曲輪3から曲輪2方面へ登ってゆきます。
曲輪3
曲輪3から東尾根を見ています。
東尾根第一堀切
東第一曲輪から曲輪2方面を見下ろしています。
第二堀切(下から見れば瘤状の障壁)「
東尾根を見上げています。
帯曲輪
縄張り図は「信濃の山城と館4」帯曲輪は曲輪2・本丸の南下に描かれています。
ここを登れば二の丸ですが、ここから左手の北尾根へ
未踏査であった北尾根の大堀切
大堀切を見返しています。
北尾根段曲輪
北尾根第二堀切、北尾根だけでも一流の規模の縄張りとなっていますが続きは次回とします。
埴原城について
埴原城は、信濃守護小笠原氏の家臣埴原氏(村井氏)の城であった。
天文19年(1550年)、武田晴信の攻撃により真っ先に攻撃され落城し、この後林城など小笠原氏の諸城は、続々と落城し、信濃守護小笠原氏はこの地を追われることになった。 武田氏滅亡後、松本盆地を奪還した小笠原貞慶が改修し、現在の城跡はその時のものと推定されている。 現在も石垣、土塁などが一部残る。
曲輪3
曲輪3から東尾根を見ています。
東尾根第一堀切
東第一曲輪から曲輪2方面を見下ろしています。
第二堀切(下から見れば瘤状の障壁)「
東尾根を見上げています。
帯曲輪
縄張り図は「信濃の山城と館4」帯曲輪は曲輪2・本丸の南下に描かれています。
ここを登れば二の丸ですが、ここから左手の北尾根へ
未踏査であった北尾根の大堀切
大堀切を見返しています。
北尾根段曲輪
北尾根第二堀切、北尾根だけでも一流の規模の縄張りとなっていますが続きは次回とします。
埴原城について
埴原城は、信濃守護小笠原氏の家臣埴原氏(村井氏)の城であった。
天文19年(1550年)、武田晴信の攻撃により真っ先に攻撃され落城し、この後林城など小笠原氏の諸城は、続々と落城し、信濃守護小笠原氏はこの地を追われることになった。 武田氏滅亡後、松本盆地を奪還した小笠原貞慶が改修し、現在の城跡はその時のものと推定されている。 現在も石垣、土塁などが一部残る。