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劉邦の生き様(前編)

2006年05月01日 19時19分06秒 | 世界@名無史楽家
 お待たせ?致しました。下リンクの続きです。
 それでは劉邦の一生を追っていきましょう。

 彼は中国戦国時代末期、沛の近隣の町、豊の中陽里と言う場所の農家の末っ子として生まれました。
しかし、若い頃から不真面目で、家業の農作業には従事せず、近隣の沛の街に出ては、
街の不良の若者を集めて屯し遊び回る、ゴロツキの親分に成って居ました。
 その頃、秦が天下を統一して、沛の街は県庁を置かれ、沛県と成って居ました。
 ゴロツキとは言え、不思議と周囲に人望が有るので、これを活用しようと、
役所では彼を近隣の、泗水の亭長(現在で言うと町の駐在さん)に任命した。
 そして始皇帝が崩御し、二世皇帝が即位すると、更に法律は厳しくなり、
民衆を圧迫する様に成った。
 その後、都への人足を派遣する任を受け、郷里の人足を引率するが、
厳しい労働条件を恐れた人達が、次々と逃亡してしまった。
 すると、厳罰主義の法律から、自らも罪を受ける事を恐れて、以後は自らも野盗に転じた。

 更にその後、劉邦と同様に、人足を辺境の国境警備の任に着かせる為に引率していた、
農民の陳勝と呉広は、大雨で河が氾濫し、道が塞がれた為に、期日までに役目を果たせない事が解り、
死刑を受ける事を悟った。
 同じ死を受けるのならば、叛旗を翻そうと、同僚の農民達を先導して、叛乱を起こす事件が起こった。
(世界初の農民の叛乱。陳勝・呉広の乱)
 始め数千人だった暴動も、国内に民衆の怨嗟の念が燻って居た為に、
その不満は一気に連鎖して広がり、一瞬にして、数十万の大勢力に成長して、
周辺の城塞都市を次々と占領して、都を攻めると言う所までに成った。

 劉邦の地元沛でも、県令が、このまま秦の官吏として居たら、周辺の叛乱に攻め殺されると思い、
 自ら叛旗を翻す事にしたが、県の役人、蕭何の勧めで、沛の人望者、劉邦を守備軍として迎える様に進言する。
 しかし、県令は直前に成り、劉邦に身分を乗っ取られるのを恐れ、拒絶するが、
住民が県令を殺して、無事劉邦は沛に入場。
 以後、自らを沛公と名乗る事に成る。

 その後、周辺の城も幾つか支配下に納め、叛乱諸勢力の中では一角の地位は築ける様に成って居た。
 この頃、叛乱本流の、陳勝と呉広は、秦の反撃に遭い、自滅してしまって居たが、
彼らに便乗して挙兵した、旧戦国諸侯の復興勢力や、陳勝の叛乱の残党勢力が、
依然として反秦を標榜して、各地に割拠していた。
 この中で、反秦勢力で一番勢力を誇ったのが、旧楚勢力の項梁だった。
 項梁は旧楚の王族の者を担ぎ出し、楚を復活させて、正統を示し、
叛乱勢力は、大方この楚の勢力に合流する形で一本化を目指した。
劉邦も、この楚の幕下に加わるべく、合流した。
 その後、項梁は秦に敗れて命を落すが、甥の項羽がその身分を継承する事に成る。
 ここで、逆転を狙い秦攻略の方策を協議するが、この時楚王が、
「関中(秦の都周辺地域)を始めに陥落した者を、関中王とする」と宣言した事で、
一気に秦滅亡作戦が決行される事と成った。

 楚の主力は、項羽が率いる事に成り、秦の討伐軍に包囲されている、
北の趙を救援してから、一路都を目指す段取りだった。
 一方で、陽動作戦として、捨石的な軍も編成される事に成った。
この軍を指揮するのが、劉邦だった。

 項羽は、主力を持って趙を攻撃する秦の主力を壊滅させ、
一路都を目指したが、
劉邦は、兵数が少ないのを逆手に取り、
出来るだけ戦闘を避け、同調する叛乱勢力を吸収しながら、
都に急ぐ事を第一とした。
 これにより、趙救援の回り道をした主力が都に到着する前に、
劉邦は関中に入ったので有る。
 これにより、秦の三代目は、秦王として劉邦に降伏。
 劉邦が、秦王朝を滅亡させてしまったのである。

 これにより、軍中にも劉邦は、一目を置かれる存在も成り、
また、都では今まで法律で悩まされてきた住民に、
簡素な法律に切り替えて、絶大な人気を誇る事に成った。

 こうして、順風万般の様では有ったが、これが、宿敵項羽を激怒させる結果と成った。
以後、項羽との壮絶な争覇戦に突入して行く事に成る。

つづく


漢の高祖-劉邦-

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