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釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

雑談:映画『羅生門』 (黒澤明)

2013-08-12 12:07:16 | その他の雑談
芥川龍之介の『藪の中』を再読したのだが、掲題の映画が私に刷り込まれていて、芥川の短編を読みながらも、映画の映像を頭の中で再現せざるを得なかった。

確か此の短編小説は私は小学生の頃読んでいて、映画は其の後、だいぶ経ってから観ているのだが、今や私には此の短編を読むことは掲題の映画の映像を反芻することになってしまった。

しかし、勿論、芥川のあの文体があってこその映像ではあるのだが、要するに、掲題の映画と芥川の文体・・・というより美意識・・・は私には表裏一体となっている。

タルコフスキーを「水と火」の映像作家とするならば、黒澤明は「雨と風」の映像作家であることは誰も異論はないだろう。

実際、掲題の映画の冒頭の羅生門での豪雨の場面の強烈さは、短編『羅生門』には見いだせない迫力がある。

しかし、此の映画と、芥川の短編『藪の中』『羅生門』に共通しているものは、其の美学・美意識にあるのであって、これらの作品から人生云々を見つけるのは全く見当外れに私には思える。 例え作者達が其れを幾分なりとも意図していたとしてもだ。

芥川龍之介という作家の魅力は私には其の特異な美学・美意識にあるのであって、人生云々にあるのでは全くない。

同様に掲題の映画の最大の魅力は、其の映像の美学・美意識 (撮影:宮川一夫) 即ち光と翳の映像の鋭敏さにあるのであって、これまた人生云々にあるのでは全くない。

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掲題の映画の映像での圧巻は、巫女(本間文子)が死霊を呼び出し、巫女が死霊の声で事の次第を喋る場面であった。

この場面は、短編での芥川のあの妖しい噺「巫女の口を借りたる死霊の物語」の映像的再現であった。

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ネットでの掲載によると、

『当初、黒澤は真砂役に原節子を起用しようと考えていたが、京がこの役を熱望して眉毛を剃ってオーディションに臨んだため、京の熱意を黒澤が買い、京に決まった。』とある。

もし原節子だったら、おそらく全く違った印象の映画になっていただろう。

京マチ子のほうが適役であったのは、この映画のその後の評価が断定している。

原よりも京のほうが、はるかに妖しいのだから、この評価は妥当だと言える。

雑談:芥川也寸志の音楽

2013-08-10 11:13:59 | その他の雑談
NHK BSでクラシック倶楽部という1H枠の音楽番組が毎朝放送されている。

私はこの番組は片っ端から録画していて暇なとき・・・まぁ、いつも暇なんだが・・・気が向いたら視聴している。

私はマーラーやワグナー以外の声楽は苦手で其れらは敬遠しているが、それ以外は全て視聴している。詰まらなかったら途中で遠慮なくoffできるから重宝である。

時々、現代の日本の作曲家による曲も演奏されることがあるが、特に日本の作曲家という故でもないが余り私は面白いと感じたことはなく大抵は途中でoffしている。

昨日、芥川也寸志の特集の録画を視聴した。

芥川也寸志と云えば、あの赤穂浪士のテーマ曲が有名だが、私はこの曲は名曲だと思っているから、この番組での此の曲の演奏も気持ちよく聴いた。

私は芥川也寸志の音楽は此れしか知らなかったが、放送された他の数曲は初めて聴いたのだが、私は気に入ってしまった。

彼はショスタコーヴィチやプロコフィエフの音楽を敬愛していたそうで、私はプロコフィエフは馴染みはないがショスタコーヴィチは比較的よく聴いているので、この放送で紹介された芥川也寸志の曲を聴きながら、なるほどと思ったりした。

日本の作曲家というと武満徹しか私は知らなかったが、芥川の音楽は武満徹の世界とは全く異質なモノで、武満徹を陰とすれば芥川は陽でかつアグレッシブとでも云える曲相であった。

ここらがショスタコーヴィチ的とも云えて私には此の一種の『騒音』が快かった。

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映画音楽というジャンルはあるが、TVもしくはラジオ音楽 (これらの番組でのオープニングやエンディングで流される音楽) にも私の印象に残っているものが、いくつかある。

冨田勲の『日本の素顔』や『新日本紀行』。

喜多郎の『シルクロード』。大野雄二の『小さな旅』。

これらは後世に残るべき名曲だと私は思う。TVやラジオの終了と共に泡沫のように消え去るには惜しい。

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昔、『世にも不思議な物語』という毎週一回一話の恐怖番組があった。私は好んでみていたのだが、ネットで調べたらあった。

http://www.jikanryoko.com/yonimo.htm

この番組のオープニングに流れる曲は私は今でも耳の奥に残っている。

たらーら、たらーら、という旋律が不安定に下降していくもので、作曲者は分からないが私は此れも「名曲」として挙げたい。 たぶん、この番組をご存じの方もいるだろう。

雑談:『鬼の研究』(馬場あき子)のメモ2

2013-08-05 14:12:23 | その他の雑談
前回に続き此の本での印象的な文章を抜粋する。
この本を読んでの私の簡単な感想を最後に書いておく。
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鬼となる女の心は、もちろん個人の不逞な思慮や、妄執や、邪淫などから生まれたものではない。

その思いを封じ、行動を制して、非力の美しさのみを命とさせたものは、いうまでもなくそれぞれが生きた世の倫理なのであって、多くはそれの命ずる美意識にしたがって生きようとした。

ただ、その倫理や美意識を、わずかにはみ出し、超えようとする情念をもつとき、目に見えぬ圧力に耐えかねて自ら鬼となるべく走り出したものもすくなくなかったであろう。              (中略)
ただ、王朝説話の世界を発端とする鬼の系譜について考えるとき、その心情的流れは、非人間的な鬼になることを求めながら、実はもっとも人間的な心が求められている場合がほとんどである。人間的情愛の均衡が破綻したことに原因の全てがある。(152頁)
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<般若>の面を云々するにあたって、なぜか<小面>から論じなければならない羽目にいたってしまうのは、この両端を示す面がいずれも女面であって、きわめて演技的な小面のほほえみの内側には、時には般若が目覚めつつあるのではなかろうかという舞台幻想に取りつかれるからである。

つまり小面と般若によって表現される中世の魂は、決して別種のものとみることができないということであろうか。                            (148頁)
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それ以来私は泥眼や橋姫の面をかけていなくとも、すべての小面のかげにはひとつずつ般若が眠っているのだと考えることにした。

般若と小面は表裏をなすものであり、小面に宿るほのかな微笑のかげは、修羅を秘めた心の澄徹のゆえでなくてはならない、とそう思うのである。  (185頁)
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<空しい>にもかかわらずけっして諦めきれないという、生命の深みから静かに湧いて来てやまぬ執念のような人生への疑惑、それが<黒塚の女>の老残を支える命なのである。

<徒(あだ)なる心>とは空しい人生のおおくをみつくし、儚い世のいくつかを知りつくしたのちに、なお悟り得ずやみがたく動く世への愛情である。

徹底的に、非社会的存在となりはててもなお断ちがたい世への執心とはまさに非論理の情念の世界に属するものであり「恨みても甲斐なかりけれ」と否定的に肯定する以外に方法はない。  (197頁)
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ここまでが、此の本において私が関心のある箇所の、ほぼ全てである。この本には勿論、男の鬼の系譜も書かれている。

しかし其の男の諸々の鬼たちには私は興味がわかない。私に言わせれば此の鬼どもの心は貧弱で底が浅い。

鬼は、やはり女でなくてはならない。

私が男であるためでもあろうが、女の心の在りようは私には古井戸を連想させ、罔(くら)い。少なくとも正体不明の何ものかに私には見える。

この『鬼の研究』が男性によって書かれていたならば、おそらく、そのことだけで、女というより人間の心の闇は薄らいで見えただろうと思う。

女性によって書かれたということが、単に「研究」をはるかに超えて、人間の心の闇へと不気味に肉薄していたのだろうと思う。

女とは男にとって実に不思議な且つ怖ろしい存在なのだ、という思いを私は此の本を読んで更に強くした。

雑談:『鬼の研究』(馬場あき子)のメモ1

2013-08-04 12:40:55 | その他の雑談
三一書房版『馬場あきこ全集・第4巻・古典評論』に収められている『鬼の研究』を読んでいる。

以下は此の研究書に書かれている文章の私のメモだ。

私の印象に残っている文章の抜粋だから其の前の文章を読まなければ、ここに引用した文章の文脈は理解できないだろうと思う。

しかし以下に引用したものは、私が此の本を後日再読したとき・・・その可能性は極めて小さいのだが・・・参考のためのメモであり、それを、あえて「日記」として残したのは私は此の文章自体に強く惹かれるからだ。

(又この本を読んでいる時、私が感じていた、言わば的外れな感想も最後に付け足しておく。)
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私はもういちど、<おに>と<かみ>とが同義語であったかもしれぬという説にたちどまらざるを得ない。

それは、いいかえれば人間の心に動く哀切の両面である。

空気の清澄な月夜の夜、時ならぬ鬼哭の声をきくことは稀ではなく、日頃姿を見せぬことを本領とする鬼が、ふいに闇から手をのべて琵琶の名器を弾奏するなど、まことに哀れである。

その時、鬼の心に去来した瞬時の回想は何であったろう。

吟遊の声を奪って詩の下句を付し、敬愛する詩人の門前に拝礼をなして過ぎゆく鬼の心に、常ならぬ心の高鳴りを覚えるのも、じつに、あるいはわれわれ自身が、孤独な現代の鬼であることの証拠かもしれない。 (12頁)
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この「虫めずる姫君」という短編をみるとき、そこにあるものは美意識の倒錯という以上に、価値観の破壊と転換への積極的な自問の姿である。

人びとから嫌悪される毛虫や蛇の動きに、あまねき生きものの真摯にして苦しげないのちのさまをみつめ、蝶となる未来を秘めた変身可能の生命力に、醜悪な現実を超える妖しい力を感受していた美意識とは、まさしく爛熟しつつある王朝体制の片隅に生き耐えている無用者の美観というべきである。(16頁)
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貧寒たる現実に侵されず保っている血の誇り、塔のように屹立する反世俗の矜持、流離のうちに保ってきたそれら魂の美しさを<鬼>と呼ぶことは、ほのかな自嘲を交えた合ことばあり、互いの生きざまを照応しあうときの無上の賛辞である。(20頁)
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「斉明期」は七年七月天皇の崩を記し、八月一日の夕べ「朝倉山の上に、鬼有りて、大笠を着て、喪の儀(よそほい)を臨み視る」という記事をのせている。(27頁)
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<鬼とはなにか>を考えるとき、第一に頭に浮かぶことは、むしろこうした暗黒部に生き耐えた人びとの意思や姿であって (中略) 爛熟し頽廃にむかいつつある時代の底辺に、鬼はきわめて具体的な人間臭を発しつつ跳梁していたという印象を受けるのである。(106頁)
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<鬼>とは破滅的な内部衝迫そのものであり、心の闇に動く行為の影である。あるいはそれは極限的な心情のなかで、人間を放棄することを決意した心でもある。(144頁)
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私は女の鬼について考えるとき、いつもこの(鉄輪の女)の殺害未遂に終わった場面を、ことさらかなしく美しく思い浮かべる。

敗北し、守護神に逐われて深沈混沌とした心の闇に帰ってゆく鬼女の後姿にはまったく成功のかげがない。たとえもう一度、いや何度試みたとしてもとうてい夫を殺すことはできそうもないその心は、鬼と化してもなお深く愛しきっている弱さにおののいている。  (中略)

鬼とは所詮調伏されねばならぬものである。人間を放棄してまでも報いようとした怨みとはどれほどのものであったろう。

その怨みゆえに鬼に変貌ののちに見たものは、悔しくも変貌しきれぬ夫への恋着であり、愛執であった。

とはいえ、それがどう解決のつくことであったろう。

鬼になっても、ならなくても、愛することと、愛されぬこととは、けっして解決のつかない心の闇に属することなのであって、女にはいっそう厳しく、変貌をとげてしまった現実だけが残ったにすぎないのである。 (146頁)
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とりあえず、以上を引用として残しておく。

作者は能楽にも造詣が大変深く、随所に能が引用されている。

上の引用文をみても分かるように、能に対する引用は単なる紹介をはるかに超えている。

人間という存在の深淵を我々に覗かせているような印象を私は感ずる。

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ただ、私は自分でもよくわからないのだが、この本を読みながら、例のナチの強制収容所に送られて虐殺された人々を思わざるを得なかった。

アラン・レネの『夜と霧』の映像がちらついて仕様がなかった。

『鬼の研究』に登場する鬼に化した数々の女たちの妄執は、毒ガスに押し込まれた人々を前にして、一体いかほどの意味をもつのか? という私の言わば見当はずれの疑問が、見当はずれだとは思いつつも私は払拭できないでいる。

雑談:『日本的情念の暗部』 (馬場あき子)

2013-08-01 10:55:18 | その他の雑談
私が以前より再読したいと思っていた本に『鬼の研究』(馬場あき子著)がある。

私は日本の古典文学には全く疎い者で、此の本で縦横に駆使されている其の古典を知らない私が此の本を理解しようとすること自体が無謀であることは本人が最もよく分かっている。

では何故此の本に惹かれるのか。その理由は簡単。
私は『鬼』や『幽霊』が大好き人間であって、ひとえに此れらの超常者が如何なるものか知りたいからだ。

私は数学や物理が好きだが、その理由は・・・説明するのは大変難しいが・・・『鬼』や『幽霊』が好きであることと共通の基盤が実は有る。

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そこで昨日、図書館から三一書房の『馬場あき子全集・第四巻・古典評論』なる分厚い本を借りてきた。

この本には『鬼の研究』ほか幾つかの評論が掲載されている。

『鬼の研究』は、先に書いたとおり、私には手に負えない評論であるが、それでも私なりに理解できる箇所もあり、それなりに面白い。

私が此の本を読んで別に試験を受ける訳でもなく、何の制約もないのだから、自分に興味ある箇所からツマミ食い式に読んでいる。

とりわけ私は『六条の御息所』と『黒塚』の女たちに興味があって、その箇所は少し背伸びしてでも理解しようと思っている。 彼女たちの鬼になる有様に興味があるのだ。
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前段の話が長くなったが、此の本には掲題の評論も記載されている。

此のタイトルからして興味津々で私は『鬼の研究』を一休みして此の掲題の評論を読んだ。

勿論、『日本的情念の暗部』は『鬼の研究』を前提とした文脈での『暗部』について書かれている。

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この私の日記では此の評論に書かれていることの二つのことについて私の感想を簡単に書く。

一つは日本語の『もの』という言葉の特徴について。

これほど曖昧で便利な言葉はない。
何か分からない「ものごと」があったら其れを、とりあえず『もの』と表現しておけば分かった気になる。

著者が面白い指摘をしている。
この曖昧にして重宝な言葉が接頭語として使われるとき、『ものさびしい』『ものすごい』とか使われるように、なぜか明るい感覚や情緒とは結びつかない。

著者の説明によると、古代において『もの』とは『もののけ』のように表現できぬ目に見えぬ或る種の力のことであった、そうである。

この力が『鬼』化していく過程の鋭い分析は『鬼の研究』の何処かで解説されているはずである。それは読んでのお楽しみ。

もう一つは『怨』という言葉。

私はこの言葉ほど『日本的情念の暗部』を感じさせる言葉はないと感じている。

もう、だいぶ前になるが、日本版ホラー映画が世界的にヒットされたと聞く。 まさに日本版ホラーの真髄は『怨』であって、『怒』でも『悲』でもない。

かのドラキュラ氏には『恐』は感じても『怨』は、少なくとも私は微塵も感じない。 私の好きな『幽霊』の本質は『怨』であるからだ。  

この『怨』について著者は以下のように書いている。

『ある訴えをもった闘争集団がシンボルとして旗に「怨」という字をかかげたときの衝撃は、一種名状しがたいものであった。』

この評論が書かれたのは1976年だから、「ある訴えをもった闘争集団」とは、どのような闘争集団か分かるだろう。

この闘争集団がカラ威張りの学生運動ではないところに、此の国の庶民たちに暗く低流している『日本的情念の暗部』を私は著者と共に感ずるのだ。

そして『怨』の字に象徴される『もの』こそ、此の国の『鬼』の系譜に他ならないようだ。