部つきあいなよ」
「うん、いいなそれ。よろしく頼むな」
「おう。任せてよ」

今後の国村の逃亡先は、雪山に決まっている。
そして国村は「俺の雪山訓練に宮田も全部つきあいな」と言った。
これで国村は単独では雪山に逃げない、必ず英二も連れていくだろう。
おそらく逃亡は避けられないだろうが、これなら確保は何とか出来る。

それにきっと自身の為になる。
国村の雪山訓練に付き合えば、必ず雪山の技術が鍛えられる。
このシーズンで出来るだけ雪山の実力をつけたい。だから国村の提案は、格好のチャンスだ。

ただしちょっと困る事もある。
英二の業務や休暇と国村の雪山訓練が被った場合、国村はどうするつもりか?
少し考えて英二は呟いた。

「…また強奪かな、」

青梅署代表の選出を受ける時、国村は3つ条件を出した。
・射撃訓練は業務時間内だけすること。
・自分だけ練習させられるのは面白くないから英二も同行すること。
・射撃訓練の後は、登山とビバークの訓練もさせてくれること。
この条件が通らないなら「俺、専業農家に憧れますけど?」と国村は笑った。

トップクライマーを嘱望される国村だから、警視庁山岳会は特に辞職されたら困ることだった。
しかも警視庁山岳会長は、山岳救助隊副隊長の後藤だ。
後藤は山ヤとして、友人の遺児として、国村を愛して成長を楽しみにしている。
そんな後藤は国村の条件を、笑って承諾した。

そして訓練初日の国村は、御岳駐在で勤務中の英二を訪ねてきた。
その日の国村は週休だった。けれど活動服姿で現れたから、前日言った通り訓練に行くのだなと感心した。
けれど岩崎に「宮田を連れて行きますよ。転職しない条件の通りにね」と笑顔で脅迫した。
そのとき英二は登山計画書データの処理中だった。
けれど国村は英二を掴まえて、パソコンの前から無理矢理に立たせた。

「ほら行くよ宮田、拳銃は持ってるよな」
「ちょっと待てよ、国村。俺は選手じゃないだろ?だからな、業務中勝手に訓練とか駄目だろ」
「なに言ってんのさ?もう条件は承諾されて決まったんだよ。だから問題ないね」

言いながら国村は、勝手に英二の制帽を持ってきて被せてくれた。
そしてミニパトカーの鍵まで持ち出して、勝手にエンジンをかけ始めた。国村は週休だったのに。
困ったなと思っていると、岩崎が英二に手を合わせた。

「宮田、行って来てくれ。武蔵野署には俺から連絡しておく、だから安心して国村に付添ってほしい」
「付添って、岩崎さん?」
「だってな宮田。国村が嫌なことをな、我慢してやりに行くんだぞ?」
「ええ、そうですね。国村としては本当に偉いです」

そんなふうに微笑んで、英二は素直に褒めた。
けれど岩崎は何とも言えない、心底に困った顔で訴えた。

「あの国村がな、我慢するんだぞ?
 そういう時あいつ、いつも後で暴発して毒舌が酷くなるだろう?
 だから今回だってな、あいつの気が変わったら。いったい何するか解らんよ、不安だろう?」

確かにそうだ。
気が変わったら国村は、我慢なんて一瞬で終了させる。
そして「気晴らしして帰るか」なんて呟くに違いない。
そしてきっと「気晴らし」に何か悪戯でもして、飄々と帰ってくるだろう。
想像がつくなと可笑しくて、ちょっと笑いながら英二は答えた。

「そうですね。あいつなら、気が変わるかもしれませんね。そして気晴らしに悪戯でもするでしょうね」
「だろう?それでもし武蔵野署に迷惑をかけたら。山岳救助隊も青梅署も、後藤さんもな、ほんとうに困るだろうよ」

悪戯のターゲットはもちろん、嫌いな射撃がらみになる。
その「嫌いな」射撃場を貸してくれた武蔵野署が困る悪戯、そんな犯行は国村には容易いだろう。
きっと国村の事だから、武蔵野署には犯行はバレない。そんな怜悧で緻密な実行力を国村は持っている。
けれど青梅署や山岳救助隊の人間には、誰の所業かすぐ解る。きっとさぞ良心の呵責に苦しむ破目になるだろう。

そういう全部をひっくるめて、国村は「自分の楽しい時間を奪われた」ことへの仕返しをする。
それもちょっと見てみたい、けれど後藤や岩崎を困らせたくないな。英二は笑って答えた。

「そうなったら国村、きっと意気揚々と帰ってくるでしょうね」
「だからな。宮田が付き添ってくれると、俺達は安心なんだよ。あいつ何とか出来るの、お前くらいだからなあ」

何だか大変な事になったな。
思いながら英二は岩崎に言った。

「自信も無いです、確約も出来ません。けれど最善は尽くしますね」
「すまんな宮田、頼んだよ」

そんな感じで、英二は国村に強奪されて武蔵野署へ付き添った。
そして心配通りに国村は逃亡して、英二は担当官に頭を下げる破目になった。
あのときは安本にも迷惑をかけた。こんど飲むときは礼をしなくてはいけない。
けれどまだ「犯行」と呼ぶほどの迷惑では無かった、良かったなあと後藤と岩崎は喜んでいた。

でも何だってまた、と英二は思う。
そんなに心配する癖に、どうして青梅署は国村を選出したのだろう?

とりあえず今日は、機嫌よく射撃訓練を終わらせている。ちょっとズルはしたけれど。
でも新雪が積もったら。きっとまた国村は逃亡するだろう。
そして逃亡先の雪山に、英二も引っ張りこんで楽しむ気でいる。
まあ、それはまだ構わない。困らされるけれど、きっと楽しいだろう。

けれどもし周太と会う日と、国村の雪山逃亡が被ったら。
それはさすがの英二でも、本当に困ることだった。
周太とはもちろん会いたい。けれど国村を野放しにするのは危険だろう。
どっちを自分は選択するのが最善かな?そうなったら、どうしたらいいのだろう?

「宮田、なにボケっとしてんのさ?」

考えながら歩いていた横から、英二は国村に小突かれた。
振り向いて英二は、いつも通りに微笑んだ。

「え、あ、ごめん。ちょっと考えごと?」
「ふうん。なんだか珍しくシリアスな顔だよね、でもエロ顔にもなってるよ」
「やっぱり解る?」
「うん、解りすぎ。宮田ってさ、彼の事だと顔に出まくりだよね」

楽しげに国村は笑っている。
こうして好きに山を歩くときの国村は、どんな天候でも楽しげで機嫌が良い。
雨なら雨で喜ぶし、風なら風とうまく遊びながらバランスも崩されず歩く。
ほんとうに国村は山の申し子みたいだな。いつも英二は、すこし不思議で感心してしまう。

「あ、ここから巡視路に入るよ?登山地図だとここだね」
「うん、ちょっとメモさせて」

クリップボードの登山地図と手帳を、お互いに示しあう。
メモを終えるとまた歩き始めた。
初冬の落葉深まる森に、落葉くずれる乾いた音がひっそり響く。
葉の少ない梢から木洩陽が、細い巡視路を照らしてくれる。

「ミズナラもブナも、ほとんど黄葉も終わったな」
「うん。冬の休憩期間にね、山も入っていくな。そしたら雪山だよ」

雪山、と言って細い目が笑っている。
国村の細い目は、いつも底抜けに明るい。
無礼なハイカーには、冷静に怒りをぶつける事がある。
けれど底抜けな明るさは、そんな時でも全て消えることは無い。

「雪山、最初はどこから行くんだ?」
「うん、ここ雲取山だろね。東京最高峰から始めよう」
「あ、そういうのカッコいいな」
「だろ。たぶん今年もさ、12月中旬には積り始めそうだよね。あと2週間くらいだな」

そんな他愛ない話をしながら、道の崩落や立木の様子を確認していく。
そのとき英二の目に、一本のミズナラの幹に傷が見えた。先週の天祖山訓練で見た爪痕と似ている。
いちおう確認したい、英二は立ち止まって幹を眺めた。

「これ、ツキノワグマの爪痕?」

横から国村も覗きこむ。
すぐに軽くうなずいて、楽しそうに微笑んだ。

「うん、そうだね。この爪痕のクマはさ、たぶん俺、知ってるヤツだね」

クマに知りあいがいる。
なんだか国村らしい。そんな山の申し子に英二は訊いてみた。

「なに、クマの知りあい?」
「うん、まあね。でさ、」

すっと国村は指で爪痕を示す。
その指先を英二が見つめると、国村は英二を振返った。

「ここ、まだ樹液が湧いているだろ?生傷のままなんだ。だからね、きっとまだ近くにいるな」

ツキノワグマが近くにいる。
ちょっと英二は驚いて、国村の顔を見た。

「じゃあさ、そのクマに会えるかもしれないってこと?」
「うん、たぶんね…ん、?」

国村はそっと登山グローブを外し、人差指の先を舐めた。
その指を目の前に立て軽く頷くと、静かに英二の腕を掴んだ。

「宮田、こっちだ、」

英二の腕を掴んだまま、国村は藪の翳へと身を潜めた。
そっと片膝ついて、細い目が藪を透かしミズナラ林の奥を見ている。
その視線を英二も追って、藪の向こうを透かし見た。

「…ツキノワグマ?」

英二の言葉に、静かに国村は頷いた。
2人の潜んだ藪の風上、30m程先をツキノワグマは歩いていく。
そっと国村の細い目が楽しげに動いて、英二を見て言った。

「宮田、気配消して」
「気配?」

そうだよと細い目で笑って、静かに国村は頷いた。
どうやるのだろう?目だけで英二は訊いてみる。
その英二の目を見ながら国村は、すっと人差指を自分の口許にあてた。

「…木の呼吸とね、自分の呼吸を合わせる」

ひっそりと呟くように教えると、国村は細い目を少しだけ伏せた。
ゆるやかな呼吸になると、国村の気配があわくなっていく。

…国村?

そうして英二の横で、国村の気配は森に融けこんだ。
きちんと国村の姿は見えている、けれどいつもの国村とは気配が違う。
どうなっているのだろう?不思議なままに、英二は小さく訊いた。

「…木の呼吸?」
「…うん、宮田ならさ、もう解っているね」
「…そう?」

そうだよと目だけで言って、国村は風に揺れるようひとつ頷く。
そして静かに教えてくれた。

「…山っていいなあってボケっとする、あれが近いな。
 あとは…うん、湯原くんの気配にさ、宮田よく合わせてるよな?あれをね、木とやる感じ」

「あ、…あれか、」

周太といる時は、周太の呼吸に英二も合わせる。
そうやって周太の邪魔にならないよう、気配を潜める様にしていた。
そうか、木の邪魔にならないようにすればいいんだな。思って英二は軽く目を伏せた。

イメージするなら、あのブナの木がいいな

ブナの巨樹を英二は想い浮かべた。
周太と大切な記憶と想いを重ねた、あの大切なブナの木。
ゆるやかに空を抱いた黄金の梢、苔を生かす幹、深く広くはりめぐらす根。

そうして3つ呼吸して、ゆっくりと英二は目を開けた。
ふっと開いた視界は、どこかさっきと違う透明さに佇んでいる。
そのゆるやかな視界をツキノワグマが歩いていく。
それは不思議な空気だった。そして森もクマもみんな同じように穏やかで、きれいだった。
そんな空気に見つめる英二の横で、そっと国村が微笑んだ。

「小十郎だよ、」
「小十郎?」

梢の撓みのような相槌をして、国村は小さく微笑んだ。
そして底抜けに明るい楽しげな目が、ちらっと英二を見た。

「あのツキノワグマの名前なんだ」

のっそりと漆黒の小山が木洩陽を歩んでいく。
体重は90kgはあるだろうか。体格は雄渾で風格が伺える。
なんだか山の神さまみたいだな。そう思いながら英二は、生まれて初めて野生のツキノワグマを見つめていた。

その横では国村が親しげな笑みで見つめている。昔馴染みの友人を見る、そんな眼差しが温かい。
やっぱり国村は山の申し子なのだろう。
そんな国村と友人でパートナーで自分はいる。なんだか英二はうれしくて微笑んだ。

そんなふうに5分ほどすごすと、小十郎は森の奥深くへ消えた。
ゆっくり立ち上がって、英二はほっと空を見上げる。
青空の色が、午後の深い光に変わっていた。すこし急がないといけない。
いくらか急ぎ足の着実な足取りで、小十郎の話題と歩き始めた。

「小十郎はさ、12歳になる雄グマなんだ」
「へえ、俺たちが小五の時には小グマだったのか」
「そ。で、その頃に俺はね、小十郎と初めて会ったんだ」
「どんな出会いだったんだ?」

なんだか楽しそうだと、英二は訊いてみた。
懐かしそうに細い目を笑ませて、国村が教えてくれる。

「うん。両親とさ、春の雲取山を登っていたんだ。
 そしたら斜面をね、黒いボールみたいなものが転がってきたんだ」

「それが小十郎?」
「そ。でね、登山道で止まってさ。むっくり起きあがった小十郎と俺、目が合ったんだよ。
 あいつ、びっくりしてね。また斜面を駆けあがってさ、大急ぎでまた戻って行ったよ」

子供だった国村と小十郎の出会い。
きっと今の2人とは違う、かわいらしい組み合わせだったろう。
なんだか微笑ましくて、英二は笑った。

「それから何度か会っているんだ?」
「うん、さっきみたいな感じでね。あと小十郎はさ、奥多摩ツキノワグマ研究グループの研究個体なんだよ」
「それで耳にタッグついていたんだ?」
「そ。だからさ、成長しても見分けやすかった。それで小十郎を見なれてさ、俺もクマの見分けがつくようになったな」

クマの見分けまで出来るんだ。
ちょっと英二は驚いて、素直に思ったままを言った。

「へえ。国村ってさ、本当に山の申し子みたいだな」
「ああ、そうかもね。だって俺、山で生まれたしね」

どういうことだろう?
よく解らなくて見ていると、国村が笑って教えてくれた。

「臨月なのにさ、ウチの母親また山に登ってたんだよ。で、そこで俺が生まれちゃったわけ」

国村の両親は、国内ファイナリストのクライマーだった。
その2人はマナスル登頂中の事故で、国村が中学入学の春に亡くなっている。
そんな両親の遺伝子と薫陶を受けた為、国村はトップクライマーを嘱望される素質がまぶしい。
だから国村が山で生まれたことは、至極当然のように英二には思えた。

「国村の母さん、すごいな」
「だろ、」

飄々と国村は笑っている。
底抜けに明るくて、純粋無垢な山ヤの心が細い目にきれいだった。
山で生まれた山育ちの山ヤ。国村らしい、なんだか英二はうれしくて笑った。
笑いながら、ふと訊いてみた。

「ところでさ、どこの山で生まれたんだよ?」
「うん、ここだよ」
「え、ここって雲取山か?」

軽く頷いて、歩きながら国村は山頂を指さした。

「そ、ここの天辺だよ」
「なに、山頂で生まれたのかよ?」
「そ、」

何でもない事のように、さらっと国村は笑った。
笑いながら国村は話してくれる。

「母親さ、近所だからいいかなって登ったらしい。それで山頂に着いて、富士山を見てさ。
 俺の母親はね、富士山が好きでさ。その時も富士山を見てね、爽快だなって伸びをしたらしい。
 それがさ。元気いっぱい思い切り伸びして、力んだもんだから産気づいてね。で、俺が生まれちゃったんだ」

山頂で出産だなんて。
あまりに規格外な友人の出生に、英二は呆れて驚いた。

「産湯とかは、どうしたんだよ?」
「うん、奥多摩小屋で使わせてもらったらしいよ。で、山岳救助隊にね、母親と一緒に病院へ搬送されたんだ」

なんだか随分と規格外な状況ばかりだ。
そして想定外に過ぎるだろう、驚いたままで英二は訊いてみた。

「東京最高峰の山頂で、日本最高峰を見て生まれて。
 で、東京を見下ろして産湯に浸かって。そうして生まれてすぐに、山岳救助隊に救助されたってこと?」

「うん?そうだね、そういうことになるか」

国村は自由人だ。
冷静沈着で怜悧けれど豪胆。
底抜けに明るい目で真直ぐに見つめている。
山や自然への畏敬をルールに生き、人間の規範には執われることがない。

そんな国村は、出生まで山と自然に帰属する。
日本最高峰の富士山を見ながら、東京最高峰の雲取山頂で国村は生まれた。
そして東京一高い場所の産湯を使って、山岳救助隊に抱かれて人間の街へ降りた。

なんだか本当に国村らしい。
そんな国村が本当に好きだな。うれしくて英二は笑った。

「ほんとにさ。国村って、あくまで『国村らしい』のな」
「うん? そうかな。まあ、そうかもね」

日本の首都の最高峰で生まれた男。
日本最高峰を眺めて生まれて、首都を見下ろして産湯を使った。
国村は出生までが「自由」で人間の範疇外。
そういう男なら。人間の作ったルールも組織も、束縛出来るわけがないだろう。

そういう国村だからきっと、いつも真直ぐに真実と想いを見つめられる。
山ヤの経験浅い英二でも真直ぐ見て、素質を信じてパートナーになってくれた。
そして英二を友人として認め、周太の事も真直ぐに見てくれた。
うれしくて、きれいに英二は笑いかけた。

「国村ってさ、最高の男だよな」

言われて、そうかなと細い目が英二を見た。
それから底抜けに明るい目で、国村は笑った。

「うん、そうだな。最高峰を極められる男にさ、なれたらいいな」
「ああ、きっとなれるよ。国村ならさ」

素直に褒めた英二を、細い目が怪訝そうに見た。
そして至極当然な口調で、国村は言った。

「なに他人事みたいに言ってんのさ。宮田?」
「うん?なんか違った、俺?」

訊いた英二に、国村が笑う。
登山グローブをはめた人差指を、軽く空へ向けて国村は言った。

「俺の山のパートナーは宮田だろ。だから一緒に登ってもらうよ、最高峰にね」

最高峰に自分が。

それは英二にとって憧れだ。
けれど英二は山岳経験も浅い。この数カ月だけだった。
そんな自分にはまだ遥か遠い、そして可能性すらまだ解らない。そんな当に高望の夢。

「…国村それさ、マジで言ってる?」
「当たり前だろ?俺はさ、思った事しか言わないし、出来ないからね」

そういう国村の細い目は、底抜けに明るく真直ぐだった。
そして確信と誇らかな自由が明るく笑う。
きっと本当に、本心から国村は言ってくれている。

そして本当は、英二自身もそう出来たらいいと思っている。
だって山岳救助隊に憧れて眺めた、たくさんの山の写真。どれも強い引力で英二を惹きこんだ。
だから本当は思っている、いつか自分もその世界へ立ってみたい。

「国村はさ、俺にも出来るって思うんだ?」
「もう宮田も解っているだろ?本当に思わなかったらさ、俺は言わないよね?」
「そっか、」

規格外に最高ずくしの国村は、きっと最高のクライマーになるだろう。
その男が自分を「俺の山のパートナー」と断言して、最高峰へと誘ってくれる。
きっとこれは望外の喜びというやつだ。
そしてそこを目指したい意思。その想いはもう今既に、英二の肚に座りこみ始めている。

やってみたい。

静かに英二は国村に向き直った。気がついた国村も、英二へと顔を向けてくれる。
英二は真直ぐに国村の目を見た。

「国村、俺をトップクライマーにしてくれ。そうしたら山のパートナーをさ、一生やるよ」

細い目が底抜けに明るく笑う。
心底から楽しげに、国村が笑って言った。

「うん、いいよ。たぶんね、俺は厳しいよ。でも宮田ならさ、大丈夫なんじゃないの?」

いつもの軽快な口調。けれど国村は一言ずつが真実だ。
底抜けに明るい目。けれどその奥は真摯で、真直ぐに真実と想いを見つめている。
こういう男を信じていくことは、きっと正しい。きれいに笑って、英二は言った。

「うん、俺なら大丈夫。だから国村、俺が一緒に最高峰へ登るよ」
「ああ、よろしく頼むな。アイザイレンパートナーがいる方がさ、最高峰も楽しいからね」

ここは雲取山、東京の最高峰。
そのミズナラの森で誓約をひとつ結んだ。相手は最高峰を極めていく男。
その男は機嫌よく笑って、こんな事を言った。

「楽しみだな、雪山も、最高峰もさ。どっちも一緒だからね、準備よろしくな宮田」

一年前の自分が今を見たら、一体なんて言うのだろう?
馬鹿にするのだろうか、それとも羨ましくて皮肉を言うだろうか?
けれど今はもう素直に生きている、だから率直にしか自分は考えない。

「おう、国村。準備の手伝い教えてくれよな?」
「もちろんだよ、アイザイレンパートナーだからさ。宮田に足引っ張られると、マジ困るからね」
「だな、」

こういうのは悪くない。そして楽しい。
今夜の電話では、この事をどう周太に話そうか。そう考えるのも楽しい。

自分はずっと周太の隣から離れない。
そうして周太を守って、あの笑顔を見つめる為に生きていく。
どんな時も、どんな場所からも、必ず周太の隣に帰ること。
いつか必ず、ふたり一緒に暮らすこと。
そんな絶対の約束は、何があっても自分は果たすだろう。

その傍らでもう一つ。
最高峰を登るという誓約を守ること。
最高峰を極める運命、それが国村が生まれ生きる意味だろう。
そのパートナーに選ばれた。その運命にともに立つことが今、決められた。

警察学校で見た、雪山の山岳救助隊の姿。

白銀の世界に立つ、スカイブルーのウィンドブレーカーの背中。
厳しさに真直ぐ生きる男の誇りが、大きく眩しかった。
峻厳な山の生死を見つめ、山の救助に懸け、山ヤの誇りに自由な心を持つ。
山ヤの警察官の誇り高らかな背中。

そして誇らかな自由が、そこに想えた。

自分もこの姿で生きられたら。
心の底から想いが昇って、当たり前のように肚に座った。

自分もこの姿に生きていこう。そうして生きる意味、生きる誇りを見つけたい。
そんな強く誇らかな自分になれたら、きっと周太のことも救けられる。
そんなふうに想い、想いのままに願って、掴む努力を続けてきた。
そうして今ここに、最高峰の男と誓約が出来た。

それは危険も多い誓約、周太をまた心配させるだろう。
けれどどうか信じてほしい、必ず隣に帰ることを。
そうして見つめていてほしい。きっと自分はこの誓約で、もっと強くなれる。
そうして強くなって、大切なひとの全てを守れる自分になれるだろう。

そうして結局、自分はいつも周太ばっかり見つめている。
そうして周太を見つめたから、最高峰への誓約も自分は結ぶことが出来た。
きっと周太に出会えなかったら、今ある全てはどれも得られなかった事ばかりだろう。

山岳救助隊員として救助に誇りをかけること。
最高峰を極めるトップクライマーの、アイザイレンパートナーとして誇りに生きること。
そして唯ひとりを愛し守っていく、穏やかで温かい幸せな約束を守ること。

すべては周太との出会いが始まり。
いちばん大切で抱きしめたい、愛している、いつも、どこにいても想っている。
そしてどこからも必ず、隣に帰りたい。

だからね周太、こんな夢を俺は持ったんだ。
最高峰から俺はね、周太の事を想ってみたい。
そうして最高峰から想いを届けて、最高峰から隣に帰りたい。
必ず帰るから、この夢を叶える事を、どうか許してほしいよ。




blogramランキング参加中!

ネット小説ランキング
http://www.webstation.jp/syousetu/rank.cgi?mode=r_link&id=5955

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 第25話 山音act.1―side stor... | トップ | 第24話 山霜act.5―side stor... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

陽はまた昇るside story」カテゴリの最新記事