集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
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霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝(第5回・第二の故郷岩国と岩国中、そしてなじめぬオッチャン)

2016-10-30 17:55:47 | 霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝
 オッチャンが日本を目指し、父・三郎とともにハワイを出立した大正9年当時、当然のことながらハワイ―日本間に航空便など存在しません。
 ハワイ―日本間には日本郵船とアメリカの海運会社が太平洋航路を乗り入れており、それに頼る以外ありません。

 大正末期、ホノルル~横浜間は、日本郵船の太平洋航路客船を使って7日間ほどかかりました。運賃は最も安い三等船室で片道51円(最も高い一等は250円)。現在の貨幣価値で30~40万円ほどでしょうか。決して安くはないお金です。

 横浜に到着後、山口県岩国町までの移動手段も、当時はまだ船が便利だった時代。岩国出身の大作家・宇野千代は岩国の装束港から東京行きの船に乗ったことを自著に記していますが、オッチャンはその逆コースで東京から岩国に乗り込んできました。
 総行程10日弱の長い長い旅を経て、オッチャン、山口県玖珂郡岩国町(当時)にようやく到達です。

 岩国にやってきたオッチャンは「兄杉田屋」こと父の兄夫婦の養子となり、玖珂郡岩国町立岩国尋常高等小学校尋常4年に編入されます。
 オッチャンが12歳で尋常4年という、当時の学制から勘案してもかなり年齢不釣り合いな学年に編入された原因ですが、これはハワイの日本人学校に4年時まで在学していた、ということが直接の原因であると思われます。
 
 ここで当時の学制について簡単に触れておきます。
 当時は満6歳の年齢になったら、6年制の尋常小学校に入学します。ここまでは現在と同じですが、以後が現在とは、随分と異なります。
 家に経済的な余裕があり、しかもお勉強ができれば、男は5年制の中等学校、女は4~5年制の高等女学校に入学します。
 成績が普通~イマイチであったり、家に経済的余裕がない場合は、尋常6年を修了後、2年制の高等小学校に進学し、そのあとは社会へ…という流れがあり、当時はこっちが一般的でした。
 昭和11年現在、中学・高女進学組は21パーセント。尋常卒でいきなり働く極貧家庭が13パーセント。高等小学校から社会へという組は実に66パーセント!
 いちおう向学心溢れる貧しい子弟のため、今の大検に相当する中等学校入学資格「専検」というものがあったりはしましたが、大正時代、中等学校への進学は、現代人が考える以上に困難な道のりでした。

 来日当時のことについて、オッチャンは自著で「風俗習慣の相違のため最初は実に閉口しました」とだけ述べています。
 アメリカンナイズされた12歳のオッチャンにとって、岩国での生活がカルチャーショックの連続であったであろうことは、想像に難くありません。
 そんな中でも勉強に打ち込んだオッチャンは大正11(1922)年、14歳で山口県立岩国中等学校(現・岩国高校)に入学します。

 県立岩国中学は明治13年に創設された、山口県トップクラスの歴史を誇る名門校。
 当時の山口県の「中小学章程」という、いわゆる当時の官立小・中等学校の運用規定によると、当時山口県は、県をタテに4つ割った学区で構成されており、その学区内に設立できる県立中等学校は1つか2つ、という構成になってました。
 当時、山口県の東4分の1を占める玖珂郡・熊毛郡・大島郡にあった官立の中等学校は岩国中学だけ。そのため同校には、県東部の各地域を代表するえりすぐりの俊才が集まって来ていました。
 大正11年4月30日付「興風時報」58号によりますと、オッチャンが入学したときの岩国中学は受験者364名に対して入学者141名。来日してわずか2年のオッチャンはそのハンディをものともせず、倍率2.58倍の難関を突破して入学したわけですから、その学力はとびぬけて優秀であったことがわかります。
 山口県東部地域のガキンチョが羨望のまなざしで見ていた、手首に山型の白線、ズボンの外側に白線がついた制服を着たオッチャンは、勇躍岩国中学の一員となります。

 山口県の野球は、明治23年に岩国中学の寄宿舎監が紹介したのが発祥とされ、いわば岩国中学は、山口県学生野球のエポックと言っていい存在でしたが、オッチャンが入学した当時は大した活動をしておらず、オッチャンの回想によると「岩中に入ることができ、野球をやった。1年にして二塁を務めたが当時の岩中は勉強オンリで野球の練習をやらなかった」といった体たらくでした。
 当時岩国中学では、秋に「中隊対抗野球」と銘打たれた、チームを赤・青・紫・白の4中隊(=チーム)に分けて競う部内試合をやっていた程度で、対外試合の記録もほとんどない、そんな部活でした。

 そんな野球部のなかで、オッチャンがまぶしく仰いだ唯一の先輩は、当時5年生だった飯田三郎。
 陸上も兼部していた飯田先輩は運動神経抜群で、大正11年、山口県中等学校陸上競技大会において槍投げと円盤投げで1位、400mで3位を取り、岩国中学の総合優勝に大きく貢献。のち、社会人の名門・函館オーシャン倶楽部に入る飯田先輩は、オッチャンの眼前に現れた「デキる先輩」の偶像そのものでした。

 オッチャンは飯田先輩にあこがれてそれなりに練習に励み、1年秋に赤軍セカンドとして出場、中隊優勝に貢献。翌年はキャッチャーとして、同じく赤中隊の優勝に貢献しています。
 大正13(1924)年の山口高等学校主催近県中等学校野球大会(後回で述べる山高大会。現在の春季大会に相当)には投手として参加。1回戦では山口師範を下した(詳細なスコアなし)ものの、2回戦で長府中学(現在の山口県立豊浦高)に1-3で敗れます。
 公式戦での勝利に、そして強敵長府中学との接戦に、対外試合をあまり経験しておらず、また、勝率も低かった当時の岩国中学ナインは浮かれていましたが…ただひとり、オッチャンは渇いていました。

 野球部の活動が技術レベル・練習の密度とも大したことがなかったため、オッチャンは別なスポーツにも没頭します。それは…剣道。
 オッチャンがいつ剣道を始めたかは定かではありませんが、大正12年の岩国練武館の新春早朝稽古で、オッチャンは精勤賞を受賞しており、また、当時岩国中学の名物行事であった校内武道大会にも剣道選手として出場、本職の剣道部員を相手に一歩も引かずに引き分けるなど、ひとかたならぬウデであったことがわかります(当時の岩国中学は柔・剣道ともに盛んで、大日本武徳会が主催する全国大会にも出場するほどのレベルであった)。
 ただ、その剣道も結局、オッチャンの渇望を満たすほどのものではなかったようです。

 岩国中学時代のオッチャンは、非常に荒れた粗暴な言動が目立ったようで、オッチャンの長男・卓さんが「柳井高等学校野球部史」に寄せた回想文にはこのように記されています。
「何かが満たされない日々であったのかもしれない。(岩国)中学時代は荒々しい乱暴な行動が目立ったようである」
 
 オレは野球に出会い、初めて自分を高めてくれるもの、全身全霊を賭けていいものに出会った。しかし、岩国中学にいたままでは、オレの野球は「ガキのお遊び」のレベルを出ないもので終わってしまう。オレは野球を窮めるためにはどこにいけばいいのか。何をすればいいのか…
 こうした葛藤の中、考え、苦しみ、荒れた日々を送る若き日のオッチャンでした。

【参考文献】
・「杉田屋守 私の野球生活」杉田屋守著 杉田屋卓編 私家版
・「岩国高等学校野球部史」門田栄著 岩国高等学校野球部史編集委員会・岩国高等学校野球部OB会
・「柳井高等学校野球部史」柳井高等学校野球部史編集委員会
・「戦前の少年犯罪」管賀江留郎 築地書館
・「興風時報」58号(大正11年4月30日)、59号(同年7月5日)、67号(大正12年2月6日)、71号(同年5月31日)、81号(大正13年2月5日)
・「日刊岩国新聞」216号(昭和34年7月10日)
・朝日新聞(昭和43年5月3日)・朝日新聞バーチャル高校野球掲載
・日本郵船株式会社公式HP「時の羅針盤」
 

 

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