こんな日が来るだろうとは思っていました。
私たち家族が住むマンションは築四十五年は経っていたし、こまめだったマンションの手入れがここ数年はおざなりになっていたのですから。そのため、共用部分の老朽化はどんどん進んでいきました。
募集はかけていたようですが、新しい入居者も近年ありませんでした。高齢者の一人暮らしが多く、引っ越し・入院・病死でますます入居者が減っていくばかり。
もちろん、子育て世代は我が家だけ。他の子供といえば、同じマンションの一階に住むおばあちゃんの元に毎日来る姉弟くらいでした。
だから十二月上旬、ごつい体格のスーツ壮年二人組が一階の部屋から順に回り我が家のドアノブを叩いた時、何となく嫌な予感がしたのでした。
「はいはいはいはい!」
いつものように、息子が真っ先に返事をしてドアノブを内側からドバーンと勢いよく開けました。
「危ない人だったらどーするんや。誰か聞いてからドア開けてよ」
そう嗜めたいところですが、今は客人の対応が先です。
私は息子を追って玄関に出ました。
一人は大家さん二世、もう一人は「初めまして」と名刺を私の眼前に差し出しました。
「司法書士…」
また偉い方が来られたものです。私は大家さん二世の方を見上げました。
「実はこのマンションですが……消防法に引っかかりまして、万が一地震が生じた場合、倒壊の危険があると判明し、建て直すことになりました。それで大変申し訳ないんですけど、退去のお願いにあがったんです」
スポーツ選手のように体格のいい大家さん二世は、背を丸めて静かに話を始めました。
「半年後までに退去をお願いできませんか? 引越代や引越先の保証金等はお支払いします。上限は有りますけどね。あ、保証金は全額お返しします。窓口は司法書士のこの方でお願いします」
「どうも」
……ああ、遂にこの時がやってきたか…………。
話を聞きながら、私の脳みそは落ちつかなくてふわふわしていました。
文化住宅に住んでいたおばあちゃん家族が立ち退きになり新築戸建を購入して一年。
「ウチもやばいかなぁ」と思いつつ、でも「家賃安いし水道代込だし部屋はそこそこ広いし、こんな条件のマンションは他にない!」ということで、引越には踏み切れませんでした。
息子の学校校区のことだってあります。ちょうど中学進学だからきりはいいけど、もう校区内の公立中学校に進学が決まってるし本人はその学校に行く気満々(ここいらは学校選択制で、校区外の中学校も選べちゃったりするのです)。
今から新しい住処を探すとなると、家賃が安い引越シーズン突入前でなおかつ中学進学前には決めてしまいたい。つまりあと一~二ヶ月で決める必要があります。
おばあちゃん宅や職場から遠くなくて、できれば校区内で、更に今の条件に見合う物件なんて…………。
あるかぁぁぁぁいっ!
胸中で自分に突っ込んでいると、大家さん二世の言葉が飛び込んできました。
「うちと同等のマンションを紹介させて頂くこともできますが、どうされますか?」
同等のマンションがあるならぜひ紹介してほしいです。でも、引越可能期限が既に目前なのですよ、大家さん二世。何故このイベントが今というタイミングなんでしょう?
「考えさせて下さい。どうするか決めたら連絡しますので」
ああ、主人に相談しよう。
「なぁなぁ大家さん」
「うん?」
「ここ取り壊して何建てるん? 大っきいマンション?」
いつの間にか、息子が大人の会話に割り込んでいました。
「おっちゃん、そんな金ないわ。二階建ハイツ建てるんや」
「ほんじゃ、完成したらここに戻ってきたらいいやんなぁ?」
「うんん…でも家賃上がるでぇ?」
「ええーっ!」
こらこら息子よ。大事な話の途中なんですけど。
息子は相変わらずのしゃべりたがりというか、一人前ぶっているというか。
結局マンションは自分たちで探すことになりました。
仕事帰りに自転車で駆けずり回って賃貸資料をかき集め、不動産屋で話を聞き、ネットで検索しまくる日々。
やっぱり同等条件の物件なんて見つかりません。
「この立地、この条件でこの家賃はないですよー!」
今住んでいる部屋の条件を話すと、不動産屋にもびっくりされたくらいです。
「ですよねぇ」
駅歩三分、近隣スーパー多数の上、物価が安くて買い物便利。階段はないけど四階2DKで収納豊富。シャワーもないけど追い炊きできるし、エアコンも給湯器も備え付け。ブレーカー増やしたからネットも快適! 屋上からは花火だって綺麗に見えちゃいます。
古くて気密性に欠けるし壁に穴は空くしGokkiはマンション全体で繁殖中だけど、それを差し引いても家賃は安い。
同マンション住人が満場一致で「安い!」とおっしゃっています、はい。
あと主人から要望が。
「3DK以上で築浅がいい。で、この近辺な」
家賃アップを視野に入れて物件を探し、私たちは見学したい物件を絞りました。
十二月某日の週末、名刺をもらっていたその賃貸不動産屋に主人と行きました。
「ああ、この優良賃貸物件ですね。条件はいいんですけど、新婚家賃補助や様々な補助を全て用いてこの家賃なんです。年々ここから家賃が上がっていきます。それに…新婚さん…ではないですよね?」
はい、違います。新婚補助なんてとっくの昔に終わりました。
「すると家賃はこうなるので……」
担当についた若くて細身の営業さんは、はじき出した数字を見せてくれました。
「最終的にはここまで家賃が上がります」
ううっ、た、高すぎる! うちのエンゲル係数ではやっていけない!
「……別の物件にします」
条件の割に破格の家賃って、やっぱり落とし穴があるんですね。
はぁぁ(ため息)。
いざ物件を探してみと、同和問題がまだ残っている事実に驚かされます。
「って教科書に載ってるやつ」状態だった私は、今の土地に来てから現状を知りました。
根強く残る人々の意識(特に年寄り)、地区の破格な家賃。
柄が悪かったり、学力が低く進学率が低かったり、低所得者が多かったり、生活保護を受けている人が多かったり、物価が激しく安かったり。
綺麗な住宅地も誕生していますが、今にも壊れそうな風貌の小さい家もたくさんあります。
ちなみに主人が見学に選んだ物件は、おばあちゃん宅の引越先の近くでした。
近隣の人なら誰でも知っている超巨大マンションです。
エレベーターは二台(時々クラシック音楽が流れていたりする)、オートロックで管理会社も内包。それにゴミはダストシュートにいつでもポイ。
何部屋か見せて頂きましたが、古いマンションに十年以上も住んでいる私からすれば、最先端文明に触れた気分でした。
「シャワーもついてる!」
「当たり前や」
はい、ツッコミありがとうございます。
私は営業さんを向いて質問しました。
「コンセントがたくさんあるけど、色々同時に使ったらプレーカー落ちませんか?」
「普通の生活をしている分には大丈夫です」
今の家は普通に生活するとブレーカーが落ちるので、もう一つブレーカーを増やしていました。そういうことはしなくていいわけですね、つまり。
「いいね。よし、ここにしよう」
主人は上機嫌で即決。
というわけで、大家さん二世から立ち退き宣告をされて一週間後、早くも引越先が決まったのでした。
でも家賃交渉は失敗。むしろ、あと一ヶ月遅かったら一万円アップする手はずだったといいます。うう……。
息子の学校が冬休みの間に急ピッチで引越を済ませました。
それはもう目まぐるしい忙しさで、有休を取りまくって職場に多大な迷惑をかけました。でも、理解のある職場で本当によかったです。
「えらい早いね~」
立ち退きという、私と同じ境遇で焦るマンションの人たちはびっくりしていました。
皆親切で、楽しくて、玄関先でしゃべり合ったり、息子に声をかけたりしてくれる人たちです。
「はい、息子の学校のこともありますから。でも寂しくなります」
私はそう返事をしました。
こういう昔ながらの景色がまた一つ消えていくんだなと思うと、本当に寂しい気がします。
お向かいの文化住宅も裏の古い住宅も全部消えていきました。新興住宅地として生まれ変わろうとしている、その過渡期真っただ中に私たちは住んでいたようです。
そうそう。問題が一つ残っていました。
「ええーっ! 友達と同じ中学校に行くって約束したのに」
息子の進学する中学校のことです。
「校区が変わるからね。ほとんどの子が校区内の学校に行ってるから、一人だけ違う校区に行くと、近所で友達できないよ」
「いいもん別に」
息子が拗ねてしまいました。
引越先は元の住居から一キロメートルほどしか離れていないのですが、学校校区が変わってしまうのです。
小学校は卒業間近なので校区外通学することになりましたが、中学校は……。
「新しい校区の中学校に通うか、以前の校区の中学校に通うか選べますよ」
役所の人はそうおっしゃいました。
「やっぱり校区内の中学校に通う方がいいかなぁ…。保育園の時の友達はいるし、線路や幹線道路を通らなくてもいいし」
そして何より、新しい校区の中学校は息子の大好きなおばあちゃん宅から徒歩三分!
「この中学校に通うってクラスの皆に言ったら、いいなぁ羨ましいって言われた。制服ダサいけどバスケがめっちゃ強いんやって」
なんやかんやで、息子は新しい校区の中学校に通うことを納得したのでした。
ちなみに親戚の反応はというと。
「引越おめでとう。めでたいなぁ。安心したわ」
何故かお祝いモードに。
「いや…立ち退きなんです……」
不幸な事実を訴えたのですが。
「関係ない! よかった! おめでとう」
押し切られました。
という訳で、今回の引越はおめでたいことのようです。
どうか我が家を祝ってやってください。そして祝って下さった皆さん、ありがとうございます。