集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
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武道・格闘技を「哲学」する?【「実戦系格闘技」を理解するキーワードは「西洋哲学」?】

2020-09-27 18:48:25 | 格闘技のお話
 世に「実戦」だの「護身」だのといった格闘技、あるいは数年前から流行っている「CQB」(クローズド・クォーター・バトル。近接戦闘の意)を謳う格闘技…いわゆる「実戦系格闘技」は数多く存在します。
 純正純粋な武道・格闘技を修練されている方々は、そういったものに対してなんとなく、ある種の違和感を覚えると思います。かくいうワタクシも、基本スタンスは完全に後者側であり、かつてはそういった格闘技に関してはいかがわしく、ウロンなものと思っていました。
 ただ、「でもやっぱり、やってみなきゃワカランよなあ…」と思い立ち、これまで約10年弱、様々な「実戦系」を実際に(わずかに)習ってみたり、あるいは体験会に参加したり、あるいは情報収集していく過程において、先ほどお話しした「違和感」の正体がようやく見えてきましたので、今回はそれについてお話ししたいと思います。

 まず冒頭、結論からドン!と申し上げます。
 いわゆる「実戦系」のありかたは、極めて西洋哲学的なものです。
 対する武道・格闘技のありかたは、極めて東洋哲学的なものです。
 だからお互いが、自分の立脚点にとどまったまま相手方を見ていると、相手方が何をしているのか一切理解できず、「単なる異質なもの」にしか見えないのです。
 その違いを具体的に話す前に、まず、西洋哲学とはどんなもの?というお話から始めていきましょう。

 西洋哲学をごく乱暴に定義づけると、ほぼ永遠に行きつくことのできないであろう、ナニガシかの「真理」に到達することを求め、それを下から積み上げてアップデートしていくもの、といえます。
 先人の研究結果を以て「これでよし」とすることをせず、それすらも疑いつくし、破壊しつくしたうえで考えに考え抜き、その時代の最強にして最新の「真理」を確立する、という態のもので、この基本スタンスは古代ギリシャから現代まで、全く変わっていません。
 例えるならば、「手の届かない星を手に入れるため、ハシゴを架ける人」みたいなイメージでしょうか。
 そして、先人の架けたハシゴを見て「こんなハシゴは古くて役に立たないぞ!」「こんな弱っちいハシゴでいいのか?」と先人のものを疑いつくしては新しいハシゴを架けなおす…ざっくりすぎる説明ですが、そんな感じです。

 たとえば、デカルト(1596~1650)が「我思う、ゆえに我あり」と言えば、それをヒューム(1711~1776)が「その『私』なんてえのは、過去の経験から生まれた複合概念に過ぎないよ。そんなもん、人それぞれだろ」などとアップデート?する。それに対し、カント(1724~1804)が「いやいやいや、個人の経験だけに拠るしかないなんておかしい。人間は人間同士で、経験を共有できるナニかがある」とさらにアップデート?する…と、こんな具合ですね(雑な説明ですみませんm(__)m)。
 そしてその「真理」を求める過程で、考察の範囲を「人間とは?」のみならず、自然・科学・宗教・経済などなど、あらゆる分野に手を伸ばし足を伸ばしして考察するというのも、西洋哲学の特色として挙げられます。
 
 西洋哲学で追い求めるのは「永遠に到達できない真理」ですが、いわゆる実戦系格闘技も西洋哲学と同様、「永遠に到達できないモノ」を求めています。
 それは「いわゆる『実戦』の定義」と、「それに対処するためのベストな手法」のふたつです。

 いわゆる「実戦」は、場所・相手の人数や体格や性質(一般人か、反社会的人間かなど)・保有武器・開始時宜・時代のトレンド(時代によって、ポピュラーな「ケンカ手法」は大きく異なる)などが全く読めない「限りなく球に近い形状をした多面体」的なものであり、定義化すること自体が極めて難しい(というか、ほぼ不可能)…ということについては、以前弊ブログでもお話ししたとおりです。
 で、いわゆる「実戦系格闘技」の主宰者のほとんどは、「実戦とはすべからくこういうものだ!」という決めつけをせず、あくまでも「『実戦』と呼ばれるもののうち、●の場合はこうするといいのでは?」という仮説、あくまで仮説!をもとに教授体系を組み立てています。
(ですから、いわゆる実戦系格闘技における「実戦」の定義は「戦場でのCQB」から「町場のケンカ限定」まで、流派によって実に様々です)
 こうした「定義化が不可能なくらい困難」なものを、仮説を立てて少しずつ追い求めようする取り組みが、「実戦系格闘技が西洋哲学的」という所以です。
 また、実戦系格闘技が使用する技は、通常の武道・格闘技からは全く想像もつかないものが多々あるうえ、アナームド・コンバット(徒手格闘)のみならずナイフ・カランビット・トマホーク・スティックなどなどの武器術まで網羅していますが、このあたりは、西洋哲学が持つ「あらゆる分野に手を伸ばし足を伸ばしして考える」という要素で理解することが可能ですし、現代西洋哲学でいう「プラグマティズム(実用主義)」という要素で理解することも可能です。

 そのいっぽう、こうした「西洋哲学的格闘技」には大きな欠点が存在します。
 これら「実戦系」の持つ最大の欠点は、「技を知って覚える=『デキる』」となってしまうこと…ぶっちゃけて言いますと、技に「深み」が生まれる土壌がない、ということです。

 「実戦系格闘技の技」が持たねばならない宿命のひとつに「略本能に根差した動きを数回反復すれば、それなりに使えるものでないといけない」ということが挙げられます。
 「本能に根差した動き」は、反復練習を必要としないいっぽう、ヘタに反復訓練の回数を増やした場合、それが本能の発露を阻害し、技の命中精度や威力が低くなる危険性があります。
 対する武道・格闘技の技は「非合理的な動きを修行によって合理化する」…つまり、本能的な動きを抑え、日常ではおそらく使わないであろう動作を反復することで、「大きな合理に達する」という、極めて東洋哲学的な機序でできています(これについては稿を改めてお話しします)。
 武道・格闘技で教えられる「非合理を合理にする技」には即効性がありませんから、膨大な反復回数をこなすしかありませんし、「技の形を知った」くらいでは「技がデキる」ことには全く繋がりません。
 ですから、実戦系格闘技は「自己防護のツール」として割り切り、短期間用いる場合にあっては有益なものであると思います。
 しかし、その本質は「使えそうな、便利なものを持ってきてくっつけただけ」というものですから、自分というものに向き合って磨き上げ、なんらかの大悟を得る…ということには極めて不向き。そんな性質を有しています。

 この点に関しては、どっちが良くてどっちが悪いという、頭の悪い二元論で語ってはいけないと思います。
 実戦系格闘技も通常の武道・格闘技も、大変有為なものであり、そのことについて議論の余地はありません。
 問題なのは、お互いにまるで違う「立脚点」を顧みることなく、実戦系と武道・格闘技を「なんだかよくわからんが戦う技能」という土俵に乗せ、「強いか弱いか、使えるか使えないか」などという議論をするというアタマの悪さであり、いまお話ししたような議論については、一顧だにする価値なしと断じていいと思っております。

 次回(ほんとうに次回になるかどうかは不明ですが(;^ω^))は、純然たる武道・格闘技が持つ「東洋哲学的要素」についてお話ししたいと思います。

※本稿参考文献
「地上最強の哲学入門」
「地上最強の哲学入門 東洋の哲人たち」(いずれも飲茶 河出文庫)

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