萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第27話 山行act.2―side story「陽はまた昇る」

2011-12-14 22:59:26 | 陽はまた昇るside story
記憶、それから想い。そして時は動く



第27話 山行act.2―side story「陽はまた昇る」

吉村の乗用車を鳩ノ巣駅下の無料駐車場に停めて、8:30過ぎの青梅線に乗った。
すぐ5分ほどで奥多摩駅に着くと、まず奥多摩交番へと登山計画書提出に向かう。
吉村と一緒に交番へ入っていくと、すぐ気が付いて後藤副隊長は笑いかけてくれた。

「久しぶりだなあ、吉村のこの格好は。靴も新品だろう?履きならせたのかい?」
「はい。買ってから毎日、少しずつね」
「それで約束から3週間かかったんだな?…うん。でも3週間はな、いい足慣らしだったろう?」
「ええ、ほんとにそうですね。なにせね、足も気持も15年ぶりですから」

山岳救助隊副隊長の後藤と、吉村医師は30年来の飲み友達だった。
だから後藤も吉村の事情をよく知っている。後藤はいつもの深い目で吉村に微笑んだ。

「15年か、もうそんなだな」
「はい、もうそんなに経っていました。気が付いたらね」
「ははっ。俺も吉村も、じいさんになったな。きっと吉村、山に行ったら浦島太郎の気分だろうな」
「そうですね、どんな乙姫さまに会えるでしょうね?」
「そうだなあ、瘤高からの御岳山は、結構な美人だろうよ」

2人の会話は、穏やかで楽しげに聴こえる。
これなら吉村は大丈夫かな、思いながら英二は畠中に登山計画書を提出した。

「うん、宮田もすっかり書き慣れたな。見やすいし、無理が無い行程の組み方が上手くなってる」
「ありがとうございます。師匠が良いからですね、きっと」

英二の答えに、畠中が嬉しげに微笑んだ。
けれど畠中は、ほんの少し心配げに英二に尋ねた。

「国村なあ、山については心底プロ根性が強いからな。
山に関してだと、あいつは誰が相手でも手加減なしだよ。あいつ、厳しいだろう?」

国村のルールブックは、山と自然への畏敬になっている。
そのため国村は不心得なハイカーには手厳しい、だから安易が原因の遭難者には「国村の一言」が暴発する。
そうした国村の姿勢は山ヤとして美しい。そんな国村を山岳救助隊と奥多摩の山ヤは誰もが愛していた。
そういう国村を英二も好きだ、そして出来るなら学びたい。その想いのまま、きれいに英二は微笑んだ。

「はい、厳しいですね国村。でも俺には必要です、いつも勉強になります」
「そうか、」

軽く頷きながら畠中が微笑んでくれる。
それにしてもと感心したように畠中は続けた。

「それにしても宮田、おまえさんは本当に真面目だよなあ。いつも思うけどさ」

「宮田は真面目」これが奥多摩での英二評だった。
それは青梅署内でも、そして御岳駐在管轄で出会う町の人にも言われている。
もちろん周太は一番にそれを言ってくれる。それが英二には嬉しい。
この今の評価を、遠野教官はどう思うのかな?考えながら英二は答えた。

「そうですか?でも俺、国村には『エロい』って言われてばかりです」
「あ、それはな宮田。おまえさんがイケメンすぎるからだろ。なんか色気があるからなあ、宮田は」
「あれ、俺ってそういうキャラですか?」
「うん、たまに訊かれるんだよ?ほら、最近はやりの山ガールがね『あの背が高い人は?』ってさ」

英二は小さい頃から、こんな感じにモテる。
けれどこのパターンで出会う相手は大概、気が合うことは無い。それは英二の性格の所為だった。
さらっと英二は笑った。

「光栄ですね、でも会わない方が彼女達にはラッキーですよ?」
「うん?なんでだ、宮田」
「だって俺はですね。色気も何でもね、俺の全部を大切なひとに捧げちゃっていますから。
でも女の子って独占欲が強いから、そういうのNGでしょう?だから会えばガッカリしますよ、きっと」

そう自分の全ては周太のもの。だから他に向けられる要素はひとつも無い。
それは英二には幸せなことだった、だって自分がそんなにも愛せる人がいる。
うれしげな英二を見て、畠中も笑ってくれた。

「おっ、宮田。そういう相手がいるんだな?いいなあ、青春だよな」
「いいでしょう?でも畠中さんだって。奥さんと御嬢さんが大好きで、幸せじゃないですか」
「ああ、幸せだよ。今日はな、帰ったら娘とままごとする約束なんだ。俺を婿さんの役にしてくれるらしいよ」

なんだか幸せな会話になってきた。
こういう会話は楽しい。そう笑っていると、後藤がやってきて英二に笑いかけた。

「本仁田山だな、今日は。宮田は初めてだろ?」
「はい、機会がなかなか無くて。そうしたら吉村先生が選んで下さいました」
「そうか、吉村が自分で選んだんだな…」

そうかと呟いて、後藤が微笑んだ。
その微笑みが、いつも以上に優しく穏やかに英二は感じた。
なんだろう?そう見つめる英二の肩を、後藤はポンとひとつ叩いてくれた。

「うん、宮田。吉村をな、頼んだよ。気をつけて行って来い、そして無事に戻れよ」
「はい、行ってきます」
「あとな、下山口の鳩ノ巣駐在で下山報告してくれ。登山道の確認報告とな、山井に言えば無線を貸してくれる」

あ、と思って英二は笑った。
たぶん後藤の意図はこれだろう、英二は微笑んで訊いてみた。

「下山後は、吉村先生と呑みですか?」
「お、宮田も解るようになってきたな?なんだか国村みたいだなあ、おまえも」

そんな後藤からの任務にも了解して、英二は吉村と奥多摩交番を出た。
奥多摩駅前広場を右手に歩いて、工場への道を分け多摩川を渡る。
その渓流の飛沫が、どこか晶石じみて硬質に冷たい。もう冬になるのだな、そんな実感が英二に湧いた。
もう秋は終わり、迎えた初冬の大気が山に川に充ちている。

「先生、奥多摩の秋が俺、好きになりました」
「それは良かった。秋は奥多摩ではね、一年でも一番に温かな色合いだと、私は思います」

そう、秋は温かい想いに充ちていた。
この秋に自分は、唯ひとつの温かな想いを抱きしめられた。
その想いが温かい、穏やかに微笑んで英二は答えた。

「はい。秋は、俺にも温かったです」

この秋は周太との季節だった。
この春に出会って惹かれ続け、半年間を寮の隣で過ごし、ずっと想いを募らせて。
そして。この秋の初めに卒業式を迎え、隣で過ごす日々と別れの瞬間が訪れた。
その別れの瞬間に自分は、隣で過ごす最後の機会と覚悟して。
その覚悟が別れを約束に変えた。「生涯を隣で生きる」その約束を周太と秋の初めに繋いだ。
そしてこの秋が、周太との季節の始まりになった。

この秋を、ずっと周太と想いを交し続けた。
その秋に、周太の父が殉職した、13年前の事件が終わりを告げた。
その秋に、自分は初めて人を愛することを知った。そして自分の帰るべき場所を見つけ抱きしめた。
そんな周太との季節の中に、自分は山ヤとして立っていった。そして自分の人生が拓かれ始めた。
山岳救助隊の誇り、山に廻る生死を見つめる目、山ヤの想いを繋ぐ強さと覚悟。
そして最高のトップクライマーと最高峰に立つ誓約。その誓約はもう今すでに、叶えられる為に時は動き始めた。

この秋、9月の終わりから12月の初め。
この奥多摩から見つめた秋は、きっと忘れられないだろう。
こんなに自分の人生が、大きく動いた事は無かったから。
そして今、この秋の最後に。吉村医師の時を動かす為に自分は山へ登る。

「先生、なんだか俺ね。この秋はきっと忘れられないです」
「そういうのは素敵ですね。きっと、迎える冬も忘れられませんよ?奥多摩の冬は厳しいけれど、本当にきれいですから」

これから迎える冬。その姿を見つめること。
この冬もきっとまた、意味深い忘れられない冬になるだろう。
周太との初めての冬、そして初めての雪山登山に立つ冬になる。
最高のクライマーになる男、国村のアイザイレンパートナーとして初めて立つ冬。
この冬はきっと、山ヤとしての分岐点になる。本気で最高峰を目指すのか、その意思を固める時になる。
そしてその意思が抱くリスクは、あの大切な隣にも背負わせなくてはいけない。
きっとこの冬も、自分の人生を大きく動かしていく。

ずっと舗装道路を歩き、ワサビ田のある安寺沢に着いた。
水場のある民家脇の階段から山道へと入っていく。するとすぐに「乳房観音・登山安全祈願」の道標が現れた。
すごい名前だなと思っていると、吉村が笑いながら言った。

「50m程度です、ちょっとお参りして行きましょう」

ちいさな木造の観音堂には、小さな木彫りの観音像が祀られていた。
傍らの由来書には1,230年ごろに落人が蒔いた銀杏が後に巨木となったと書かれている。
その巨木は大正2年に伐採されたが、切株から芽が出てまた現在の巨木になった。
2代目だという銀杏の足許には温かな黄色が残る絨毯が敷かれている。
葉を落とした梢を見上げる英二に、吉村が微笑んだ。

「湯原くんは、樹木が好きみたいですね」
「はい。周太の父さんが山や植物に詳しかったそうです。それで小さい頃は採集帳を作ったらしくて」

また登山道へ戻りながら、英二は答えた。
ここから安寺沢をたどる道を分け、杉の植林の斜面を登っていく。
この登山道が奥多摩三大急登の大休場尾根になる。本仁田山は標高1,225mだが、どこから登っても急峻な山だった。
そこを歩きながらも軽く頷いて、吉村が訊いてくれる。

「その採集帳は今、湯原くんはどうしているのですか?」
「はい、1冊だけ新宿に持って来たらしいです。雲取山の後、自分の部屋を開いたとかで」
「部屋を?」

そういえばこの話は、まだしていない。
吉村医師は周太の事情を、周太本人からも訊いて知っている。そして真心から心配し、周太の心のケアをしてくれた。
きっと周太は吉村と再会したら、この話はするだろう。でも吉村の心配を今ここでも解く方が良い。
ごく要点だけを英二は吉村医師に話した。

「周太には実家に2つ部屋があるんです。その屋根裏部屋には父さんの想い出が多くて。
それで13年間ずっと、屋根裏部屋を閉じていたそうです。その部屋に採集帳も置いたままでした。
けれど雲取山から戻ると、その部屋を開いて掃除しました。そして一番新しい採集帳に奥多摩の落葉を貼ったそうです」

静かに吉村は訊き、ほっと溜息をついた。
そして穏やかに微笑んで、英二に言ってくれた。

「うん、…その採集帳はきっと、13年前の事件直前に、お父さんが買ってくれたのだろうね」
「はい、そうだと思います」

頷きながら英二は、電話で話してくれた周太の声を想った。
いつもどおり穏やかで、けれど明るく朗らかだった声。
それを同じように思ったのだろう、うれしそうに笑って吉村は言った。

「13年前のページから、ようやく続きが始められたんだね…うん、良かった。
 きっとね、屋根裏部屋は湯原くんの大切な安らぎの場所として戻ってきた。だからもう大丈夫。ああ、うれしいですね」
「すみません。ご心配をかけながら、ずっとお話しそびれてしまって」

素直に英二は謝った。
けれど吉村は、可笑しそうに笑いながら答えてくれる。

「いいえ、無理も無いですね。だってこの3週間は宮田くん、ほとんど国村くんと一緒だったでしょう?」
「そうなんですよね、」

なんだか可笑しくて、英二も笑ってしまった。
この3週間前に、警視庁けん銃射撃大会に国村がエントリーされている。
そのために武蔵野署射撃訓練場へと、嫌々ながら国村は通い始めた。
そんな国村が機嫌を損ねて「気晴らしするか」なんて騒動を起こさないよう、英二は御目付にされている。
その事情を親しい後藤副隊長から、吉村は訊いて知っている。

「それだけね、宮田くんは後藤さんから信頼されている。そういうことです」
「それなら光栄ですね」

笑い合いながら、急登を歩いていく。
歩きながら英二は、吉村医師の様子を観察していた。
この登山は吉村には15年ぶりになる、けれど足取りはベテランの勘を失っていない。
その足取りのままに、吉村は注意ポイントを教えてくれる。

「かつてはね、安寺沢沿いのコースがメインだったんです。でも今は荒廃しています、入り込まないよう注意してください」
「では初心者ハイカーが、道迷いしやすいポイントになりますね」
「そうです。そして本仁田山は落雷も多いのです、ここの雷撃死現場は標高920mあたりでした。
 その搬送先の医療センターに伺ったのですが、衣服などにも焦げ跡はありませんでした」

「普通は落雷ですと、高熱による火傷など起きますよね?」
「はい、ですがその件では無かったのです。そして同行者の方は側撃で火傷しました。
 どうやら地形や天候の条件もあるようですね。現場を通りますから、そこで地形などはご説明しましょう」

こうした遭難事故の吉村医師の説明は、クライマーと医師の2つの観点に立脚するので実証的だった。
それは山岳救助隊として現場に立つ英二にとって、何よりの参考になる。
そんな吉村は後藤の話によると、若い頃に剣岳など国内の高峰も踏破している。
きっとその話を、亡くなった次男の雅樹にもしたのだろう。そして父の道への憧れに、山ヤの医学生に雅樹はなった。
こうして実際に吉村医師と登山すると、雅樹も憧れた空気が英二にも感じられる。

ただ医師として病院にこもるのではなく、傷病発生の現場知識をも持つ医師。その姿は頼もしくまぶしい。
そして自分は山岳救助隊員の立場にいる。山の現場で起きた傷病から、人命を救助する任務に生きている。
そんな自分と山ヤの医師の姿勢は、重なる部分も多い。立場は違うけれど手本の1人だった。

「宮田くん、ここが雷撃死の現場でした」

露岩混じりの尾根は、右斜面が杉の植林帯になっている。その左斜面と尾根上はコナラなど雑木林だった。
ここには巨樹と言われるほどの大木は無い。辺りを見回しながら英二は、胸ポケットから手帳を取り出した。
その英二の様子に微笑むと、吉村医師は周囲の樹木を指さしながら説明してくれる。

「ほら、樹木にも焼け焦げの痕が無いでしょう?幹が引裂かれた痕もありません」
「最初の一発で直撃した、そういうことでしょうか?」
「そうです。人体は60~70%が水分で出来ているでしょう?さらに事故の時は、雨が降り出したのです」

水分は電気を通しやすい。
ただでさえ人体は電気を通しやすい所に、雨で条件が加速されてしまった。
尾根上には樹木もある、けれど人間が避雷針の役割をしたものだろう。
その日の気象状況が気になって、英二は質問した。

「先生、事故発生の日時と気象状態はいかがでしたか?」
「はい、4月26日の午前10時半頃です。
 あの日の奥多摩地方は、春先の陽射から一転して集中豪雨になりました。寒冷前線が通過したわけです」

いつも吉村医師の記憶とデータは正確でいる。そして説明は理路整然として解りやすい。
今までは診察室で聴いていた。けれどやはり現場で説明をされると、実感を伴う理解がある。
それらは経験不足を補いたい英二にとっては、本当に欲しい知識になる。
だから吉村医師との登山は、英二自身が以前から希望したい事でもあった。
それが吉村の山ヤとして立つ自信と、雅樹への贖罪に繋がっていくと良い。
そんな願いの中で英二は、吉村の説明と現場条件のメモをとっていった。

「では、寒冷前線の通過に伴う『界雷』ですか?」
「そうです。あの日の空には積乱雲が発生していました」

積乱雲は山の危険シグナルになる。
積乱雲は大気の状態が不安定な時に発達する、その不安定状態は寒気と暖気の激突が起こす。
その積乱雲の中では激しい上昇気流が起こり、電気が発生することから、降雹や落雷が惹き起される。
4月下旬は季節の変わり目「春雷」の言葉通りに、こうした気象状況が起きやすい時期だった。

「では雹も降ったのでしょうか?」
「はい、八王子で5ミリ位の雹が降りました。サツキの花などがね、白く化粧したとニュースで言っていました。
こうした気象条件では雷撃死の他には、低体温症や心臓発作も誘発されやすい」

吉村医師は天候にも詳しい。それは「山ヤ」と言われる職人気質のクライマーらしい側面になる。
山ヤは自身の無事な登山に誇りを持っている。その誇りを守るため、山での安全への最大限の努力を積む。
そのためには救急法や天候、地図読みなどの博学さが必要だった。そして吉村は医師でもある。
こうした吉村の山岳遭難事故への見識は、医師で山ヤである吉村ならではの実務性が高い。
こうした見識に立つ現場の人材は、そう数多くは無い。この場に立てる幸運に感謝しながら、英二は質問を続けた。

「冷たい雨による急激な温度の変化、それに体が適応できない。そういうことでしょうか?」
「そうです。よく勉強していますね、昨夜も復習したのでしょう?」

うれしそうに吉村が言ってくれる。
その通り英二は昨夜もファイルを開いた。そうした勉強の合間には、当番勤務中の周太と電話も楽しんだ
昨夜の内容は今日の本仁田山の遭難事故事例とルート確認。それから天候変化と事故の関連性や身体への影響。
そんな事前予習をして、英二は今日ここに立っている。それくらい英二にとって、今日の登山は大切だった。
そのままに英二は、素直に吉村へと頷いた。

「はい。吉村先生は医師でかつ山ヤです、山岳と医学と両方の見解をお持ちです。
そんな先生と山へ行けば、山岳救助隊員として必要な知識が学べると思ったんです。だから楽しみにしていました」

吉村医師独自の山と医学を融合した技能が学べれば、山岳救助隊員としても心強い。
そしてもし英二自身が遭難事故に遭った時にも、きっと自分を救ってくれる知識技能になる。
こうした積重ね無しには、最高峰に登ることなど自分には望む資格もないだろう。
そして周太との絶対の約束「必ず無事に隣に帰る」これを守っていきたい。
そんな想いで英二は、吉村医師との登山を待っていた。

「そうですか。うん、ありがとう。宮田くん…私もね、楽しみでしたよ」

うれしそうに微笑んで、吉村は急登をジグザグに登っていく。
その頭上では次第に、明るい広葉樹林に変わりだす。
そして大休場に出た。その正面には花折戸尾根のチクマ山が大きい。

「この先が本仁田山の最後の登りです。次第に急登になります、頑張りましょうね」
「はい、露岩も現れますよね?」
「ええ、手づたいの登攀になります。だからグローブをはめた方が良いでしょう、何事も予防が大事ですから」

そんなふうに微笑む吉村は、足取りが軽い。
15年ぶりの登山とは思えない、そんな馴れた足運びが鍛えた年月を想わせた。
これだけの山ヤが15年間を、山の時を止めたまま生きたこと。どんなに寂しいことだったろう?
そんな想いは英二の心へ静かに、哀しみと痛切さを想い起させた。

荒れた露岩を越えると、左手がコナラや国儀の広葉樹林になっていく。
見上げる梢にはもう、葉はほとんど落ちていた。細やかな枝の造形が、青空にくっきりと鮮やかに見える。
この細かな枝にも霜がつき、雪を纏って樹氷になって冬山になるだろう。
その様子はきっと美しい。もう迎える雪山の姿に、英二は微笑んだ。

鬱蒼とした原生林に囲まれ、平坦な尾根道に出る。
ふっとそこで吉村が立ち止まった。
ここまでくれば頂上は近い。けれど吉村は沈黙したままでいる。

ただ静かに佇む吉村の目は、原生林を見つめている。
その瞳には深い哀しみと懐旧と、そして温かな愛情が感じられた。
その瞳はただ沈黙して、鬱蒼とした原生林を見つめ動かない。

この林に、雅樹の記憶が眠っている。

そう英二には想われた。
きっと吉村はこの場所で、ゆっくり話したくなるだろう。
そう思いながら英二は、登山ザックを尾根道の脇へと降ろした。
その脇を軽く整地し、そこへ国村から借りたクッカーをセットする。
クッカーに水筒の水を注ぎ湯を沸かしながら、2つのカップにドリップ式インスタントコーヒーをセットした。

手を動かしながら英二は、吉村を見上げた。
まだ吉村は沈黙の底で、原生林を見つめ続けている。
きっと吉村が今見つめるのは、雅樹の在りし日の姿だろう。

このまま心ゆくまで、見つめさせてあげたい。
そっと英二は微笑んで、ブナの木を想いながら3つ呼吸をした。そして囲む原生林へと気配を同化させていく。
これは雲取山でツキノワグマ小十郎に会った時、国村が教えてくれた方法だった。
こうして気配を潜めた方が、きっと吉村は納得するまで見つめるだろう。
そんな想いに英二は、静かに尾根道へと片胡坐をかいた。

湯の沸騰する静かな音が、山の静寂にちいさく返響していく。
穏やかな小春日和の陽だまりで、英二は湯に生まれる小さな泡を見つめていた。
ふっふつと泡が大きくなっていく。頃合いかなと火を止めて、ゆっくりカップに注いだ。
緩やかな音と芳ばしい湯気が、山の空気へと融けていく。そこには山の時間がひっそり寛いでいた。
こういう時間は俺は好きだな、穏やかな静謐に英二は微笑んだ。

ゆっくりと2つのマグカップが満ちる頃、ことんと気配が動いた。
そっと英二が視線を上げると、しずかに吉村が空を見上げている。
そろそろ時が来たのかな、そう英二は吉村の横顔に笑いかけた。

「先生、コーヒー淹れました。いかがですか?」

ゆっくり振り向いた吉村の瞳は、どこまでも穏やかだった。
穏やかに微笑んで、吉村は英二の横へと座った。

「ありがとう、宮田くん。ここでのコーヒーは嬉しいですね」
「よかった、お替りも出来ますよ?」

そう笑い合って、並んでコーヒーを啜った。
初冬を迎える山の冷気に、熱いコーヒーが肚から温かい。
初冬の山に充ちる静謐に、ゆるやかに英二は心寛いでいた。

「雅樹が医者になった理由はね『生きて幸せになる笑顔を助けたい』そう思ったからなんです」

穏やかな声に、しずかに英二は横を振り向いた。
見つめる英二に吉村は、穏やかな眼差しで見つめ返してくれる。そして吉村は口を開いた。

「雅樹もこの奥多摩でね、自殺遺体を見た事があったんです。まだ小学校6年生でした。
 私と一緒に登山している時です。その山道を囲む林の中に、縊死自殺遺体と出会ってしまったんです」

そう言って吉村は、また原生林へと目を移した。
自殺者が選ぶ死場所には特徴がある。入りこみやすい森や林、そして見つかりやすいこと。
この原生林は駅から直接来れる登山道の脇になる、すこし急峻な場所だが特徴に合う。
きっとそうだろう、英二はしずかに訊いた。

「もしかして、この林ですか?」
「はい、」

頷いて吉村は、また英二を見つめた。
そして吉村は、ゆっくりと語り始めた。

「すぐに通報して後藤さん達が来てくれました。
 当時の奥多摩は警察医が輪番制だった時でね、担当医師が捕まらなくて。
 緊急措置として医師である私がそのまま死体見分の立会いをしました。
 まだ雅樹は12歳だった、けれど落着いて私の隣から見つめていました。
 雅樹は教えていないのに静かに合掌をしてね、哀しそうに穏やかな目で、静かに全てを見つめていました」

吉村の次男、雅樹。
彼の人生の軌跡を追うように、ゆっくり吉村は語っていく。

「ご遺体の方は遺書を持っていらした。病気で苦しまれていたそうです。
 これ以上は家族にも迷惑をかけられない、だから自死を選ぶと書かれていました。
 そのとき私は、医師としての無力を感じました。この方が縄にかかる前に会えていたら…そんな想いが苦しかった」

当時の吉村は40歳になる頃だろう。
法医学教室から異動しERで頭角を現し始めた、そんな頃になる。
緊急救命に情熱をかけ始めた、そんな時期に病からの自死を見つめた。
きっと苦しかったに違いない、そっと英二はため息をついた。
そんな英二に微笑んで、吉村は続けた。

「青梅署の検案所へ運んで全て終わって。それからロビーの自販機で雅樹とベンチに座ってコーヒーを飲んだんです」

そのベンチはもしかして。
思わず英二の目が少し大きくなる、それに微笑んで吉村が教えてくれた。

「そうです。いつもね、私が宮田くんを待っている。あのベンチです」
「…そんな大切な場所で、いつも」

ぽつんと呟いた英二に、温かく吉村は頷いてくれる。
その頷きに英二の目が、ふっと熱をうかばせた。けれど英二は瞬きに熱を心へとおとしこむ。
ここで泣いたら吉村が話せなくなる、だから英二は微笑んだ。
吉村も微笑むと、またしずかに話し始めた。

「あのベンチで雅樹は私に言いました、『お父さん。あの人もね、生きて幸せに笑ってほしかったね』
 そして重ねて私に訊いたんです『医者になる事は難しい?』
 そうして雅樹は、この奥多摩の山で医師になる決意をしたんです。あの12歳の日に、私と歩いたこの奥多摩で」

吉村の目から、しずかな光がひとすじ零れおちる。
すっと落ちた涙はすぐに、冬の山にしずかに浸みこんだ。
ゆっくり一つ瞬くと吉村は微笑んで、口を開いた。

「雅樹は医師になる決意をした翌日から、私に救急法を学びました。
 救急法検定は受験資格は15歳以上です、15歳になった雅樹はすぐに検定受験をしました。
 なんと満点合格だったんです雅樹は。しかも最年少受験でね。私は嬉しくて。ほんとうにね、たくさん自慢しましたよ」

楽しそうに吉村が笑った。
きっと本当にたくさん自慢したのだろう、なんだか嬉しくて英二も微笑んだ。
その「自慢」は消えてしまった時間、けれど吉村のその日の喜びを、一緒に英二も笑って祝いたかった。
そんな英二に吉村は、楽しげに教えてくれる。

「そのとき簡易ですが救急セットを贈りました。山へ行く時は必ず持ち歩いて。高校の山岳部でも役立ったそうです」
「山岳部だったんですね、雅樹さん」
「はい、雅樹は山か医学の男でしたね」

そう言って吉村は、すこし自慢げに微笑んだ。
どこか懐旧とそして大きな愛情が、その瞳には温かい。

「そして彼は国立の東京医科歯科大へと進みました。
 本当に優秀な子でした、私の自慢なんです。私は入学祝に本式の救命救急用具セットを贈りました」
「俺のものと、同じ物ですか」

ふと思って英二は訊いてしまった。
すこし瞳を瞠った吉村は、それでも穏やかに答えてくれた。

「はい、そうです…あと2セットあると前に言ったでしょう?そのうち1セットはね、雅樹の遺品です」

「遺品 」その短い単語に英二は心が軋んだ。
こんなに成長を寿いだ自慢の息子、その遺品を大切に持っている。
その吉村の心が、親の真実の愛情が英二を打った。

だって自分は母親を置去りにしてきた、けれど後悔も出来ないでいる。
そんな自分に吉村は、雅樹と同じ救命救急セットを贈ってくれた。
こんな親不孝な自分を、けれど受けとめてくれる吉村医師の想い。それが英二の心に迫あがってくる。

…どうしてですか、先生?

心の熱が目の底へと昇りはじめる。
そっと瞳を閉じてまた、ゆっくりと英二は見開いた。
そんな英二に微笑んで吉村は話してくれる。

「雅樹は大変喜んでくれました、そして毎日持ち歩くようになって。
 大学2回生になるとダブルスクールで救急救命士の専門学校に夜間部で通い始めました。
 そして規定の2年間を終えた大学4回生の時に、雅樹は救急救命士の資格をとりました」

「医大に在籍しながら、救急士の資格を?」
「はい、驚くでしょう?だって医大に通っているのにね」

軽やかに笑って、吉村は言葉を続けた。

「医大を卒業して国家試験に受かれば医師免許がとれる、そうすれば救急救命士の資格が無くても医療行為は出来ます。
 だから私もね、ダブルスクールの話を聴いた時に訊きました。なぜわざわざ、救急士の資格をとる必要があるのかと、」

きっとそれは、誰もが疑問に思うだろう。
でも雅樹の気持ちがすこし英二には解るように思えた。
なぜなら生命の救助は、その瞬間しかチャンスが無いから。
それは山岳救助隊として生きる日々に、英二が痛切に思うことだった。

「そうしたら雅樹はね、私にこう言ってくれました。
『お父さん、命に待ったは出来ないよ。その瞬間にしか助けられない。
 だから一刻も早く命を援けられるようになりたい、あの自殺した人みたいに手遅れにならないように』
 そう言われてね、私はうれしかった。ERの現場に立つ私にとって、なによりの人生の贈り物にでした」

吉村の言葉に英二は微笑んだ。
やっぱり自分と同じ考えに、雅樹は救急救命士の資格を取っていた。
会ったことはない雅樹、けれど自分とどこか似ている。
そう言われる理由が少し解るかな、そう英二にも思えた。

「彼は大学でも山岳部に所属しましたが、一人でも山をあるきました。
 そしていつも、その救急用具を持っていた。山で困った方を何度か助けたそうです。心から彼は嬉しそうだった」

うれしそうに吉村も微笑んだ。
そしてそっと瞬いてしずかに言った。

「けれど、あの日は救急用具を忘れて行ってしまった。そんなことは、あの時が最初で、そして最後になりました」

15年前の10月下旬、長野の高峰に雅樹は単独行で登った。
そして急な突風に煽られバランスを崩し雅樹は滑落してしまった。
けれど雅樹は生きていた、でも落ちた側の左足と左腕を骨折していた。
きっと雅樹なら救命救急用具で応急処置が出来ただろう、そして自力で下山が出来た。
けれどその時だけは救命救急用具を持っていなかった、そして山ヤの医学生だった雅樹は冷厳な夜を迎えた山に抱かれて凍死した。
23歳だった。

23歳、いまの英二と同じ年。
英二は目の底の熱をしずかに抑え込む。いまは泣いてはいけない、せめて話が終わるまでは。
しずかにカップに口をつけ、コーヒーごと涙を英二は飲み下した。
そんな英二の横で吉村もコーヒーを啜る、そっと吉村は言葉を紡いでいく。

「雅樹は、ほんとうに良い男だった。私には勿体無い息子だった。愛しています、心から息子を、雅樹を…
 代れるものなら代りたい。私のこの命を、人生を雅樹に与えてやりたい。そんな想いに私は、雅樹が医者になる決心をした、この奥多摩に戻りました。
 雅樹が医師になる決意をした日。あの日に全て見つめていた雅樹の瞳を思いながら、この奥多摩で私は山の生死と見つめています」

自分の人生を、息子に与えたい。
だから今ここで吉村は、英二と座ってコーヒーを飲んでいる。
雅樹が医師に立つ運命を見つめ決めた、この奥多摩の原生林の前に座って。

「だからね、私はずっと迷っています。もしも私が山ヤで医師じゃなかったら?
 雅樹は山ヤにも医学生にもならなかった。そして早く死ぬことも…無かったのではないかと」

こんな哀しい「もしも」誰もがきっと想うこと。
大切な存在を失った時、誰もが思ってしまう自責と仮定。
それは仕方ないことだろう、だって止めたくて止められるものではない。
だって自分の心の動きをまで、誤魔化す事が出来る人間なんて。きっと居るわけがないのだから。

カップのコーヒーを見つめながら、そっと吉村が微笑んだ。
その微笑みを吉村は英二に向け、口を開いた。

「雅樹の救命救急用具は今でもね、中身をきちんと交換してやるんですよ。そして彼の位牌へ供えてあります。
 雅樹は心の底から、命の救助に人生を掛けました。愛する山で出会う命を、あの長い腕を精一杯に伸ばして救って。
 そんな雅樹は今もきっと誰かの援けに用具を使っている、そう思えてならないんです。
 だから今でも毎日チェックして、彼の救命救急用具に不足が無いか、劣化が無いか確認しています。」

そうだろう、きっと。
きっと雅樹は今でも、誰かを助けようとしている。素直に英二は微笑んで頷いた。

「はい、きっと雅樹さんなら」
「うん、…ありがとう。宮田くん」

頷いた吉村はコーヒーを啜りこんだ。
そして少し哀しく重たい空気に、吉村は座りこんで口を開いた。

「15年前の当時、私はERの教授だと奢っていた…緊急救命の神だとか言われて。
 けれどね、自分の息子の危機には何も出来なかった。そして私は思い知らされました。
 自分は神でも何でもない、ただの無力な男なのだと。そんな後悔と懺悔の底で長野の検案所で私は泣き叫んだ。
 1人の男として父親としてね…ERの教授だなんてことも全て忘れて、雅樹の遺体に縋って、ただ泣き叫びました。
 そして翌朝、雅樹の遺体と東京へ帰りました。その時の私の心はもう、全てがモノクロにしか映らなかった」

23歳の医学生だった雅樹。
当時の吉村は50歳、ERの教授として医学の最高峰に立っていた。
そんな吉村にとって雅樹は、どれだけ誇らしい存在だったのだろう。
そしてたった1度のミス「救命救急用具を忘れた」「突風に煽られた」その1度きりのミスが雅樹を山での死へと誘った。

 ―山ではさ、小さなミスが本当に命とりになる。それは山ヤにとって不名誉だ
  だから山ヤはさ、誇り高いからこそミスを許さない。ミスをしない為に謙虚に学んで努力も出来る

御岳の河原で3週間前、国村が英二に言った言葉。
雅樹はそういう謙虚な努力家だった、それでも雅樹は山での死に抱きとられた。
それくらい山に生きることは、峻厳な掟に身を置くことになる。
もっと自分は謙虚になって行こう、そっと英二は肚に覚悟を落としこんだ。
そのためにも自分は、この目の前の吉村の哀しみを今、見つめさせてもらおう。
そう見つめる吉村は再び、しずかに口を開いた。

「それでも、長野から戻った翌朝にはERに立ちました。
 自分は無力だ、ただ患者さんの生命力を援けているに過ぎない。
 そんな謙虚な気持ちにERの現場に立つようになりました。
 そして考えるようになりました、雅樹の生命力はどんなものだったのかと。
 父親として息子にどれだけの生命力を与えられていたのか、育めていたのか。
 そんな疑問は刻々と大きくなって行きました。どうしても知りたい、自分が息子に何をしてやれたのかを」

語る吉村の隣を、しずかな樹間の風が吹きぬける。
ロマンスグレーの鬢が靡き、穏やかな小春日和の陽光に光っていた。
静かな陽だまりに吉村は、雅樹の記憶と寄り添いながら哀しみと微笑んだ。

「雅樹は温かな優しい男でした。真直ぐで広やかで、健やかな心でね。我が息子ながら良い男でした。
 だから私は思いました…自分が神だと奢った所為で、雅樹は死んだのかもしれないと。
 神だと奢った私をいさめる為に、本当に神から愛されるような雅樹が犠牲になったのかもしれない。
 そう思った時、私の心も手も動けなくなった。
 それでも患者はERに来ます、そして私の手は勝手に動きました。
 私の心は竦んでいる、けれど手だけはね…私は医療ロボットになったのだ。そう思いました」

医療ロボット。
そう言われた瞬間に英二は、警察学校に入学したばかりの自分と重なった。
「虚栄心を満たす道具、きれいな人形」そんなふうに生きていた自分の姿。
きっと心を喪えば、人は誰もがそんな姿になるのだろう。こんなに立派な吉村でさえも。
そのことが心に痛い、英二は陽光に映えるロマンスグレーの横顔を見つめていた。

「そんな折にね、ふらっと後藤さんが私を尋ねてきました。
 『ちっとも奥多摩に帰ってこないからさ、こっちから来てやったよ』そう笑ってね。
 後藤さんの顔を見た瞬間にね、奥多摩の山が私には見えました。
 ああ、後藤さんが奥多摩を背負って、私を迎えに来てくれた。
 そう思った瞬間に涙が出たんです。診察室で私は号泣しました。大の大人がね、もうみっともないほどに泣いて」

新宿の大病院に飄然と現れた、警視庁随一の山ヤ。
なんだか光景が浮かぶ、それはきっと奥多摩の山を背負っていたろうと。
そんな後藤はきっと、いつものように大きな山のように笑って、飲み仲間の吉村を受けとめた。
とても後藤副隊長らしい、なんだか嬉しくて英二は微笑んだ。
彼らしいでしょうと吉村も笑って、そして話を続けてくれる。

「医師たちはもちろん、看護師さんも患者さん達もさぞ驚いたと思います。長野の検案所で泣いて以来の涙でした。
 後藤さんは私の話を聴いて、そして言ってくれました『山ヤの生涯を一番近くで見る医者もいるだろう?』とね」

山ヤの生涯を一番近くで見る医者。
それはきっと山岳地域の医者、そして後藤が言うなら警察医のことだろう。
思ったまま英二は訊いてみた。

「先生が警察医になったのは、後藤副隊長の勧めだったのですか?」
「そうです、後藤さんの勧めで私は、青梅署の警察医として立つことが出来ました。そして宮田くん、君に会えました」

自分との出会い。
吉村はその話をこれからしてくれる。
そっとカップを地面に置いて、すこし英二は吉村へと体を向き直らせた。
吉村もすこし英二に向き合うと、微笑んで口を開いた。

「君の初めての死体見分の夜、私は初めて君を見ました。私は見分立会の為にあの森へ向かった。
 そして現場に着くと、森の闇に君が立っていた。私は、その時…君を、雅樹だと思ったんです」

たぶんそうかな、なんとなく英二には解っていた。
けれど改めて言われることは、心に返響を生んでいく。
囲む原生林から吹く風の中で、英二は吉村を真直ぐに見つめていた。

「雅樹が帰ってきた。奥多摩に、雅樹が愛していた奥多摩の森に、雅樹は帰ってきた。
 そう思ったんです…長身で、色白で、穏やかな静けさが温かい気配。同じだったんです、雅樹と。
 私は懐かしかった、うれしかった。本当に懐かしくて、うれしくて。雅樹と、私は呼びかけそうになりました」

原生林からの風が、英二の髪をさっと吹きはらった。
その風の中で英二は、ただ吉村医師の目を見つめて微笑んだ。
だっていま自分は何を言えるのだろう?けれどただ受けとめてあげたい。
それくらいに英二は、この山ヤの医師を敬愛し好きになっている。
そんな英二の目を見つめて、吉村は穏やかに微笑んだ。

「そうです、私は、本気で…本当にあの時、雅樹が帰ってきたと思ったんです。
 けれどすぐに気付きました。ああ、よく似ているけれど、違うのだと。
 君は落ち着いて、初めての見分を行った。まだ新しい活動服姿、不慣れだけれど適確な手つき。
 誠実な新人警察官なのだと見守りました。
 遺体を見る目は途惑いがある、けれど君は、その瞳の奥で遺体に語りかけていた」

あの初めての死体見分。
縊死自殺の遺体は無残な状態になる。その中へと自分は初めて手を差し伸べた。
ほんとうに怖かった、そして哀しかった。
なぜこのひとは、こんな最後を選んでしまったのか。
なぜこのひとは、生きて笑って幸せになる努力を喪ってしまったのか。
そんな想いの中で自分は、初めて「人の命の終焉の姿」の1つにと立ち会っていた。

「君の瞳はあのとき、こう言っていた。
 『どうして死んだのですか、生きて幸せになってほしかった』
 その瞳の声が私には嬉しかった…ああ、雅樹によく似たこの青年は、素晴らしい。
 雅樹は死んでしまった、けれどこの青年には雅樹と同じ想いが生きている、そう思ってね」

素直に英二は吉村医師の言葉に頷いた。
そして微笑んで答えた。

「はい、先生…俺ね、そう思っていました。だからね、俺はきっと雅樹さんの想いは、解ります」
「うん、…そうか。そうだね、…君なら解るな」

しずかに頷いて、英二は吉村医師の目を真直ぐに見つめた。
そして穏やかに、きれいに笑って英二は言った。

「山に行きましょう、先生。今日みたいに俺に、山を教えて下さい。
 先生が山を一緒に歩いて、俺に山を教えてくれること。それが俺を生かしてくれます」

英二が見つめる先で、そっと吉村医師が微笑んだ。
そして静かな声で、英二に訊いた。

「私が、君を…山に生かせるのかな?」

そうだよ先生?
先生しか出来ないことがあるでしょう?
そんな想いに英二は笑って答えた。

「はい。だって先生は山ヤの医師でしょう?そして俺は山岳救助隊員です。
 俺にとって先生はね、医療と登山技術の両方を教えられる師匠でしょう?」
「おや、師匠ですか?」

ちょっと可笑しそうに吉村が笑ってくれる。
そうですと頷いて英二は言葉をつづけた。

「先生、俺はまだ山の初心者です。けれど山岳救助隊員として既に任務に就いています。
 それは本当は危険なことです、そう自分が一番解っています。本当は自分こそが、いつ遭難事故に遭うか解らない。
 それでも俺はどうしても山岳救助隊員になりたくて、この奥多摩に希望を出して配属されました。
 そんな経験不足の俺を、先生の山ヤと医師の知識はきっと援けてくれます。
 だからね先生、俺は今日が本当に楽しみでした。だって俺自身の救助をするのは、きっと先生から受取る知識だから」

「…わたしは、」

静かに吉村は口を開いた。
きっといま吉村の時が動き出す、そんな想いに英二は微笑んで見つめた。

「わたしは息子を死なせた医師です…そんな私から、受取ってくれるんですか?宮田くんは」
「はい、先生の知識が俺は必要です。山ヤで医師である知識は、俺自身も、そして出会う遭難者も救うからです」

吉村の目にゆるやかに涙が起きあがる。
そして涙とともに想いが吉村の口から現れた。

「…同じことをね、あの日に雅樹も言いました。この原生林であの子は決意した、その日に言ってくれたんです。
 『僕はお父さんと同じ道を歩きたいよ、だからお父さんの知識を教えてほしい』そう言って、雅樹は…
 山ヤになって、医者を志して、そして…自分が山で死んでしまった。雅樹は帰ってこなかった」

涙の底から吉村が英二に訴えてくれる。
「ほんとうはいつも、君が帰ってくるのか心配なんだ。雅樹と君は似ているから」
その想いが温かい。その温かさに英二は、きれいに笑って応えた。

「先生、俺は絶対に帰ってきます。だって先生、俺はね。周太と約束しているんです。
 『絶対に必ず周太の隣に帰る』って。先生、俺は全力で約束を守りたい。
 だから先生お願いします、その約束を守る為に先生の知識を俺にください。そして俺を山で生かして下さい」

訊いて吉村は涙の中で微笑んだ。

「宮田くんは真面目だからね、しかも湯原くんとの約束なら、…必死で守るね?」

そうだよ先生?そして周太。
俺は絶対に約束は守るから。そんな想いのまま率直に、英二はきれいに笑った。

「はい、絶対です」

そう、絶対に自分は約束を守る。
そうして最高峰からだって必ず帰る、そして大切な人を守って生きる。
だって自分はいつも想っている願っている、生きて幸せに笑って隣にいたい。
そのために今日も、逢いたいけれど未来の為に、ここで教えを乞うている。

だから先生、また山に登って下さい。俺の為にね?
そう英二は目だけで吉村医師に笑いかけた。
そんな英二に穏やかに、けれど瞳の底から微笑んで吉村は言った。

「次はね、どこの山に登りましょうか?宮田くん」

吉村の「山ヤの医師」としての時は再び、15年ぶりに動き始めた。



blogramランキング参加中!

ネット小説ランキング
http://www.webstation.jp/syousetu/rank.cgi?mode=r_link&id=5955

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 第27話 山行act.1―side stor... | トップ | 第28話 送雪act.1―side stor... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

陽はまた昇るside story」カテゴリの最新記事