十勝の活性化を考える会

     
 勉強会や講演会を開催し十勝の歴史及び現状などを学ぶことを通じて十勝の課題とその解決策を議論しましょう

中国共産党~一党独裁の宿命~

2021-10-27 05:00:00 | 投稿

先日、NHK「日曜スペシャル」“中国共産党~一党独裁も宿命~を放映していた。内容は、毛沢東の秘書も務めた中国共産党幹部で、体制内の改革派を代表する論客でもあった李鋭氏(享年101歳)の目を通して、中国を批判するものであった。

秦の始皇帝から始まり、毛沢東、鄧小平、周恩来、習近平などを紹介し、中国共産党の一党独裁体制を論じていたが、特に天安門事件が、胡耀邦元総書記の死がきっかけとなったことも報じていた。中国には2,000年の歴史があり、一党独裁は変わっていないことを非常に危惧していた。

中国はいま、社会主義市場主義のもとで世界一にならんとしているが、この番組を見てとても恐ろしい国と感じた。中国は多民族国家で約14億人もいるそうであるが、一国で統一するのは難しいと思っている。

1989年に起こった天安門事件の5カ月後、家族と一緒に中国旅行で天安門に行ったので、あの事件がこの場所で起ったことを思うと複雑な気持ちになったことを覚えている。天安門事件の後、ベルリンの壁が崩壊、ポーランドの崩壊と立て続けに起こり、1991のソ連の崩壊と続くのである。

また、ノーベル物理学賞を受賞した90歳になる真鍋叔郎氏が、二酸化炭素の温室効果ガスが気候に与える影響を明らかにしたのも天安門事件が起こった1989年である。彼が、30歳も若い58歳の時である。

「十勝の活性化を考える会」員

注) 六四天安門事件

六四天安門事件は、1989年6月4日日曜日)に中華人民共和国北京市にある天安門広場民主化を求めて集結していたデモ隊に対し、軍隊が武力行使し、多数の死傷者を出した事件である。通常「天安門事件」と呼称する場合はこの事件を指す。

民主化を求めるデモは、改革派だった胡耀邦(フー・ヤオパン)元総書記の死がきっかけとなった。胡耀邦の葬儀までに、政治改革を求める学生を中心に約10万人の人々が天安門広場に集まった。

抗議運動自体は、胡耀邦が死去した1989415日から自然発生的に始まった。抗議の参加者たちは統制がなされておらず、指導者もいなかったが、中には中国共産党の党員、トロツキスト、通常は政府の構造内部の権威主義と経済の変革を要求する声 に反対していた改革派の自由主義者も含まれていた。

デモは最初は天安門広場で、そして広場周辺に集中していたが、のちに上海市を含めた国中の都市に波及していった。鄧小平中軍委主席の決定により519日に北京市に戒厳令が布告され、武力介入の可能性が高まったため、趙紫陽総書記や知識人たちは学生たちに対し、デモの平和的解散を促したが、学生たちの投票では強硬派が多数を占め、デモ継続を強行したため首都機能は麻痺に陥った。198964日未明、中国人民解放軍は兵士と戦車で北京の通りに移動して、デモ隊の鎮圧を開始した。

衝突のあと、中国共産党当局は広範囲に亘って抗議者とその支持者の逮捕を実行し、外国の報道機関を国から締め出し、自国の報道機関に対しては事件の報道を厳格に統制させた。戒厳令布告に反対した趙紫陽は、総書記ほか全役職を解任され、2005年に死去するまで、自宅軟禁下に置かれた。