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釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

雑談:藤沢周平の世界

2013-09-15 08:52:56 | その他の雑談
先日、図書館で借りた全集の第5巻を読了した。
大変面白かった。

此れは短編集なので一日一篇程度のペースで毎日読んだ。 藤沢周平ワールドとも云うべき世界の一端を味わうことができた。

この本の図書館返却のついでに、第16巻を借りてきて先日より読み始めた。此の16巻も短編集であるが、25の短編が其の内容によって3つに分類されている。
各々の分類には以下のタイトルがつけられている。

『隠し剣孤影抄』 『隠し剣秋風抄』 『たそがれ清兵衛』

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第5巻の短編集のいずれも江戸後期の下級武士が主人公であるが、短編であるにも関わらず彼らの清貧ぶりの生活事情と其の哀歓が丁寧に描かれていた。

江戸後期の下級武士たちの生活が如何なるものであったかが読んでいて良く分かる。

登場する彼らは剣の遣いてであるが普段は其の素振りは全く見せない。 しかし図らずも政争に巻き込まれ、止むを得ず己の剣を使う羽目に陥る。

ここでの藤沢周平の簡潔な決闘描写には、読者をして固唾を飲ませ一気に読ませる迫力がある。 ここらが藤沢周平の世界の大きな魅力の一つだろう。

そして、このような下級武士を支える外柔内剛型の女性が多く登場する。 彼女たちも自らの分(ぶん)を知る自律性に富んだ質素な女性たちであり、昔堅気ではあるが此れは藤沢周平好みの女性像だろう。

この点、鴎外の歴史小説に登場する女性たちとも共通する。

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全て勧善懲悪の物語ではあるが、それを実行する者が上記したような清貧の下級武士であり、それを支える者が、自らの分を知っている自律性に富んだ女性たちであるが故に、読後感には常に薫風のような、すがすがしさが残る。

此の、すがすがしさを更に味わいたくて、新しく借りた巻の短編集も読み始めた。

雑談:ちょっとしたケンカ

2013-09-10 09:41:50 | その他の雑談
昨日、家内の調子が悪く病院へ行った。

其処の病棟はいろいろな診察科があって、新米らしき看護婦が診察前の患者達の診察前の訊き取りに一人で奔走していた。

私達夫婦は壁を前にした椅子に座って待っていたのだが、その椅子の背側にも椅子があって、其処に年配の女性が座って診察を待っていた。

とすると、その女性が其の看護婦に向かって大きな声で叱りつけた。

待たされる時間が長く、もっと診察時間を要領良く改善しろ、と叱りつけた。

その大仰な叱り方に私は気分を害し、その女性の肩をたたき、
『そういうことは先生(Dr)に言いなよ』と注意した。

忙しそうに奔走する新米らしき看護婦に、そのような事を叱りつけるように云うのは、云う相手が違うと私は思ったからだ。

そしたら、其の女性は私の方に顔を曲げ、『うるせぇ、横から黙ってろ』と大声をあげた。私は其のモノ云いにムッときた。家内が私の服の袖を引っ張り、やめんなさいよと小さな声で私を制した。

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病院で待たされるのは随分前からの常識となっている。
3時間待たされて、診察は3分と、よく言われる。予約していても場合によっては数時間待たされることもある。

だから、基本的には、かの大声女性の不満には正当性がある。

そし此の不満をもたらす根本要因は医者不足にあり、更に言えば、医療行政の失策ないし無策にある。

話は横道に外れるが(無用な)坊主共が多いわりには(有用な)医者が少ない。

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私は医療行政にも無知である。しかし日本は医療に関しては他の国より一般庶民にとって何かと都合良く整備されていると思われる。

しかし、かの大声女性が代弁するように病院の対応も充分とは言えないのも我々庶民の感覚ではある。
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オリンピックを開催するほどの金があるなら、その金の使いみちには他にあろうに、と私は思う。

いやオリンピック開催はソロバン勘定から言えば日本国に有利なのだ、という意見はあろう。

私は、生憎、そういうソロバン勘定が苦手である。

金勘定から有利だとしても肝心の其の金を操る人間ども(官僚・政治家等)が無能ないし『青雲の志』がなければ、折角の其の金も我々庶民には何の役にも立たぬ。
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かの大声女性と、場合によっては、つかみあいの喧嘩にならないとは言えなかった。大人気ないことだが。

しかし、そういう場合に備えて合気道でも習っておけばよかったと思っている。

雑談:藤沢周平の作品を読む

2013-09-06 14:22:42 | その他の雑談
藤沢周平は以前から気になっていた作家で、彼の作品を、いつかは読もうと思っていた。

1W程前、久しぶりに図書館へ行った。なにか数学の本で面白そうな本が置いてあるかどうか、ぶらりと図書館へ立ち寄った。

私は本は原則としてネットで調べ、それを図書館で借りて読んでいる。

最近はどの図書館でもそうだろうが、図書館の本はインターネットを介して借りられる。だから図書館内に置いてある本を図書館内で探すということは、ここ5,6年はなかった。

というわけで久しぶりに図書館でぶらぶらと面白そうな本を探した。竹内外史著の『ゲーデル』・・・実は此れは以前読んでいるのだが・・・を借りようかと思ったが、ふと藤沢周平の小説を読んでみようと気が変わり彼の作品を探した。

そしたら文芸春秋社の『藤沢周平全集』をみつけた。
それを取り出しパラパラと、めくってみたら短編を集めた巻があった。私は長編ものは苦手なので此の短編集(第5巻・士道小説集2)を借りた。

現在、私は絵遊びの合間・・・此の絵遊びは、ほとんどPCがやっているが其の合間に・・・に此の短編集を読んでいる。この短編集には約20の作品が掲載されているが、一日、一篇か二篇が読み切れて私には丁度よい。

士道小説集なので侍ものの小説だが、大変面白い。

鴎外の『御持院原の敵討』や『阿部一族』と似通った話も多い。しかし、鴎外の小説に比べ、藤沢周平の作品には或る種の情緒があって・・・この情緒が読み手には癒しを与えるのだが・・・いずれの作品も読後感が実に爽やかだ。

文章・・・私は結構それに拘(こだわ)るのだが・・・も鴎外同様に簡潔で歯切れよく読んでいて気持ちよい。

TVのBS放送でも最近、藤沢周平原作の映画が放送される。尤も以前から放送されているのだろうが私は最近彼の原作ものを観るようになった。それらの映画も面白い。

借りた本も、ほぼ半分程読み終えた。小説を面白く読み続けるのは私は実に久しぶりのことだ。

雑談:『影を踏まれた女』 (岡本綺堂)

2013-08-23 11:30:56 | その他の雑談
『通りゃんせ』という童(わらべ)うたがある。
以下のうたである。
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通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちょっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ
-----------------------------
私は昔から此の唄に或る不気味さを感じていた。

「行きはよいよい 帰りはこわい」とは何が怖いのだろうかと。

そこで、以前、2CHの映画『悪魔の首飾り』というスレッドで・・・このスレは現在ないが・・・訊いてみたことがある。
一体なにが怖いのか?と。

すると或る人が以下のような趣旨のコメントをくれた。
***
子供が生まれると親は天神様にお札を貰う慣例があった。この子が健康に育つようにとお札を貰う。

ところが其の子が七つになると其のお札を天神様に返すことになっていた。

其のお札を天神様に返すと、其の子は天神様に守ってもらえなくなる。

だから、『行きはよいよい 帰りはこわい』。

つまり、お札の返却後は其の子は天神様の保護が無くなり、これからは何事も自力で困難に立ち向かわなくてはならない。

お札の返却は、子供から大人への通過儀礼だ、という趣旨のコメントだった。

***
私はナルホドと思ったものだ。サイトで調べると此の唄の由来は他のものもある。
いずれにせよ、此の唄には不思議な何かがある。

映画『悪魔の首飾り』にせよ、掲題の短編にしろ、少女・・・少なくとも処女期以前の女性・・・が妖しい者として登場する。

例の童うたも少女たちが、よく唄うと私は記憶している。

人類には女性と男性がいる。

私は男性であるので、私は女性に或る畏怖を感じている。

掲題の短編に或る怖さを感じるのは恐らく男性ではあるまいか。  女性は根源的な意味で私には怖い・・・

雑談:『姫神』と『デブァカント』と『奥の細道』

2013-08-21 10:07:49 | その他の雑談
私は『姫神』のCDを数枚もっている。

古いのは、もう20年程前買ったものだが、折にふれ聴いている。『姫神』と言えば私は芭蕉の『奥のほそみち』を連想せざる得ない。

これもまた古い話になるが、今は亡き森敦が、芭蕉の「奥のほそみち」をたどる、一回限りの『われも、また、奥のほそみち』という紀行番組に出た。

森敦が、山々を遠く背景にした田舎の一本道を歩いていく姿を、TVカメラが遠望する映像は、今でも記憶に残っている。 この番組のBGMが『姫神』だった。

シンセサイザーという現代機器を使いながら演奏される曲想は、東北地方の風景に溶け込み印象的だった。

それ以来、『姫神』と言えば『奥のほそみち』を連想するように私はなった。

今でも私は記憶しているのだが森敦が秋田県の蚶満(かんまん)寺を訪れた時、掛け軸に書かれた芭蕉自筆だといわれる

『象潟や 雨に西施が ねぶの花』

を見て、森敦は例の穏やかな微笑をたたえながら「これは何と書かれているのですか」と寺の住職に尋ねるのだった。

当然、森敦は其の句も、その由来も知っているはずであるが、その時の森敦の微笑が忘れられない。

私は芭蕉の此の俳句が好きで、其の、しっとりとした哀情の気品さには惹かれる。

***
NHK BSで『音巡礼・奥の細道』という紀行番組が1996年に放送された。

この番組はデヴァカント(Devakant)というアーチストが「奥のほそみち」の旧跡を訪ね歩くという番組であった。

この人は頭部を白い布に包み、衣装はインド風の白装束で長い杖を持ち、インドあたりの古楽器の入った白袋を肩にささげるという出で立ちだった。 インドで芭蕉を知ったそうだ。

「奥の細道」の縁(ゆかり)の森閑とした風景を背景に「奥のほそみち」の原文が朗読され、各地各地の旧跡で、デヴァカントは自作の曲を演奏したのだった。

古楽器らしい其の音の響きは旧跡の周りの風景に溶け込み、しみじみとした余情を漂わせたものだった。

時には土地の老婆たちの唱える御詠歌や、時には坊さんたちの唱える般若心経との彼の演奏のコラボレーションは何の違和感もなく、其の土地の森の霊たちも聴き入るかのようであった。

この番組は他の紀行番組にはない傑出した番組で私は此れは録画保存しているが、折にふれ再見している。演出は波多野紘一郎。

このデヴァカントが蚶満寺を訪れたとき出迎えたのが、森敦が訪れたときに応対した和尚と同じ人だった。
恐らく、10年以上の歳月が過ぎていただろう。

このときにも、上句が朗読された。

***
『松島は笑うが如く、象潟はうらむがごとし』

今、松島はどうなっているだろう。