花によせる想い
第28話 送花―another,side story「陽はまた昇る」
ぱちん、
静かな庭に花切ばさみの音が響いた。
凛然と咲く真白な山茶花の下で、つぼみの一枝が梢から離れていく。その花枝を周太はそっと掌へと受けとめた。
濃緑の葉5枚に真白い丸みが愛らしい、微笑んで周太はそっと山茶花「雪山」の幹を撫でた。
…分けてくれて、ありがとう。大切にするね
そんな想いに微笑んで、周太は花枝と一緒に家に入った。
切った花枝を用意しておいた小瓶に活け、階段を上がっていく。
自室への扉を開き花の小瓶をデスクに置くと、すこし揺れたつぼみは部屋に静謐と香をもたらした。
広がっていく花の香が懐かしい、そっと周太は微笑んだ。
この花を新宿の自室に持ち帰りたくて今日は、術科センターの訓練後ひとときだけど実家の門を潜った。
明日は御岳を愛した山ヤ、田中の四十九日を迎える。面識は無いけれど、田中の生き方は憧れ温かい。
だから田中に敬意を表したくて、周太は花を切りに今日は実家に帰ってきた。
この花は周太の誕生花、そして亡くなった父が遺してくれた花。その父も山を愛し奥多摩を歩いていた。
そんな父が田中を迎えたら、きっと仲良くなるだろうな。そんな想いの花に周太は微笑んだ。
「…ん、きれいだな」
この山茶花「雪山」と同じ花木が、御岳山にも梢を広げている。
その御岳山を愛した田中のために、周太はこの花を捧げたかった。
明日は四十九日、田中はこの世に別れを告げて逝く。
明日は田中がこの世を見つめる最後の時、せめて御岳にも咲くこの花で周太は送りたかった。
「ん、」
眺める花から顔をあげると、周太は木造りの襖扉から伸びた木梯子に足を掛けた。
もう古い木梯子はまだ頑丈なままでいる。この梯子も周太の父が造ってくれた。
梯子をあがりきると天窓から光が温かい。周太は壁際の窓を開くと鎧戸を開けた。
ゆるやかな小春日和が屋根裏部屋へと風にながれこむ。
ふっと懐かしい花の香が頬を撫でて、しずかに部屋を香にひたした。
見おろす庭の門には、南天の赤が陽だまりに温かい。家に帰ってきているな、そんな想いに周太は微笑んだ。
しばらく窓辺の陽射に目を細めてから、周太は無垢材の本棚に向き合った。
幼い頃から親しんだ本達が並んで迎えてくれる、その中から植物図鑑を一冊抜き取った。
窓へ向かうロッキングチェアーに座りこんで、ポケットのiPodをセットしてゆっくりページを繰っていく。
ちょうど初冬の今を描いた巻、きれいな挿絵と写真にわかりやすく草木の特徴が書かれている。
そこには奥多摩の山でみた草木の冬姿も佇んでいた。3週間と少し前にふれた草木達が、今は本の中で息づいている。
なつかしいな、そんな想いで眺めていくページに、周太の瞳がふっと止まった。
そこは木洩陽あざやかな落葉松の、黄葉の情景が満ちる光まぶしいページだった。
When,in a blessed season
With those two dear ones-to my heart so dear-
And on the melancholy beacon,fell The spirit of pleasure and youth's golden gleam
祝福された季節に、
愛しい私の想いの人と、ふたり連れだって…
そして切なき山頂の道しるべ、その上に。あふれる喜びの心と、若き黄金の輝きとがふり注いだ。
あの雲取山。落葉松の森で見つめた隣、唯ひとつの想いに見つめるひと。
あの日あのひとは、金色の木洩陽に照らされ深紅あざやかなウェア姿がきれいで。
その白皙の貌にふる光に端正な深みの表情、黄金の森ゆるやかに陽光透ける髪。
「…ね、英二。いま、駐在所で笑っている?」
ながめる落葉松のページに、大切な記憶を重ねて周太は微笑んだ。
もう1ヶ月近く逢っていない、けれど姿も表情も心あざやかなまでいてくれる。
おだやかで温かい静謐、きれいな低い声、深い落ち着いた香。
「逢いたいね、英二…」
ふっと慕わしさに呟いて、周太は微笑んで落葉松を見つめた。
ゆるやかな初冬の陽だまりが揺椅子を温めていく。
ゆったり図鑑を眺めながら、周太は穏やかな眠りに包まれていった。
新宿署独身寮の自室で、風呂も済ませた周太はデスクライトを点けた。
あわいブルーの光の下で、つぼみの山茶花は真白に輝いている。
つややかな常緑の葉に灯りが弾けるのを眺めながら、周太は手帳を開いた。
開いたページには、りんどうの青い凛とした姿が一葉、きれいにはさまれている。
それは、田中が最期に写した御岳の花の写真だった。
冷たい氷雨を花に戴きながらも、ひとすじの陽光に輝く青い花。
どんな境遇にも微笑んで立つ、そんな強い意思と温もりが感じられてくる。
この写真を雨中に撮った為に田中は、冷たい氷雨にうたれ山に抱かれる眠りについた
それでも。山の氷雨に抱かれても、花の生命と山への想いを写したかった。
そんな田中の山を愛する想いが、青い凛とした花から匂いたってくる。
―褒めてくれて、嬉しかった。じいちゃんならきっと、あげたよ
この写真を周太は、田中の葬儀で出会った孫の秀介から受けとった。
あの小さな掌を通して山の美しさを語りかけてくれた田中。ほんとうに会ってみたかった。
けれどきっと明日の夜を越えて、田中は周太の父と会うだろう。
そしてきっと奥多摩や他の、山の美しさを話して楽しんでくれる。
…ふたりで山の話を、ゆっくり楽しんでくださいね
この青い花に顕れた山の生命の姿。
写しとられた花の姿も、写した人の心も。それを渡してくれた心も、全てがいとしい。
いつか自分も田中のように、おだやかな瞳で山と草木を愛して生きて、そして静かに眠りを迎えられたら―
そんなふうに自分も生きられたら―そんな憧れは心に温かい。
それまでには父の軌跡を追う日々が横たわる、それは辛く冷たい現実に向きあう道になるだろう。
けれど「いつか」を信じられるなら、きっと自分は越えて行かれる。
だってもう自分は決めている、その「いつか」をあの唯ひとり愛するひとに捧げて生きること。
だからきっと自分は信じて越えていくだろう、それを父だってきっと見つめてくれている。
そしてきっと田中も父と見てくれる、だってこの大切な花の姿を贈って励ましてくれたひとだから。
「…どうか、見守ってください」
ぽつんと呟いて周太は、そっと写真を白い花の許へと並べた。
必ずまた奥多摩に山に、自分も花や木に会いに行こう。青い花の姿を見つめながら、周太は静かに微笑んだ。
その視界の端で携帯に、ふっと着信ランプが灯った。
「…あ、」
おだやかな曲が流れだす。
ほんの1秒聴いて周太は携帯を開いた。
「周太、考えごとしてた?」
きれいな低い声が訊いてくれる。
大好きな声が今夜も聴けて嬉しい、周太はそっと微笑んだ。
「…ん、りんどうのね、写真を見ていた」
「うん…そっか、周太も見ていたんだ」
きれいな低い声が少し寂し気でいる。
きっと逝った人を偲んでいるのだろう。おだやかに周太は訊いてみた。
「ん、英二も見ていたね?」
「うん。懐かしくってさ、田中さんと話したこと。それが今夜はね、周太。なんだか全部が蘇ってくるんだ」
ふっと懐旧と寂寞が電話の向こうに漂ってくる。
英二の想いに寄り添いたい、そんな想いに周太は口を開いた。
「それはね、英二。きっと明日が四十九日だから、かな?」
「うん、周太?四十九日だと、なのか?」
「ん、そう。四十九日はね、英二。亡くなったひとがね、この世に別れを告げる日なんだよ」
四十九日はこの世から別れる日。そんなふうに周太も母に教わった
13年前の初夏の日、父の四十九日の夜。母は「お父さんはね、きっと今夜に旅立つの」そう寂しげに微笑んだ。
けれど翌朝になっても、父の気配は書斎に遺されたままだった。
母は四十九日に父は去ると言っていた、けれど父はきっと書斎に座っている。それが周太にはうれしいと思えてしまった。
そのままを周太は母に告げると、母は内緒話のように、そして寂しげに微笑んだ。
―お母さんがね、お父さんを引き留めてしまった。そんな気がする、な―
そして母はそれ以降、夜は家を無人にする事を避けるようになった。
そうして母は旅行にも行かず、13年間をずっとあの家で過ごし続けている。
だから周太の誕生日に母が急に旅行へ行ったのは、周太には驚きと、そして安堵が温かかった。
そんな母の変化には、このいま話している隣が影響している。その影響は温かく母を笑いへと誘っていく。
ほんとうに自分たち母子は、どれだけ英二に救われているのだろう?そして自分はどれだけ想ってしまうのだろう?
「四十九日って、そういう日なんだな。じゃあさ、周太。だから国村は明日、雲取山に登りたいのかな」
「ん、…奥多摩の最高峰からね、田中さんを見送りたいのかも、ね?」
田中は奥多摩の御岳在住の山ヤだった。
そして国村にとって田中は親戚で、一流のクライマーになる基礎を教えてくれた人だと聴いている。
だから国村だったら自分の山の師である田中を、奥多摩の最高峰から送りたいと思うだろう。
「うん、きっと周太の言う通りだな。
…うん、俺もそうやって見送れるのはさ、うれしいな。俺にとってもさ、田中さんは御岳と山の先生だったから」
「ん、…そうだね、英二?」
「うん、」
頷いた英二の、すこし笑った気配が感じられる。
そんな微笑みが動いて、英二が話し始めた。
「卒業配置で着任したばかりだった俺にさ、田中さんは御岳の写真を見せてくれたんだ。
そしてね周太、田中さんが歩いてきた山の話をしてくれたよ。どの話も、田中さんの山へよせる想いが温かかった」
「…ん、」
しずかに周太は頷いた。
きっと英二はいま、四十九日の意味を知って惜別の想いにいる。
いまはただ愛するひとの想いを聴かせて欲しい、そっと周太はベッドへと座りこんだ。
「そんなふうにね、周太。田中さんは『山ヤ』の素直な姿を、俺に学ばせてくれたよ。
田中さんとは3週間くらいのつきあいだった、けれどその3週間はね、…周太、
きっと、山ヤとして俺がね、…生きていくためにはさ…大切な時間だった。そんなふうに思うんだ」
話してくれる英二の言葉に、かすかな吐息がまじっていく。
きっと哀しみと衝撃の記憶がいま、英二に蘇っているのだろう。
あの氷雨の夜に田中が息を引き取ったのは、捜索に出た英二の背中だった。それでも英二は涙を流さずに飲みこんだ。
「ん、…そうだね、英二。大切なね、時間が嬉しかったね?」
「うん、…ほんとうにそうだよ、周太。俺ね、うれしかった。
田中さんは温かくって、ほんと頼もしい山ヤの先輩だったんだ。
新人で経験も少ない俺をね、励ましてくれて…だから俺、駐在所に田中さんが尋ねて来てくれるの、うれしかった」
あの夜。息を引き取った田中を、国村が背負い英二が付添って下山した。
そして山ヤの警察官の誇りに微笑んで、遺族の悲しみを英二は受けとめた。
「…ん、素敵な先輩だね、田中さん」
「うん、そうなんだ周太…俺ね、ああいう温かいさ、山を真直ぐ愛するようにね…なりたいんだ」
「ん、英二ならね、きっとなれる。俺はね、そう信じてる」
「…うれしいな、周太。周太がね、信じて…くれるなら俺はさ。絶対だいじょうぶ…って想える」
いつもにない英二の言葉の硲にゆれるもの、それが涙飲む瞬間だと自分には解る。
きっと明日の四十九日も英二は自分の涙は飲みこむ、そして田中の遺族の哀しみに静かに微笑んで立ち会うのだろう。
どこまでも実直で温かい英二、やさしい穏やかな静謐で哀しみを受けとめて、きっと明日も微笑むだろう。
きっと秀介を抱きとめて、そして国村さえも英二は抱きとめるだろう。
だから今このとき自分こそが英二の涙を受けとめたい、周太はそっと英二に告げた。
「英二?今夜はね、電話は繋げたままでいて?」
しずかに告げた言葉に、そっと電話の向こうが揺れた。
きっといま英二の、きれいな切れ長い目から涙がこぼれる―そう周太には感じられてしまう。
ほら、きっとすこしだけ。答える声はもう、すなおにふるえるでしょう?
ふっと周太は微笑んだ。
「ね、英二?俺にはね、そのままで良い…思ったまま感じたままをね、いつも伝えて?」
「…周太、…っ」
繋げた電話の向こう、涙をこぼす気配がきこえる。
ねえ素直でいて?そして名前を呼んで、俺を頼って?
「英二、俺はね…英二を愛してる。唯ひとりだけ愛している、俺には英二だけ。…だから英二、俺にだけは甘えて?」
「…うん、…っ周太、」
もう涙は素直に出ているね?
そう、それでいい。俺には素直なままでいて?
電話で繋げた想いに、おだやかに周太は微笑んで唇を開いた。
「俺はね、英二を守りたい。愛するひとをね、…俺こそが守りたいんだ。
だからね、英二?俺を頼って、俺の名前を呼んで。…そして俺の前でだけはね、素直に涙も見せて?」
「…ん、周太にはね、俺…そのまんまだ、よ…っ…」
涙ふるえる心が繋げた電話ふるわせていく。
ほんとうは今だって抱きしめたい、この愛するひとを涙ごと肩を抱いて泣かせたい。
けれど今は警察官の立場と任務に縛られて、自分は傍にいてやれない。
「ん、英二。いま一緒にいれなくて、ごめんね。ほんとはね、抱きしめたいんだ、…英二のこと」
「うん、…うれしい、よ…俺こそね、時間ずっと、ごめん…でも、俺、…周太のこと、…ほんと愛してる」
だからせめて心だけは、繋いだ電話で抱きしめていたい。
だから想いを伝えて?いつも深く収めた想いすら、いまは言葉にしてほしい。
そうして泣いて俺を頼って?いつも援けてくれる英二、いまこそ甘えて泣いてほしい。
「ん、愛してる、英二。だからね、繋いだ電話でね、心だけでも抱きしめさせて?
だから英二、我慢しないでほしい。言いたいこと、想っていること、全部をね、言ってほしい」
「全部、…いいの?周太、」
そう、全てを言ってほしい。
だって言ってくれたでしょう?この自分の隣だけが、あなたが帰ってくる場所だって。
だから言ってくれたままで、今このときも帰ってきて?
そんな想いに周太は、きれいに微笑んで言った。
「だってね、英二が言ったんだ。英二の帰ってくる場所は俺の隣だけ、だからね英二、俺だけには素直な想いを言って?」
「…うん、周太だけ、…だよ俺は、さ」
そう、自分だけ。
そう言われた時どんなに誇らしかっただろう。
だから言ってほしい、頼ってほしい。あなたの唯ひとつ帰ってくる場所だから。
きれいに笑って周太は愛する隣に教えた。
「だって英二はね、そのままの姿でね、ほんとうに…素敵だよ。
だから、素直な想いを言ってほしい、そのままの英二をね、俺は愛している」
そう、愛している。
そのままの姿で愛している、もうずっとそう。
初めてその切長い目を見つめて、そこに真直ぐな想いを見つめてしまった。あの初めて出会った瞬間から、ずっと。
あの瞬間に見つめてしまった、真実の姿と心と想いに自分は惹かれ、そして愛してしまったから。
「そのままの、俺を、…愛してくれる?」
ふるえる涙の硲から、きれいな低い声が訊いてくれる。
そんなこと決まっている、どれも愛している。いま聴くこの声も大好きで、ふるえる想いすら愛している。
こんなふうに自分はもう、この隣の全てを受入れ始めている。だから離れている今だって全て受けいれてしまう。
そんな自分だから話してほしい、そっと周太は答えた。
「ん、英二…いつだって、どこでだって、そのままの英二をね、俺は愛している」
電話の向こうに温かな心が微笑んだ。
そう、微笑んでほしい。だって愛している、笑っていてほしい。
いま隣は涙にしずんでも自分こそが寄り添いたい。そして涙を流した隣の記憶すら、温もりの記憶に変えていたい。
「今夜はね、電話を繋いだままでいる。だからね、英二?いま想うこと、そのまま全部話して?」
想いを、告げられた。
そう、いま自分こそ、きちんと想いを伝えられた。
前はきっと言えなかった、こんな素直に思ったままは。
けれど今はもう抱いている、ひとつの勇気が奮って、もう自分を籠らせない。
さあ英二?俺はもう勇気があるんだ。
だからね英二?我儘だって受けとめたい、だから話して聴かせて?
そんな想いの周太の心へと、英二の温かな涙がこぼれるように電話で繋げられていく。
そうして周太へと、きれいな低い声が泣きながら言ってくれた。
「…っ、周太、あいたい…ほんとは今日だって、俺、…あいたくて…でも、今日も俺、時間なくて…でも、っ」
雲取山に登って新宿でわかれて、もうじき1ヶ月。
その1ヶ月の英二は、山ヤの警察官として生きていた。
とくに12月を迎えて後の2週間は、ほんとうに全て懸け切って。
日勤と当番の日には山岳救助隊員として駐在員として駆けだしていく。
非番の日には射撃訓練と山岳訓練に明け暮れて一日を終える。
週休の日には山岳技術の個人指導を受ける、それから遭難現場と救命救急の知識と技術を磨く。
ずっと全ての時間を「山ヤの警察官」として英二は使った。
余暇をも全て遣いきって、そうして全力で英二は自分の成長に懸けた。
その真剣な姿勢をつき動かしていく、なにか強く願う「想い」がきっとある。それが周太には解ってしまう。
それをいつか話してくれることを、しずかに信じて周太は待っている。
「…ん、俺もね、あいたいな。でも英二?だいじょうぶ。いつだって繋がっている、そうだよね?」
「うん、…っ、繋がってる。俺はね、周太。いつだって、周太ばっかり見てる…だから俺、この1ヶ月…がんばれた」
「ん、知ってるよ?いつもね、英二は見てくれる。俺もね、英二を見てるから…だから大丈夫」
明日は田中の四十九日。
そのための涙から英二は口を開いてくれた、けれど今ほんとうに英二の心に懸るのは?
きっとこの1ヶ月を2週間を、真摯に時間を遣いきらせた「想い」のこと。
そのことにもう自分はずっと気づいている。
そしていま英二はその「想い」を告げたくて泣いている。
「…っ、でも、…いますぐだって逢いたいんだ…あってね、周太に伝えたいこと、いっぱいある、んだ」
告げたい「想い」告げられない。
それは「逢って伝えたい」そういうことが理由。
だから解ってしまう、きっと大切な「想い」を告げてくれること。
そしてその「想い」はきっと決断が必要なこと、だから英二は逢って伝えたい。
「…ん、きっとね、逢えるよ、英二?そして伝えられる、」
きっと自分にとっても決断が必要なこと、そんなふうに解ってしまう。
だって自分だってもう、ずっとこの隣を見つめているから。
だからいま懸けるべき言葉、それを見つめて告げてあげたい。おだやかに周太は唇をほころばせた。
「きっと英二が伝えてくれること、俺はね、…信じて待っている。だからね、きっと逢える。ね、英二?」
そう、信じている。
だって自分がいま一番に出来ることは、愛する隣を信じていること。
だから信じている、愛しているから信じられる。だって約束は必ず守るひとだから。
だから自分のことも信じてほしい、あなたを受入れるってこと。
そんな想いの周太へと、電話の向こうから英二は告げてくれた。
「うん、逢えるな…きっと俺、時間作るから。周太、俺を待っていて?」
告げる声が笑ってくれる。きっと今は英二は笑っている。
そう、きちんと泣いて?そして笑って?
心から願っている、笑ってほしい。あなたの笑顔はほんとうに、自分にとって喜びだから。
英二の笑顔がうれしくて、きれいに笑って周太は答えた。
「ん、ずっと信じて、俺はね、英二を待っている」
翌朝の目覚めはさわやかだった。握りしめたままの携帯を、見つめるよう周太の瞳は披いた。
ゆっくり瞳を動かして見た窓は、まだ暗い夜へと沈みこんでいる。
ずっと握りしめる携帯に時間表示を出すと、AM5:00と画面に灯った。
そのまま耳元に受話口をあてると、穏やかな寝息が聴こえている。
きっと涙の跡がついたまま、けれど微笑んで英二は眠りまどろんでいるだろう。
その顔を想って微笑んで、そっと周太は携帯を閉じた。
「…ん、」
まだ早い時間、それでも周太は起きあがった。
しずかに窓を開けると夜明け前の冷気が頬を撫でる。その空気にはどこか湿気が感じられた。
もしかしたら今夜は雪が降るのだろうか?そんな想いがひやりと周太の心を撫でた。
だって今日は田中の四十九日。その夜を送るために英二は、国村と雲取山へ登る。
でもきっと大丈夫、ベテランの国村も一緒だから。
「ん、…だいじょうぶ」
だいじょうぶ、だって信じると昨日も告げてしまった。だから信じて今日を、自分も笑って過ごせばいい。
いつでもあの隣が、この自分を頼って甘えられるように。そのために自分は今日も不安に負けないで笑っていたい。
そんな想いにきれいに笑って、周太は窓を閉めた。
一日の業務を終えて、周太は東口交番から新宿署への帰路についた。
平日の真中の今日は道案内がすこしだけ。だから資料整理がずいぶん片付いた。
よかったなと思いながら歩く視界の端に、ふっと光のいろが掠めこんだ。
その光に誘われるよう振り向くと、周太の瞳にイルミネーションの輝きが映った。
あわいオレンジ色、あわいブルー。それから白い雪のイメージ。
あの1ヶ月ほど前。英二と歩いた光の通り道の入口だった。
あの夜はイルミネーションの白さが、ホワイトクリスマスの雪だと辛く感じて。
けれど今はもう、雪だって良いと思える。
だってゆうべの電話で英二は言っていた「新雪の雪山をね、俺も見てみたいんだ」そんな山ヤの願い。
だから今はすこし願ってしまう、どうか今夜の雲取山へ新雪がふり積もりますように。
そうして愛するあの隣へと、その美しい姿を見せて心から笑わせてほしい。
けれど雪山お願いがある、どうぞあの隣を無事に返してください。
どんなにあの隣が雪山を愛しても、冷たいその懐には抱きとらないでいて。
どんなにあの隣が山ヤの「本望」その生きざまに憧れても、どうか自分の隣に帰してほしい。
そんな願いのなか歩いて、周太は新宿署併設寮に近い街路樹の下に立った。
すこし奥まった樹影へと静かに周太は入ると、そっと梢を見上げてみる。
常緑の梢ゆたかに繁らせて、寒い夜空にも穏やかに木は佇んでいた。
この場所で英二は1ヶ月程前に、周太と絶対の約束を結んで微笑んだ。
―だって俺の帰る場所は、周太だけ。俺はね、周太ばっかり見つめて愛している
だから周太、いつか必ず、俺と一緒に暮らして? その絶対の約束がね、俺、今この時にほしい
それは「絶対の約束」そして2つめ。
1つめは「絶対に周太の隣に英二は帰る」そんな温かい約束。
そしてきっと次に逢う時は3つめを約束して繋いで結ぶ。そんな確信がどこか周太には座っていた。
いつものように21時に携帯の着信ランプが灯る。
資料を眺めるデスクライトの下で、白い花の隣に置いた携帯に掌を重ねて握る。
そっと開いて耳に受話口を当てると、すぐ周太は話しかけられた。
「湯原くん?こんばんは」
英二の声じゃ、ない。
いったいどういうこと?
どうして英二の着信音で、違う人の声が聴こえてくるの?
すこし混乱に驚く周太の耳に、愉しげな声が話しかけてくる。
「湯原くん、俺、国村だけど?」
「あ、…はい、あの…?」
今夜は英二は、国村と雲取山避難小屋に泊まる。
山岳経験の少ない英二のために、雪山でのビバーク訓練と避難小屋の遣い方を教える予定。
そして田中の四十九日を、奥多摩最高峰の雲取山で送っていく。だから英二と国村は一緒に今いるだろう。
けれどどうして国村が、英二の携帯から電話してくるのだろう?
「ひさしぶりだね、湯原くん?なんかさ、射撃大会では俺、ライバルになっちゃったね」
「あ、ん。それはね、英二にも聴いたけれど…あの、なぜ、英二の携帯なの?」
なぜ英二の携帯で?一番に気になることを周太は訊いてみた。
この国村の声のトーンは愉快げでいる、だから英二が事故に遭ったわけではない。
そのことが解るから周太は落ち着いている、けれど気になってしまう。
なぜ国村が英二の携帯で?そんな疑問に首傾げる周太に、さらっと国村は言った。
「ちょっと借りたんだよ。でね、湯原くんと俺はさ、宮田のことでもライバルになっちゃうかもよ?」
「ん、…どういうこと?」
英二のことでもライバル?
よく解らなくて訊き返す周太に、愉しげな声が答えた。
「俺もね、宮田に抱かれちゃったよ」
まっしろになった。
黒目がちの瞳を大きくしたまま周太は固まった。
だってなにをいっているの?言われたことが理解できない、なんていったのだろう?
混乱する心へと携帯から声が笑いかける。
「ずっと逢っていないんだろ?だから欲求不満なんだよね、最近の宮田って。
しかも山は人気が無いからさ、宮田も『あのとき』になりやすかったみたい。
で。俺、抱かれちゃったんだ。そんなわけでさ、湯原くん。ちょっと借りちゃったから」
あのとき?
よっきゅうふまん?
人気が無いから?それで?…抱かれちゃった?借りちゃった?…
なにをいわれているの?どういうことなの?そんな言われる単語に心迫あげた瞳が潤んでいく。
それでも周太は唇を開くと、つまりそうな質問を押し出した。
「あ、の、…借りちゃったって、…英二を?」
こんな混乱の質問に動いた声は、もうきっと涙声になっている。
そんな質問に携帯の向こうが笑って、いつもの明るい調子で答えた。
「うん、そうなんだよね。ちょっと借りちゃった、居心地良かったよ。ごめんね湯原くん?」
居心地良かった。そんなの、
「…っ、」
どうして?
きのう傍に行けなかったから?
それともずっと逢えていないから?いったいどうして?どういうことなの?
だって昨日も言ってくれていた、時間を作るって待っていてって言ってくれた。
それなのにどうして?そんな混乱と哀しみに、周太の視界に水の紗が降りはじめた。
でも、今日のメール。
12月25,26に逢える、そんな約束のメール。
あのメールを見た時に思えた、きっと25日には自分は英二の「想い」を聴くことになる。
そんな確信がそっとすわってから、勇気が心をおだやかに仕度し始めた。
「…ん、」
その勇気が今だって温かい。
だから思える、この混乱はきっと嘘。きっとまた国村に転がされているだけ。
だって信じている愛している、もう離れることなんて出来ない。だから信じて待つしかない。
そうもう自分はとっくに覚悟している。それでも驚いたショックの涙声のまま周太は訊いた。
「…あ、の…そこに、英二、も…いるよ、ね?…声、きかせて?」
こんな質問は未練がましい?でも訊いてしまう、だって信じているから。
だって英二だから、きっと約束は全力で守ってくれる。だって信じている愛している、だから声で自分には解る。
なにが真実なのか?想いはどこにあるのか?それが全て声を聴けば解るから。
そんな願いの底で、携帯から明るい声が周太に言った。
「じゃ、電話変わるからさ。またね、湯原くん」
そう言って気配が離れた。
そしてすぐに気配が電話の向こうに現れる。
この気配を自分はとても知っている、そして本当は今日もずっと繋ぎたかった気配。
そんな想いの中心で、おだやかな気配が笑ってくれた。
「国村がさ、号泣したのを抱きとめたんだよ。周太?」
ほら、やっぱりそうだった。やっぱり転がされただけ。自分が信じた通りだった。
よかった、うれしくて周太は微笑んだ。
それでも今は英二から訊きたくて、そっと周太は訊き返した。
「…え?」
短い質問に、電話の向こうが微笑んでくれる。
そしていつものように、きれいな低い声で教えてくれた。
「ずっと国村はね、泣けないでいたんだ。田中さんが国村の唯一の泣き場所だったから。
だから俺が肩貸して泣かせたんだよ?国村は俺のアイザイレンパートナーだから、泣けって言ったんだ」
よかった、信じていて。
そして英二らしい温かな、やさしい心の行動がうれしい。
うれしくて周太は、ほっとため息をついた。
「…そう、だったんだ」
繋いだ電話が温かい。
うれしくて微笑んだ周太に、可笑しそうに英二が訊いてくる。
「あいつさ、『俺も宮田に抱かれちゃったよ?』とでも言ったんだろ?」
「…ん、…」
そうその通り。
そんなふうに改めて言われると、途端に気恥ずかしくなる。
ほんの少しだけど、あらぬ想像をした自分が恥ずかしいから。
あんまり訊かないで欲しいな?そう思う周太に、けれど英二は訊いてきた。
「ね、周太?どんな想像してさ、嫉妬してくれた?」
どんな、って。
「…っ」
ますます気恥ずかしい。
だってほんとは少しだけ想像してしまったから。
だってちょとほんとは、妬いてしまった事がある。
自分が愛する英二は、ほんとうにきれいだ。
真直ぐで健やかな心、やさしい穏やかな静謐、実直で怜悧で賢明。
しなやかな大きな体は、すっきりと広やかな背中が頼もしい。
そしてそんな内面が現れた、端正な顔は本当に輝いて美しくて、いつも見惚れてしまう。
そして国村も本当は、きれいな人だと自分は思っている。
真直ぐで健やかな心は英二と似ている。そして純粋無垢な山ヤの誇らかな自由がまぶしい。
英二とよく似た美しい大きな体。それら内面が現れた秀麗な顔は、いつも明るくて愉しげでいる。
あんなふうに陽気で純粋で美しかったら、誰でも惹かれてしまうと思う。
そしてそんな英二と国村は、並んでいると似合ってしまう。
良く似た体格、同じように真直ぐで健やかな心。
そして対になったような美しい姿と、山ヤとしての想いの重ね合い。
そんなふたりは互いに友人でいる、そして山でもパートナーとしてアイザイレンを結んでしまう。
だから本当はすこし妬いている、だってアイザイレンパートナーの意味を知っているから。
アイザイレンはお互いの体を「命綱」になるザイルで結んで繋ぐこと。
そしてアイザイレンパートナーはお互いに、生命と山ヤとしての運命を繋いでいく。
片方の進歩が、もう片方の成長へと繋がる。そして片方の危険には、もう片方は命を懸けても救っていく。
だから国村にさっき言われたとき、どこかで頷いてしまった自分がいる。
どこかで国村の言葉に納得して、自分が退いてしまいそうでいた。そのことが後ろめたくて哀しい。
そんなふうに哀しんだ「言われたこと」そして「自分の想い」伝えてしまいたい。そっと周太は口を開いた。
「…ん、…山では人気ないから…英二がね、あのときになりやすいからって、…それで借りちゃったって…」
「それで周太、嫉妬してくれたんだ?」
きれいな低い声が訊いてくれる。
そう、その通り自分は嫉妬してしまった。そして哀しかった。
ほんとうに哀しかった。だって一瞬でも退いてしまった時、胸に抱いた勇気が悲鳴をあげた。
あの初雪の日に全てを懸けて「絶対の約束」を結んでしまったから、だから勇気をひとつ抱いている。
その勇気のまま今は素直に言えばいい、そっと周太は告げた
「…ん、…すごくね、かなしくなった、よ?」
素直に伝えてみた。
そうしたら携帯の向こうは微笑んで、うれしそうな声で言ってくれた。
「今すぐさ、周太を抱きしめたいよ。そんな哀しむ必要ない。だって俺は全部、周太のもの。
だからね、俺が服を脱がせたいのは周太だけだよ?だから周太には俺、服をプレゼントしたくなる」
英二は全部、自分のもの。
そう約束してくれた、そしてその通りに英二は生きている。
それなのに自分はどうして、いつも自信を揺らがせる?そんな弱さは英二に失礼だろう。
そんな想いがうれしくて微笑んで、でもやはり気恥ずかしく周太は言った。
「…そんなふうにいわれるとほんと恥ずかしくてこまるから…でも、想ってくれて、うれしい、…ありがとう」
「うん、想ってるよ?だから俺ね、25日ほんと楽しみにしてるんだ。早く逢いたいな、新宿9時でいい?」
そう、今も「約束」をしたい。あと10日できっと逢える、そのための約束。
そして。その日にきっと英二は「想い」を話してくれる。きっととても大切な「想い」そして決断と覚悟が必要になる。
そんな大切ことを聴いてほしいと英二は求めてくれている。それは英二が自分を心から「隣」に選んでくれたから。
そんなふうに想われている幸せに微笑んで、周太は答えた。
「ん、9時で大丈夫。…朝ごはん一緒に食べてくれるよね?」
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第28話 送花―another,side story「陽はまた昇る」
ぱちん、
静かな庭に花切ばさみの音が響いた。
凛然と咲く真白な山茶花の下で、つぼみの一枝が梢から離れていく。その花枝を周太はそっと掌へと受けとめた。
濃緑の葉5枚に真白い丸みが愛らしい、微笑んで周太はそっと山茶花「雪山」の幹を撫でた。
…分けてくれて、ありがとう。大切にするね
そんな想いに微笑んで、周太は花枝と一緒に家に入った。
切った花枝を用意しておいた小瓶に活け、階段を上がっていく。
自室への扉を開き花の小瓶をデスクに置くと、すこし揺れたつぼみは部屋に静謐と香をもたらした。
広がっていく花の香が懐かしい、そっと周太は微笑んだ。
この花を新宿の自室に持ち帰りたくて今日は、術科センターの訓練後ひとときだけど実家の門を潜った。
明日は御岳を愛した山ヤ、田中の四十九日を迎える。面識は無いけれど、田中の生き方は憧れ温かい。
だから田中に敬意を表したくて、周太は花を切りに今日は実家に帰ってきた。
この花は周太の誕生花、そして亡くなった父が遺してくれた花。その父も山を愛し奥多摩を歩いていた。
そんな父が田中を迎えたら、きっと仲良くなるだろうな。そんな想いの花に周太は微笑んだ。
「…ん、きれいだな」
この山茶花「雪山」と同じ花木が、御岳山にも梢を広げている。
その御岳山を愛した田中のために、周太はこの花を捧げたかった。
明日は四十九日、田中はこの世に別れを告げて逝く。
明日は田中がこの世を見つめる最後の時、せめて御岳にも咲くこの花で周太は送りたかった。
「ん、」
眺める花から顔をあげると、周太は木造りの襖扉から伸びた木梯子に足を掛けた。
もう古い木梯子はまだ頑丈なままでいる。この梯子も周太の父が造ってくれた。
梯子をあがりきると天窓から光が温かい。周太は壁際の窓を開くと鎧戸を開けた。
ゆるやかな小春日和が屋根裏部屋へと風にながれこむ。
ふっと懐かしい花の香が頬を撫でて、しずかに部屋を香にひたした。
見おろす庭の門には、南天の赤が陽だまりに温かい。家に帰ってきているな、そんな想いに周太は微笑んだ。
しばらく窓辺の陽射に目を細めてから、周太は無垢材の本棚に向き合った。
幼い頃から親しんだ本達が並んで迎えてくれる、その中から植物図鑑を一冊抜き取った。
窓へ向かうロッキングチェアーに座りこんで、ポケットのiPodをセットしてゆっくりページを繰っていく。
ちょうど初冬の今を描いた巻、きれいな挿絵と写真にわかりやすく草木の特徴が書かれている。
そこには奥多摩の山でみた草木の冬姿も佇んでいた。3週間と少し前にふれた草木達が、今は本の中で息づいている。
なつかしいな、そんな想いで眺めていくページに、周太の瞳がふっと止まった。
そこは木洩陽あざやかな落葉松の、黄葉の情景が満ちる光まぶしいページだった。
When,in a blessed season
With those two dear ones-to my heart so dear-
And on the melancholy beacon,fell The spirit of pleasure and youth's golden gleam
祝福された季節に、
愛しい私の想いの人と、ふたり連れだって…
そして切なき山頂の道しるべ、その上に。あふれる喜びの心と、若き黄金の輝きとがふり注いだ。
あの雲取山。落葉松の森で見つめた隣、唯ひとつの想いに見つめるひと。
あの日あのひとは、金色の木洩陽に照らされ深紅あざやかなウェア姿がきれいで。
その白皙の貌にふる光に端正な深みの表情、黄金の森ゆるやかに陽光透ける髪。
「…ね、英二。いま、駐在所で笑っている?」
ながめる落葉松のページに、大切な記憶を重ねて周太は微笑んだ。
もう1ヶ月近く逢っていない、けれど姿も表情も心あざやかなまでいてくれる。
おだやかで温かい静謐、きれいな低い声、深い落ち着いた香。
「逢いたいね、英二…」
ふっと慕わしさに呟いて、周太は微笑んで落葉松を見つめた。
ゆるやかな初冬の陽だまりが揺椅子を温めていく。
ゆったり図鑑を眺めながら、周太は穏やかな眠りに包まれていった。
新宿署独身寮の自室で、風呂も済ませた周太はデスクライトを点けた。
あわいブルーの光の下で、つぼみの山茶花は真白に輝いている。
つややかな常緑の葉に灯りが弾けるのを眺めながら、周太は手帳を開いた。
開いたページには、りんどうの青い凛とした姿が一葉、きれいにはさまれている。
それは、田中が最期に写した御岳の花の写真だった。
冷たい氷雨を花に戴きながらも、ひとすじの陽光に輝く青い花。
どんな境遇にも微笑んで立つ、そんな強い意思と温もりが感じられてくる。
この写真を雨中に撮った為に田中は、冷たい氷雨にうたれ山に抱かれる眠りについた
それでも。山の氷雨に抱かれても、花の生命と山への想いを写したかった。
そんな田中の山を愛する想いが、青い凛とした花から匂いたってくる。
―褒めてくれて、嬉しかった。じいちゃんならきっと、あげたよ
この写真を周太は、田中の葬儀で出会った孫の秀介から受けとった。
あの小さな掌を通して山の美しさを語りかけてくれた田中。ほんとうに会ってみたかった。
けれどきっと明日の夜を越えて、田中は周太の父と会うだろう。
そしてきっと奥多摩や他の、山の美しさを話して楽しんでくれる。
…ふたりで山の話を、ゆっくり楽しんでくださいね
この青い花に顕れた山の生命の姿。
写しとられた花の姿も、写した人の心も。それを渡してくれた心も、全てがいとしい。
いつか自分も田中のように、おだやかな瞳で山と草木を愛して生きて、そして静かに眠りを迎えられたら―
そんなふうに自分も生きられたら―そんな憧れは心に温かい。
それまでには父の軌跡を追う日々が横たわる、それは辛く冷たい現実に向きあう道になるだろう。
けれど「いつか」を信じられるなら、きっと自分は越えて行かれる。
だってもう自分は決めている、その「いつか」をあの唯ひとり愛するひとに捧げて生きること。
だからきっと自分は信じて越えていくだろう、それを父だってきっと見つめてくれている。
そしてきっと田中も父と見てくれる、だってこの大切な花の姿を贈って励ましてくれたひとだから。
「…どうか、見守ってください」
ぽつんと呟いて周太は、そっと写真を白い花の許へと並べた。
必ずまた奥多摩に山に、自分も花や木に会いに行こう。青い花の姿を見つめながら、周太は静かに微笑んだ。
その視界の端で携帯に、ふっと着信ランプが灯った。
「…あ、」
おだやかな曲が流れだす。
ほんの1秒聴いて周太は携帯を開いた。
「周太、考えごとしてた?」
きれいな低い声が訊いてくれる。
大好きな声が今夜も聴けて嬉しい、周太はそっと微笑んだ。
「…ん、りんどうのね、写真を見ていた」
「うん…そっか、周太も見ていたんだ」
きれいな低い声が少し寂し気でいる。
きっと逝った人を偲んでいるのだろう。おだやかに周太は訊いてみた。
「ん、英二も見ていたね?」
「うん。懐かしくってさ、田中さんと話したこと。それが今夜はね、周太。なんだか全部が蘇ってくるんだ」
ふっと懐旧と寂寞が電話の向こうに漂ってくる。
英二の想いに寄り添いたい、そんな想いに周太は口を開いた。
「それはね、英二。きっと明日が四十九日だから、かな?」
「うん、周太?四十九日だと、なのか?」
「ん、そう。四十九日はね、英二。亡くなったひとがね、この世に別れを告げる日なんだよ」
四十九日はこの世から別れる日。そんなふうに周太も母に教わった
13年前の初夏の日、父の四十九日の夜。母は「お父さんはね、きっと今夜に旅立つの」そう寂しげに微笑んだ。
けれど翌朝になっても、父の気配は書斎に遺されたままだった。
母は四十九日に父は去ると言っていた、けれど父はきっと書斎に座っている。それが周太にはうれしいと思えてしまった。
そのままを周太は母に告げると、母は内緒話のように、そして寂しげに微笑んだ。
―お母さんがね、お父さんを引き留めてしまった。そんな気がする、な―
そして母はそれ以降、夜は家を無人にする事を避けるようになった。
そうして母は旅行にも行かず、13年間をずっとあの家で過ごし続けている。
だから周太の誕生日に母が急に旅行へ行ったのは、周太には驚きと、そして安堵が温かかった。
そんな母の変化には、このいま話している隣が影響している。その影響は温かく母を笑いへと誘っていく。
ほんとうに自分たち母子は、どれだけ英二に救われているのだろう?そして自分はどれだけ想ってしまうのだろう?
「四十九日って、そういう日なんだな。じゃあさ、周太。だから国村は明日、雲取山に登りたいのかな」
「ん、…奥多摩の最高峰からね、田中さんを見送りたいのかも、ね?」
田中は奥多摩の御岳在住の山ヤだった。
そして国村にとって田中は親戚で、一流のクライマーになる基礎を教えてくれた人だと聴いている。
だから国村だったら自分の山の師である田中を、奥多摩の最高峰から送りたいと思うだろう。
「うん、きっと周太の言う通りだな。
…うん、俺もそうやって見送れるのはさ、うれしいな。俺にとってもさ、田中さんは御岳と山の先生だったから」
「ん、…そうだね、英二?」
「うん、」
頷いた英二の、すこし笑った気配が感じられる。
そんな微笑みが動いて、英二が話し始めた。
「卒業配置で着任したばかりだった俺にさ、田中さんは御岳の写真を見せてくれたんだ。
そしてね周太、田中さんが歩いてきた山の話をしてくれたよ。どの話も、田中さんの山へよせる想いが温かかった」
「…ん、」
しずかに周太は頷いた。
きっと英二はいま、四十九日の意味を知って惜別の想いにいる。
いまはただ愛するひとの想いを聴かせて欲しい、そっと周太はベッドへと座りこんだ。
「そんなふうにね、周太。田中さんは『山ヤ』の素直な姿を、俺に学ばせてくれたよ。
田中さんとは3週間くらいのつきあいだった、けれどその3週間はね、…周太、
きっと、山ヤとして俺がね、…生きていくためにはさ…大切な時間だった。そんなふうに思うんだ」
話してくれる英二の言葉に、かすかな吐息がまじっていく。
きっと哀しみと衝撃の記憶がいま、英二に蘇っているのだろう。
あの氷雨の夜に田中が息を引き取ったのは、捜索に出た英二の背中だった。それでも英二は涙を流さずに飲みこんだ。
「ん、…そうだね、英二。大切なね、時間が嬉しかったね?」
「うん、…ほんとうにそうだよ、周太。俺ね、うれしかった。
田中さんは温かくって、ほんと頼もしい山ヤの先輩だったんだ。
新人で経験も少ない俺をね、励ましてくれて…だから俺、駐在所に田中さんが尋ねて来てくれるの、うれしかった」
あの夜。息を引き取った田中を、国村が背負い英二が付添って下山した。
そして山ヤの警察官の誇りに微笑んで、遺族の悲しみを英二は受けとめた。
「…ん、素敵な先輩だね、田中さん」
「うん、そうなんだ周太…俺ね、ああいう温かいさ、山を真直ぐ愛するようにね…なりたいんだ」
「ん、英二ならね、きっとなれる。俺はね、そう信じてる」
「…うれしいな、周太。周太がね、信じて…くれるなら俺はさ。絶対だいじょうぶ…って想える」
いつもにない英二の言葉の硲にゆれるもの、それが涙飲む瞬間だと自分には解る。
きっと明日の四十九日も英二は自分の涙は飲みこむ、そして田中の遺族の哀しみに静かに微笑んで立ち会うのだろう。
どこまでも実直で温かい英二、やさしい穏やかな静謐で哀しみを受けとめて、きっと明日も微笑むだろう。
きっと秀介を抱きとめて、そして国村さえも英二は抱きとめるだろう。
だから今このとき自分こそが英二の涙を受けとめたい、周太はそっと英二に告げた。
「英二?今夜はね、電話は繋げたままでいて?」
しずかに告げた言葉に、そっと電話の向こうが揺れた。
きっといま英二の、きれいな切れ長い目から涙がこぼれる―そう周太には感じられてしまう。
ほら、きっとすこしだけ。答える声はもう、すなおにふるえるでしょう?
ふっと周太は微笑んだ。
「ね、英二?俺にはね、そのままで良い…思ったまま感じたままをね、いつも伝えて?」
「…周太、…っ」
繋げた電話の向こう、涙をこぼす気配がきこえる。
ねえ素直でいて?そして名前を呼んで、俺を頼って?
「英二、俺はね…英二を愛してる。唯ひとりだけ愛している、俺には英二だけ。…だから英二、俺にだけは甘えて?」
「…うん、…っ周太、」
もう涙は素直に出ているね?
そう、それでいい。俺には素直なままでいて?
電話で繋げた想いに、おだやかに周太は微笑んで唇を開いた。
「俺はね、英二を守りたい。愛するひとをね、…俺こそが守りたいんだ。
だからね、英二?俺を頼って、俺の名前を呼んで。…そして俺の前でだけはね、素直に涙も見せて?」
「…ん、周太にはね、俺…そのまんまだ、よ…っ…」
涙ふるえる心が繋げた電話ふるわせていく。
ほんとうは今だって抱きしめたい、この愛するひとを涙ごと肩を抱いて泣かせたい。
けれど今は警察官の立場と任務に縛られて、自分は傍にいてやれない。
「ん、英二。いま一緒にいれなくて、ごめんね。ほんとはね、抱きしめたいんだ、…英二のこと」
「うん、…うれしい、よ…俺こそね、時間ずっと、ごめん…でも、俺、…周太のこと、…ほんと愛してる」
だからせめて心だけは、繋いだ電話で抱きしめていたい。
だから想いを伝えて?いつも深く収めた想いすら、いまは言葉にしてほしい。
そうして泣いて俺を頼って?いつも援けてくれる英二、いまこそ甘えて泣いてほしい。
「ん、愛してる、英二。だからね、繋いだ電話でね、心だけでも抱きしめさせて?
だから英二、我慢しないでほしい。言いたいこと、想っていること、全部をね、言ってほしい」
「全部、…いいの?周太、」
そう、全てを言ってほしい。
だって言ってくれたでしょう?この自分の隣だけが、あなたが帰ってくる場所だって。
だから言ってくれたままで、今このときも帰ってきて?
そんな想いに周太は、きれいに微笑んで言った。
「だってね、英二が言ったんだ。英二の帰ってくる場所は俺の隣だけ、だからね英二、俺だけには素直な想いを言って?」
「…うん、周太だけ、…だよ俺は、さ」
そう、自分だけ。
そう言われた時どんなに誇らしかっただろう。
だから言ってほしい、頼ってほしい。あなたの唯ひとつ帰ってくる場所だから。
きれいに笑って周太は愛する隣に教えた。
「だって英二はね、そのままの姿でね、ほんとうに…素敵だよ。
だから、素直な想いを言ってほしい、そのままの英二をね、俺は愛している」
そう、愛している。
そのままの姿で愛している、もうずっとそう。
初めてその切長い目を見つめて、そこに真直ぐな想いを見つめてしまった。あの初めて出会った瞬間から、ずっと。
あの瞬間に見つめてしまった、真実の姿と心と想いに自分は惹かれ、そして愛してしまったから。
「そのままの、俺を、…愛してくれる?」
ふるえる涙の硲から、きれいな低い声が訊いてくれる。
そんなこと決まっている、どれも愛している。いま聴くこの声も大好きで、ふるえる想いすら愛している。
こんなふうに自分はもう、この隣の全てを受入れ始めている。だから離れている今だって全て受けいれてしまう。
そんな自分だから話してほしい、そっと周太は答えた。
「ん、英二…いつだって、どこでだって、そのままの英二をね、俺は愛している」
電話の向こうに温かな心が微笑んだ。
そう、微笑んでほしい。だって愛している、笑っていてほしい。
いま隣は涙にしずんでも自分こそが寄り添いたい。そして涙を流した隣の記憶すら、温もりの記憶に変えていたい。
「今夜はね、電話を繋いだままでいる。だからね、英二?いま想うこと、そのまま全部話して?」
想いを、告げられた。
そう、いま自分こそ、きちんと想いを伝えられた。
前はきっと言えなかった、こんな素直に思ったままは。
けれど今はもう抱いている、ひとつの勇気が奮って、もう自分を籠らせない。
さあ英二?俺はもう勇気があるんだ。
だからね英二?我儘だって受けとめたい、だから話して聴かせて?
そんな想いの周太の心へと、英二の温かな涙がこぼれるように電話で繋げられていく。
そうして周太へと、きれいな低い声が泣きながら言ってくれた。
「…っ、周太、あいたい…ほんとは今日だって、俺、…あいたくて…でも、今日も俺、時間なくて…でも、っ」
雲取山に登って新宿でわかれて、もうじき1ヶ月。
その1ヶ月の英二は、山ヤの警察官として生きていた。
とくに12月を迎えて後の2週間は、ほんとうに全て懸け切って。
日勤と当番の日には山岳救助隊員として駐在員として駆けだしていく。
非番の日には射撃訓練と山岳訓練に明け暮れて一日を終える。
週休の日には山岳技術の個人指導を受ける、それから遭難現場と救命救急の知識と技術を磨く。
ずっと全ての時間を「山ヤの警察官」として英二は使った。
余暇をも全て遣いきって、そうして全力で英二は自分の成長に懸けた。
その真剣な姿勢をつき動かしていく、なにか強く願う「想い」がきっとある。それが周太には解ってしまう。
それをいつか話してくれることを、しずかに信じて周太は待っている。
「…ん、俺もね、あいたいな。でも英二?だいじょうぶ。いつだって繋がっている、そうだよね?」
「うん、…っ、繋がってる。俺はね、周太。いつだって、周太ばっかり見てる…だから俺、この1ヶ月…がんばれた」
「ん、知ってるよ?いつもね、英二は見てくれる。俺もね、英二を見てるから…だから大丈夫」
明日は田中の四十九日。
そのための涙から英二は口を開いてくれた、けれど今ほんとうに英二の心に懸るのは?
きっとこの1ヶ月を2週間を、真摯に時間を遣いきらせた「想い」のこと。
そのことにもう自分はずっと気づいている。
そしていま英二はその「想い」を告げたくて泣いている。
「…っ、でも、…いますぐだって逢いたいんだ…あってね、周太に伝えたいこと、いっぱいある、んだ」
告げたい「想い」告げられない。
それは「逢って伝えたい」そういうことが理由。
だから解ってしまう、きっと大切な「想い」を告げてくれること。
そしてその「想い」はきっと決断が必要なこと、だから英二は逢って伝えたい。
「…ん、きっとね、逢えるよ、英二?そして伝えられる、」
きっと自分にとっても決断が必要なこと、そんなふうに解ってしまう。
だって自分だってもう、ずっとこの隣を見つめているから。
だからいま懸けるべき言葉、それを見つめて告げてあげたい。おだやかに周太は唇をほころばせた。
「きっと英二が伝えてくれること、俺はね、…信じて待っている。だからね、きっと逢える。ね、英二?」
そう、信じている。
だって自分がいま一番に出来ることは、愛する隣を信じていること。
だから信じている、愛しているから信じられる。だって約束は必ず守るひとだから。
だから自分のことも信じてほしい、あなたを受入れるってこと。
そんな想いの周太へと、電話の向こうから英二は告げてくれた。
「うん、逢えるな…きっと俺、時間作るから。周太、俺を待っていて?」
告げる声が笑ってくれる。きっと今は英二は笑っている。
そう、きちんと泣いて?そして笑って?
心から願っている、笑ってほしい。あなたの笑顔はほんとうに、自分にとって喜びだから。
英二の笑顔がうれしくて、きれいに笑って周太は答えた。
「ん、ずっと信じて、俺はね、英二を待っている」
翌朝の目覚めはさわやかだった。握りしめたままの携帯を、見つめるよう周太の瞳は披いた。
ゆっくり瞳を動かして見た窓は、まだ暗い夜へと沈みこんでいる。
ずっと握りしめる携帯に時間表示を出すと、AM5:00と画面に灯った。
そのまま耳元に受話口をあてると、穏やかな寝息が聴こえている。
きっと涙の跡がついたまま、けれど微笑んで英二は眠りまどろんでいるだろう。
その顔を想って微笑んで、そっと周太は携帯を閉じた。
「…ん、」
まだ早い時間、それでも周太は起きあがった。
しずかに窓を開けると夜明け前の冷気が頬を撫でる。その空気にはどこか湿気が感じられた。
もしかしたら今夜は雪が降るのだろうか?そんな想いがひやりと周太の心を撫でた。
だって今日は田中の四十九日。その夜を送るために英二は、国村と雲取山へ登る。
でもきっと大丈夫、ベテランの国村も一緒だから。
「ん、…だいじょうぶ」
だいじょうぶ、だって信じると昨日も告げてしまった。だから信じて今日を、自分も笑って過ごせばいい。
いつでもあの隣が、この自分を頼って甘えられるように。そのために自分は今日も不安に負けないで笑っていたい。
そんな想いにきれいに笑って、周太は窓を閉めた。
一日の業務を終えて、周太は東口交番から新宿署への帰路についた。
平日の真中の今日は道案内がすこしだけ。だから資料整理がずいぶん片付いた。
よかったなと思いながら歩く視界の端に、ふっと光のいろが掠めこんだ。
その光に誘われるよう振り向くと、周太の瞳にイルミネーションの輝きが映った。
あわいオレンジ色、あわいブルー。それから白い雪のイメージ。
あの1ヶ月ほど前。英二と歩いた光の通り道の入口だった。
あの夜はイルミネーションの白さが、ホワイトクリスマスの雪だと辛く感じて。
けれど今はもう、雪だって良いと思える。
だってゆうべの電話で英二は言っていた「新雪の雪山をね、俺も見てみたいんだ」そんな山ヤの願い。
だから今はすこし願ってしまう、どうか今夜の雲取山へ新雪がふり積もりますように。
そうして愛するあの隣へと、その美しい姿を見せて心から笑わせてほしい。
けれど雪山お願いがある、どうぞあの隣を無事に返してください。
どんなにあの隣が雪山を愛しても、冷たいその懐には抱きとらないでいて。
どんなにあの隣が山ヤの「本望」その生きざまに憧れても、どうか自分の隣に帰してほしい。
そんな願いのなか歩いて、周太は新宿署併設寮に近い街路樹の下に立った。
すこし奥まった樹影へと静かに周太は入ると、そっと梢を見上げてみる。
常緑の梢ゆたかに繁らせて、寒い夜空にも穏やかに木は佇んでいた。
この場所で英二は1ヶ月程前に、周太と絶対の約束を結んで微笑んだ。
―だって俺の帰る場所は、周太だけ。俺はね、周太ばっかり見つめて愛している
だから周太、いつか必ず、俺と一緒に暮らして? その絶対の約束がね、俺、今この時にほしい
それは「絶対の約束」そして2つめ。
1つめは「絶対に周太の隣に英二は帰る」そんな温かい約束。
そしてきっと次に逢う時は3つめを約束して繋いで結ぶ。そんな確信がどこか周太には座っていた。
いつものように21時に携帯の着信ランプが灯る。
資料を眺めるデスクライトの下で、白い花の隣に置いた携帯に掌を重ねて握る。
そっと開いて耳に受話口を当てると、すぐ周太は話しかけられた。
「湯原くん?こんばんは」
英二の声じゃ、ない。
いったいどういうこと?
どうして英二の着信音で、違う人の声が聴こえてくるの?
すこし混乱に驚く周太の耳に、愉しげな声が話しかけてくる。
「湯原くん、俺、国村だけど?」
「あ、…はい、あの…?」
今夜は英二は、国村と雲取山避難小屋に泊まる。
山岳経験の少ない英二のために、雪山でのビバーク訓練と避難小屋の遣い方を教える予定。
そして田中の四十九日を、奥多摩最高峰の雲取山で送っていく。だから英二と国村は一緒に今いるだろう。
けれどどうして国村が、英二の携帯から電話してくるのだろう?
「ひさしぶりだね、湯原くん?なんかさ、射撃大会では俺、ライバルになっちゃったね」
「あ、ん。それはね、英二にも聴いたけれど…あの、なぜ、英二の携帯なの?」
なぜ英二の携帯で?一番に気になることを周太は訊いてみた。
この国村の声のトーンは愉快げでいる、だから英二が事故に遭ったわけではない。
そのことが解るから周太は落ち着いている、けれど気になってしまう。
なぜ国村が英二の携帯で?そんな疑問に首傾げる周太に、さらっと国村は言った。
「ちょっと借りたんだよ。でね、湯原くんと俺はさ、宮田のことでもライバルになっちゃうかもよ?」
「ん、…どういうこと?」
英二のことでもライバル?
よく解らなくて訊き返す周太に、愉しげな声が答えた。
「俺もね、宮田に抱かれちゃったよ」
まっしろになった。
黒目がちの瞳を大きくしたまま周太は固まった。
だってなにをいっているの?言われたことが理解できない、なんていったのだろう?
混乱する心へと携帯から声が笑いかける。
「ずっと逢っていないんだろ?だから欲求不満なんだよね、最近の宮田って。
しかも山は人気が無いからさ、宮田も『あのとき』になりやすかったみたい。
で。俺、抱かれちゃったんだ。そんなわけでさ、湯原くん。ちょっと借りちゃったから」
あのとき?
よっきゅうふまん?
人気が無いから?それで?…抱かれちゃった?借りちゃった?…
なにをいわれているの?どういうことなの?そんな言われる単語に心迫あげた瞳が潤んでいく。
それでも周太は唇を開くと、つまりそうな質問を押し出した。
「あ、の、…借りちゃったって、…英二を?」
こんな混乱の質問に動いた声は、もうきっと涙声になっている。
そんな質問に携帯の向こうが笑って、いつもの明るい調子で答えた。
「うん、そうなんだよね。ちょっと借りちゃった、居心地良かったよ。ごめんね湯原くん?」
居心地良かった。そんなの、
「…っ、」
どうして?
きのう傍に行けなかったから?
それともずっと逢えていないから?いったいどうして?どういうことなの?
だって昨日も言ってくれていた、時間を作るって待っていてって言ってくれた。
それなのにどうして?そんな混乱と哀しみに、周太の視界に水の紗が降りはじめた。
でも、今日のメール。
12月25,26に逢える、そんな約束のメール。
あのメールを見た時に思えた、きっと25日には自分は英二の「想い」を聴くことになる。
そんな確信がそっとすわってから、勇気が心をおだやかに仕度し始めた。
「…ん、」
その勇気が今だって温かい。
だから思える、この混乱はきっと嘘。きっとまた国村に転がされているだけ。
だって信じている愛している、もう離れることなんて出来ない。だから信じて待つしかない。
そうもう自分はとっくに覚悟している。それでも驚いたショックの涙声のまま周太は訊いた。
「…あ、の…そこに、英二、も…いるよ、ね?…声、きかせて?」
こんな質問は未練がましい?でも訊いてしまう、だって信じているから。
だって英二だから、きっと約束は全力で守ってくれる。だって信じている愛している、だから声で自分には解る。
なにが真実なのか?想いはどこにあるのか?それが全て声を聴けば解るから。
そんな願いの底で、携帯から明るい声が周太に言った。
「じゃ、電話変わるからさ。またね、湯原くん」
そう言って気配が離れた。
そしてすぐに気配が電話の向こうに現れる。
この気配を自分はとても知っている、そして本当は今日もずっと繋ぎたかった気配。
そんな想いの中心で、おだやかな気配が笑ってくれた。
「国村がさ、号泣したのを抱きとめたんだよ。周太?」
ほら、やっぱりそうだった。やっぱり転がされただけ。自分が信じた通りだった。
よかった、うれしくて周太は微笑んだ。
それでも今は英二から訊きたくて、そっと周太は訊き返した。
「…え?」
短い質問に、電話の向こうが微笑んでくれる。
そしていつものように、きれいな低い声で教えてくれた。
「ずっと国村はね、泣けないでいたんだ。田中さんが国村の唯一の泣き場所だったから。
だから俺が肩貸して泣かせたんだよ?国村は俺のアイザイレンパートナーだから、泣けって言ったんだ」
よかった、信じていて。
そして英二らしい温かな、やさしい心の行動がうれしい。
うれしくて周太は、ほっとため息をついた。
「…そう、だったんだ」
繋いだ電話が温かい。
うれしくて微笑んだ周太に、可笑しそうに英二が訊いてくる。
「あいつさ、『俺も宮田に抱かれちゃったよ?』とでも言ったんだろ?」
「…ん、…」
そうその通り。
そんなふうに改めて言われると、途端に気恥ずかしくなる。
ほんの少しだけど、あらぬ想像をした自分が恥ずかしいから。
あんまり訊かないで欲しいな?そう思う周太に、けれど英二は訊いてきた。
「ね、周太?どんな想像してさ、嫉妬してくれた?」
どんな、って。
「…っ」
ますます気恥ずかしい。
だってほんとは少しだけ想像してしまったから。
だってちょとほんとは、妬いてしまった事がある。
自分が愛する英二は、ほんとうにきれいだ。
真直ぐで健やかな心、やさしい穏やかな静謐、実直で怜悧で賢明。
しなやかな大きな体は、すっきりと広やかな背中が頼もしい。
そしてそんな内面が現れた、端正な顔は本当に輝いて美しくて、いつも見惚れてしまう。
そして国村も本当は、きれいな人だと自分は思っている。
真直ぐで健やかな心は英二と似ている。そして純粋無垢な山ヤの誇らかな自由がまぶしい。
英二とよく似た美しい大きな体。それら内面が現れた秀麗な顔は、いつも明るくて愉しげでいる。
あんなふうに陽気で純粋で美しかったら、誰でも惹かれてしまうと思う。
そしてそんな英二と国村は、並んでいると似合ってしまう。
良く似た体格、同じように真直ぐで健やかな心。
そして対になったような美しい姿と、山ヤとしての想いの重ね合い。
そんなふたりは互いに友人でいる、そして山でもパートナーとしてアイザイレンを結んでしまう。
だから本当はすこし妬いている、だってアイザイレンパートナーの意味を知っているから。
アイザイレンはお互いの体を「命綱」になるザイルで結んで繋ぐこと。
そしてアイザイレンパートナーはお互いに、生命と山ヤとしての運命を繋いでいく。
片方の進歩が、もう片方の成長へと繋がる。そして片方の危険には、もう片方は命を懸けても救っていく。
だから国村にさっき言われたとき、どこかで頷いてしまった自分がいる。
どこかで国村の言葉に納得して、自分が退いてしまいそうでいた。そのことが後ろめたくて哀しい。
そんなふうに哀しんだ「言われたこと」そして「自分の想い」伝えてしまいたい。そっと周太は口を開いた。
「…ん、…山では人気ないから…英二がね、あのときになりやすいからって、…それで借りちゃったって…」
「それで周太、嫉妬してくれたんだ?」
きれいな低い声が訊いてくれる。
そう、その通り自分は嫉妬してしまった。そして哀しかった。
ほんとうに哀しかった。だって一瞬でも退いてしまった時、胸に抱いた勇気が悲鳴をあげた。
あの初雪の日に全てを懸けて「絶対の約束」を結んでしまったから、だから勇気をひとつ抱いている。
その勇気のまま今は素直に言えばいい、そっと周太は告げた
「…ん、…すごくね、かなしくなった、よ?」
素直に伝えてみた。
そうしたら携帯の向こうは微笑んで、うれしそうな声で言ってくれた。
「今すぐさ、周太を抱きしめたいよ。そんな哀しむ必要ない。だって俺は全部、周太のもの。
だからね、俺が服を脱がせたいのは周太だけだよ?だから周太には俺、服をプレゼントしたくなる」
英二は全部、自分のもの。
そう約束してくれた、そしてその通りに英二は生きている。
それなのに自分はどうして、いつも自信を揺らがせる?そんな弱さは英二に失礼だろう。
そんな想いがうれしくて微笑んで、でもやはり気恥ずかしく周太は言った。
「…そんなふうにいわれるとほんと恥ずかしくてこまるから…でも、想ってくれて、うれしい、…ありがとう」
「うん、想ってるよ?だから俺ね、25日ほんと楽しみにしてるんだ。早く逢いたいな、新宿9時でいい?」
そう、今も「約束」をしたい。あと10日できっと逢える、そのための約束。
そして。その日にきっと英二は「想い」を話してくれる。きっととても大切な「想い」そして決断と覚悟が必要になる。
そんな大切ことを聴いてほしいと英二は求めてくれている。それは英二が自分を心から「隣」に選んでくれたから。
そんなふうに想われている幸せに微笑んで、周太は答えた。
「ん、9時で大丈夫。…朝ごはん一緒に食べてくれるよね?」
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